神経痛2

なかなか治らない。

たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。

健康第一。年寄り臭い。

神経痛

急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。

ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。

もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。

こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。

ひりひり

気力が続かないのでこのへんにして脱稿すると思う。体の表面の腫れは収まってきたが、皮膚がひりひりするとこがあちこち飛び回ってなかなか収まらない。ウィルスは撤収を始めたが免疫系との最後の戦いを繰り広げているのだろうか。

はよう酒が飲みたい。

連休がつぶれたともいえるし、連休だから助かったともいえる。

帯状疱疹

変な赤いぶつぶつが出来たので皮膚科に行ったら、帯状疱疹という病気だと診断された。子供の頃に罹った水疱瘡のウィルスが体の中に潜伏していて、加齢によって体が弱ってくると活性化するらしい。50才以上の人に多いという。6、7人に1人くらい発症するという。

不思議なことに体の片側にしかできものができない。ウィルスが神経の奥の方をおかすからだという。神経は脊髄を中心に体の外側に向かって伸びている。その途中がウィルスにやられるとその下流が皮膚まで達してできものになるらしい。食あたりでリンパがやられたのかと思ったが全然違った。寝違えみたいな腰痛が伴う。風邪引いたときのふしぶしの痛みとも似ている。

ちゃんと治療しないと神経痛が残るそうである。なるほど神経が痛むというのはこういうものなのだ。痛みが体のあちこちに移る感じだ。肌をなでるとひりひりする。必ずしも強い痛みではないが、不快だ。

酒も飲んではいけないらしい。年を取るというのはほんとに面倒だ。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

天皇とは何かという問題

いろんな本を読んでいるのだが、なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、なぜ足利幕府は京都にあったかとか、肝心なところがわかってないと思うし、それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。直義、直冬である。二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」?馬鹿をいっちゃいけない。なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから?神話?「永遠の過去が持つ権威」?それも違う。そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。その皇帝を皇帝Aとしよう。このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。
こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、みんな皇帝Aの側につくだろう。しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。このようにしてあたかも二大政党制のように、複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。イスラムなんてそのものずばり。一神教と政治は親和性が高い。信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。北条氏の時代。南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、尊氏は負けかけた。しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。義満が皇統を統一した。だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。足利といえば鎌倉公方もいる。それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。室町将軍とはそのくらい脆弱だ。応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、誰を担ごうかと日和見するのだ。室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。馬鹿を簡単に見分けられてよい。便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、あっさり諦めた。旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。だれが武家の棟梁となるか。とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。特に後醍醐天皇はダメ。しかし、足利の誰を担ぐか。尊氏、直義、直冬。特に決め手はない。強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。強い棟梁だからみんなが味方するのではない。みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。国家レベルの軍事的独裁権を持てる。人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。人と物と金を集める才能のことだわな。足利時代には武家は離合集散。徳川時代にはも少し統制とれてきた。というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。だがおかげで二百年以上平和が維持された。南北朝がわからなければ天皇はわからない。徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい?まあある意味ではそうだ。徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。すごく仲良しだった(表向きは)。権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。このとき院宣の正統性が確立した。神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。彼らに大事なものは律令制。きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、まだ正統性があった。
もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。
明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、南朝が正統ってことにしたのではなかったか。だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。そういう場合は正統性がなかったことにされた。どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、天皇や神話の権威に他ならない。つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。天皇から遠い武家ほど革新的。藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。
次から次におかしなアイディアが出てきて、ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。そんなわけない。明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。今の女系天皇是非論。やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。そうでないと何でもありになってしまう。でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。手抜かり無い。よく研究しているよね。ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。
世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。ところが、太平天国の乱のときもそうだが、中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。なぜだかよくわからない。あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。これでは王朝が交代せざるを得ない。これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、あまり面白そうではない。どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。映画監督になるために自分が原作者になった。そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

アニメは、まあ、良く出来てはいるようだが。だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、近代アジア史ものなわけだが。異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、「神武」とかはもう全然つまらない。不思議な人だわな。要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。「三河物語」もまあまあ面白い。これも大久保彦左衛門という原作者の強い個性がうまく安彦良和を制御できている感じ。「アレクサンドロス」も見たが、これはもう安彦良和自身が言っているように完全な企画倒れ。そう簡単に描けるわけがないんだよな、アレクサンドロスを。老臣パルメニオンを妙に持ち上げていたあたりが少しおもしろい。

巨神ゴーグ。出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。これぞまさしく純粋な動く安彦良和。つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、肝心のキャラが死んでしまう。「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、よく思いつくもんだと思う。ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。東洋のマタハリとか(笑)。近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、安彦良和の統一感のなさははんぱない。

結城氏と小山氏の関係を調べていて気づいたのだが、結城直朝の幼名は「犬鶴丸」。
小山義政の息子に「若犬丸」(元服前に死んだか)。
小山朝郷の幼名は「常犬丸」。
小山持政の幼名は「藤犬丸」。
小山氏郷(の子?)「虎犬丸」。
氏郷が若死にしたので山川家から成長を養子をもらい、成長の幼名が「梅犬丸」。成長は小山泰朝の曾孫。

