大国魂神社

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。

たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。

こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。

頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

黄砂襲来

> もろこしの砂も降り来る春の日の夜半は嵐を聞きつつぞ寝る

> 雨風はきのふの夜こそはげしけれけふはしづけく春ぞ更けゆく

> をちこちの花咲く野辺にうたげせむ日どりばかりぞまづ決まりゆく

> 惜しまずやあたら月日を春さればつとめもしげくなりゆくものを

> いにしへの大宮人よわれもまたいとましあらばうたげせましを

> わが宿ののきばに出でて草まくら旅寝ごこちの春を楽しむ

> ぼんやりとけふも暮らしつかかる日のあはれこのまま続かましかば

> なりはひのわざにつとめばなかなかにいとまなくとも歌は詠ままし

> うららかに晴れたる春を惜しむべしけふぞ過ぎなばいとまなからむ

> つのぐみて咲かむとみゆるこずゑかなをみなをのこら日を数へてぞ待つ

> ことしげき日々ぞ待ちぬる春過ぎてあはれ浮き世の夢も醒めなば

> おもひやれ四十ぢのをのこいかばかり国に貢ぎて世を支へてむ

> あしびきのやまどりのをのしだりをのしだれ桜をけふこそは見め

ますらを

[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)がおもしろい。

「ますらを」で検索すると一番古いので金葉集。つまり万葉集はともかく古今集辺りでは「ますらを」は一切歌に詠まれなかったということだ。

> 雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて

勝命法師という人の歌。新古今集。苗代に水を引く農夫が、雨がふったので、その手間がいらず、ひまなのだろうか、というのんきな歌。

> ますらをは同じふもとをかへしつつ春の山田に老いにけるかな

俊成の歌なのでだいたい新古今時代。同じ山のふもとを耕しつつ農夫は春の山田に年老いていくのだなあ。
これまたのんきな農夫の歌。
新古今時代は「ますらを」とは「農夫」「山人」「狩人」などを意味していたようだ。

> ますらをもほととぎすをや待ちつらむ鳴くひとこゑに早苗とるなり

藻壁門院但馬(知らん人)。農夫もほととぎすの声を待っていたのだろうか、一声鳴いてから早苗をとった。これまたのんきな話だわな。

> ますらをの海人くりかへし春の日にわかめかるとや浦つたひする

「ますらをのあま」で漁師。まあ「あま」だけでも大差ない。

> ますらをも月漏れとてや小山田の庵はまばらに囲ひおくらむ

誰の歌かよくわからん。
農夫も月の光が漏れるようにと小山田の庵はすきまだらけに作るのだろうか。
ふーむ。
どうも、「ますらを」「しづのを」「やまがつ」「あま」などは同じような意味だったようだな。
農業や狩猟、漁労などの第一次産業に携わる男たち。
万葉時代とはかなり違う使われかたのようだ。

宣長と山陽

宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。
宣長は頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。
ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。

宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、
当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。
武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。
そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。
ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、
エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、
単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。
師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。
敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、
現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。
今でも理解されてない。
こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。

江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。
しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、
自ら進んでその役を買って出たようにも見える。
山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、
幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。

読書は冒険

あいかわらず小林秀雄宣長本13章辺り。
ややはしょって引用するが、

> 文学の歴史的評価というものは、反省を進めてみれば、疑わしい脆弱な概念なのであるが、
実際には、文学研究家たちの間で、お互いの黙契のもとにいつの間にか自明で十分な物差しのような姿をとっている。

> 過去の作品へ至る道は平坦となってもはや冒険を必要としないように見えるが、
傑作は、理解者・認識者の行う一種の冒険を待っているものだ。
機会がどんなにまれであろうと、この機を捕らえて新しく息を吹き返そうと願っているのだ。
もののたとえではない。
宣長が行ったのはこの種の冒険だった。

なかなかおもしろい。宣長を語りながら自分自身を語っているのだろう。
傑作は冒険者を待っており、そのまれな機会を利用して何度でもよみがえろうとしている。
読書とはそういう種類の冒険であると。

ふーむ。
「まこと」と「そらごと」を超えたところにあるのが、創作だろうし、
ファンタジーというものだろうな。
現代のオタク文化に通じる肝酢。

煙草専売と特攻隊

宣長のことを調べてるといろんなことが。

日露戦争の軍費を調達するために煙草が国の専売になって、
最初に作られたのが「敷島」「大和」「朝日」「山桜」
だったそうだが、これは宣長の歌にちなむという。
宣長が愛煙家だったからだそうだ。

