古歌

われひとり もの思ふとも 思はれず とも思はれず もの思ふ身は

へんてこな歌を詠んでいたものだな。

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

エアコンなんてなかったんだな。「はかはかと」は「はかばかし」からの連想だろうが、造語だなこりゃ。

クレンザーを スチールウールに しみこませ 磨く急須の うらものがなし

たっぷりと お湯をつかって さっぱりと したい気分だ テストがすんで

学生時代の気分はもうピンとこないな。

レポートが あと三つある プログラム 実習いれたら あと五つある

ははっ。わろす。

首を振る 扇風機より 風を受けて いくらか冷ゆる 洗い髪かな

生協の ステーキにさへ ミディアムと レアの違いが あるというのに

こめられて 飛ばずなりにし 水鳥の そのひねもすの うきしづみかな

六時には 起きむと思ひて めざましを あはせはすれど 起くるものかは

ははっ。わろす。

ありがたい ことに今日から 夏休み さあはりきって レポートやるか

「レポート」は「やる」ものなのかな。

みつよつの 中間テストも かたづきて 休講がちなる 年の暮れなり

楽章も なかばでやっと キーシンの ピアノ始まる ショパンなるかな

これは。

あさましや 人みな思ひ たがひては もだすべきのみ 言ふかひもなし

かりそめに 髪を洗ひて ますかがみ むかふはうたた おのれなりけり

はらからは あらずやと見し 野の鳥の けふはとをほど 群れ来たるかな

植林の まもなき尾根の 深草の いづこにかくも ひぐらしや鳴く

しろたへの 中国製の Tシャツの 漂白しても 落ちぬしみかな

ちはやぶる 神田うるほす 神田川 千代に流れて 名のみ残れり

部屋の中 くまなく探し あらかたは かたづきたれど ものは出で来ず

うぶすなの 山に見慣れし 花なれば つつじを見れば かなしかりけり

ひさかたの 明治の御代の かたみにと たてる代々木の 大君の宮

音に聞く 明治のわざを 目にも見むと とつくに人も おほく参るらむ

緑深き 代々木の杜に 七五三 祝ふ親子ら あまたつどへり

この岡に 銀杏をおほみ ぎんなんを 拾ひに町の 親子おとづる

買ひ置きも 寒さたのみて ことごとは 冷蔵庫には しまはざるなり

あまざかる ひなの子なれば みやこなる 富士の根飽かず うちまもるらし

風を強み 町の通りの 店先に うちたふれたる 鉢や自転車

はや春の ながめはすれど かたくなに 時をまもりて 桜ふふめり

年の瀬の 忘年会の またの日に 朝七時から バイトかと思ふ

風をいたみ 吹き落とされし ものほしの ズボンをとれば 雨に濡れたり

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

今日もまた 連休なので クレーンが 昨日の姿勢で 佇んでいる

夏休み ひかへて心 やすらはず いつの年にも かくありにしか

道の上 異郷の公衆 電話にて 試験報告 しつる思ひ出

水無月の おはらむとして 光満ち 木々のいよいよ さかゆくを見る

禅僧が 梅干しの種を 吐くごとく そをビニールの パックに受けつ

かくありて 時計の音の つぶつぶと 打つを聞きゐて 良かるものかは

つかれゐて やうやくすする 豚汁の こちたき味の つきづきしきや

やかんにて 作りし麦茶 冷えぬれば ほかへうつさず 口つけて飲む

とつくにの ねにぞ鳴くてふ しきしまの 鳥はたがねを まねびたるにや

ふつかみか さみだれ続き 何もかも 乾くまもなし ここちよからず

休日に 活字忘るる てふエディター されば詩人は ことば忘れむ

君たちが わかる言葉で 歌うなら わかる言葉で 悪口を言おう

潟近き 芦辺に子らが 踏みなしし 道もとほろひ 我はもとほる

いまさらに たが手もからじ 我が友と 見ゆるものこそ 我がかたきなれ

出入り口 ふさいで並ぶ 自転車を 皆蹴飛ばして 出ようと思う

金のない 貧乏人には この酒が 良いよと我に ジンを勧める

面白い 匂いがするね この酒は いったい何から 作るんだろう