つまり、結城氏と小山氏には「某犬丸」「犬某丸」という幼名が一般的だったらしい。そういう幼名を付けた他の武家の例がないわけではないが、特に結城・小川氏に多い。結城と言えば結城合戦。「八犬伝」と無関係ではあるまい。つまり犬の名を付けるのはもともとは安房ではなく下野、いや常陸の風習だったということだ。いやいやいや、小山は下野で結城は常陸だわな。ややこしい。

小山氏と結城氏の家系は養子縁組ばかりでよくわからん。資料もあるようでないようで。今も小山市と結城市は隣どうし。JR水戸線でつながれている。なんか面白いな。一度行ったことあるがすごい田舎だ。

だんだんわかってきた。源平合戦のころ頼朝についた武将に小山朝光があり、彼が結城朝光を名乗る。つまり結城氏は小山氏から分かれた。小山氏は藤原秀郷の子孫でもとは太田氏らしい。だが、朝光の父政光くらいまでしか確かにはたどれないようだ。要するに小山氏も結城氏も同族で頼朝の時代に、その住む場所によって家名が二つに分かれた、ということだな。

朝光は頼朝が烏帽子親となって元服する。頼朝の命で義経に腰越で鎌倉入り不可の口上を伝える、とあるから、まあ、頼朝の寵臣だったらしい。

時代は下って、小山義政が鎌倉公方足利氏満に謀反を起こして小山宗家は断絶。分家筋の結城家から小山家に養子泰明を迎えて家督をつなぐ。逆に小山泰明から結城家に養子氏満を迎えて家督相続。結城氏満が結城合戦の主役で、氏満の子成朝が江ノ島合戦や享徳の乱の主役、というわけだ。ふー。

そういや義経の幼名は「牛若丸」。「丸」は「麿」「麻呂」なんだよな。蝉丸とか。猿丸とか。人麻呂も人丸と言ったりする。基本的には人の名、それも、万葉時代から前の名の名残なんだろうな。

「牛若丸」「犬若丸」があれば、「虎若丸」「熊若丸」「鶴若丸」「亀若丸」「馬若丸」、「松若丸」「梅若丸」「藤若丸」「菊若丸」なんてのもあったんだろうが、どうやって調べれば良い。

ていうか頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、それまで名字をもっていなかった、或いは持っていたけどよくわかんなかった人が、御家人となり、名字を持つようになって、
やっと武家というものが生まれたのだろう。それまでは、そもそも庶民には名前がなく家系もなかった。と、考えると頼朝はすごい。奥州藤原氏とか、その前の清原、阿倍氏なども、みな京都の貴族の名を借りただけで、ようは、名字なんてただの飾りだったのだろう。三河介みたいなもんで、勝手に自分で名乗ってた。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

DSC_0016

そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

DSC_0066

材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

なんて素敵にジャパネスク

氷室冴子はマンガやアニメの原作者としてはすでに知っててまあ好きなほうだから、小説も割といけるかと思ってためしに『なんて素敵にジャパネスク』を読み始めたのだが、いろんな意味で驚いている。

まず、こんな昔からラノベって1センテンスごとに改行してたのな。

第一印象としては人間関係がわかりにくい。官職名がいきなりぽんぽん出て、これ、読むひとほんとに理解して読んでるのかという感じ。権少将とか大納言とか出てくるんだが、官位が書かれてないからどっちが偉いのかもわからん。そんなこと考えなくていいんだろうけど、気になる。むしろ、そうやって、よく分からない単語であふれさせることによって、無理矢理平安時代の雰囲気を出しているのかもしれん。

だがまあこれは明らかにラノベだ。腐る前の時代のラノベ。ドタバタラブコメが主流だったころの、八時だよ全員集合時代のラノベ。あるいは、防腐剤として古典的教養らしきものがふんだんにまぶしてあるが、それらを取り去れば自然に腐って現在のラノベになるのだろう。今のラノベはこんな難しかったら読まれないんじゃないかと思う。

ヒロインの弟が融というのだが、この時代、融と言えば源融。だが、父親は藤原氏。だから、藤原融というのだろうが、これがものすごく気持ち悪い。漢字一字の名前というのはだいたい嵯峨源氏。藤原氏の名前はほぼ例外なく二字。まあそんなことどうでもいいわけだが。

高彬という名もなんとなく変な感じ。幕末ころの武士の名前だろうとか思う。島津斉彬とか。醍醐天皇の皇子のつもりかな。第十皇子に源高明というのがいるわな。

ざっとネットを検索しただけだがこの作品には次のような和歌が出てくるらしい。

瀬を早み 楫子のかじ絶え ゆく船の 泊まりはなどか 我しりぬべき

春立つと 風に聞けども 花の香を 聞かぬ限りは あらじとぞ思ふ

心ざし あらば見ゆらむ わが宿の 花の盛りの 春の宵夢

うーん。どれもダメだ。大人げないが全然ダメ。単なるパロディなら笑って許せるが、割と狙ってるところがダメ。つか、パロディ(蜀山人の江戸狂歌みたいな)作るにはそれなりにわかってなきゃだめだからな。百人一首のうろ覚えプラス歌謡曲レベルだわな。逆の言い方をすれば、普通の人には和歌なんてものはこの程度で良いということだろう。