推敲

推敲すればするほど文章は良くなっていく。切りが無い。推敲することによってさらに文章に対する感覚が研ぎ澄まされていき、さらに推敲してしまう。

以前から漠然と考えていたことなんだが、31文字しかない和歌でさえもほとんど無限の表現が可能なのだ。人間が一生かかってもすべての表現を試すことはできない。限られた語彙、限られた文法、限られた文字数でも。いわんや、10万字の小説、20万字の評論ならばなおさら無限の無限倍くらいの可能性がある。

どれほど完璧に書いたと思った文章でも後からみれば必ず直したくなる箇所はある。だから結局中途半端で投げ出して死ぬしかない。どこまでやらなきゃならないのか。というより、どこまでやれば自分で納得できるのか。納得などできないのか。ある程度まで書いて、死んだ後に大目に見てもらうしかないのか。

ある程度以上いじるといじればいじるほど悪くなる限界というものはあるかもしれない。それは私自身の限界に達したということになるのだろう。

10万字くらいまでの小説を書いたとして、そのあとその小説を推敲したり加筆したりすると、文章としてはまともになるかもしれないが、だんだん長くなってきて、切れが悪くなるというか、読みにくくなるというか、さっと読み切れなくなる。なんか気に入らないなと思っていても20万字もあるといじれどいじれど全然直ってくれない。だんだん自分でもわからなくなってくる。50万字くらいの長編だともう何をどうしていいのかわからなくなるし、わかったとしても直している時間がない。とても困る。

近頃は何もしないのが一番良い、何かすれば失敗する可能性が増えるとも思う。いろんなことを考えると結局なすにまかせて定年まで同じところで働き、そのまま無職になって、死ぬまでぼーっとしているのが一番良いように思えてくる。近頃は千葉まで遊びにいったり、浅草や赤羽にでかけたりしているが、知らないところへ行って知らない酒場を巡っていても結局そのうち飽きるわけで切りが無い。阿佐ヶ谷や高円寺あたりを開拓しようともしたがすぐに飽きた。結局近場の新中野あたりをたまに飲み歩くので十分ではないかとも思う。

昔は10万字の小説書ける俺すげーとか思ってたが書いてみると大したことはなく、昔書いたものをみても、ああ幼稚だなと思うだけだ。手直ししてなんとかしようと思うが、どうにもならず絶望してしまう。

松平上総介

海舟座談については前にも書いたのだが、松平上総介とは松平忠敏のことで、石高はよくわからないが、およそ二千石くらいの旗本であったらしい。明治になると御歌所の歌道御用掛となって、ウィキペディアには高崎正風を投げ飛ばしたなどと書かれているが出典が良くわからない。

松平忠敏はまた勝海舟に歌を詠むよう盛んに勧めたというがこれも明治になってからのことだろう。いろいろ調べてみるとなかなか面白い歌を詠んでいるようだ。たとえば、

(こと)しあらば (くさ)むす(かばね) (こと)しあらば 水漬(みづ)(かばね)(おも)ふばかりぞ

何事(なにごと)()しと(おも)へば ()かりけり (たの)しとのみや (おも)(わた)らむ

などなど。

PCファンの騒音

PCファン(ケースファン)が異音を発するようになったので交換したのだが、今度は風の音がうるさくなってしまった。安くてピカピカ光るやつを買ったのが良くなかったのかもしれない。光らなくてもよいから静音でもっと高価なやつを買えばよかったと後悔している。

仕事場なんかでは気にならないが寝室ではさすがにうるさいだろうと思う。今度から気をつける。

工房化

おんなじことはもう書いたかもしれないが、岡本綺堂も野村胡堂も池波正太郎もあれだけの作品を一人で考えたってことはあり得ないと思うんだよね。さいとう・たかをプロダクションがゴルゴ13を量産したのと同じ態勢で、或いは刑事コロンボみたいな連続ドラマと同じで、多くの人が原作を担当しているはず。最初は原作者がいてそれが一発当たるとこれは儲かるというので多くのスタッフがついて工房化していくのだろう。