[JTのサイト](http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/japan/04_1.html)
/
[楽天のサイト](http://item.rakuten.co.jp/plaza/c/0000000435)

口付たばことは、円筒状の中空のやや厚手の口紙というものを両切りたばこの片側のはしに取り付けたもので、
口紙を口にはさみ、つぶして吸ったらしい。
要するに口紙とはキセルの吸い口の代用品ということだ罠。

wikipedia 読んでるといろいろ愉快なことも書いてある。

> 金鵄あがって十五銭 栄えある光三十銭 朝日は昇って四十五銭 鵬翼つらねて五十銭 紀元は二千六百年 あゝ一億の金は減る

元歌。

> 金鵄輝く日本の 栄えある光身にうけて いまこそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 あゝ一億の胸はなる

神風特攻隊の最初の四部隊も「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」
と名付けられたそうだ。

> 道の辺の尾花がもとの思ひ草今更になど物か思はむ

「尾花が本」「思ひ草」ともに煙草の異称としても使われている。

たしかに、明治時代には「[敷島](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」「[大和](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97))」「[朝日](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」
ともに軍艦の名前としてある。
しかし「山桜」は見あたらない。
またこれらが宣長の歌にちなむかどうかは、建造時期が違うのでなんともいえない。
しかし、敷島と朝日は同じ[敷島型戦艦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6)
であり、宣長の歌にちなむと見てよく、すると宣長の歌が日本政府に利用された一番最初の例は戦艦の名前と言って良いのかもしれん。
すごい人気である。

思無邪

> 子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。

子曰く、詩経にある三百ほどの詩について一言で言えば、よこしまな思いが無いということだと。

宣長が引用し、それを小林秀雄が指摘したと思うと趣深い。

俗中之真

小林秀雄「本居宣長」12章を読む。
なんとなく読み飛ばしていたが、おもしろい。

> 契沖は、学問の本意につき、長年迷い抜いた末、我が身に一番間近で親しかった詠歌の経験のうちに、彼のいわゆる「俗中之真」を悟得するに至った。

などと言っている。
小林秀雄本人はともかくとして契沖は「学問の本質とは詩歌だ」と言っているのだ。
また契沖の所感として

> たとえ儒教を習い、釈典を学べども、詩歌に心おかざるやからは、俗塵日々にうず高くして、君子の跡十万里を隔て追いがたく、
開士の道五百駅に障りて疲れやすし

をあげている。
契沖自身膨大な歌を詠んだが、誰も彼の歌をうまいと評価はしなかった。
また歌論すら残さなかった。
そこで小林秀雄は

> 宣長が直覚し、我がものとせんとしたのは、この契沖の沈黙である。

と言い、その最初の発露が、真淵に会う以前にすでに京都遊学中に書かれたという「あしわけおぶね」であって、
その中に

> 歌の道は、善悪の議論を捨てて、もののあはれと言うことを知るべし。
源氏物語の一部の趣向、このところをもって貫得すべし。ほかに子細なし。

とまで書いている。
つまり、契沖にしろ、宣長にしろ、またおそらくは小林秀雄本人の意見も、
学問の本質は歌である、源氏物語の「もののあはれ」の本質は歌である、古事記を研究材料としたのも歌に使われる詞の用例を調べるためである、
と明確に述べている。
くどいが、近代小説の先駆けとしての源氏物語を発見したのでもない。
古神道を発掘し復元するために古事記を解読したのでもない。
すべては歌のためだというのである。
ここまで明瞭に書かれているのに、小林秀雄を読んだ人たちの感想なり評価は決してそのようには見えない。
実に不思議だ。
だいたいにおいて宣長という人の思想を本気で理解しようとはしてなさそうな上に、
理解はしつつ「歌」という中核の要素だけが抜け落ちている。
「歌」は現代人にとって盲点なのか。
たぶん現代日本人は「歌」を知覚する以前にふるい落とす無意識のフィルタを持っているに違いない。

反実仮想まとめ

「まし」「ましものを」「ましを」の使い方だがいろんなバリエーションがあることがわかったので、まとめてみる。

まず、一番確実でわかりやすいのは「AましかばBまし」または「AましかばBましものを」というパターンで、
「もしAだとしたらBなのだが」となる。
Aは今の現実をあえて否定し無視した別の仮定。つまり反実仮想。
現実はAではないので、Bが導かれることもあり得ない。

