与党

菅内閣の支持率が、自民党並に落ちてきたことで、やっと民主党も与党になれたなと、
私は思うよ。
マスコミにぼろくそにけなされてこその与党ですよ。
あなたは今、ほんとうの首相ですよ。
民主党初のほんとうの首相ですよ。
菅さん、まあもうしばらくがんばってください。

今批判されていることはほとんど感情論であって、政治の本質ではない。
太陽の牙ダグラムで、歴史は理性ではなく感情で動くものだ、と言った。それは良い。
しかし、それは逆説だ。本来、歴史や政治は、打算尽くの、理性で動くものだ。そうだろう。
感情を理性でコントロールできなければ獣と同じだ。

ジャンル

現代の小説は極めて細分化されている。
それぞれの分野にそれぞれのファンが居て、それを専門とする作家がいる。
さらにそこからファンが二次創作を作っていく。
そうするとさらに細分化が進む。
こういう現状だ。

しかし、そんな小説は書きたくもない。
たとえば前半部分は政治小説だが後半から恋愛小説になるとか、
現代小説の中に歴史小説がいくつも埋め込まれているとか、
とにかくジャンルをかるがると超えてわたりあるくようなそんな小説が書きたいわな。
人にも書けるような小説を自分がわざわざ書く必然性があろうか。

たぶん自分の中にそういう「ジャンル」というものに対する嫌悪感、
否定したい衝動があるのだな。
これはどうしようもない。

会話

小説の中で、キャラが台詞を言う場面があり、いちいち誰が何を言ったかは書かないことが多い。
順番に読んでいれば自明なことが多いからだ。
それはそれで良い。

問題はいきなり台詞があって、
しかも複数人の会話である場合だ。漫画や映画なら人物が描かれるから区別が付くが、
小説ではわからない。

> Aは言った、「うんぬん」と。Bは答えた、「うんぬん」。

まあ、こう書いていれば分かる。しかし退屈だ。

> 「何々だねえ。」「ああ何々だなあ。」「まったくだねえ」。AとBは言った。AとはこれこれでBとはこれこれな奴なのだが、

のように登場人物の説明をいきなり会話から始めることもある。
まあ、たぶんこれもよく使われるのだろうと思うが、確証はない。
これが延々と続くようだと困りものだが、
だいたい人間は、先読みというものをするから、誰の発言かはわからずにしばらく読んでみて、
それで後から補完・修正しながら読んでいくのではなかろうか。

ときどき、わざと違う人たちの会話と切り替えることがある。
そうすると、前の人たちの会話だと、間違えてしまうのだが、
しばらく読むとわかる仕組みだ。
たとえば大人の会話を子供の会話と切り替えてみると、何か違和感がある。
大人と子供の会話の違いをわざと感じて欲しいからだ。
これをフェイントと見るか、単なる悪文と見るのか。

それがために読みにくくて仕方ないと言われることがある。
人に読ませてみて初めて気づいたのだが。

いろいろ思うこと。

最近いろいろと改めて考えさせられることが多いのだけど、たとえば、私はかつて、菊池寛の「俊寛」という、比較的短い小説を、いきなり青空文庫で読んだわけだが、当時菊池寛がこの小説を書いたときには、平家物語に出てくるこの俊寛という人物はかなり有名だったと思う。当時の平家物語というのは、今のスターウォーズやガンダムくらいの認知度があったに違いない。それで平家物語をガンダムに例えるならば、俊寛は、かなりマイナーではあるが、カイ・シデンくらいのサブキャラだと言えるか。それで、俊寛というのは、ガンダムを熟知したファンがうようよ居る時代に、カイ・シデンを主人公として書かれた、二次創作的な小説である、と言えば、だいたい当たっていると思う。

ところが、私の場合は平家物語に関する予備知識、というよりは俊寛や鹿ヶ谷事件などの知識がまるでない状態で、俊寛を読み始めた。だから、たぶん、菊池寛の意図とはかなり外れていたに違いない。それで、無人島に三人の男が流されてきて、その中の一人が俊寛という坊さん。いや、タイトルが「俊寛」なのだから、この俊寛という人が主人公に決まっているのだが、とにかく最初は、三人の人が流されてそのうち二人だけ赦免されて、俊寛だけが島に残される。そういう出だしで物語が始まるので、特別この俊寛という人に感情移入がしにくい。

だが、俊寛がロビンソン・クルーソーのような生活を初めて、村娘と親しくなって、村人に最初は反対されるが結局は結婚して幸せに暮らすなどという展開が、後半になって始まって、この辺までくるとすべて菊池寛の創作なのであるが、だんだんと俊寛を、この物語の主人公として受け入れることができ、感情移入も可能になってくるのだ。

それでまあこの菊池寛の小説を読んで初めて平家物語に興味が出て精読してみようかという気持ちになる。そうすると菊池寛がなぜこの小説を書きたかったのかがわかってくる。菊池寛の意図とはかなり違っていたかもしれんが、私はたまたまそういう読み方をした。