夜更けて テレビ終われば 今日もまた 二階のやつは ファミコンをやる

飽きもせず 二階のやつは 一晩中 たかたたかたと ファミコンやるよ

最近は 二階じゃビデオも 見るらしい ダーティーペアの声が 聞こえる

最後まで 寝ずに応援 してたのに 岡本綾子は 負けてしまった

朝まだき 真夏の中原 街道の アスファルト白く えんじゅふりつむ

日々に海 ながめてあらむ 湾岸の 高きところに つとむる人は

みよしののよし野の山の山さくら花

> ときしもあれなどかは花の咲くをりにかくも嵐ははげしかるらむ

とでも言いたいくらいに風の強い日。
電車もバスも乱れまくり。
それはそうと、
だいたい、これでもかこれでもかとばかりにやたらに桜が咲いているのはたいていソメイヨシノであり、
おそらくは戦後にむやみと植えまくったものなのだろう。
しかし、山桜はたいてい一本だけぽつんと生えている。植えられている。
しかしそれが吉野山には三万本もあるという。
ちと想像がつかない。

で、その山桜だが、ここらで見かけるのは白い花といっしょに葉が青々と混ざる桜だが、
それはそれでまあ良いとして、
吉野山の桜は、宣長が形容しているように「葉は赤く照」っているようなのである。
幼い赤みがかった葉と白い桜の花がまじりあったのがほんとうの吉野の山桜なのであって、
それに近い桜をたぶん私は見たことがないのだと思う。
真淵の

> もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

の歌からは芭蕉の松島の歌にも似た意図的な同語反復による興奮が伝わってくる。
宣長がこれにそっくりな歌

> もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山

を詠んでいるのがおかしいというかほほえましい。
しかし、吉野は遠い。せめて大阪辺りに住んでいれば電車で日帰りできるのだろうが。
花鳥風月と言って馬鹿にはするが、そこまですごいものはやはり体験してみたいものだ。

本棚をあさっていたら絶版になった岩波文庫版千載和歌集が出てきた。
これはラッキー。
書き付け

> やすらはでことわざしげきをりをのみもとめて花はかへりみぬらし

うーむ。
何才くらいの頃に詠んだ歌だろうか。
花見なんかしてるヒマはないんだというやけくそな感じが出ているわけだが
(昔の日記を見たら、昭和61年4月11日だった)。
上のは覚えがあるが、

> ゆふさりて窓ゆすずしき風ふけどなほなぐさまぬ我が心かな

> オレンジのナトリウム灯の下に咲く夜のつつじのけふはやさしき

自分の作のはずだが、まったく覚えがない。
今とあんまり作風変わらんな。

角川文庫の古今集も出てくる。
これにも書き付けがある。

> 伸びたなとひげをみなからいはるれどそりてみむとは思はざるなり

> まとめては食へぬものから八百屋にて葱ふたたばで百円なりき

> 六十分テープに昔こまごまとエアチェックせし曲を聴くなり

かなり昔の歌だな。
俳句もある。

> ストーブで靴あぶったら布こげた

> 夜遅く台所に行きものをくう

> することのない日は一日中寝てる

> 牛丼を食べに三十分歩く

> ストーブは次から次にお湯が沸く

> ストーブをしまうにはまだ早すぎる

なんとも言いようがないな。
たぶん、20才くらいのだろう。
俳句が混ざっているのはかなり古い。

秋成と蘆庵

秋成

> 山に入る人のためしはならはねど憂き世のあるにまどひてぞ来し

蘆庵

> 我も世にまどひて入りし山住みよいざ身の憂さをともに語らむ

なかなか良いやりとり。

なにがしの孝子がまづしくておやにつかふることの心にもまかせぬよし歎きたるを、
なぐさめて言ひつかはしける

> 家富みて飽かぬことなく仕ふとも報いむものか親の恵みは

家が裕福でなに不自由なく親に仕えても親の恩に報いることはできない、の意味。

景樹の歌

> しづのをがうつや荒田のあらためて作るにはあらずかへす道なり

「荒田」と「あらためて」がかけてあり、田の縁語として「かへす」が使われている。
和歌の道を新しく一から作ろうというのではなく、
いにしえに返すという意味であろう。
ちなみに「たがやす」はもとは「田かへす」。

