携帯

一日に4~5時間PCに向かっているのと、移動中は本を読んで時間をつぶすので、
携帯電話にはほとんど興味がない。
もちろん携帯は使うが純粋に電話として使う。
あとは鉄道関係。乗り換え案内とかそんなやつだけ。

何度かZaurusなどのPDAを買ってみたものの、まるで使わなかったので反省もしてる。
必要なときだけノートPCを持ち歩くくらい。
そういえばb-mobileも使ってたが、遅いしいらいらするし、金はかかるしで、
結局使い続けてはいない。

携快電話の新しいのを買ったら古いので機種対応してないし、
mixi 登録にも対応してないし、
そもそもいろいろ種類がありすぎてわけわからん。
うちは au しばりなので iphone とか android とかも使わんし。

なんでみんなそんなに携帯好きなん。

交通事故の歌

明治天皇御製:

> 老い人は心してゆけ馳せちがふ車のかずのおほき市路を (明治43年)

> みちのべにあそぶうなゐ子こころせよ走る車のたえまなければ (明治45年)

明治時代にすでに老人や子供の交通事故について歌を詠んでいるとはすごい。

> 大路ゆくくるまの数やおほからむ宮のうちまでおとひびくなり (明治37年)

あんな広い皇居に住んでいても明治の頃から車の騒音はうるさかったんだなあと。

徳川氏と南朝

日本外史徳川氏正記の頭の方から読み始めたのだが、改めていろんなことに気づく。

足利郷と新田郷は今の栃木辺りで隣り合っていて新田氏足利氏どちらも同じ源義家の子・義国から分かれた。
新田氏から徳川(得川)氏が分かれさらに世良田氏が分かれた。
新田氏が南朝側だったので、徳川氏も世良田氏も南朝側につき新田義貞らとともに戦い敗れて、
信濃に隠れたが足利義満に討たれ、
陸奥に逃げて挙兵したがまた討たれ、
今度は上野国の民家に潜伏したが、
鎌倉管領上杉氏の捜索が厳しいので、
徳川氏の[有親](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E5%B7%9D%E6%9C%89%E8%A6%AA)はその二子・[親氏](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E6%B0%8F)と[泰朝](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B3%B0%E8%A6%AA)を殺して自分も死のうと思ったのだが、
たまたま[尊観](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E8%A6%B3)という僧侶が来たので、
その弟子に変装して三河の松平家に立ち寄り、
そこで子供らがそれぞれ[松平家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F)と[酒井家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F)の婿養子になって土着したということになっている。

ここで尊観という僧侶は南朝の後村上天皇の養子で、もとは亀山天皇の孫の恒明親王だが、
後村上天皇に実子が生まれたので、養子の恒明親王が身を引いて出家したのが尊観であるというのである。

で、徳川氏の出自の伝説にはいろいろあってどれも疑わしいのだが、
頼山陽による記述はさらに南朝側にゆかりのある逸話がたくさん取り入れられているのが特徴ではある。
wikipedia などの記述と比較してもかなりユニークである。

wikipedia 等では、尊観が後村上天皇の養子になったなどという記述はどこにもでてこない。
もし本当になっていたとしても確かめる方法はない。そんな記録はおそらく残ってないのだから。
尊観なる人物は、
新田氏の子孫が松平家の入り婿になったという話に、
むりやり南朝の天皇を結びつけようとしたために単に使われたのであろうと考えるのが自然だろう。

徳川氏は、おそらく征夷大将軍になるために、
自分の祖先が源氏(八幡太郎義家)にさかのぼる家系を捏造しなくてはならなかったわけだが、
そのとき候補に挙がるのは、甲斐源氏の武田氏などもあるわけだが、
だいたい足利氏系か新田氏系ということになろう。
足利氏は北朝でかなり正確な家系が残っていてごまかしにくい。
というか足利氏系は上杉氏とか今川氏とか細川氏とか有名な大名が多すぎてごまかしにくい。
新田氏はすでに滅んでいて分かれた家系で有力なのは山名氏くらいだが、
山名氏は足利高氏に従ったれっきとした北朝でしかもその山名氏も応仁の乱以後は衰退してしまう。
また、新田氏は南朝側であって、
南朝の皇族とか武将というのはほとんどまったく正確な記録が残っておらず、
深くて暗い闇に包まれている。
まして後南朝などに至ってはほとんど伝説と捏造の世界である。
南朝や後南朝は家系捏造製造機と言ってもよい。
南朝側について東国を転々と流転するというのも後南朝伝説とうり二つだ。
徳川氏は別に南朝びいきだったわけではなくて、
家系を操作するのに南朝の方が都合がよかったので使っただけなのだろう。
将軍家徳川氏ですら利用したのだから、
日本中の大名や武士が家系を捏造するのに南朝を利用したに違いない。
明治に南朝が正統とされて南朝の天皇の子孫がぼろぼろ出てきたというのもまた同じ仕組みなのに違いない。
南朝と家系捏造について研究するとかなり面白いのではないか。

