歌合

日本歌学大系第七巻、まだ読んでる。なかなか面白い。
佐佐木信綱の解題もじっくり読んだ。
戸田茂睡「梨本集」面白い。いままで知らんかった。

「梨本集」に[天徳歌合](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%B3%E5%86%85%E8%A3%8F%E6%AD%8C%E5%90%88)
とか高陽院歌合とか出てくるのだが、
この時代の歌は勝っても負けてもほぼすべてが勅撰集に採られていて、その勝負のレベルも極めて高くて驚く。
こういうものがあったから、明治時代まで歌合という遊びが残ったのだろう。

田安宗武は歌合をひどく嫌っている。
万葉時代には歌合などなかったという理屈。
わからんでもない。
しかし近世では、もはや、歌合とか歌道などという人工的な仕掛けがなければ和歌というものは延命できない状態にあった。
人工呼吸器、生命維持装置のたぐいだ。
それをいきなり外せというのは酷だ。
生命維持装置が無くても生きていける方法を先にみつけてから言うべきだろうと思う。

おそらく日本人がみな自然と和歌を詠めたのは人麻呂の頃から上の天徳歌合のあった村上天皇くらいまでのことだろう。
民衆の関心は静かに和歌から離れていった。
昔の良い歌は一般人がたまたま良く詠んだ歌が後世に残ったもの。
今の良い歌は絵師がうまく巧んでかいたもの。
確かにそういう違いはある。
だが、「やまと歌」は、いにしえから伝わる大和言葉だけで歌われる日本固有の文芸だったために、
それを惜しんで延命措置が続けられてきたのだ。

医療産業

1月から酒を飲み始めて4月にはけっこう花見などで飲んだりしたのだが、病院の検査はすべてOK。
飲酒の影響はまったくなかった。
まあ、こんくらい飲んでも大丈夫なわけだな。

きちりんで検索すると二番目に吉林省が来るのは笑えるが、
それはそうと、
[医療を基幹産業に](http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120420)
等と言っているのだが、
思うに、日本だけで考えると、医療や介護や年金などは大きな負担なのだが、
日本が世界に先駆けて老人大国になり、以後よその国も多かれ少なかれ、日本と同じ路をたどる。
そのとき日本の最先端の医療技術や介護実績の蓄積が海外に売れるだろう。
だから、案外、たとえば私が老年となったときは日本産業は安泰かもしれん。

公務員がーとか地方自治体がーとか公共事業がーとか国の赤字がーー、などと言っているが、
結局日本の国家財政を蝕んでいるのは医療費である。
それは、患者になった私が身に染みて知るところだし、
また若くしてその恩恵を多大に受けることとなった。

医療と介護の境目は曖昧だ。
救済すべき患者とただの年寄りの境界も曖昧だ。
本来介護の範疇に入るものでも、ゴネれば医療として認められるかもしれん。
救済すべき患者と、単なる過剰診療の患者の境界も、実際曖昧だ。
そういうカテゴリーのあやうさがある。
病院だけでなく地方行政においても、そのカテゴリー分けを緩くするか厳しくするかで金のかかり方が全然違ってくるだろう。

本物の病人以外にも、医療利権というものに群がってくる連中が大勢居るのはまちがいない。
製薬会社や医療機器開発会社、介護施設や老人ホーム。
特保食品会社、などなど。
ともかく今の日本で確実に食いっぱぐれないのは医療に介護。
ま、そんだけ金が回った方が、医療産業や介護産業が育つ、雇用確保にもなる、と言えなくもない。

日本の財政を立て直すには公務員を減らしたりとか公務員の給料を減らしたりとか、そんなことではどうにもならん。
医療費を減らすしかない。明らかに無駄はそうとうある。減らしどころはいくらでもある。
しかし、どういうわけかみんな医療費は聖域だと思ってる。ピンと来ない。
低所得者ほど嫌がる。
ともかく誰も彼も医療費は減らしたくないらしい。
しかし国の赤字を減らす根本的な方法は医療費を減らすしかない。
医療費を減らさないんなら消費税みたいな間接税を導入するしかない。
しかしそれにも反対する。
どうせいっちゅうねん。