東京の東側

近頃は浅草辺りで遊ぶことが多いのだけど、私はこれまでずっと東京の西側ばかり暮らしてきたから、東側が新鮮に感じる。上野のガード下なんかは割と好きだったが、今ではただもうタバコ臭いだけで、あの辺の立ち飲み屋に行ってもただおっさんばかりがいて食い物も別にうまくはないから面白くない。上野をさらにひどくしたのが北千住で、この世の地獄みたいなところだ。

しかるに浅草、赤羽、松戸なんかはそれほど煙たくないから不思議である。ほかにも流山の初石なんかはとてつもなく煙い。

松戸は悪くないんだがみんなビルになってしまっていて味気ない。浅草は浅草寺が持ってる土地はだいたい二階建て、三階建てくらいの古い建物が残っていて、そういうところは楽しい。ホッピー通りは全然楽しくない。赤羽も東口の飲み屋街はやはり低層の家ばかりで、再開発を逃れているのが良い。

浅草のすごいところは、若い女が一人または二人連れくらいで平気で立ち飲み屋で飲んでいるところで、こういう光景は新宿や中野辺りではめったにみない。町田でもほとんどあり得ない。いや、いるにはいるけどたいていそういう女は常連で、しかし赤羽浅草辺りはどうも一見の客か何かで、ほんとに目立つ。酒飲みの文化が全然違うように思う。

こないだ吉原のおおとりの市にも行ったのだが、近頃は縁日やテキ屋も紋々の入った人もなかなかみかけなくなってきたが、ここはものすごい。こういう世界がまだ日本に残っていたんだなと驚く。

それでホテルは山谷あたりが一番安い。トイレシャワー共同のシングルの部屋が3000円くらいから楽天トラベルである。楽天トラベルなんかにでてこないけど2000円くらいのいわゆる日雇い労働所が泊まる部屋もたくさんある。屋内はマジックリンみたいな強い芳香剤の匂いで古い木造家屋や下水の匂いを無理矢理抑えてあるような感じで壁はペラペラに薄いがトコジラミ(南京虫)さえでなきゃまあ別にかまわない。山谷から少し外れてると、例えば赤羽辺りだと5000円くらいが最低ラインみたいだ。とにかく山谷は安い。

これが賃貸だと浅草周辺よりは赤羽辺りのほうが安い。どちらも古い風呂無しアパートがそのまんま賃貸に出ている、つまりほかの街ではとっくに消滅した物件が現役で、それを貸している大家さんも多くて、それでこの値段になっているわけだ。だがいずれにしても月5万円くらいはどうしてもかかる。年に80万円くらいはどうしてもかかる。となると週に1回飲みに行ったときに3000円くらいの部屋を借りて酔っ払ったらすぐ寝て、朝は散歩でも楽しむってのがずっと経済的で合理的ってことになる。

ブログを活用する

これまで出版の話はいくつかあったのだが、今回書いているものも、いずれ出ることはあるかもしれないけどいつまで待てば良いのかわからなくなってきた。まあ、出なきゃ出ないで kindle で出せば良いんだけど、気長に待つことにする。7月くらいから書き始め10月にはいったん書き終えたのだが、まだ出る気配は無い。

一般受けするものを書こうという試みもこれまで何度もやってきたが一度も成功していないのだから、私にはきっと書けないのだ。諦めたほうがよさそう。私にはクリスマスの良さがさっぱりわからんし、クリスマスに良さなどあるはず無いのだが、世の中はそれでもクリスマスが好きだ。売れる本を書くということはそういうことだろう。クリスマスにケンタのチキンを本気でうまいうまいと言って食える人間のほうが素で一般受けする本を書けるわけだから得だと思う。しかしそういうこの世に存在しなくても誰も困らぬものを書く気にはなれん。では私の書いているものはこの世に存在する価値があるのかと言われると、実はよくわからん。自分は単にあまのじゃくなだけなのかもしれない。世間が好きにならぬものを好む、ただそれだけなのかもしれないといつも不安になる。

歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば 独り狂へる ここちこそすれ

それで、早めに出した方が良いと思われる部分はここに先に書くことにした。別にブログに書いたものを後でまとめて本にしてもよかろう。

早めに出そうと思った歌書はまず明治という元号をなぜ籤で決めたかという話と、「秋の夕暮れ」古今集仮名序疑惑と、「五月雨の頃」はまず西行が詠んだという話だ。これら三つのトピックがどういうふうに一つの本の中で扱われているかってことは、本が出るまで楽しみにしておいてもらいたい。

私も一時期は今にも死にそうだったが、どうもしばらくは生きているようだ。書きたいものはたいてい書いてしまったが、手直しはしたい。死んだ後も書いたものを残すには、出版するのが一番だが、kindle でもまあ残るだろう。あれだけのコンテンツ、amazon が倒産したとしてもなんらかの形で残るに違いない。死んだらすぐに消えるのはこのブログなので、特に残しておきたいものはハテナブログにも転載しておこうとおもう。はてなという会社がいつまで残るかかなり疑問だが、note とかカクヨムなんかにはいまさらまったく書こうという気がおこらない。

ともかく、死んだあともこの世に残そうと思えば勝手に kindle で出せば良いだけだ。

今の世の中はSNSとかメディアがとんでもなく発達しているから、何か良いものを書いても、目立とうとするコンテンツが溢れかえっていて霞んでしまう。しかしそんなことは今に始まったことではなく、江戸時代だって明治だってコンテンツは常にあふれかえっていたはずだ。結局、良質なオリジナルコンテンツを作ってそれが世の中に気付かれるのを待つしかない。今のSNSはこれから生成AIがどんどん再生産してノイズばかりが増えていくだろう。オリジナルなものはほんの一部で後は単にAIで水増しされたコピーでそういうものばかりが目につくようになる。まとめサイトなんか書かされていたライターは失職する。だからもうコツコツとオリジナルコンテンツを作っていくしかない。

自分で書いたものでも「民葉和歌集」なんてのは今見るとまったくダメだ。これはなんとかしなきゃなるまいと思っている。

ドイツ語翻訳も中途半端に手を付けては放置しているんだが、これはもうわざわざ私がやらなくても良いのではないかという気がしてきた。

キャバクラで接待とか

フレンチとか懐石とか、シャレオツな喫茶店とか絶対行きたくないし、キャバクラで接待されても全然嬉しくない。ガールズバーもそう。むしろ熟女パブとかのほうが楽しめる。

私にとって一番楽しめるのはやはり立ち飲み屋だな。ふらっと入って気に入らなけりゃすぐ出られる。その対極にあるのがフレンチだな。とにかくお任せで出てくるものを待つしかない。食ったからといって別に旨いわけでもない。

座るのはかまわんが狭いのは嫌だ。せめてファミレスくらいの個人スペースが欲しい。

古今集仮名序

秋の夕暮れで言いたかったことはつまり、『古今集』「仮名序」はまず貫之が「真名序」を元に六義の部分を敷衍して和訳する形ででき、後に、源俊頼が大幅に加筆して成立したのであろうということである。

具体的に言えば、冒頭は貫之が真名序を適当に和文に訳した部分。

やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。 このうた、あめつちのひらけはじまりける時よりいできにけり。しかあれども、よにつたはれることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。ちはやぶるかみよには、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことのこゝろわきがたかりけらし。人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。 かくてぞはなをめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶこゝろことばおほく、さまざまになりにける。とほきところもいでたつあしもとよりはじまりて年月をわたり、たかき山もふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたもかくのごとくなるべし。