> 子はなくてあるがやすしと思ひけりありてののちになきが悲しさ

子がいて死んだら悲しいので、もともと子がいない方がましだ、の意味か。
子に景恒がいる。

> 限りなく待たせ待たせてあら玉の今年ぞふれるこぞの初雪

旧暦なので、二月過ぎてから雪が降ったということだろう。

> こころなき人は心やなからましあきのゆうべのなからましかば

これは、俊成の

> 恋せずば人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

の本歌取りだわな。

子規の和歌

[子規以前の短歌は堂上和歌。庶民は関知しないもので、一部の階級のものであった和歌を一般の人のために引き下ろした](http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1230335577)
などといわれているが、
契沖も賀茂真淵も上田秋成も堂上ではない。
堂上家の門人にはなってないから、いわゆる地下(じげ)だ。
田安宗武も真淵の弟子だから、将軍の子であっても地下だ。
子規によって堂上から地下への変革が起きたのではない。
香川景樹と小沢蘆庵は半分堂上だが半分は地下だ。
つまり、堂上家の門人だったが離縁したり破門されたりして、のちに桂園派という独自の一門を作り出した。
ある意味で、堂上から地下への橋渡しをしたのは蘆庵と景樹の功績だ。
それまでは堂上家の家柄の者でなければ歌道の一門を立てたり門人を取ったりということは事実上できなかったのだろう。
堂上から生まれ、堂上を受け継ぎ、堂上との腐れ縁を断ち切ったのは大いなる改革者というべき。
それなりの実力があったからできた。
ところがこの桂園派が明治時代には堂上和歌として攻撃される始末。
先達者に対するなんという無礼か。
桂園派ではないとすると明治の歌人たちの好みで残るのは真淵の国学の系統しかない。

吉田松陰に代表される幕末の志士たちも明らかに地下だし、
孝明天皇や明治天皇でさえその作風はもはや堂上ではないのである。
子規が攻撃した歌会所の歌だって、その代表格の高崎正風の歌だって、
みな蘆庵や景樹の影響を受けているのであって、堂上とは言い難い。
宣長が古今伝授を批判して以来、もはや純粋な堂上などは存在しなくなった、
と考えられる。
確かに江戸初期には、冷泉、飛鳥井、武者小路、中院などのいわゆる堂上家の歌人やその門人が活躍してしたが、
幕末にはほとんどその影響はなくなっていた。

庶民が和歌を詠まなかったというのもまったくの誤解だ。
仮に和歌は詠めなくても狂歌はさかんに詠んでいたはず。
下級武士や町人に至るまで盛んに歌は詠んでいた。
江戸時代からすでに和歌は完全に国民レベルにまで浸透していた。
明治になってからいきなり牛飼いが歌を詠み始めたのではない。
というか、明治になっても牛飼いは滅多に歌は詠まなかった。
きちんと教育を受けないと歌は詠めないのだから。
明治と江戸とどれほどの違いがあっただろうか。

江戸時代という長い平安の中で後水尾天皇から橘曙覧まで徐々に和歌は民衆に浸透していった。
和歌を大衆化したのは江戸文化そのものであり、明治維新でも文明開化でもない。
極限まで過小評価したとしても、
江戸時代という準備の時期がなくては明治になっていきなり和歌を大衆が詠めるようになるはずがない。

子規が20代に詠んだ歌などは確かに古今調だ。

> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

あまり感心しない罠。
30代に病床で詠んだ歌などは確かにあわれは誘うが、秀歌とは言い難い。
むしろ、反則技に属するものと言える。
実質的に子規が近代和歌に与えた影響というのはほとんどない。
子規によると思われている功績のほとんどは実は蘆庵と景樹によるもので、
或いは江戸中期以降に大流行した狂歌からの間接的な影響であって、
ある種の「司馬史観」とでも呼び得るものによるすり替えが起きているのである。

私たちは明治時代を過大に評価しがちだ。
確かに明治は偉大だったが、しかし、その多くは実は江戸時代に準備され、
あるいはすでに完成していたものなのだ。

俳句と主・副・控

生け花の基本は主・副・控の三点配置であることはよく知られており、
ほかにも日本庭園の造園技法で立木や庭石や池の配置にもこの三点配置ということが応用されているらしい。
どうやら絵画などを含めて近世の日本美術全般にわたってこの「主・副・控」配置理論は影響を及ぼしているようにも思われる。
美術だけではなく、文芸においても、
もうすでに誰かが指摘していることのようにも思われるが、俳句というのも実はこの主・副・控ということで説明がつくのではないか。
たとえば

> 荒海や佐渡に横たふ天の川

だが、ここでは印象的な三つの単語「荒海」「佐渡」「天の川」が使われているのであるが、
景観の大小で言えば、これは「副・控・主」の順番で配置されている、といえる。
大きさ(重要性、印象の度合い)の違う三つのものを配置する、というのが生け花的技法の本質というわけだ。

> 古池やかはづとびこむ水の音

では、これまた「古池」「かはづ」「水の音」のキーワードが使われていて、
「古池」「水の音」のどちらがどちらとは言い難いがやはりこれも「副・控・主」の順番で配置されている、といえまいか。