労働しない人口がめちゃくちゃ増えて、それを少ない労働人口で支えねばならん。
社会保障費が国家財政にめちゃめちゃ効いてきているのである。
しかし、そんな本質論が語られることがほとんどない。
じゃ、医療費にじゃんじゃん金かけて将来の輸出産業に育てて後で元とるしかない罠。

そこいくと家電なんかはやはりもうだめかもしれんね。
私が大学卒業するころは花形産業だった。
昔は、良い大学行って良い企業に入れば一生安泰なんて気分があったが、
二十年あまりでそれが幻想だとわかった。
何と短い。
1945年から1960年代くらいまでに新卒で就職して、2010年代までに退職する人にしか、
終身雇用という制度の恩恵はなかったわけだ。
けっこう笑える話だわな。

そういえば、川崎市は賭博と工場で財政が豊かだから毎日ゴミ収集車が来ると言ってたな。
府中市もそうかと思うのだが、そうでもないらしい。
工場も賭博もない地方自治体は赤字にきまっているが、それでも医療負担が安かったり、低所得者にやさしいところもある。
どういう基準でそうなってるんだろ。

高福祉国家でもないアメリカが医療大国になれたのは、
別に国民皆保険制度でないからではない。
あの国はばんばん戦争をするので怪我人が多い。
退役軍人の政治力も強い。
軍事費と医療費の区別がない。
で、国家予算の回ってくる産業はアメリカは強いからな。
どんどん成長したというわけだ。
だから、アメリカのように、国民皆保険やめろと言うのは少し違う。
国民皆保険はしかし問題の多すぎる制度だとは思うがね。
所得が多い人にはだいたい損だし。
自分で勝手に生命保険に入りたい人だけ入ればよい。
そうすると、自分の健康もまじめに管理するようになるし。
所得の少ない人はかじれるすねがなくなって困るが。

そりゃそうと、日本はアメリカやヨーロッパから遠いから観光産業的には不利だと言われてきたが、
中国には北アメリカとヨーロッパ合わせたより多くの人が住んでいる。
今後は中国が日本観光の追い風になるだろうな。
何でも、先に日本でやっておいて後で中国に売ればいいんだよ。
それだけで日本は商売が成り立つと思うが。あんだけでかい市場を利用しない手はない。どうかな。

歳出で、国債をのぞけば、多いのは社会保障費。だんとつだ。
その次が地方交付。
これもでかい。
地方交付をやめて道州制にして独立採算制にすりゃいいんだよ。
ともかく公務員の人件費を減らせとか言っても焼け石に水だ。制度自体をいじらないと。

俊成2

> 山桜散りに光を和らげてこの世に咲ける花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

> つくづくと濡れそふ袖におどろけば降るとも見えで春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。
同語反復がうまく効いている。
これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

> 花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

> すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

> 志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

> 藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空

> いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな

> 我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ

> あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火

> 野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉

> 思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば

> 眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空

> なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ

> ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり

> 奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば

> 夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?
ましかし、レベルが一様に高い。

山吹

兼明親王

> 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける

> 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。
あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。
山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、
三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。
普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。
太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

宗武と在満と馬淵

修身の教科書には「松坂の一夜」というのがあって、戦前は、賀茂真淵と本居宣長は理想的な師弟関係ということにされていた。
賀茂真淵は、本居宣長の師だというので、やはり権威付けされた。

田安宗武もまた賀茂真淵を師としたので、戦前の権威付けの中で批判しにくいされにくい位置に居たわけだ。
本居宣長と田安宗武は、共通点を探す方が難しいくらいなのだが。

それで、田安宗武の死後、「天降言」が遺臣等によって編まれ、さらにそれが「悠然院様御詠草」にまとめられた。
ちらと読ませてもらったが、そんなに分量のあるものではない。
最初の辺りに秀歌らしきものがまとめてあり、後は時系列の詠草のようだが、まさに「詠草」と言うのにふさわしいレベルだと思う。