続いて、貫之が真名序に六義とあるのを、自分なりに勝手に解釈し歌の例を挙げた部分。

なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばゝうねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは歌のちゝはゝのやうにてぞ、てならふ人のはじめにもしける。

そもそも歌のさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。 そのむくさのひとつにはそへ歌。おほさゝきのみかどをそへたてまつれるうた

なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこのはな

といへるなるべし。ふたつにはかぞへうた

さくはなに思ひつくみのあぢきなさみにいたづきのいるもしらずて

といへるなるべし。みつにはなずらへうた

きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ

といへるなるべし。よつにはたとへうた

わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも

といへるなるべし。いつゝにはたゞことうた

いつはりのなきよなりせばいかばかり人のことのはうれしからまし

といへるなるべし。むつにはいはひうた

このとのはむべもとみけりさきくさのみつばよつばにとのづくりせり

といへるなるべし。

その後は、俊頼が付け足した部分。

いまのよの中、いろにつき人のこゝろはなになりにけるより、あだなるうたはかなきことのみいでくれば、いろごのみのいへにむもれぎの人しれぬことゝなりて、まめなるところにははなすすきほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへばかゝるべくもなむあらぬ。いにしへのよゝのみかど、春のはなのあした、あきの月のよごとにさぶらふ人々をめして、ことにつけつゝ歌をたてまつらしめたまふ。あるははなをそふとてたよりなきところにまどひ、あるは月をおもふとて、しるべなきやみにたどれるこゝろごゞろをみたまひて、さかしおろかなりとしろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さゞれいしにたとへ、つくばやまにかけてきみをねがひ、よろこびみにすぎ、たのしびこゝろにあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、まつむしのねにともをしのび、たかさごすみのえのまつもあひおひのやうにおぼえ、をとこやまのむかしをおもひいでゝ、をみなへしのひとゝきをくねるにも歌をいひてぞなぐさめける。又春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ、あるはとしごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき、くさのつゆみづのあわをみて、わがみをおどろき、あるはきのふはさかえおごりて、今日はときをうしなひよにわび、したしかりしもうとくなり、あるはまつ山のなみをかけ、野なかのしみづをくみ、あきはぎのしたばをながめ、あか月のしぎのはねがきをかぞへ、あるはくれたけのうきふしを人にいひ、よしのがはをひきてよの中をうらみきつるに、いまはふじのやまもけぶりたゝずなり、ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞこゝろをばなぐさめける。

いにしへよりかくつたはれるうちにも、ならのおほむ時よりぞひろまりにける。かのおほむよや、うたのこゝろをしろしめしたりけむ。かの御時に、おほきみみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。これはきみも人もみをあはせたりといふなるべし。あきのゆふべたつたがはにながるゝもみぢをば、みかどの御めににしきとみたまひ、春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。又山のへのあか人といふ人ありけりと。うたにあやしうたへなりけり。人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける。 この人々をおきて又すぐれたる人も、くれたけのよにきこえ、かたいとのより〳〵にたえずぞありける。これよりさきの歌をあつめてなむまえふしふとなづけられたりける。

こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき。しかあれどこれかれえたるところえぬところたがひになむある。 かのおほむときよりこのかた、としはもゝとせあまり、よはとつぎになむなりにける。いにしへの事をもうたをもしれる人よむ人おほからず。いまこのことをいふに、つかさくらゐたかき人をばたやすきやうなればいれず。そのほかにちかきよにその名きこえたる人は、すなはち、そうじやうへぜうは歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへばゑにかけるをむなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。ありはらのなりひらは、そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし。うぢやまのそうきせんはことばゝかすかにして、はじめをはりたしかならず。いはゞあきの月をみるに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはしてよくしらず。をのゝこまちは、いにしへのそとほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをむなのなやめるところあるにゝたり。つよからぬはをうなのうたなればなるべし。おほとものくろぬしは、そのさまいやし。いはゞたきゞおへるやまびとのはなのかげにやすめるがごとし。このほかの人々、そのなきこゆるのべにおふるかづらのはひゝろごり、はやしにしげきこのはのごとくにおほかれど、うたとのみおもひて、そのさましらぬなるべし。

