なんか変わった漢字で、しかしまともな意味の通る女性名を考えて、検索してみると、
たいていラノベで使われていて腹が立つ。まあみんな考えることは同じということで。
月: 2011年6月
治ったのか
今日一日、肺に水はしみてこなかったきがする。少なくとも腹は張らなかった。
このまま治るのかな。
やはり一時的に肺の毛細血管が破けてたとか。
侍従
徳川家康が30才から33才まで、従五位上で侍従という官職についているのだが、
なんだよそれ。
戦国から江戸時代までの官職とか気が狂いそうになる。
そうでもないですか。
だって家康が侍従だよ 。
文官で天皇の側近の侍従だよ。あり得んなあ。
これはつまり、応仁の乱以後の足利幕府が、官位官職を勝手に、無意味に、機械的に割り当てるようになったからだろうな。
嗚呼、律令国家。
出勤
おそるおそる、電車とバスを乗り継いで出勤してみたわけだが、
用心して歩いたせいで、腹が張ってくるほどではなかった。およそセーフ。
ただし上り坂は休憩しながらのぼり、階段はエレベータを使った。
木曜、金曜辺りは、朝起きて、いきなり肺がごぼごぼ言ってたわけだから、
特に木曜日はひどかったが、
それに比べるとかなり改善したと言える。
今日は、さほど、息苦しくもない。
まったく常人の暮らしではないが、今日くらいなら、常人に混じって暮らすことはできそうだ。
このままだんだん腹が張らなくなり、さくさく歩けるようになれば良いのだけど。
こうしてみると、たぶん、火曜日の夜から水曜日の朝にかけて、何か急性の原因があったとみるべきだろう。
かなり特定してきた。
漢籍由来の熟語
相変わらず『日本外史』巻19辺りを読んでいるのだが、
「塗一敗地」(一敗地にまみれる)「尚何足畏哉」(なおなんぞおそるるにたらんや)「衆寡不敵」(衆寡敵せず)などの、
どう考えても頼山陽が自分で考えたのではない言い回しが出てくる。
「塗一敗地」は『史記』、「尚何足畏哉」は『孟子』らしい。
「衆寡不敵」は『魏志』。
「何足畏」は現代の中文で「死何足畏」など、これはたぶん宗教関係の言い回しだと思うが、
頻出する。
「西洋文明なんぞ恐るるに足らんや」とは福沢諭吉の『学問のすすめ』。
しかしたまには「鎧袖一触」のように、『日本外史』に初出の言い回しもあって、いろいろ難しい。
左心室
全身に血を送るのは左心室だ。高血圧は左心室に負担をかける。
長年の高血圧で左心室に負担をかけ続けると、左心室は肥大するが、左心室の容積自体は減ってしまう。
左心室のポンプとしての機能が衰えると、その手前の肺静脈の圧力が増大して、肺水腫が起きる。
また、足などがむくむ。
怖えええ。
とりあえず、塩分を摂らないようにし、酒をやめて、血圧を下げないと。
そうか、心臓の右側と左側で、左側が少し弱っているわけだ。
酸素がたくさん必要になると、血流もたくさん必要になる。
右と左が同じだけ動けば良いが、そうでないときは、右と左の間の肺で血流が滞って、
この部分だけ血圧が異様に高くなり、肺へ水が浸透してしまう。
しかし安静にしていれば血圧が下がるから、
逆に肺から血管に水が移動するというわけか。
何となく、一年くらい前からそんな予兆はあった気がするわ。
心臓に関するいろんな不安が一つにつながってきた気がする。
思うに多少の圧力差くらいでは、毛細血管から肺へ血が流れ出たりしないのではないか。
なんかのきっかけで一部が破れている状態なのではなかろうか。
それでこないだ水曜辺りから急に具合が悪くなったのでは。
普通、毛細血管の損傷などすぐに修復するんじゃないか。
とにかく、しばらく、極力心臓に負担をかけないように。
全然回復してなかった。
ううんと。
朝起きて、ああ、少し腹の張りが収まったかなと思い、試しに軽く散歩してみるとたちまち腹が張ってくる。
運動することによって血圧があがり浸透圧が上がり、新たに肺に水が進入するからだろう。
直接的原因は、たぶん高血圧だろうと思う。
高血圧の原因はアルコールと肥満。
従って禁酒してダイエットして血圧を下げると治るのではないかと、今は思っている。
もっといえば、すげー一瞬高血圧だったとき、
肺全体がとか、心臓が、というのではなく、肺の一部が、高血圧になるとすぐに水を漏らす状態になってしまったのでは。
それは血圧の低い状態を維持していれば自然と治るのじゃないのかとか。
いつまでも腹が張って息が苦しくて困るときは病院いくしかない。
こないだの水曜日以来なのだから、まあ、急性だよなあ。
だいぶ回復してきた。
腹の張りが明らかに減ってきた。
ということは肺の中の水が減ってきたということだ。
息切れも、少しだけしにくくなってきた。
このまま回復してくれるとうれしい。
肺の中の水が全部なくなればもっと軽快に動き回れるのだろう。
少しだけ水分の摂取を控えている。
なるほど、急性肺水腫という、なんかものすごい病気に罹ったかと思ったのだが、
酒を一日抜くだけで、こんなに急速に回復するのだな。
酒を飲まない方が健康で長生きできるってことが如実にわかった。
体の中から「好い加減にせえよぼけ」と蹴りを入れられたようなものか。
それはそうと新井白石ってすげえ面白い。今頃気づいた。
それはそうと犬がうるさい。深夜に鳴かすな。昼もだけど。たばこも犬も歴史が長いだけ21世紀になってもなかなか廃れない。
犬が鳴いてるということは雨があがったということかな。
五摂家と両統迭立
『日本外史』によれば、いわゆる「五摂家」(近衛・九条・二条・一条・鷹司)というのは北条時頼(第5代執権1246-1256)が定めたのだという。
両統迭立というシステム、つまり持明院統と大覚寺統で、一方に天皇を立てるとき、同時に他方に皇太子を立て、
十年おきに交代するというシステムは、この「五摂家」にならって北条貞時(第9代執権1284-1301)が考案したのだという。
実にシステマティックで合理的な考え方だし、
また、北条氏が、天皇家は二家、公家は五家で十分で、それらが代わる代わる、天皇を出し、摂政関白をだせば良かろうという程度しか、
考えてなかったことがわかる。というかそういう発想が少なくとも江戸時代の武家の間にはあった。
北条氏はたぶんものすごいリアリストでどちらかと言えば理系な考え方の人たちだったのではないか。
北条氏から見れば、天皇家も摂関家も、国政という実務をほったらかして、統治すべき国家や人民の実情から乖離し、
何の原則もなく皇位継承戦争やら権力争いをしているように見えたのではないか。
両統迭立が伊勢神宮の式年遷宮にヒントを得たものではないかということは、[このブログでかつて書いた](/?p=7364)。
北条氏はかつて、承久の乱のときに、立てるべき皇太子が居なくてこまったことがあった。
だから天皇家は二つに分かれて牽制しあっているくらいでちょうど良いと思ったのだろう。
徳川家の御三家とか御三卿も似たような発想かもしれん。
汗
さっき書いたことは、まったくの嘘だった。