熊手

源氏前記平氏の平治の乱の辺りを読んでいた。
「平将軍再生すと謂ふべし」というくだりがある。
ここの「再生」も「死んだ人がよみがえる」という意味だな。
また八町二郎という者が「鉄搭を以て」平頼盛のかぶとを「鉤す」とあるがこの搭もやはり「熊手」
なのだろう。
wikipedia にも「熊手」の中に「武器としての熊手」という項目があるが、
どうやら長い柄がついた鉤鉾のようなもの、
あるいは今でも漁港や釣りで使われる打ち鉤のようなものだったのではないかと推測されるのだが、
よくわからんな。
水上の戦闘では敵の船に打ち付けて引き寄せるのに使ったそうだから、必需品だったようだ。
「熊手」というのは軍記物にそのままそう書いてあるのだろう。
実際熊の手に似せて作ったのかもしれん。

しかし我ながらこんなにボロボロになるまでよく読むなと思う。
この岩波文庫の日本外史など絶版なので、無くすと古本をamazonかなんかで買うしかなく、
たいへん困る。

脳科学的にどうこうという

二十代の頃は、空から鳩が飛んできて頭に止まるように、
霊感が空から降りてくるような感覚に襲われることがあるのだろう。
それは二十代の脳というものがそんな仕組みになっているからだろう。
生まれてから、十代を経て、脳の機能が完成へと向かう。
知識も爆発的に増える。
しかもそれらは何もかも新しくておもしろい。

鳩が頭に止まったなと思ったら、ぼーっとしていてはいけない。
三歩あるくと忘れるというが、霊感が宿ったら、直ちにそれを「゛言葉」や「図」に置き換え、整理し、記録し始めなくてはならない。
霊感を授かる作業と、それをまとめ形にする作業はやや異なる。
気持ちの切り替えが必要だ。
鳩が頭に止まってくれても、知らずに百歩も歩いているうちに鳩はまたよそに行ってしまうだろう。

四十代の脳はそういう風にはなってないらしい。
ちかごろまったく鳩が頭に止まりにこなくなった。
二十代のころは、せっせと鳩を捕まえるのに忙しかった。
三十代のころは、鳩がなかなかこないので、一生懸命待ち伏せした。
今はまるで来ないのでもう諦めた。
昔つかまえた鳩をいじくり回してその経験だけで生きている感じだ。
まあしかし経験というのも必要ではある罠。
二十代のころは親兄弟に経験者がいればも少し楽だったかもしれない。
だがわが肉親たちの経験というものは、私にはあまり役立たなかったように思う。

四十過ぎても預言者のような妄言を吐きまくる人たちがいるが、
普通に考えれば、狂言なのだろう。
経験によって、かつての預言者だった頃の自分を演じているというか。
たぶんそんなところだな。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。
例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、
曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。
どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、
「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。
これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。
がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。
「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、
「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。
わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、
これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、
「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。
読み仮名の「ふよ」と、
文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。
幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。
たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。
まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。
マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。
しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。
atokの手書き文字入力も捨てがたい。
なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。

玉葉

また飲み屋で寝てしまう。
自宅飲みで夕方寝る癖があるせい。
いかん。

それはそうと図書館で玉葉全三巻借りてくる。
国書双書刊行会編。でかい、重いっっ。
しかも読みにくいっっ。
なんだこれはっ。
明治三十九年版の復刻版。
あるだけましともいえるが、これではあまりにも使いづらいだろ。

しかし、いわゆる源平合戦に関わる同時代資料としては第二巻だけで良いかもしれん。
日記なんだよな。
リアルタイムの記録なんだよ。
すごくね。
吾妻鏡だって愚管抄だってリアルタイムじゃないんだよ。
しかしボリュームありすぎ。
誰かオンライン化してよしようよ。

立ち飲みで寝るということ。

なんか最近仕事の関係上、夕方4時か5時に猛烈に眠くなることがあり、
たまたま仕事の帰りに立ち飲み屋に寄ったときに眠くなった。
まあこちらは想定の範囲内なのだが、店員に少し注意された。

なんでも、立ち飲みで寝る人はいるのだが、倒れたりグラスを割って手を切って出血したりする人がいるらしい。
それは怖い。

座って飲んでても椅子から落ちる人がいるよな。
あれって結構危ないよな。
うちどころが悪ければ脳挫傷。

まあ、飲みながら寝ないのが一番だな。
眠いときは自分の家で飲めば良い。

立ち飲みで寝るのはけっこう気持ちは良いんだよな。
ひざがかくっとして目が覚めるとか。

剣菱

イオンネットスーパーで剣菱の一升瓶を買う。
1480円。
濃醇。甘酸っぱい濃ゆい感じ。
これいいなあ。最近こういう酒は少ないよ。
近いので言えば高清水か立山か。
菊正宗に似てなくもないか。
まあそういう系統のが好き。