窪田空穂は田安宗武を西行にたとえたというが、窪田空穂はほんとうに西行がわかっていたのか。

> 山里はまだ消えやらぬ雪のうちにうぐひすのみぞ春を知らする

> 山里に春や遅くもたちにけむむらむら残る去年のしら雪

> 五月雨の空なつかしくたちばなの匂ひをさそふ軒の夕かぜ

> 千代ふべき君がかざしのためとてやさかり久しきにはの白菊

> うすくこく色づくにはのもみぢばはしぐれもことに心あるらし

> こと草はうつろひかはる庭のおもに秋をぞ残すしらぎくの花

などはまあまあだ。
ただ、少しオリジナリティがあるようにも見えるが、よく見ると典型の範疇に収まっていて、すごくすごいわけではない。
田安宗武という人がほんとにまっとうな歌人であったならば、万葉調の歌以外にも、
これらの比較的典雅な歌も、生涯にもう少し残っていてもよかろう。
というか、残ってないとおかしい。
まっとうな歌人ならばそのくらいは詠みわけられるし、
理屈として詠みわけできるくらい理解しているはずだからだ。

宗武は吉宗の次男で家重の弟、宗武、家重ともに側室の子であるから、
どちらというのでもなかったが、家光の時に家督相続でもめたから、文武に秀でた宗武でなく、
長男の家重を将軍にしたのだろう。
家重の名は家康の一字を採っているが宗武、宗尹は、吉宗の一字を採っている。
吉宗が宗武をどのくらい気に入っていたか、宗武がどのくらい文芸の才能があったのか、
わかりにくいが、しかし、上に挙げた歌にしても、数がごく少ないということは、
いくらでも疑うことができる。
つまり何かのはずみで将軍にもなる人であるから、周りの学者たちが徹底的に、
少なくとも初心の頃は、添削するだろう。もともと大した歌ではなくとも、うまく添削すれば良い歌になるかもしれん。
で、一見、天衣無縫だが、割と整っているというのは、実はそうした事情ではなかろうかと、つまり師との合作の疑いもあるかと、
思ってしまうのである。

宗武が二十代後半になると万葉調の歌をどんどん詠み始めるのだが、
なぜいきなりそんな歌を詠み始めたか。
わけがわからない。
師の荷田在満は当時としてはごく普通の芸術至上主義者で新古今的な人、つまり、二条派の人だった。
しかし宗武がだんだん自分のやりたいようにやり始め、
在満とは違う方向へ突っ走りたくなったのかもしれない。
もしかするとその時期からすでに賀茂真淵の影響下にあったのかもしれない。

賀茂真淵は京都で荷田春満(在満の叔父にあたり、在満は春満の養子になる)に学び、
春満が死去すると江戸に移って歌を教え始める。1736年くらいだ。
宗武が万葉調の歌を読み始めたのは、在満との論争が起きた1742年くらいからだ。
宗武は在満の養父春満の門人である馬淵とは何らかの形で接触があったに違いない。
春満は父吉宗の臣下でもあった。

宗武は在満的耽美的世界に閉塞感を感じていたのだろう。
武士による武士の歌が詠んでみたい。そこで、馬淵から学んで、万葉調の歌を詠み始めたのではなかろうか。

そもそも万葉調の歌というのは実朝の頃からあり、後鳥羽院や定家も、初心者は真似るべきではないが、
だんだんわかってきたら万葉集も学ぶべきだ、などと言っている。
万葉調の歌を詠んだから特段珍しいわけではない。
が、しだいに、武士も和歌を詠むようになり、尊氏のころはそれほど顕著ではなかったが、
やがて公家とはまったく違う武士らしい歌というものがだんだん芽生えてきて、
宗武において一気に開花した。
というのは、宗武は、誰に憚ることもなく歌を詠めたはずであり、
それが多少珍妙でも、誰も批判できなかった。
馬淵はむしろそれを褒めたのにちがいない。
そうするとそういうふうな歌が東国にはあってもいいじゃないかとか、
いや、新しくて良いではないかなどという話になり、
幕末維新、明治以降になるとますます影響力を持つようになったのではなかろうか。