この小説は、途中まではかなり歴史、というよりは平家物語、というよりもそれから派生した俊寛の伝説、に忠実に進む。しかし途中から完全な創作に切り替わる。前半は歴史小説のようでもあり、後半は時代小説のようでもある。

いろんな人と議論してみるに、一番最初に出てきた人が主人公であって、その人についてのいろんな前振りがあって、主人公に感情移入ができるから、小説を読み進めることができるのだ、と言う。それ以外の小説は群像劇なのだという。主人公が誰だかわからずに話が進むとか、最後まで読んで初めて誰が主人公かわかるとか、最後まで読んで初めて作者の意図がわかるとか。そんな小説は読めぬと。確かにそうかもしれん。

「主人公が誰だかわからずに話が進む」「最後まで読んで初めて誰が主人公かわかる」という例を確かに私は示すことが困難だ。しかし、Half-Life: 2などの洋ゲーの設定にはときどき見られる。2004年に出たこのゲームは、ただひたすら格闘し殺戮するというFPSの世界にストーリーを持ち込んだ。FPSなので操作している主観視点のプレイヤーが主人公なのは明らかなのだが、自分がどういう人間で、ここがどこで、時代がいつでなどという説明は何もない。ただ G-Man とか Breen 博士などが謎の台詞を言うだけ。Alyx は準主役のキャラだが、彼女が登場しても、しばらくはこのキャラが何を意味するのかわからない。Half-Life: 2を終わりまでプレイしても、多くの謎は残ったままで、続編をプレイしてみないとわからないことが多い(※追記。Half-Life:2 は Half-Life の続編であり、Half-Life のスピンオフである Blue Shift や Opposing Force などもあらかじめプレイしたことがある人であるかもしれない。であれば出だしで自分が Gordon Freeman であって、Half-Life のエンディングで冬眠状態にされて、そこから目覚めて再び世界に送り込まれたんだということがわかるかもしれない。私の場合、よく覚えていないが、Quake や Counter-Strike などは多少やったものの Half-Life は知らないか、さほどやってない状態だったと思う)。

それで、このような設定は、ゲームをマニュアルや操作説明専用の練習マップなしで、いきなり始めるために、工夫されたのであるのは間違いなのだが、おそらくは、私は読んだことは無いが洋書には、このような前衛的な小説があるのに違いない。最初、状況説明もなしにストーリーが始まり、読んでいくうちに次第にいろんな設定が明らかにされていくが、多くの設定は語られぬままに本編終了。次回作を読まないうちは、ストーリーの多くは未完結のままに放置される。

実際、現実世界で、我々は、誰か初対面の人にあったとき、その人のことをすべては知らない。徐々に知っていく。旅行をして、歩き回っていくうちにその土地を知っていく。最初に主人公が出てきてある程度の状況説明がされるというのは、まあ物語の典型なのだが、そうでない小説もあってよいはずだ。というか、そういうタイプの小説の方が、圧倒的に新しいし、私には魅力的に感じる。

たとえば、比較対象としてわかりやすいように、サルゲッチュというゲームを例にあげると、このゲームは子供向けに作られた、よくねられたゲームであって、誰が主人公であり、何をしなくてはならないかということが、マニュアルにも、第一面のマップでも、丁寧に説明されている。そして、レベルが進むにつれて自然と操作方法にも慣れて複雑になっていく。こういうふうにゲームをデザインすれば、誰もが、ああ、これはゲームであると、素直に納得できるだろう。しかし、自分がゲームをデザインするとしたら、こういう万人向けのゲームは作らない。作るはずがない。なぜかというに、これは、商業用に練られたデザインであって、自分が作るよりもそういう人たちが作ればよいのであって、自分で作る必然性がほとんどゼロだからだ。

葡萄野生種

葡萄の野生種には、
中央アジア原産の[Vitis vinifera sylvestris](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_vinifera)、
アメリカ原産の[Vitis california](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_californica)と
[Vitis girdiana](http://en.wikipedia.org/wiki/Vitis_girdiana)があるらしい。

Vitis vinifera は sylvestris から作られた栽培種。雌雄同体株。
sylvestris は雄株と雌株が別なので、昆虫や風によって受粉する。ふーん。

日本古来の葡萄「エビヅル」も雄株と雌株が別々なのだそうだ。
そういえばヘチマなども雄花と雌花が別だったような。しかし同じ株からどちらも咲くよな。
野生種が栽培種になることで、雌雄異体が雌雄同体になったりするんだろうか。不思議な話だわな。

イスラムと酒

イスラム教徒の中でも、トルコ人は比較的酒を飲むようだ。
ケマル・アタテュルクも大酒飲みだった。

クアルーンには、

> またナツメヤシやブドウの果実を実らせて,あなたがたはそれから強い飲物や,良い食料を得る。本当にその中には,理解ある民への一つの印がある。 (16:67)

という、酒への言及もあるが、

> 彼らは酒と掛け矢についておまえに問う。言ってやれ、「そこには大きな罪と人々への益があるが、それらの罪は益よりも大きい」。
彼らは、なにを施すべきかとおまえに問う。言ってやれ、「余分なものを」と。
こうしてアッラーはおまえたちに印を明らかにし給う。きっとおまえたちは考えるであろう。(2:219)