あるいは、Aはほぼあり得ない、可能性がありそうもない、絶望的な希望。
つまり反実希望。
実際にはAはありえないので、Bが実現することもない。

もし宝くじにあたったら遊んでくらせるのに、
もし私が宇宙人なら人間をこらしめてやるのに、
もし私が男なら私は女を捨てないのに(笑)のようなもの。
実際はAは単なる仮定ではなく好悪の感情が込められることが多い。
ファンタジー系の実現不可能な願望とか。
逆に強烈な嫌悪からくる拒絶とか。

> 山里に散りなましかば桜花匂ふ盛りも知られざらまし

桜の花が山里に散ってしまったとしたら花の盛りも人に知られることはなかっただろうに。
たわいない例ではあるが、実際には花は山里ではなく人目につくところで咲きそして散ってしまったので人に知られてしまった、ということ。
もちろん桜の花にわが身をなぞらえた比喩であって、
失恋かなにかが人目について知られてしまった、というような意味だろう。

> 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせまし

暁というものがなければ、別れなどしないのに。実際には暁があるので別れもある。
最後に「や」が付くので反語的に「別れなどしようか、いやしない」と訳すとよいかも。

「Aましかば」だけのパターンもあるが、これは「よからまし」「よからましものを」「あらましものを」「うれしからまし」などが省略されたと見て良い。

> 春くれば散りにし花も咲きにけりあはれ別れのかからましかば

春が来て去年散った花もまた咲いた。別れというものがこのようなものであったなら(よかったのに)。

「Aましかば」の部分が単なる疑問形となった「AばBまし」というものも多いが、「AましかばBまし」とほぼ同じ。
互いに代用がきくと考えてほぼ間違いない。

> 恋せず人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

冗長ではあるが「恋せざらましかば人は心もなからましものを」でも意味は同じわけだ。
もし恋をしなければ人には心もないだろう。
ふつうは恋の一つや二つはするので人には心がある、となる。

> 世の中に絶えて桜のなかりせ春の心はのどけからまし

世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はのどかだろうに。
世の中には桜があるから春の心はのどかではない、という意味。

> 待てと言ふに散らでしとまるものなら何を桜に思ひまさまし

待てと言えば散らずにとまるものであれば、桜の花に対する思いがこれほどまさることもないのに。
実際には散るなと言っても散るので思いがまさる、という意味。

> うれしく忘るることもありなましつらきぞ長きかたみなりける

うれしい思いは忘れることもあるだろうが、辛い思いは長く忘れないものだ。

> 夢ならまた見るよひもありなまし何なかなかのうつつなるらむ

夢ならばまた見る宵もあろうが、どうして現実ではとうてい会うのがむずかしいのだろう。
「何」があるので疑問として訳してみた。
小野小町のなかなかおもしろい歌。
上の二例は、自分の当面の関心事とは正反対の場合を仮定しているので、反実仮想という範疇に入るのだろう。
別にふつうに「ありなむ」でも意味は通じるわな。
あるいは「ありやせむ」とか。

「Bまし」「Bましものを」だけのパターン。

> ひとりのみながむるよりはをみなへし我が住む宿にうゑてみまし

「ひとりのみながむるよりは」が架空の前提になっている。
女郎花を独りでながめるよりも、自分の家に上でみなで見ればよいのだが。
植えてないので実際には見れないのだが、しかし不可能な絶望ではない。
むしろじゃあ植えればいいだろと思う。
どうしても植えられない理由でもあるかのようだ。庭がないとか、家が狭いとか、借家なので大家さんに怒られるとか(笑)。

疑問の助詞が混じると不可能性が減り、不確実さが増す。
単なる希望や、のぞみのありそうな希望に近づくようだ。

> 秋の野に道もまどひぬ松虫のこゑするかたに宿からまし

秋の野で道に迷ったので、松虫の声のする方に宿を借りたいのだが。
宿はあるかもしれないしないかもしれない。

> いづくにて風をも世をも恨みまし吉野のおくも花は散るなり

これも「いづくにて」が付くことによって、不可能ではなく不確定、疑問になっている。
吉野の奥でさえ花は散るのに、いったいどこで風や憂き世を恨めばよいのだろうか。
「いづくにて風をも世をも恨みばや」でも良さそうなものだが、
この定家の歌は、定家というのは仏教的諦念というか無常観というかそういうものが、
西行と同じくらいに強い傾向があるのだが、結局生きてこの世にいる限りどこへ行こうと世を捨てて世を恨むなどということはできない、
というのが結論なわけであり、
不可能の形をとった疑問のような結局は不可能、ということを表したいのだろう。
だから「ばや」ではなしに「まし」が使われている、と考えると納得がいく。