で、頼山陽は、徳川氏が新田氏の子孫を称しているのを利用して、
南朝側の新田氏や楠木氏などを大々的に取り上げることで、
尊皇思想を宣伝しつつ、幕府の弾圧を回避している、
とみれなくもない。
なんかかなり屈折しているな、このへんの構造は。

明治天皇御製@twitter

これまでは j-texts版 (つまり1922年文部省版)をそのまま使っていたが、
明治神宮版を付け足した。
かなり増量した。
だいぶ時間がかかったなあ。

最晩年の歌:

> むらぎものこころのはれし朝かなさやかに富士の山もみえつつ

> 山近くすみし都をなつかしとさらにぞ思ふ夏の来ぬれば

明治天皇は「山近き」故郷の京都が好きだった。
東京は山がない。
遠くに富士山や筑波山、ときどき日光あたりまで見えることがあるが、
山がない。
山から日がのぼったり沈んだりしない。
たぶんそれが寂しかっただろうと思う。
私も最初そうだったし。そういうことを言っている人も多いような気がする。

> にはの面の木のもとごとにたちよりてひとりしづかに花をみるかな

> さく花にむかひくらしし春の日はよはひものぶるここちこそすれ

> たかどのの窓てふ窓をあけさせて四方の桜のさかりをぞみる

> まつりごとききおはりたるゆふべこそおのが花みる時にはありけれ

> ひとしきりつどひし人も去にはててゆふべしづけき花の木のもと

> なすことのなくて終らば世に長きよはひをたもつかひやなからむ

死期を予感しているようにもみえる。

> 思はざることのおこりて世の中は心のやすむ時なかりけり

> ゑみかはす花にむかひてしばらくはおもふことなき身となりにけり

> 風たたぬ今年の春もさくらばな散るべきときと散りてゆくらむ

式子内親王

馬場あき子「式子内親王」ちくま学芸文庫を読む。
俵万智の解説がやや面白い。
1992年初版。
サラダ記念日から5年くらいか。
「恋の歌はどこまで実話か」と言う質問に対して、
いろいろ答えに困っているのがおかしいが、
俵万智が和泉式部と式子内親王のどちらに近いかといえば、
まああきらかに和泉式部の方だろうな。

> あと絶えて幾重も霞め深く我が世をうぢ山の奥の麓に

> 積もりぬる木の葉のまがふ方もなく鳥だにふまぬ宿の庭かな

> 山深くやがて閉ぢにし松の戸にただ有明の月ぞもりけむ

引き籠もり。
やはり一言で言えば、引き籠もり。
和泉式部の

> わびぬれば煙をだにも立てむとて柴折りくぶる冬の山里

とは同じような情景を詠んでいるのに好対照だわな。
で、馬場あき子の文章だが、長い。
推測の上に推測を重ねている。
たぶん式子内親王という人はもともとよくわからん人なんだと思う。
わからん人はわからんでなぜいけないか、と思ってしまう。
もう少しかいつまんでもらってもよかったかなとは思う。
でも、このネタ的にはとても書きにくい人について、どうしても書きたかったから書いたんだろうなあとも思う。

蕎麦葡萄

明治天皇御製。

> 旅やかた照らす月夜に見つるかな蕎麦の花さく畑のけしきを

長野あたりだろうか。

> えびかづらいろづきわたる山ざとののきばの月夜さむくなりけり

山梨あたりだろうか。
えびかづらは葡萄のこと。

> かぎりなき野辺の桑原小松ばらおなじところをゆくここちせり

八王子か川越あたりか。

後水尾天皇

後水尾天皇は江戸初期の天皇だが、かなりアクの強い人で、和歌もたくさん詠んでいる。
後水尾天皇には徳川秀忠の娘・和子が入内していて、
その娘が明正天皇として即位しているが、
女帝だったのでその子は天皇とはなれず、
結果的に徳川氏がそれ以上天皇家の外戚となることはなかった。
男子が生まれていたらどうなっていたかわからない。
後水尾天皇が徳川氏が外戚となることにかなり抵抗したらしい。
後水尾天皇はかなり長い間院政によって朝廷をコントロールしていたようだが、
もし後水尾天皇が抵抗してなかったら、
徳川氏はすみやかに天皇家の外戚となって「公武合体」が進み、
天皇家ももう少し楽な暮らしができたのではないか。
しかし徳川氏も綱吉以後は金欠続きだったわけだから、
後世を思えばあまり頼りにせずによかったのかもしれぬ。

幕末には今度は天皇家から和宮が徳川氏に嫁したりしているわけだが、
どうなんだかねえ。

ていうか、二十一代集と明治天皇の間の御製は、丹念に調べれば、
なんとか埋まりそうな気がしてきた。
江戸時代でも和歌を好む天皇はたくさん居るし、
天皇の御製くらいはなんとか残っているらしい。
だが通常の方法ではなかなかアクセスできない。
結局は国会図書館か何かに行くのが一番良いのかもしれん。
或いは群書類従あたりを地味に調べていくか。