で、実朝や尊氏などはまったく公家文化に浸りきったところで和歌を詠んでいる。
実朝は万葉、尊氏は新古今という違いはあるが。
それはそれで、あやうく体裁を保っている。
が、宗武の歌というのは、はなはだしく常軌を逸している。

> 洲崎辺に漕ぎ出でて見れば安房の山の雲居なしつつ遥けく見ゆも

> 真帆ひきて寄せ来る船に月照れり楽しくぞあらむその舟人は

なんというか、人麻呂とか赤人とか素戔嗚尊などの歌がごちゃまぜになっていて、
まるで神話時代のコスプレか何かを見ているようだ。
或いは万葉時代のテーマパークというか。
テーマパークやコスプレがなぜいかんかという人もいるかもしれんが。
現代人にとって神話時代や万葉時代というのは所詮ファンタジーとしてしか体験できないものだから、
積極的にファンタジー化してしまえばよい、という発想。
しかし、それは私は好かん。

後鳥羽院が

> まだしきほどに万葉集みたるおりは、百首の歌なかば万葉集の詞よまれ、源氏等のものがたり見たる頃は、またそのようになるを、
よくよく心得て詠むべきなり。

などと言っているが、まさに宗武はその通りだと思う。
そして誰も諫めるものとてなく、死後、詠草まで一切合切が出版されてしまった。
そういうことではないかと思うのだが。

なんというか、万葉調の勉強をしましたと言って、それをそのまま出すのではなく、長い和歌の時間軸の上で、
違和感のないように、自分なりにアレンジして出さなくてはならんのではないかと思うのよね。
定家や俊成や西行や後鳥羽院は、巧まずに(いや、もちろん巧んだとは思うが)できたかしれんが、
そうでなければ手の内が丸見えの手品みたいに面白くないんじゃないのか。

俊成

まあなんというか、俊成というのは、
[五社百首](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i046.html)とか、
実にわかりやすい、平明な歌を詠むよね、定家と違って実にわかりやすい。
しかし文章がどうしてあんなに長くてわかりにくいのかなあ。
家隆もそうだな。この二人は近いとみて良いのかもしれん。

たとえば、

> 手弱女の夜戸出の姿思ほえて眉より青き玉柳かな

「眉より青き柳」というのがすごいね。
柳眉という言葉がこの当時からあった証拠なのだろうが、用例がよくわからん。

> 一木だににほひは遠しもろこしの梅咲く嶺を思ひこそやれ

遠く唐の嶺に咲く梅を思いやるという、陳腐だがなかなか詠めない歌だな。

> さらねども難波の春はあやしきを我知り顔に鴬の鳴く

俊成は、初句が軽いのが多いね。七五七七だけで十分意味が通るのが多いと思う。
文脈的にこの「あやし」は、
自分には理解できず「あや」と思う気持ち、
知りがたいがなんとなく心牽かれる気持ち、という意味だろうな。
夫木抄には、

> さらねども難波の春はあやしきに我告げ顔に鴬の鳴く

となっている。

> いざや子ら若菜摘みてむねせり生ふる朝沢小野は里遠くとも

「あささはをの」がよくわからんが、たぶん朝沢小野だろうと思う。

なんか良い歌が多すぎて調べきれんね。
てか、定家の歌がどれもひねりすぎて理屈っぽいのに比べると、
軽くさらっと詠んだのが多い。家隆もそう。
その辺が好感もてるのだけど。

俊成はあまりに有名な歌人で勅撰集に幾つも取り上げられているから、
それがかえってつまみ食いみたいになって俊成の歌の全体的な傾向がつかめないのだな。
そういう意味ではこの五社百首はなかなか良いよ。
西行の歌も山家集をいっき読みした方がわかりやすい。
有名な、というか他人に取り上げられた歌ばかり見ていても本人の姿は見えてこない。

あとね、定家は勅撰集にほとんど取り尽くされているけど、俊成にはまだまだとりこぼしがあるんだなと、
少し嬉しくなった。西行もかな。

中世歌論集

最近、岩波文庫「中世歌論集」というのが復刻されたので、新宿アルコットのジュンク堂が閉店するとき買ったのだが、最初に出てくる俊成の古来風体抄、長くて何言ってるのかわかんない。定家の毎月抄、これは短いのだが、やはり何言ってるのかよくわかんない。頭にすっと入っていかない。後鳥羽院御口伝、すげえわかりやすい。なんでみんな後鳥羽院みたいに言いたいことをすかっと言わないのかな。