頼山陽もこういう味の酒を飲んでいたのだろうか。

年を取っていろいろ飲み比べてみると、淡麗辛口とか、大吟醸みたいな危なっかしい味作りよりは、
こういう、ずどんとしてて、小細工のない味が良く感じる。
米の酒って感じ。純米酒でなくてもいいんです。本醸造で十分。
純米大吟醸とか、あまり良いイメージない。確かに値段相応でうまいのもあるが、
においがわざとらしかったり、味が破綻してるのもある気がする。

google日本語入力ふたたび

木曜日にアクセスがいきなりはねあがってビックリした。
たぶん google日本語入力について書いたせいだろう。

悪くはないんだが、まだバクがあるようだ。
銀行サイトにログインしようとしたときパスワード入力がどうしてもうまくいかなかった。
なんなのだろうか。
バグなのかどうかよくわからん。
あと、人名の固有名詞とか。出ないものはまったく出ない。
とりあえず信頼と実績のatokに戻す。
しかし、歴史上の人物の変換には抜群の威力を示す。すばらしいには違いない。

日本外史を読もうと思って平家物語や太平記などをいろいろ寄り道した。
有意義だったが、だいたい雰囲気はつかんだので、そろそろ日本外史に戻ろうかとも思う。

袈裟御前

袈裟御前については、平家物語には出てこず、源平盛衰記が初出と思われる。
第十九 文覚発心附東帰節女事。
おそらくは後世の創作か。
他人の妻を殺害して出家しただけで咎めがないのはちとおかしいだろう。

愚管抄:
コノ頼朝コノ宮(以仁王)ノ宣旨ト云物ヲモテ来リケルヲ見テ。
サレバヨコノ世ノ事ハサ思シモノヲトテ心ヲコリニケリ。
又光能(藤原)卿院(後白河)ノ御氣色ヲミテ。
文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。
ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。
但是ハ僻事也。
文覚、上覚、千覚トテ具シテアルヒジリ流サレタリケル中。
四年同ジ伊豆國ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。
其文覚サカシキ事共ヲ。
仰モナケレドモ。上下ノ御・・・ノ内ヲサグリツツイヒイタリケル也。

まあ、この文章を普通に読めば、以仁王の令旨とは別に、
後白河法皇の「御気色」を読んだ藤原光能が、伊豆へ流される文覚に言付けて、頼朝へなにやら言い遣ることがあったというが、しかしそれはうそだよ、
と読める。
平家物語のように文覚がいきなり福原まで訪ねてきて後白河法皇の宣旨をもらって伊豆に戻ってきたとはならんわな。しかもたったの八日で往復とかありえん。
文覚は弟子の上覚、千覚とともに伊豆に流されたことになっている。
まあそれはあり得るのかもしれん。

義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出タリケル。
ヤガテ落テ勢多ノ手ニ加ハラント大津ノ方ヘ落ケルニ。
九郎追カケテ大津ノ田中ニ追ハメテ。
伊勢三郎ト云ケル郎等。打テケリト聞ヘキ。
頸モチテ参リタリケレバ。法皇ハ御車ニテ御門ヘイデデ御覧ジケリ。

江ノ島弁財天

吾妻鏡 養和二年(1182)四月小五日乙巳。武衛令出腰越辺江嶋給。・・・是高雄文学上人。為祈武衛御願。奉勧請大弁財天於此嶋。
江ノ島の弁財天は吾妻鏡によれば1182年に文覚が頼朝に勧請したものだという。
へええ。

[文覚が頼朝に与えた影響について](http://cpplover.blogspot.com/2009/09/blog-post_14.html)。
なるほど。ではやはり文覚は頼朝配流時代に伊豆で会っていたわけだ。
頼朝とも親しく、しかも平家の残党とも親しい。
実に不思議な人だな。

玉葉寿永二(1183)年九月二十五日「伝聞、頼朝以文覚上人令勘発義仲等云々」
なるほど、頼朝から義仲への使者として文覚が遣わされているんだ。
そんなこともやってたんだなあ。

平維盛

すげえ面白い人だな。

たぶんこの人は、長男ではあったが嫡嗣ではなかったのだろう。
平氏は清盛の代で初めて摂関家よりも朝廷で権力を握ったが、
長年の姻戚関係で藤原氏と天皇家は親戚同然。
平氏も嫡男は後見役として藤原氏と婚姻関係を持たないと、何かと形見が狭かったろう。
維盛は平氏の中でも都でもかなり浮いた存在だったのではないか。

富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いでは総大将ということになっている。
富士川の戦いほどよくわからん戦いもないだろう。
一応平氏の長男として維盛が総大将だが、目付役として藤原忠清が付いている。
まあ二人とも公家だわな。
物見遊山気分で遊女など連れて繰り出したんだろうな。まあ負けそうだよな。
倶利伽羅峠に至っては野人のごとき木曽源氏の本拠地で公家が戦ってはまあ負けるわな。

平家都落ちの際には妻子を都に残し、一の谷の合戦の頃に敵前逃亡。
自殺したことになっているが果たしてどうか。
ま、ともかく、平氏の一門として闘争心があったかどうかはかなり疑わしい。
運命共同体的なものは、感じてなかったに違いない。

ある意味ダメ平氏の象徴みたいな人ではある。

維盛の子どもが六代で、清盛の血筋では最後まで生き残ったが、結局殺されてしまう。
平家物語では重盛-維盛-六代の血筋がかなりひいきされているようにも見える。