歴代天皇の御製を、安土桃山や江戸時代の間もきちんと連続させて、
雄略天皇から今上天皇まで、
日本の和歌の変遷というものを調べた人は居ないのではないか。
少なくとも明治以後に「短歌」などというものを流行らせた連中はそんなことはやってないだろうし、
一部の国学者には居たのかもしれんし、
丸谷才一にも若干それらしい意図は感じるのだが、
そもそもこういうことは当の宮中などでは逆に研究しにくいものだろうから、
民間でやるしかないと思うのだよね。

明治天皇御製はさすがに有名だが、
明治天皇の歌風というものが、どのようにしてできあがったか説明できる人はいない。
先行する天皇家の和歌の傾向とか影響とか。
研究のネタにしようと思えばいくらでもあるはずだが。

それはそうと、日本外史だが、源氏とか平氏とか豊臣氏などはすでに現代語訳があるのだが、
徳川氏の部分は長い上に現代語訳もない。
以前にここらは非常に長くて退屈だなどと書いたのだが、
次第に興味も出てきたし、
つまり江戸時代の天皇家の御製を調べる上でもその歴史を押さえておく必要性を感じてきたからだが、
他人が手を付けてない部分でもあるから、
源氏と平氏が終わったら次は徳川氏にかかろうかなどと考えている。

だいたい江戸時代の歴史などみんな知ってるつもりでいるが、
どうもきちんと調べようとするとわからないことばかりだ。
まあ何事もそんなものなのだろう。

横浜

みなとみらいコスモワールド

> むら雲のしぐれめきたる海辺には園生に遊ぶ子のかげもなし

みなとみらい桟橋

> 横浜の港を巡る船渡し風寒ければ賑はひも無し

ちょっと定家風に詠んでみた(笑)。

横浜中華街

> 横浜のもろこし町に立ち寄れどあわただしきは冬の夕暮れ

雑感

> くれたけの世のなりはひにまぎれつつ暮らせる日々の惜しくもあるかな

> はかもなく時を過ぐさばひととせも短かかるらむきさらぎの頃

愚かなる身

孝明天皇御製:

> とやかくと今年もしばしいたづらにかひなく暮らす身の愚かさよ

> よろづごとなすにつけても愚かなり身はいやましに悔いの八千たび

> 位山たかきに登る身なれどもただ名ばかりぞ歎き尽きせじ

> とにかくに起きても寝ても思ふその歎きぞ絶えぬ我が身なりけり

おそらくは京都の市場の賑わいを詠んだ歌:

> 市場には年の暮れをば惜しまずもただ売り買ひの声ぞ賑はふ

> ゆたかなる世の賑はひも市人の春をむかふる年の暮れかも

> 商人の売るや重荷を三輪の市何をしるしに求めけるかも

> 売り買ひの賑はふ声も辰の市治まれる世を市に知るかな

年の暮れ:

> きのふけふと思ひし間にも明け暮れて今夜ばかりの年の内かな

> 嘆きつつ今年もやがて過ぐるなりいつまでかかる身に暮らすらむ

> 年の暮れ惜しむ心の梓弓ひきとまるべきものにしあらねど

> 今はとて何につけても惜しまるるむべ一年の暮れと思へば

> 人ごころ同じこよひの年の暮れその家々のさまは変はれど

寂しく静かな感じ:

> 春きぬと柳の糸はなびけどもくる人もなき宿のしづけさ

> おのづからくる人もなくなりにけり宿は蓬や生ひ茂りつつ

有馬温泉:

> 人ならず何の思ひか有馬山岩漏る水のわきかへるらむ

> いまもなほ世には出で湯に行く人の有馬の山の名にし負ふかな

遊女:

> いつとても柳の糸のうちなびく妹が姿の花のよそほひ

> もろともに身は河竹の起き伏しも飽かぬ乙女の姿なる見ゆ

> いつくとも宿も定めず明け暮れもうたふ江口の船の中かな

> 漕ぎ出でてゆききの人のうかれ妻身は浮舟の契りなるらむ

なんとなく京都の生活感が感じられるのだが。

和歌の血統

いろいろと調べてみると、
光格、光孝、孝明、明治、大正、昭和と、今上天皇からさかのぼって光格天皇までは直系で代々続いている。
光格天皇の前は後桃園天皇だが、22才でなくなり男子がなかった。その前は、後桜町天皇で、女帝だった。
ここで中御門天皇以来の皇統が途絶えたので、
新井白石の時代に創設された閑院宮家の光格天皇が継いだ。

閑院宮家は世襲親王家だったので、光格天皇の父は親王ではあった。
光格天皇が即位したので、父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたので尊号事件がおこった云々。
光格天皇はいろいろと文芸復興運動をした人で、典仁親王は和歌の名人だったそうなので、おそらく明治天皇の歌好きは光格天皇の父の典仁親王までは確実に遡れそうだ。