在原元方

だんだん見えてきた。

古今和歌集編纂の主役は、業平・棟梁・元方の在原氏三代と紀貫之。

伊勢物語は業平・紀有常コンビが中心になってできあがったもの。
古今集は元方・貫之。
棟梁は中継ぎのようなもの。
棟梁と貫之は寛平御時后宮歌合(宇多天皇の母班子女王主催の歌合)で知り合った。

有常と貫之は同じ紀氏だが、家柄は若干遠い(紀有常の祖父・勝長は、貫之の祖父のさらに祖父。
勝長-名虎-有常、勝長-興道-本道-望行-貫之。なお、本道-有友-友則)。
血筋が一本通っているのが在原氏。
貫之が元方に接近していろいろ昔のことを聞き出して伊勢物語の祖型を作った。
元方はほわっとした歌を詠む人だよな。

それで、伊勢物語自体は非常にもやっとしたもので、
わけがわかってない。
紀貫之が素稿を書いたのは間違いないと思うが、
それを後撰集や拾遺集時代のもやっとした連中がかなりリライトしている、というあたりが真相だろう。

在原元方は生没年不明だが、おそらく貫之とだいたい同じなのだろう。
藤原国経の養子になっているのは、元方の父棟梁がそもそも金が無いのと、国経が棟梁の娘を妻としたからだ。

国経は基経や高子の異母兄妹にあたるわけである。
国経や基経は高子のもとに忍んでくる業平の番人になっていたことになっている。
国経は当事者だし、棟梁や元方も事情を知らなかったはずがない。
だがどう考えても高子の話は変だ。

古今集に出て来る当代歌人の中で当時一番偉かったのは宇多上皇だけど、彼はなぜか古今集には一首も載せてない。
いくつか可能性があって、宇多上皇の歌は載っているのだが読み人知らずになっている、という説(自説)。
宇多上皇は元方と貫之をたてて自分は表にでなかったという説(これも自説)。

国経にしても時平にしても、摂家ではあるが、宇多上皇の時代にはそれほど権勢はなかった。
少なくとも国経と時平は歌人と言えるような人物ではなかった。
そうすると一番偉いのは元方だろう。
だから彼の歌が巻頭に出て来る。

まあ、旅券法と国籍法は、マスコミも芸能界も政界も真っ黒なんだろうな。

マイナンバー制度がここまで遅れたわけだよ。

グレーゾーン金利と同じで、いままでグレーで済ませてきた部分が、
マイナンバーのおかげでそうはいかなくなる。
広域暴力団指定でやくざが締め上げられているのと同じだよな。
世の名はだんだん変わっていくんだよ。
昔は許されていたではすまされない。
パチンコもそろそろだろうな。

百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、
多くの氏族が桓武に女御を入内させた。
同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。
桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。
外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、
桓武天皇から始まる可能性があった。
しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、
飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、
良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、
帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、
ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、
冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、
言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、
摂家というものを作り出したのではなかろうか。
百済人は歴史から姿を消したように見えて、
実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、
日本の上流社会に生き延びたのである。
高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。
彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。
藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、
実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。
と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、
今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。
もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、
しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、
古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。
彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。
遍昭も良岑氏なので百済系。
源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、
母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、
かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。
彼は仁明天皇に娘種子を、
文徳天皇に静子を入内させた。
名虎は紀氏中興の祖であったが、
結局冬嗣・良房親子に負けた。
名虎の子・有常は急速に没落していき、
貫之や友則の時代の紀氏は、
藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。
しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。
紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。
紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。
小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、
紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。
有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

50ccのバイクを2速で走る感じ

若い頃は、ていうか、30歳くらいだと、まだ自分が何者かわかってないしこれからどうなるか予測がつかない。50過ぎた今からみると、30のときにすべてがもう決まってた気もする。

ホルモンか何かのせいだと思うが30歳くらいまではとにかく何かになろうってのめりこめる。自分がアクション映画の中にいるひとみたいに思える。

しかし50過ぎると、持病は抱え込むし、体力は落ちるし、酒を飲めば疲れるし、いろんなしがらみで身動きとれないし、どうやれば失敗するかわかってるから、行動範囲も狭くなるし、どっか転居したり転勤したりもできなくなるからだいたいもう日常がわかりきってしまうし、少し食べ過ぎるとすぐ太るし。

とにかく自分という体が動かない。思うように動かせない。30歳の頃は400ccのバイクを5速で飛ばしてたようなもんで、今は50ccのバイクを2速くらいでちんたらはしってる感じ。

定年まであと15年もあるかと思うと絶望する。

なんかもう蓮舫の顔をみたくないのだが facebook にどんどん流れてくるので困ってしまう。
記事は読んでもいいが蓮舫の写真が流れてこないようにできないのだろうか。

