四行詩

オマル・ハイヤームの[ルバイヤート](http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html)。
岩波書店の。
著作権切れなのな。

[Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald](http://www.holyebooks.org/islam/rubayyat_of_omar_khayyam.html)

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。
できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。
ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。
絶句風に韻も踏んでみたし。
元ネタは小川亮作訳、

> 今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 /
苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。
元ネタは、

> さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。
七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、
都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。
しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。
どうしたらよかろうか。

柳橋

柳橋新誌を読んでもよくわからんことが多い。
木村荘八[柳橋考](http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/47732_34010.html)
など参考にする。

神田川がお茶の水を開削して隅田川に流れ込むようになったのは第二代将軍秀忠のときだというから、ずいぶん古い。

神田川の万世橋から隅田川の合流地点までかつては「柳原堤」と言う堤防があり、柳並木があったという、その末端にあったので、柳橋という名前になったとか。
元禄10年 (1697)、柳橋架橋。

日本橋の魚河岸は今の三越の当たり、日本橋川に沿ってあったものと思われる。
柳橋からおよそ 2km くらいか。

東日本橋の日本橋中学から南西方面にかつては薬研堀というものがあって、矢ノ倉という米倉に米を運搬するためのものだった。
「旧柳橋」というのはかつてこの、隅田川端の薬研堀に架かっていたもののようだ。ここらを米沢町とも言う。

さて、それで再び柳橋新誌を見ると、柳橋には四区があって、「柳橋表町」「柳橋裏河岸」「米沢表町」「旧柳橋河岸」。
「柳橋表町」は柳橋の東側の神田川沿いと、南詰めの辺りを言うようだ。
「裏河岸」は西側。
「米沢表町」は柳橋の東南の米沢町にあったというが、ちょうど両国橋西詰めの繁華街辺りということだろう。
「旧柳橋河岸」はそこからさらに南の薬研堀辺りにあったものと思われる。これを「米沢裏河岸」とも言う。
この四区に33件の船宿があり、互いに親戚のようであり、他に柳橋北詰めにも数軒の店があったが、疎遠だったという。

柳橋の船宿の発祥は、渡し船だったというが、両国橋は1660年頃に架かっているから、
もしそうだとすれば、ほんの江戸初期から船宿はあったということになろう。

船宿ごとに亭主がいて、その妻が女将となる。

酒家は船宿とは別に描いてある。柳橋の北と南、米沢町などに分散していたようだ。

> 柳橋の妓は芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して、往々色を売るものあり。何ぞや。
深川の遺風あるをもってしかるか。
而して深川は公に売り、此は私に売る。
公なるものは常になしてなしやすく、
私なるものは変にしてなしがたし。

> 凡そ人の女郎を買うや、もってともに寝るべし。
芸者を招くや、もってその技を聞くべくして、ともに寝るべからず。
而してその寝るべからざる人と寝、そのあへて売らざるの色を売らしむ。
これを「転ばす」と言う。

興味深すぐる。

日本橋河岸

柳橋新誌。

> およそ酒楼各家、あしたに起き、若い者をして日本橋に赴いて魚を買わしむ。
帰って客を迎ふ。
客知らずして早くに至れば、すなわち辞して曰く、
「河岸がまだ帰りません」と。
故に客の来たる、四つ(午前十時)に始まる。
士あり商あり、豪農あり、良工あり。

なるほど、このころ江戸の魚河岸は、やはり日本橋にあったのだなあ。

夏は、湯殿で汗を流してから酒を飲む。
銭湯のようにやかましく穢れてはいない。
おのおのの店の紋や名を染めた浴衣を着せる、とある。
今のスーパー銭湯のようなものか。

いやあ。面白いわこれは。

遊郭と岡場所

メモ。

遊郭というのは、幕府公許の遊女屋を一箇所に集めたもので、江戸には吉原だけ。
一箇所に集めたのは統制するため。
これに対して、岡場所はそれ以外の私娼窟のこと。
品川・内藤新宿・板橋・千住の宿場町以外、天保の改革で取りつぶしになった。
天保の改革では深川の門前仲町にあった辰巳芸者などが弾圧された。