かゝるにいますべらぎのあめのしたしろしめすことよつのときこゝのかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみのなみのかげやしまのほかまでながれ、ひろき御めぐみのかげ、つくばやまのふもとよりもしげくおはしまして、よろづのまつりごとをきこしめすいとま、もろ〳〵のことをすてたまはぬあまりに、いにしへのことをもわすれじ、ふりにしことをもおこしたまふとて、いまもみそなはし、のちのよにもつたはれとて、延喜五年四月十八日に、大内記きのとものり、御書所のあづかりきのつらゆき、さきのかひのさう官おふしかうちのみつね、右衞門のふしやうみぶのたゞみねらにおほせられて、萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめたまひてなむ、 それがなかに、むめをかざすよりはじめて、ほとゝぎすをきゝ、もみぢをゝり、ゆきをみるにいたるまで、又つるかめにつけてきみをおもひ、人をもいはひ、あきはぎなつくさをみてつまをこひ、あふさか山にいたりてたむけをいのり、あるは春夏あき冬にもいらぬくさ〳〵の歌をなむ、えらばせたまひける。すべて千うたはたまき、なづけて古今和歌集といふ。

かくこのたびあつめえらばれて、山したみづのたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまはあすかゞはのせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき。それまくらことば、はるのはなにほひすくなくして、むなしきなのみあきのよのながきをかこてれば、かつは人のみゝにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくゝものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらが、このよにおなじくむまれて、この事のときにあへるをなむよろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのことゝどまれるかな。たとひときうつりことさりたのしびかなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづらながくつたはり、とりのあとひさしくとゞまれらば、うたのさまをもしり、ことのこゝろをえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎていまをこひざらめかも。

特に「春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ」「としごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき」の部分は不審である。前者は曽祢好忠の長歌から来ており、後者は貫之晩年の歌から来ている。貫之が古歌を参照し列挙している箇所にこれらの歌があるのはおかしい。そもそも「秋の夕暮れ」が古今集仮名序初出で、古歌や当時の歌にまったく使われていないのはおかしい。なぜそんなことを俊頼がやったかと言えば彼は頭がおかしいからである。も少し具体的に言えば彼は白河院の歓心を買い勅撰集の選者になりたかったからである。しかし白河院は俊頼を嫌っていた。だから金葉集は三奏本まで出たが、仮名序も真名序も無いではないか。俊頼はここに白河院か堀河天皇の名を入れ、さらに自分の名も入れたかったはずだ。もしかすると金葉集の序として書いたものを流用したのかもしれない。

「秋の夕暮れ」は清少納言は「秋は夕暮れ」と言い、それを和泉式部が気に入って好んで使い、それでみんなが使うようになったのである。

五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。

秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

(あさ)()()(あき)(ゆふ)()()(むし)()がごと(した)に ものや(かな)しき

(秋の夕暮れに(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを()れば (かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき (あき)夕暮(ゆふぐ)

太宰帥(あつ)(みち)親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

()つとても かばかりこそは あらましか (おも)ひもかけぬ (あき)夕暮(ゆふぐ)

あはれなる事

あはれなる ことを()ふには (ひと)()れず もの(おも)ふときの (あき)夕暮(ゆふぐ)

八月ばかり、人のもとへ

(おと)すれば ()ふか()ふかと (をぎ)()(みみ)のみ()まる (あき)夕暮(ゆふぐ)

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

(よる)()()ぬに、(さう)()(いそ)()けて(なが)むるに

(こひ)しさも (あき)(ゆふ)べに (おと)らぬは (かすみ)棚引(たなび)(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる (はる)のあした ()のおつる (あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。