蓮舫についてケント・ギルバートがもごもごっと擁護するような発言をしたのは、
小野田紀美の件を知っていたからなんだろうな。

で、蓮舫は国会議員なんで、法務省とか警察とか検察が動くということはまあおかしいわけよね。
国会議員は国民の代表として選ばれているわけだから。
役人は基本的に国会議員には楯突かないでしょ。
議員は親分、役人は子分の関係なのだから。

田中角栄の時は異常だったけどねえ。

最悪、二重国籍でも、税務署がきちんと収入把握してて、出入国管理もきちんとしてりゃまあいいとして、
そこがぐだぐだ、というか説明できないんじゃアウトだよな。
マイナンバーはやはり必要なんだよ。

政治家なんて信用できないから、法律とか、マイナンバーなんかの制度が必要になってくる。
国籍法にしても同じ。
皇室典範でも憲法でも同じ。
そこである程度、おかしなことをしようというやつは振り落とされる。

ミステリーものは読者が多いというので、今回マリナを書いてみたのだが、
まあ、マリナはいきなり人が死んだりするわけじゃないんで、そんなにミステリーでもサスペンスでもないんだけど、
それで気付いたのは、
なるほどそのジャンルにはそこそこ読者がいて、読んでくれるのだが、
その読者というのも限られていて、
kindle で unlimited で読んでて刑事ものが好きで、
少し官能小説系なやつ(マリナは官能小説じゃないけどねっ)が好きな人の数というのは限られているのだ。
で、ある程度読まれるともう読まれなくなってしまう。
そこでおわり。

で、今の世の中、一番魚影が濃い漁場というのは、村上春樹や三浦しをんみたいな、
もやっとした小説を読む人たちであり、そこからラノベやBLなんかが派生してきているのを感じる。
読者を獲得しようと思えばそういう漁場にどんどんコマセをまいて釣り糸垂れるのが一番効率よく、
またもともと自分が村上春樹や三浦しをんのファンであれば、そういうふうにして小説を書き、営業するのは全然間違ってないと思う。
最近は村上春樹の影響力の大きさがなんか実感できてきた。
村上春樹は読まないんでよくわからないが、リバースエンジニアリング的に村上春樹という人が実感できてきた気がする。

でまあ、私は、村上春樹や三浦しをんみたいな小説を敢えて書かない人なんで、
読者がいるわきゃない。
しかし古代ギリシャものが好きな人というのは一定割合いて、
そういう人はほぼ確実にヒストリエを読んでいて、
その読者の一部が私のエウメネスを読んでくれていて、
だからエウメネスはときどき思い出したようにだれかが読んでくれる。

そうしてさらにその中のごく一部の人が私のほかの小説も読んでくれるという仕組み。

小説の作品数は多けりゃ多いほど良いように思う。
やっぱ新作は書かなきゃいけないわけよね、コンスタントに。

私が書いたもののなかでよく読まれているものとまったく読まれてないものの差は自分ではないのだが、
読者にはあるわけなのだ。
読まれない作品というのは、要するに、社会との接点がない作品だ。
世の中で読まれている特定のジャンルと関係ない孤立した作品。
他人と違うものを書きたいと思っている私にはかなりこれがこたえる。
今までになかった新しいものを書くのが novel だと思って書いても読まれはしない。
今までにあるものを少しひねった作品がどんどん読まれるのがつらい。

そんで30代の頃は毎日夕方に酒を飲めば発散できたのだが、
今はそれがうまくできない。体力が落ちたせいだろうと思う。
そうすると人間関係も希薄になっていく。
人間関係自体以前は未知な部分が多かったが経験が増えるにつれてこれ以上どうにも発展しないってことがわかってくる。
あちこち旅行もしたから最近はおもしろみもすくない。
小説もいろいろ書いてみて書いてもどうせ読まれないってことがわかってきたし、
仕事もこれ以上どうにもならないし、
健康状態はこれからどんどん悪くなるし、
急に大金持ちにでもならない限りこのさき面白いことなんかありゃしないってことがわかってくる。
執筆活動にのめり込んだりして現実逃避しても限度がある。

酒というものが持ってる魔法の力を使いすぎたかもしれない。

まあ、完全に煮詰まってるよな。

wolfenstein: the new order 買ったが全然面白くてやる気がおきない。
call of duty 4 みたいな、ミッションインポッシブルをゲームにしたみたいな、
イベントドリブンでチェックポイント制の展開になっててなえる。
fallout とは全然違う。つまらん。

賊軍の合祀

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

> ご存知ですか?

