京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。雨も降ったが割と晴れていた。普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、町屋というのはいわゆる一軒家ではない。棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。実際隣のうちの声など聞こえてくる。上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、やはり全然落ち着かない。そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、空襲がなかったおかげだろうが、いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。それは庭付き戸建てだからである。町屋は所詮賃貸長屋である。あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。

左翼は良い仕事をした。

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、成熟したものだった。その思想は十分に明治維新に耐えた。少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。しかし次第に陳腐化した。敗戦によってそれまでの日本史は否定された。過去の遺物ということになった。左翼につけいるすきを与えた。左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。それでは左翼の思うつぼである。坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。高校には右の教員もいたし左の教員もいた。右の教員は合気道をやっていた。精神論者だった。なんのロジックも身につけてなかった。これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。古文IIは合気道。しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。そりゃそうだろう。英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。しかし和歌を詠み、和歌好きがこうじて小説を書くようになって、いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた (何度も言うが世界史はもともと好きだった)。高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。もともとつまらないのではない。誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。今のネトウヨの99%は救いようがない。だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。いかなる学問も日進月歩である。時代とともに理論は新しくなる。過去の理論は新しい理論によって淘汰される。自然科学だけではない。人文科学も長い目でみるとそうだ (論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。学問と紙媒体に何の関係がある?)。かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、その進歩に取り残されつつある。彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。馬鹿にされて当然でもあったが、しかし、日本史そのものは、ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。それを立証するのが、私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。Wikipedia未満。それでいいと誰が決めたのだろう。神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。もう少しなんとかしようよ。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

天皇とは何かという問題

いろんな本を読んでいるのだが、なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、なぜ足利幕府は京都にあったかとか、肝心なところがわかってないと思うし、それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。直義、直冬である。二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」?馬鹿をいっちゃいけない。なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから?神話?「永遠の過去が持つ権威」?それも違う。そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。その皇帝を皇帝Aとしよう。このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。
こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、みんな皇帝Aの側につくだろう。しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。このようにしてあたかも二大政党制のように、複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。イスラムなんてそのものずばり。一神教と政治は親和性が高い。信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。北条氏の時代。南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、尊氏は負けかけた。しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。義満が皇統を統一した。だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。足利といえば鎌倉公方もいる。それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。室町将軍とはそのくらい脆弱だ。応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、誰を担ごうかと日和見するのだ。室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。馬鹿を簡単に見分けられてよい。便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、あっさり諦めた。旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。だれが武家の棟梁となるか。とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。特に後醍醐天皇はダメ。しかし、足利の誰を担ぐか。尊氏、直義、直冬。特に決め手はない。強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。強い棟梁だからみんなが味方するのではない。みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。国家レベルの軍事的独裁権を持てる。人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。人と物と金を集める才能のことだわな。足利時代には武家は離合集散。徳川時代にはも少し統制とれてきた。というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。だがおかげで二百年以上平和が維持された。南北朝がわからなければ天皇はわからない。徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい?まあある意味ではそうだ。徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。すごく仲良しだった(表向きは)。権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。このとき院宣の正統性が確立した。神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。彼らに大事なものは律令制。きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、まだ正統性があった。
もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。
明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、南朝が正統ってことにしたのではなかったか。だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。そういう場合は正統性がなかったことにされた。どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、天皇や神話の権威に他ならない。つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。天皇から遠い武家ほど革新的。藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。
次から次におかしなアイディアが出てきて、ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。そんなわけない。明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。今の女系天皇是非論。やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。そうでないと何でもありになってしまう。でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。手抜かり無い。よく研究しているよね。ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。
世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。ところが、太平天国の乱のときもそうだが、中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。なぜだかよくわからない。あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。これでは王朝が交代せざるを得ない。これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

一緡の青蚨

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。青蚨とは銭のこと。一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。蚨は水棲の虫で蝉に似るという。鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、繰り返し終わることがない。そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。「青蚨術」。ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記というものに書かれているらしい。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。

小椋山

秋雜歌 崗本天皇御製歌一首

08-1511 暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母

雜歌 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

09-1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

この二つの歌は同じである。

ゆふされば をぐらのやまに なくしかの こよひはなかず いねにけらしも

と訓む。割と有名な歌。崗本天皇とは舒明天皇か斉明天皇であるという。泊瀬朝倉宮に天の下治しめしし大泊瀬幼武天皇は雄略天皇。どうもよくわからない。しかも小椋山、あるいは小倉乃山というのがどこかわからない。「小椋」「小倉」ともにそれぞれ一度きりしか万葉集には出ないからである。もしかすると固有名詞ではなく「小暗」の意味かもしれんね。たとえばもとは「小暗き山」だったのが「小倉山」という固有名詞と間違われたとか。

ダブって採られているくらいだからよく知られてはいたが万葉時代には誰の歌か何の歌かもうわかんなくなっていたのだろう。

も一個あった。

春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌

09-1747 白雲之 龍田山之 瀧上之 小桉嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

龍田山の滝の上の小桉の嶺に。

ますますわからん。龍田山の滝の上というからには竜田川の上流かと思うが、飛鳥や奈良の中心からはだいぶはずれる。詞書きにも難波に下るとあるから、やはり生駒山辺りでなくてはならない。謎は深まった。