為兼和歌抄。期待に胸ときめかせて読んでみたが、うーん、さっぱりわかんない。やまと歌も漢詩も同じだとか、理屈は仏法と共通だとか、なんか観念的なことばかり書いてあって、で結局何が言いたいのかよくわからんのだ。天照大神、八幡、賀茂、本地垂迹、仏、菩薩、権現、仁徳、聖武、聖徳太子、みなよろしなどと書いてある。で、最初に挙げられている例がよりによって釈教歌。もちろん、釈教歌がすばらしいと言ってるのではない。和歌も漢詩も仏教もその本質はみな同じだと言いたいのだ。治世にも道徳にも幸福にも役立つなどという。要するに万病に効く御利益のある薬か、八百万の神々みなよろしという論法。なんという大風呂敷。なんといういんちき(笑)。同じことは俊成も言っているから、こういう論法が当時の流行だったのだろう。

で、同語反復、或いは「先達のよまぬ詞」を詠む例として俊成、定家、西行、慈鎮などをあげ、俊成の

見てもまた思へば夢ぞあはれなる憂き世ばかりの迷ひと思へば

今日くれぬ夏の暦を巻き返しなほ春ぞとも思ひなさばや

を挙げている。一つ目の例は「思へば」を二度使っていて、二つ目は「暦」が先達よまぬ詞なのだろう。それはそうと正しくは「今日暮れぬる」ではなかろうか。終止形で一旦切れてるともよめるが。
ああそうか、暮れたのは春なんだ。だから終止形で切れてて良いわけだが。

家隆

あふとみてことぞともなくあけぬなりはかなの夢のわすれがたみや

これも「なし」が同語反復となっているが新古今に採られた、と言っている。他にもいろいろ書いているのだが、よくわからん。最後に

浅香山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(あさき心をわれ思はなくに)

の「さへ」が余計だという人がいるが、いややはり必要だ、などと書いているのだが、やはり理屈がよくわからない。作者とされる采女は人妻だから人前に出るのがはばかれてうんぬん。なんじゃそりゃ。

それはそうとこの歌、浅香山の姿さえ映るほど浅い井戸と解釈する人もいるんだな。それから、姿が映ってみえるくらいにきれいな山の井と解釈する人もいる。

思うに明治神宮に清正井というのがあるが、あれは井戸というよりはわき水だ。わき水だから水面はごく浅い。浅くて水があとからあとから湧き出している。だから水は清い。「ゐ」というのは、もともと水くみ場という程度の意味であり、泉にも掘った井戸にも使われていたようだ。いずれにせよ、浅い井戸だから水鏡としても使われているのであろうし、そんな浅い井戸のような浅い心で思っているのではない、浅香山は単なる「アサ」のリフレインと山の井の山のイメージ、と解釈すれば良いだけだと思うのだが、どうも歌論というのは、そういう「ひさかたの」とか「あしびきの」とか「かげさへみゆる」だとか、そういうどうでも良い語句の解釈にああだこうだとこだわるところがある。

岩波古語辞典によれば「あしひきの」とは「足がひきつる」とか「足がなえる」というような意味ではないかという。もしかすると「びっこ」も同語源かもしれんな。「びっこをひく」とも言うし。山を上り下りすると足が疲れるからね。

アルムおじさん一家の謎

アルムおじさんがドムレシュクに帰郷したときのことだが、
ハイジの日本語訳は割とまともなようだが gutenberg の英訳はあまり役に立たない。
それで(わからんなりに)ドイツ語を当たってみるのだが、

> Dann auf einmal erschien er wieder im Domleschg mit einem halb erwachsenen Buben und wollte diesen in der Verwandtschaft unterzubringen suchen.

