朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良

> 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人

飛鳥井雅経

> 初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの

慈円

> かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。
慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、
単に貴族趣味という以上のものではない気がする。
さらに、

藤原為氏

> 人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、
それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、
土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。
これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

> ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家

> 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。
しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。
単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。
その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。
為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、
為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、
どちらかと言えば古今調の機知に近い。
新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、
と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。
現代人は、自分で作らず、批評だけする。
和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。
だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、
江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。
和歌でもだいたい同じ。
もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。
彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。
多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。
だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。
「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは
「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。
アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。
自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、
初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。
それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。
価値観が違うのは当たり前だ。
しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、
定家と後鳥羽院が最高であり、
現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、
と主張する。
しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。
それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、
という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。
しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。
まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、
それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、
現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。
むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。
また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。
ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。
だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、
早くても鎌倉時代後期からだろう。
南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。
定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。
最初期で、家定の弟子の家良くらいか。
家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。
少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

SF

ちと最近のSFというやつをいくつか読んでみたが、
やはり、SFという分野で張り合おうというのは間違っていると思った。
仮想空間でアバターどうしがセックス、とか言っている時代に、まじめにSF書いても無駄、そんな気になる。

新聞とテレビ

ココ壱番で昼飯を食べた。そのとき店においてある読売新聞を読んだのだが、字が大きく余白が広く、広告がカラーででかくて、
まるでテレビのような印象だ。
新聞というメディアは、今やこれほどテレビに近づいたのか、とあきれた。
ある意味朝日も毎日もそうだ。
テレビと新聞が同じ論調同じ印象だと日本人がほとんど同じソースから影響を受けるということになる。
メディアの多様性は今やネットにしかない、とも言える。

日経は明らかに違う。日経はひまつぶしに活字が読みたいときにコンビニやキオスクなどで買うことがある。
ちなみに購読しているのは産経。読売・朝日とは明らかに紙面づくりが違う。

ココイチでサイドメニューの380円のサラダを注文して、途中通りすぎた吉野家がほぼ満席だったのを思い出し、
このサラダ一つで牛丼が一杯食えるのだなと思うと、ものすごく贅沢な気がした。

世の中がものすごく不景気というかデフレなのを感じる。
これまで自分の仕事は不況の影響を比較的受けにくいと思っていたが、
世の中全体がここまで不景気になると、さすがに影響がいたるところに出ているのを認めざるを得ない。
うちは上位と後発の中間にいるのだが、上位に食われて、後発にのがしている。
上位は少なく後発は多い。上位を追うのでなく後発に逃げているのを止める方が効果があると思うのだが。
つまり、クオリティを上げ専門に特化することで挽回するのではなく、
逆に一般の民間人を広く顧客にするのだ。
努力のベクトルが真反対な気がするのだ。

民間人は専門のことはよく知らない。わからない。
一般市民にわからないことを自分たちだけ一生懸命頑張っても仕方ない。というのは自戒の意味でもそう思うのだが。

少数の専門と多数の総合があるとする。総合は、専門をつまみ食いして、安くそれっぽいものを提供しようとする。
世の中が不景気になると、わざわざ高くつく専門を選ばず、安い総合ですまそうとする。
そして大抵の民間人はその違いがわからない。気づかない。また専門の方にもおごりがある。
俺たちは専門だから、一般とは違う、高くても仕方ないと。でもどれほどの差別化ができているというのだ。値段相応なのか。
あれ、まるで牛丼屋チェーンかなにかの話をしているような気分になった。

宮家

[今日の産経抄](http://sankei.jp.msn.com/life/news/111126/imp11112602500001-n1.htm)に、

> 当時の皇室は、財政難もあって天皇の子供でも皇位継承の可能性が高い親王を除き出家させるのが普通だった。承応3(1654)年に後光明天皇が若くして崩御した際には、皇族男子はほとんど出家しており、綱渡りの状態で後西天皇が即位した。

> 事態を憂えた白石は、徳川家に御三家があるように、皇室にも皇統断絶を防ぐため新たな宮家が必要だと論じた。白石が偉かったのは、宮家が増えるのは武家にとって不利ではないか、という慎重論を一蹴、「ただ、武家政治の良否のみに関係する」(折りたく柴の記・桑原武夫訳)と幕府の枠を超えた判断を示したことだ。

などとあって、これを読むだけだと、先に徳川氏の御三家があって、それを参考にして宮家が創設されたように思えるが、
wikipedia で宮家など読むと、宮家というものが、北条氏による鎌倉時代の両統迭立の頃まで遡ることができるのがわかる。

持明院統と大覚寺統に分かれた両統迭立というものは南北朝の原因になったと批判され、
新井白石の宮家創設は皇統断絶を防いだ名案だった、というのは後付けの理屈にすぎないのではないか。

徳川氏の御三家とか御三卿というのは、本家と分家の関係であり、本家が途絶えたときに分家が代わりに血統を継ぐというものであろう。
両統迭立というのは、持明院統と大覚寺統が対等で、そのために継承争いが激化した、とみなされているのかもしれない。
両統迭立の実態はそんなに簡単なものではなかったし、宮家が併存する場合でも(皇位継承順が明確に定められていない場合)、
決して問題がおきないとは言えないのではないか。

結局、新井白石の処置は事後的に適切だったといえるだけではなかろうか。

しかし、後西天皇とは紛らわしい名前である。
「後」が頭に付くのだから「西天皇」という天皇が前にいなくてはなるまい。
調べてみると、第53代淳和天皇の別名「西院天皇」にちなむという。
それで後西院と追号されたが、後西院が院号のようだというので、大正時代に後西天皇と呼ばれるようになったという。
明治以前には院号だけがあり、天皇号が存在しない天皇もいたために、明治時代には後西院天皇と呼ばれていたそうだ。
ややこしい。
最初から後淳和天皇などという名前にしておけばよかったのに。

『安藤レイ』完成

[安藤レイ](http://p.booklog.jp/book/39448)一応完成した。
240枚。
めちゃくちゃ時間取られた。

しかし、かなりの部分が単なる病中手記なので、小説的部分はその半分くらいだろう。
もちろん、病中記録は小説のつなぎというか、雰囲気に使っているわけだが。
自分では(今までで一番)面白いつもりだが、長いので読むのがたいへんだろうなとおもう。

結果的に、私の小説の中では、長さの割に、主人公のひとりごとが異様に多く、また登場人物が異様に少ない。

以前、過去形が多すぎる、と言われたことがある。
今回もそうかもしれない。しかし、多分私は過去形が好きなのだと思う。仕方ない。

さらにどうでも良いことだが、表紙絵は某ペイントソフト + Inkscape + Intuos4 で描いた。
実は右手と左手で参考にした写真が違う。
採血をするときの手の形というか、注射器の持ち方というか、針の打ち方は、google で検索してみると、結構まちまちなので驚いた。
我々は普通、親指でおしりを押さえて人差し指と中指で挟む、という持ち方を考える。
しかし、実際には、親指と中指で側面を挟んで、人差し指は頭を押さえる、または、人差し指と中指で側面を挟み、親指と薬指でおしりと頭を押さえる、というのもある。
表紙絵に採用したのは、親指と中指で側面だけを挟んでおり、人差し指、中指、薬指などは採血する腕に固定している。
もう一方の手も注射器、もしくは腕に添えている場合が多い。

看護師がずきんをかぶっているかいないかとか。
コスプレではたいていかぶるが、普通はかぶらない。髪型も長すぎるときには後ろで結ぶが、今時の髪型は割と自由なようだ。