「AともBまし」。
「とも」と組み合わさると「ば」「ましかば」のような単純な反実ではなくて、
逆説的な強い願望と解釈した方が良い用例が少なくない。
つまり、「たとえAだとしてもせめてBであってほしいのだが」と訳すとぴったりくるパターン。
Aは受け入れねばならないつらい現実、或いは譲歩可能な条件。
Bはぎりぎり叶って欲しい願望。
もともとの「まし」の意味合いを考えれば強い意志というよりは、
実現が怪しく疑わしいが切実に望む感じではあるまいか。

> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし

たとえ春は過ぎても形見になって欲しいのだが。

> 片糸の思ひ乱るる頃なれやことづてすともあはましものを

六条修理大夫。たとえ伝言を頼んででも逢いたいのだが。

> 急ぐともここにや今日も暮らさまし見て過ぎがたき花の下かげ

たとえ急ぐとしてもここに今日も暮らしたいのだが。
上、三例、いずれもどのくらい不可能性が高いのか、定かでない。
急ぐというのがとても緊急であれば限りなく不可能に近い、とも言えるし、
ことづてするのが事実上不可能なのかもしれない。
いずれにしても不可能性が限りなく強い事案に対してその逆を強く願望する、と理解すべきだと思う。

> 春浅き飛ぶ火の野守り点けずとも雪間の若菜まづやつままし

春が浅く、たとえ野守が飛ぶ火に火をつけなくとも、雪間の若菜をさっそくつんでみたいのだが。

> 散りぬとも面影をだに山桜忘れぬほどや花になれまし

たとえ散ってしまったとしても、山桜のおもかげを忘れないほどに花に馴れておきたいのだが。

用例探しはこれくらいで十分だろうか。結論として

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしてもせめて大和魂だけは留めおきたいのだが

と訳すのが正解、ということになろうか。
「身が武蔵野の野辺に朽ちてしまう」というのがまだ実現してないが、
近い将来確実に来ることの仮定。
たとえそうだとしても、
とどめ置きたいものだ、ということになろう。
「必ずとどめ置くぞ」というような固い決意ではあり得ないだろう。
そういう用例は、探せばあるのかもしれないが、一般的ではない。
吉田松陰のような人がそんなトリッキーな和歌を詠むとは思えない。

もっと複雑で、「CばAともBまし」という形もあって、
「とも」が薄まり、
上の逆説願望よりも反実的要素が強く、
「もしCならばたとえAだとしてもBだっただろうに」
となる。このパターンは割と多い。和泉式部とか。

> 待つ人のなきよなりせ聞かずともあめふるめりと言はましものを

待つ人が居ないならば、たとえ聞かれなくても、雨が降るようだと言っただろうに。
実際には待つ人がいるので聞かれてから言った、ということか。
待つ人のあてがないので振るとは言いたくなかったということだろうか。よくわからん。

> 霞だに立ち遅れせ新しき春の来るとも知らずぞあらまし

もし霞が立つのでさえ遅れたならばたとえ新しい春が来たとしても知らないでいるだろうに。
実際には霞がたったので春が来たことを知った、となる。

> わかるべきわかれなりせ思ふとも涙の道にむせばましやは

「やは」が付いているので反語的に訳し、
もし当然別れるべき別れだとしたらたとえ思いつづけていたとしても涙にむせんだでしょうか。
ややこしいな。別れるべくして別れるのであればこんなに泣くことはなかっただろうという意味だろうな。

> ときはなる峯の松原春くとも霞たたずいかで知らまし

これも「いかで」が付くので反語的に訳し、
峯の松原は常緑なので、たとえ春が来たとしても、霞が立たなければ、春が来たことをどうやって知るだろうか。
いやはやややこしい。

補足。
「まし」は助動詞「む」から来ているのはまあ間違いなく、
「む」は単なる推測のようなものから強い願望まで意味する。
したがって「まし」が「のどけからまし」のように単なる推測として訳せば良いこともあるが、
「やどやからまし」のように願望として訳すべきときもある、ということだろう。
だから「AともBまし」は願望として訳して正解なのだ。