> 信仰する者よ,あなたがたが酔った時は,自分の言うことが理解出来るようになるまで,礼拝に近付いてはならない。 (4:43)

> あなたがた信仰する者よ,誠に酒と賭矢,偶像と占い矢は,忌・嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい。恐らくあなたがたは成功するであろう。 (5:90)

> 悪魔の望むところは,酒と賭矢によってあなたがたの間に,敵意と憎悪を起こさせ,あなたがたがアッラーを念じ礼拝を捧げるのを妨げようとすることである。それでもあなたがたは慎しまないのか。 (5:91)

とある。
(2:219) は、酒や博打は益も害もともに多いが、害のほうが多い、と言っているに過ぎない。日本人でもそのくらいのことは言う。
(4:43) では、酒に酔っているときには礼拝をしてはならない、というのであるから、夜の礼拝の後飲んで、夜明けの礼拝までに酔いがさめていればよい、と解釈することもできる。
酒に酔って礼拝するくらいなら、礼拝しないほうがよい、という程度の軽い警句にさえ解釈できる。
(5:90)、(5:91) はかなりきつく飲酒を戒めている。だが、飲酒がいけないのは、礼拝を妨げるからだ、とも解釈できる。酒を飲むといきなり地獄に落ちる、というわけではなさそうだ。
だがまあ、原理主義的に考えれば、酒は飲まないに越したことはないのだろうが、飲酒厳禁とまでは言ってないような気がする。

ルバイヤート

小川亮作はイランに三年も居たらしく、ペルシャ語原典からの翻訳、詩形も元のルバイーイに忠実で、解説に出てくるオマルの伝記も網羅されていて、
他の訳者の解説もしていて、
まあ、決定版と言えるだろう。
陳舜臣もまた本来はペルシャ語学者で、韻文というよりは直訳に近い訳。これもまあ、参考に出来るだろう。
陳舜臣は小説家なのになぜオマルを主人公に小説を書かなかったのか。
思い入れがありすぎて、書けなかったのか。

歌詞

今様というのは、艶歌や軍歌や歌謡曲とほとんど同じなのだ。
都々逸や短歌も長くつなげるとやはり同じになってしまう。
ためしに知ったような歌のメロディで歌うと簡単に歌えてしまう。

都々逸や和歌をもとの長さで歌えばそれからはややまぬかれるが、今様はまるで駄目だ。
文語定型詩というものにはそういう手垢がついてしまっている。
口語の定型詩はなおさらだ。
そういうものを、つまり歌謡曲や艶歌の歌詞を書きたいわけでは、まったくないのだ。
だから口語自由詩というものが、出てきたのだろうと思う。

それはそうと、ここ三ヶ月くらいで、5、6本の小説を立て続けに書いてみて、わかったのだが、
そのすべてが、主人公が歌人、詩人、もしくはアーティストなのだ。
ほとんどの場合は歌物語だが、歌が出てこなくとも主人公は画家だったりする。
書いてみて初めてわかったことなのだが。
そのアーティストもしくはエンジニアの視点でどろどろとした政治の話を書いたり、恋愛話を書いたり、商売の話を書いたりする。
そうかそうか私はそういうものが書きたかったのか、と今更気付いた次第だ。
なぜあのときアレを書いたのかというのがだんだん自分なりにわかってきた。

たとえば頼朝は歌人であって政治家でもあり、恋愛沙汰もいろいろあって、書きやすい人物だ。
後白河法皇も今様狂いなので書きやすい。
だが清盛はただの政治家で、主人公にはしにくい。
実朝は主人公にしやすいが頼家はしにくい、など。

そうすると次に題材とすべきは、典型的な例としては、李白とかオマル・ハイヤームとかゲーテなどだろう。
或いは、北斎やレンブラントなどでも良いかもしれん。
或いは、学者でも良いかもしれん。
そうやって書いていくと、ネタは無尽蔵にある。

しかしそこで敢えてアートや科学となんの関係もない小説ももしかして書けないものかと、考えてみたくもある。

ルバイーイ

ルバイーイは AABA の末尾の韻を踏むらしい。絶句に近いと言える。たとえば、
Edward Fitzgerald によれば、

Dreaming when Dawn’s Left Hand was in the Sky
I heard a Voice within the Tavern cry,
“Awake, my Little ones, and fill the Cup
Before Life’s Liquor in its Cup be dry.”

または AAAA とすべてに韻を踏む場合もあるらしい。たとえば、

If I myself upon a looser Creed
Have loosely strung the Jewel of Good deed,
Let this one thing for my Atonement plead:
That One for Two I never did misread.

結構むずいな。

後は長短の組み合わせ。
一句目は「長長長」か「長長短短」。
二句目は「長長長」か「長長短短」か「長短長短」。
三句目は「長長長」か「長長短短」。
四句目は「長」。
完全に再現するのはかなりむずいな。
小川亮作氏の解説のように短歌二つ分、くらいがちょうど良い長さかもしれん。
都々逸二つだとちと短い。
今様二つだと少し長い。