いやそもそも龍田山というのが生駒山なのではなかろうか。

ははあ、なるほど、生駒は北過ぎる。奈良盆地から難波に至る道というのは大和川沿いであったに違いなく、従って信貴山もしくは高安山あたりが龍田山もしくは小桉の嶺か。「山高」というからにはこの辺りで一番高い目立つ山でなくてはならない。

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

03-0415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人憾怜

竹原井、つまり聖徳太子の行宮後というのは、大阪府柏原市青谷、ここらには聖徳太子関係の史跡が多い。

獨惜龍田山櫻花歌一首

20-4395 多都多夜麻 見都〃古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀尓

たつたやま みつつこえこし さくらばな ちりかすぎなむ わがかへるとに

ふーむ。やはり、龍田山というのは、奈良と難波を往来する人が必ず通る、大和川沿いの地峡から眺める山であった。船旅であったかもしれぬ。竜田川とはあまり関係ない。ていうか竜田川をさかのぼって生駒まで行ってはならない。うーんと、たぶんだが、龍田山というのはこの大和川の地峡全体のことで、そのなかの最高峰が小椋の峰でこれがすなわち信貴山ではなかろうか。

ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、あまり面白そうではない。どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。映画監督になるために自分が原作者になった。そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

アニメは、まあ、良く出来てはいるようだが。だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、近代アジア史ものなわけだが。異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、「神武」とかはもう全然つまらない。不思議な人だわな。要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。「三河物語」もまあまあ面白い。これも大久保彦左衛門という原作者の強い個性がうまく安彦良和を制御できている感じ。「アレクサンドロス」も見たが、これはもう安彦良和自身が言っているように完全な企画倒れ。そう簡単に描けるわけがないんだよな、アレクサンドロスを。老臣パルメニオンを妙に持ち上げていたあたりが少しおもしろい。

巨神ゴーグ。出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。これぞまさしく純粋な動く安彦良和。つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、肝心のキャラが死んでしまう。「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、よく思いつくもんだと思う。ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。東洋のマタハリとか(笑)。近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、安彦良和の統一感のなさははんぱない。

結城氏と小山氏の関係を調べていて気づいたのだが、結城直朝の幼名は「犬鶴丸」。
小山義政の息子に「若犬丸」(元服前に死んだか)。
小山朝郷の幼名は「常犬丸」。
小山持政の幼名は「藤犬丸」。
小山氏郷(の子?)「虎犬丸」。
氏郷が若死にしたので山川家から成長を養子をもらい、成長の幼名が「梅犬丸」。成長は小山泰朝の曾孫。

つまり、結城氏と小山氏には「某犬丸」「犬某丸」という幼名が一般的だったらしい。そういう幼名を付けた他の武家の例がないわけではないが、特に結城・小川氏に多い。結城と言えば結城合戦。「八犬伝」と無関係ではあるまい。つまり犬の名を付けるのはもともとは安房ではなく下野、いや常陸の風習だったということだ。いやいやいや、小山は下野で結城は常陸だわな。ややこしい。

小山氏と結城氏の家系は養子縁組ばかりでよくわからん。資料もあるようでないようで。今も小山市と結城市は隣どうし。JR水戸線でつながれている。なんか面白いな。一度行ったことあるがすごい田舎だ。

だんだんわかってきた。源平合戦のころ頼朝についた武将に小山朝光があり、彼が結城朝光を名乗る。つまり結城氏は小山氏から分かれた。小山氏は藤原秀郷の子孫でもとは太田氏らしい。だが、朝光の父政光くらいまでしか確かにはたどれないようだ。要するに小山氏も結城氏も同族で頼朝の時代に、その住む場所によって家名が二つに分かれた、ということだな。

朝光は頼朝が烏帽子親となって元服する。頼朝の命で義経に腰越で鎌倉入り不可の口上を伝える、とあるから、まあ、頼朝の寵臣だったらしい。

時代は下って、小山義政が鎌倉公方足利氏満に謀反を起こして小山宗家は断絶。分家筋の結城家から小山家に養子泰明を迎えて家督をつなぐ。逆に小山泰明から結城家に養子氏満を迎えて家督相続。結城氏満が結城合戦の主役で、氏満の子成朝が江ノ島合戦や享徳の乱の主役、というわけだ。ふー。

そういや義経の幼名は「牛若丸」。「丸」は「麿」「麻呂」なんだよな。蝉丸とか。猿丸とか。人麻呂も人丸と言ったりする。基本的には人の名、それも、万葉時代から前の名の名残なんだろうな。

「牛若丸」「犬若丸」があれば、「虎若丸」「熊若丸」「鶴若丸」「亀若丸」「馬若丸」、「松若丸」「梅若丸」「藤若丸」「菊若丸」なんてのもあったんだろうが、どうやって調べれば良い。

ていうか頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、それまで名字をもっていなかった、或いは持っていたけどよくわかんなかった人が、御家人となり、名字を持つようになって、
やっと武家というものが生まれたのだろう。それまでは、そもそも庶民には名前がなく家系もなかった。と、考えると頼朝はすごい。奥州藤原氏とか、その前の清原、阿倍氏なども、みな京都の貴族の名を借りただけで、ようは、名字なんてただの飾りだったのだろう。三河介みたいなもんで、勝手に自分で名乗ってた。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。