さらに補足。
「ば・・・まし」や「とも・・・まし」などの用例は古語辞典にも載ってない。
少し困った。

さらに補足。
「もしCならば、たとえAだとしても、Bしただろうか、いやしない」などという複雑な文法構造の歌を31文字で詠めるというのは驚異。
高度な修辞技法と重層的なオマージュによって屈折した心理を短い詩形に読み込むのが和歌。
しかし俳句にはそれは無理だ。
俳句は文法をあらかた捨てた。
正岡子規の

> 敦盛の鎧に似たる桜哉

を例に挙げるまでもないが(余談だが、しだれ桜が全体に釣り鐘のように垂れていて、鎧直垂のように見えるという意味かと思ったのだが、須磨で詠んだ句らしく「敦盛の鎧に似たり山桜」「敦盛の鎧に似たる山桜」の形もあり、では山桜を詠んだかとも思うが、題が「糸桜」つまり「しだれ桜」だからややこしい)、
いくつかの名詞、あとは形容詞か動詞が一つかせいぜい二つ。あとは助詞。
俳句には圧倒的に助動詞が少ない。
助動詞の役割の重さというのが和歌と俳句の違い。
助動詞が生きるには17文字3句では足りず31文字5句が要る。

今の短歌というのは俳句をのばしたようなもの、冗長な俳句のようなもので、
17文字で足りないから31文字にしたようなものが多い。
一度、和歌から俳句になるときに捨てたものをもう一度学び身につけるのはおそらく不可能。
俳句のような「単純明快な文形」をただ文字数を増やしただけでは「高度な修辞技法と重層的なオマージュ」には出来ない。
ただ文字数を増やすだけだとリフレインくらいにしかならない。「塔の上なるひとひらの雲」とか「針やはらかく春雨のふる」とかがそう。
あるいは上の句と下の句が別々の俳句になっているがごとき。

さらに追記。
「まし」はもともと事実と反することを述べるが、
「や」「か」「やは」「かは」「いかに」などの疑問や反語の助詞などが付くと意味がそちらにひっぱられて、
もともとは「あるとよいのに」という諦めにもにた境地だったのが、
「ありえるかもしれないよね」「ないといえるだろうか、いやある」のような意味になる。
「とも」がつくと「あるとよいのに」が「ありたいのだが」まで変わってくる。
このように組み合わせによってはかなり本来の意味から離れた使い方をする、
ということが用例を調べることでわかってくる。
おそらく「あるとよいのに」「ありたいのだが」くらいまでが安全圏で、
「きっとあるぞ」とか「かならずある」「ゆめうたがうことなかれ」などと訳すとやり過ぎなのに違いない。

とも・・・まし

竹取物語を読んでいたら

> いたづらに身はなしつとも玉の枝を手折らでただに帰らざらまし

という歌があり、これは松陰の辞世の歌にそっくりだ。

> たとえ死んだとしても玉の枝を取らぬままに帰ることはなかっただろうに

とでもなるか。つまり「帰らなかったかもしれない」が実際には「生きていたので帰ってきた」のである。
反実仮想である。同じ具合に

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしても大和魂だけは留めおくだろう

となるか。
事実に反することを言っているとしたら、「留め置きたい」かったが「留め置けなかった」というのが結論にならざるを得ないが、
他の用例などみると上の程度に訳しても良さそうな気がしてきた。
「たとひAともBまし」という用例があって、
「たとえAだったとしてもBしただろうに」または
「たとえAとなろうとBだろう」などと訳せばよいか。

> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし

梅の香りを袖に移して留めたので、たとえ春が過ぎたとしても形見になるだろう。
春が過ぎたころには梅の香りも消えてしまって形見にはならない、と反実仮想に訳すまでもなく、
逆接的な強い願望として訳せば良いのではないか、少なくともこの用例では。

> 住吉の岸におひたる忘草見ずあらまし恋ひは死ぬとも

たとえ恋しくて死んだとしても見ないでいただろうか。

> 風だにも吹き払はずは庭桜散るとも春のほどは見てまし

和泉式部。
風さえ吹き払わなければ、庭桜がたとえ散ったとしても、(散った花びらが残っているので)春のようすは見ただろうに。
実際には風に吹き払われてしまったので、春のようすは見れなかったのである。
これは割とわかりやすい。

> 命だにはかなからずば年ふともあひみむことを待たましものを

命さえはかなくなければたとえ年を経ても逢い見ることを待っただろうに。
実際は命がはかないので待たなかった。
これもわかりやすいな。