> 夏草や兵どもが夢の跡

ここでは「夏草」「兵ども」「夢の跡」が、たぶん、「控・副・主」の順番に配置されている。もしかすると「副・控・主」。
俳句は三句から成り、たいていは三つのキーワードが含まれているから、こんな具合にだいたいあてはまる。

> 敦盛の鎧に似たる桜哉

これも「敦盛」「鎧」「桜」の三つ。たぶん「主・控・副」。もしかすると「副・控・主」。

> 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

「柿」「鐘」「法隆寺」。あるいは「柿食う」「鐘が鳴る」「法隆寺」。
「控・副・主」かな。もしかすると「副・控・主」。
このなんということのない写生の句が深い感動を伴うとしたらそれはやはり配置の妙によるものではなかろうか。

たぶん、「副・控・主」という配置が一番収まりがよい。
あるいは、単に三句を配置することによって暗黙の大小関係が割り当てられる。
芭蕉によって確立された俳句的パターンとして。
しかし、それをわざとはずすというのも効果としてはありえる。

真ん中がおおむね「控」で、前後に「主」「副」を配置しているように思われる。
俳句は声に出して詠むものだから、やはり「主」を最後に配置するのが圧倒的に収まりが良い。
そして真ん中はややバランス的に小さいものを配置することにならざるを得ない。
この本質を発見したのはやはり芭蕉だろうし、ヒントは生け花にあったかもしれない。
ふつう、生け花では目線は「主・副・控」の順に移動するだろう。
またその三者の間をぐるぐるといったりきたりする。
ところが俳句は音声だから時系列となる。「荒海」「佐渡」「天の川」という順番に視線は誘導される。
このような、強制イベントを含むところが、平面構成、あるいは立体構成であるところの生け花とは異なる点とはいえる。
ただ字面として見れば俳句も平面構成の一種であって、生け花とその鑑賞の仕方にそれほどの差はないし、
いったん脳裏にイメージとして描かれればそれは絵画的にも解釈されよう。

このように、いろんな俳句に対してどのような配置になっているかを考えてみるのは楽しい。
俳人たちは、意識的か無意識的か知らないが、おそらくは生け花の「主・副・控」的な配置を考えながら、
三つのキーワードを並べていき、間は助詞のようなもので「適当に」文法的にまずくない程度に整えていく。
これが俳句というものの本質、奥義なではないか。
逆の言い方をすれば、俳句においては「てにをは」などの助詞や「や・かな」などの切れ字は、
重要な要素ではあるが、たとえて言えば生け花の鉢とかかご程度の役割なのであり、
文法というものはさして重要ではない。

くどいようだが、和歌はそうではない。
俳句には可能かもしれない上記のような解釈は、和歌には絶対に当てはまらない。
そんなことをしたとたんに和歌はただ字数の伸びた俳句に成り下がるのである。
そもそも俳句のごとき短い詩形が成立し得るのはその三点配置による絶妙な均衡にあるのは間違いあるまい。
一方、和歌の本質は文法にある。キーワードの配置によって和歌ができあがるのではない。
地名などの固有名詞を取り込むことはあるが、あくまでもそれらは添え物であり、主人公ではない。
「あさか山」の歌にしてもあさか山は「浅い」をイメージさせるための単なる縁語だし、
また叙景的なあざやかさを加えるための、いわばジオラマ的要素に過ぎない。
言いたいことは要するに「浅き心をわが思はなくに」なのだから。
このように、「よろづの言の葉」を総動員してできあがるのが和歌だ。
たとえば、俳句では恋を歌うことはできまい。
そんな要素はそぎ落としてしまったからだ。

ただし和歌はさまざまな文法の技法を含み得るので、俳句的な、
生け花的な配置による歌というものも十分にあり得るだろうし、
そういう和歌を探し出して分析してみるのもまあおもしろいかもしれない。

新類題和歌集

ふーむ。
霊元天皇も後水尾天皇に続いて「新類題和歌集」という勅撰和歌集を編纂させている。
21代の勅撰和歌集から通算で数えれば、
22代が後水尾天皇の「類題和歌集」(1703年)、
23代が霊元天皇の「新類題和歌集」(17??年)、
となる。

[歌集のこと 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」](http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8850/885010.htm)

> 但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。
共に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、
勅撰の春夏秋冬等を以て分類し、毎首に題を加へたるものとす。
自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中に算入せず。