> 靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の
[靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上](http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161004-00000010-pseven-soci)
という記事、
10月12日のNHK報道
[「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら](http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161012/k10010727511000.html)
と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。
ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。
そういうことを言い出すと、
東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、
民間人の挺身隊なども合祀し、
戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、
さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。
それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。
昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

> 靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。
原則を変更すべきではない。

cf. [靖国神社合祀](/?p=16623)、[御衣黄](/?p=5747)。

伊勢物語の真相2

66、67、68

69、70、71、72
例の伊勢斎宮の話。

> ちはやぶる 神のいがきも 越えぬべし 大宮人の見まくほしさに

> 恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

これはもともと万葉集11-2663

> 千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無

> ちはやぶる かみのいがきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

73、74

75
これは有常が妻を任地の伊勢に連れて行こうとした話だろう。
「見る」と「逢ふ」が区別されているのだが、「見る」とは「文を見る」の意味だろう。

76
これの謎解きは『古今和歌集の真相』に書いた通り。

77、78
文徳天皇、女御・多賀幾子、藤原常行、在原業平の話。

79
貞数親王の話。
父は清和天皇、母は在原行平の娘・文子。

80

> むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。

在原氏と藤原氏のたとえだというのだが、それはどうだろうか。

81
源融の話

82、83
惟喬親王、在原業平、紀有常の話

84
長岡

85
出家後の惟喬親王

86
有常と妻の話か?

87

> 津の国莵原の郡芦屋の里

阿保親王の領地であるという。

88

95
藤原高子に仕える男女の話。

97
藤原基経

98
藤原良房

99
業平

101
行平

102
尼となった斎宮の宮とは誰だろうか。晏子か恬子だろうか。

103
仁明天皇に仕えた男。850年までの話になる。

106
竜田川。渚の院、業平。

107
藤原敏行

114
光孝天皇。伊勢物語の中では比較的新しい。

115、116
陸奥の話

125

> むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

> つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

後付けな感じがするが『古今集』に採られているので古い歌なのだろう。
業平かどうかは疑わしい。

伊勢物語の真相

『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。

『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。

それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。
紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。
この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、
のちに一つに合体してしまい、
さらに似たようなエピソードも追加されて、
主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。

奈良や大和の話が多いのも気になる。
平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。
京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。

1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。
高子入内866年より前。
1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。

7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。

8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。

9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。
12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。

14、15段。

> 陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。

下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。

16段。これはまさしく有常とその妻の話である。
時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。

17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。
26段は高子の話か。
断片的なエピソードが集められた感じだ。

> 田舎わたらひ

> むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、

子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。
ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。
業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。
奈良ではなく長岡京かもしれない。

38段。これも明白に有常の話。

39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。

40段。謎。

41段。

> 武蔵野の心なるべし

とあるから、有常の話か。

42
謎。

43
賀陽親王の話。
賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、
有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。

44
有常の馬の餞の話か。

45
謎。

46
地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。

47
謎。

48
これも有常の馬の餞の話か。

49
謎だが、有常の話であるとすれば、
妹とは、仁明天皇更衣の種子、
文徳天皇更衣の静子かもしれない。
妹に

> 聞こえけり

とあるのが暗示している。

50、・・・、59
謎。

60、61。
有常が肥後権守となったときの話か。

62
謎。

63
在五中将、つまり業平の話。

64
謎。

65
非常に興味深い話だ。
ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。
清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。
高子入内後の話としてもよいが、それだと

> おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり

皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。
だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。
そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、
業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。
棟梁は有常の娘の子である。

清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。

十一日の月

新月は日没時に西の地平線上に出てすぐに沈んでしまうので、実際には見えない。
目に見えるようになるのは「三日月」からだが、夕方西の空に出てすぐに沈んでしまう。

十五夜、満月は夕方東の空から昇り明け方西の空に沈む。つまり夜中見えるということだ。
十六日の月は「いざよひ」、
十七日の月は「たちまち」、
十八日の月は「ゐまち」、
十九日の月は「ねまち」、
二十日の月は「ふけまち」、
つまりだんだんに東の空から月が昇ってくるのが遅くなる。
月の出が日に日に、50分ほど遅くなっていく計算。

十一日の月は「とをあまりのつき」と言うらしい。
『伊勢物語』82段「渚の院」

> ・・・帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜更くるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入り給ひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬頭の詠める。

> 飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ

> 親王にかはり奉りて、紀有常、

> おしなべて峰も平になりななむ山の端なくは月も入らじを

ここで舞台装置として出て来る「十一日の月」というのはつまり、
夜明けよりも三時間あまり早く西の空に沈んでしまう月、
もう少しで夜が明けるのでそれまで飲みあかしましょうよということになる。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

> 昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

> 二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

> つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

> 君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

> 男いといたう泣きてよめる、

> かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

> とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

> かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

> と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

> 又あふ坂の 関はこえなむ

> とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

> 斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

> 筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

> 女、返し、

> くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

> 名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

> 昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

> 手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

> かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

> 年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

> かくいひやりたりければ、

> これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

> よろこびにたへで、又、

> 秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

> ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

> おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

> 身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。