halb erwachsenen Bub とは「半ば大人の男の子」というのだから、小学校高学年くらいか。
この子供を親戚(Verwandtschaft)に unterbringen (宿泊させる、収容する)、というのだから、親戚に住まわせる、一時的に預かってもらう、
養育してもらうという意味であり、手放して親戚の養子にしてもらう、という意味ではあるまい。
そもそもそんな大きな、もうじき働ける子供を養子に出す理由がない。
子供のない家庭が跡継ぎに(或いは婿養子に)引き取りたがるならともかく。
大きくなって自分で働けるようになったら引き取ろう、それまでの報いは、後に金銭か何かでする、
というつもりだったのではないか。
高校生くらいになれば、立派に自分で働けるから、やはり、トビアスは、せいぜい13、14才くらい、
数年間だけ親戚のところに住まわせてもらおうくらいの感じではなかろうか。

ちうわけで、ニュアンスを少し変えてみた。
つまり、アルムおじさんはハイジやトビアスをやたらと親戚に預けたり手放したりする癖がある、
という見方をやめた。やはり、トビアスやハイジが可愛くて、できれば手元に置いておきたかった、
イタリアからトビアスだけ連れてもどったのも、妻とは別れても子供と別れたくなかった、
ということだろうと解釈してみる。
デーテがハイジを連れてきたときにもあれは一種のツンデレであって、孫はやはり可愛い。
一緒に住んでいるうちに愛着もわく。トビアスの時もだいたいそうだったのに違いない。
トビアスは帰郷時に12才ということにしてみた。
12才というと記憶も自我もはっきりしているから、もし母親と生き別れならば、
母親をよく覚えてもいたろうし、悲しかっただろうし、別れたくはなかっただろう。

アルムおじさんは二人兄弟の長男で次男は失踪してしまった。父母はなくなった。
ドムレシュクの親戚とはおそらく従兄弟(従姉妹)であろう。
何人くらいいたかわからぬが、全部に断られた。
もしかしたら弟が先に戻ってきていたかもしれん。
まあ、嫌われて当然だわな。

> Die Frau muss eine Bündnerin gewesen sein, die er dort unten getroffen und dann bald wieder verloren hatte.

アルムおじさんの妻も同郷、つまりグラウビュンデン州の出身だったに違いない、unten というのはライン川の下流というのではあるまい。マイエンフェルトはグラウビュンデン州では一番北の外れで川下に当たるからだ。
unten は南の方、つまり上流のドムレシュクの方と考えるべきだが、
12年も15年も放浪していて、いきなりドムレシュクに帰ってきて、子供はでかいのに、妻がグラウビュンデンの人で、
素性もしれないとははて、どういうことだろうか。
しかもトビアスを産んですぐ死んだと言っているが、
仮にトビアスが12才だとして、その間息子と二人でどこをどうほっつき歩いていたというのか。
なんか設定が矛盾している気がする。

親子泣き別れの場面

アルプスの少女デーテをまた少しいじった。

アルムおじさんはナポリで事業に失敗して妻と息子のトビアスを連れて、イタリア半島を北へ北へと放浪しはじめる。傭兵時代に知り合ったイタリア人たちを頼りながら。しかし、どこも長くは滞在できず、ミラノまでくる。アルムおじさんは妻とトビアスをイタリアに残して自分だけスイスに戻ろうとする。妻もトビアスと一緒にイタリアに残りたいと思った。スイスには行きたくなかった。

アルムおじさんはトビアスに、自分と一緒にスイスに行くか、母と共にイタリアに残るかどっちかにしろと言った。トビアスは親子が離ればなれになるのは嫌だと言った。どちらも選べなかった。翌朝、母は行方をくらましてしまい、トビアスは仕方なくアルムおじさんと一緒にスイスに戻ることにした。

まあちょっとした愁嘆場を付け足してみたくなったというわけだ。

もともとは、トビアスがまだ幼い頃、ナポリに居たころにアルムおじさんは妻と別れて、それから何年かトビアスと一緒にイタリア各地を放浪した、だからトビアスは母の面影を知らない、という話だった。

なんかこの話なかなか収束しないな。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、
肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、
という部分は書いてない。
著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。
書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。
病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。