うーん。
おそらくは、題詠の手本のために、同じ題の歌をたくさん、昔の勅撰集との重複も含んで集めたもので、
確かに21代集までとは性格の違うものかもしれないが、
時代が変われば編纂方針も変わるし、時代に即していく必要もあるだろうし。
つまり、21代集までは「秀歌の選抜」という意味があったのだろうが、
類題和歌集では「和歌の分類と習得」という意味の方が濃かったのだろう。
あるいは先行する「夫木和歌抄」などと類似する性質のものか。
あるいは当代の歌はごく少なくて、主に古い歌を類別すること、
或いは21代集の総集編たることが主たる目的だったか(確かにそういうものがあると便利だろうし、
そういう動機もわからんでもない)。

「類題和歌集」「新類題和歌集」を、勅撰集から排除する理由はあるのかないのかよくわからないが、
ともかく一度現物を読んでみる必要はあるな。
と、思ったがOPACでほとんどヒットしない。
あるのは国会図書館くらいか。
これは厳しい。

風邪気味

> 寝覚めして起き出でもせでつらつらときのふのことを思ひ出だしつ

送別会ということを

> いくたりかまたあひも見む思ふどちつどひて人を送り出だせば

岩波書店には近世和歌集と近世歌文集(上・下)の二つがある。
ややまぎらわしい。
しかも内容が一部かぶってるようだ。

ふと、逆接ということを考えたのだが、
AなれどもBなり、AなりBなれども、BなりAなれども、BなれどもAなり、
と、和歌ならば倒置や配置換えで同じことを四通りに表現できる。
もちろんそれぞれ微妙にニュアンスは違うが。
しかし俳句には難しい。

春は立てども雪ふれり、春はたてり雪はふれども、雪はふれり春は立てども、雪は降れども春は立てり、
など。
どれでもいいじゃん、とも思う。
しかし、文字数と、五七調と七五調のどっちにしようかとか、
あとは思い入れしだいではどれか一つに限りなく収束する。
「春は立てども雪はふれり」では雪が降ったほうがメインで、
「雪は降れども春は立てり」では春が立ったほうが感動のメイン、だわな。
またこれを倒置して
「雪は降れり春は立てども」ではさらに雪が降ったことを強調し、
「春は立てり雪は降れども」では春が立ったことを強調している。
しかしだ、和歌の場合には、倒置して先に出したから必ずしもそれを強調しているばかりではなく、
逆に歌の最後に配置したことでじらして歌全体を緊張させる効果がある。
も一つは、上の句と下の句の対比の効果というものがある。
こういうことをうだうだ考えるのが和歌を詠むということだが、
宣長のような平淡な歌詠みでもそういう技巧は凝らすものだが、
しつこいが、俳句にはそんなことはあまりない。

後鳥羽天皇はどうすれば北条氏に勝てたか

後醍醐天皇の例を見るまでもなく、
後鳥羽上皇の時代にはまだ、天皇や上皇が軍事力を掌握し動員することは不可能ではなかった。
保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇の間の権力闘争だったが、
この時代までは確かに、軍事力を動かす権限は、天皇か上皇か或いは親王にあった。
南北朝の頃までは、皇族の宣旨には武士団を動かし、日本全体を戦乱に巻き込む力があった。

実朝が死んで鎌倉幕府は混乱の極みにあった。
ほおっておけば内部崩壊していたかもしれない。
ところが、承久の乱によって、政子と義時と泰時を核として、
鎌倉幕府は結束を固めてしまった。
外向きの戦争によって中は逆に固まったのである。

北条政子は1225年に死んでいる。
承久の乱のわずか4年後だ。
もし後鳥羽上皇が、あと5年待って挙兵していたとしたらどうだろう。
鎌倉幕府は内紛でくだぐだで、日本国内さまざまな矛盾が噴出していただろう。
後鳥羽上皇は、北条氏打倒の機運が高まるまで「善政を敷いて」待っていればそれでよかったのだ。
自分から戦いを挑んだので負けた。
そういうことではないのか。
その余韻が後醍醐天皇の倒幕を成功させたのではないのか。
後鳥羽上皇のもとに大江広元レベルの政治家・戦略家が何人か居ればなお良かっただろう。

だが。
後水尾天皇の時代にはもはや天皇は、なんら軍事力を持ってはいなかった。
なにしろ、関ヶ原の合戦や大阪の陣などは、天皇の宣旨とはなんの関係もないところで起きたのだった。
かりに後水尾天皇が徳川追討の宣旨を出しても、まったく何の効力もなかっただろう。