柳橋は、天保の改革がゆるんだ後に、おそらくはそれ以前からあった船宿街をよりどころとして、
芸者たちが集まってきて、嘉永(1848-)・安政(1854-)以後、次第に岡場所のようになったところのようである。

斗、俵、石

なんかややこしいので、まとめてみる。

まず、石高だが、太閤検地では、1石で5斗が良い田んぼ、1石で3斗が普通の田んぼ、1石で1斗しかとれないのが悪い田んぼ、と決めたそうだ。まあだいたい1石当たり2斗ないし4斗換算か。

本来は1石=10斗なのだろうが。10合が1升、10升で1斗、10斗で1石。なので1000合が1石に相当する。1年365日三食1合ずつ米を食うとだいたい年に1石になる。そこで人間が1年に食う米の量がだいたい1石、と見積もられた。

だいたい3.5升が1俵なので、年に30俵ほど食べることになる。

町奉行所与力は最初のころ知行を与えられてそこから得られる年貢がそのまま俸禄となっていたが、途中から蔵米の支給になった。つまり、最初は領地を持った殿様だったのがサラリーマンに変更になった。そのとき知行地取り200石が蔵米80石に変更になっている。幕府標準のレートでは1俵=0.35石=3斗5升なので、蔵米80石とは、約230俵。知行地で200石取れるということは、その内の0.65が農民の取り分、0.35が支配の取り分になるので、200×0.35=現米70石=200俵となる。まあだいたい同じ。

この石高と現米の換算比率と、石と俵の換算比率がどちらも0.35なのがややこしい。

ようするに知行1石と蔵米1俵はほぼ同じということだな。あと、金1両もだいたい米1俵と同じ。

ここで、町奉行所与力の大塩平八郎と、将軍侍講の成島柳北の俸禄を比べてみると、大塩は200俵で、成島は家格300俵+役料200俵=500俵。おおよそ与力は今の警部のような仕事で年収で言えば1000万円くらいだろうか。とすると成島の年収は2500万円くらい。大企業の取締役くらいの収入はあったことになる。多少家来を養ったりしなくちゃならなかっただろうが、軽く妾の一人二人は囲えたろうな。父子鷹には岡野孫一郎という1500石の旗本が出てくるが、これだと年収7500万円に相当する。家来を養わなくてはならないからすべてが個人収入ではないが、さすがにお殿様だな。

手鎖

山東京伝、為永春水なども読んだ方がよかろうか。

戯作者は良く発禁処分になったり手鎖の刑にあったりしたのだな。これまた面白いな。

寺門静軒、成島柳北

前田愛著『成島柳北』を読み始める。かなり固い文体だが、面白そうだ。

寺門静軒著『江戸繁昌記』。めちゃくちゃ面白い。たとえば、「金竜山浅草寺」。

> 都下、香火の地、浅草寺をもって第一となす。肩摩甑撃、人の賽詣、未だかつて一刻の間に絶えず。雷神門、正南に面す。丹碧こもごも輝き、甍楹すこぶる盛んなり。

今の浅草の情景と、まったく同じだ。それが天保年間の文体で書かれている。すごくぞくぞくする。

成島柳北著『柳橋新誌』。これも良い。すごく良い。

> すなわち、今の柳橋は、また深川の死灰再び燃ゆるものにして、その盛、ほとんどその旧に継ぐといふ。ああ、今にしてその盛を記せずんば、すなわちまた五十年を過ぎ、いづくんぞ知らん、凋零して今日にしかざるを。

ああ、柳橋。

柳北詩文集。

雨余の樹色、清きこと沐するが如く
蒲扇葛巾、涼、掬すべし
翠柳街頭、月半稜
児童相い伴ひて蝙蝠を呼ぶ

雨が降った後の樹木の色は沐浴したように清らかだ。
ガマの葉で作った扇子と葛の布で作った頭巾を夜店に買って納涼する。
翠の柳、街頭の空には、半月が浮かんでいる。
こどもたちは連れだってコウモリが飛ぶのを騒いでいる。

うーん。すばらしいねえ。