白河天皇と金葉集を調べていたのだが、調べれば調べるほど興味深い。
まず、勅撰集の初めは古今集となっているのだが、これは、
おそらく紀友則が中心となって数名が当時の流行歌を蒐集し、
友則が途中死去したので従兄弟の紀貫之が後を継いで、醍醐天皇の勅命という体裁で公に流布したのだろう。
勅命というよりは、おそらくは、編纂事業を公に援助してもらったとか、
その程度のものではなかろうか。
そういう意味では、万葉集の成立に近いものではないか。
古今集に続く後撰集と拾遺集は、それぞれ村上天皇、花山天皇の勅命によるものとされているが、
ほんとうに勅撰集であったかも疑わしい。
古今集の補遺というのに近いだろう。
少なくともこの三代集は天皇が直接関与したのではなく、できたものを天皇がオーソライズした、
という形だ。
その後しばらく勅撰集というものは途絶えた。
ところがいきなり白河天皇がまず後拾遺集編纂を命じた。
1075年から1086年までかかっている。
白河天皇の在位期間にほぼ匹敵し、おそらく、
白河天皇自らの強い意志によって作られたものと思われる。
つまり、歌人らが自発的に編纂して天皇のお墨付きをもらったというのでなしに、
天皇自らが編纂したという意味で、事実上最初の勅撰集と言えるものだ。
古今集・後撰集・拾遺集とつづいた和歌編纂事業を発展させて、
天皇が自らプロデュースした初めての勅撰集、と言える。
白河天皇による権威付けがなければ、
後世和歌と皇室はこれほどまで強い関係を持たなかっただろうし、
明治までの連続性を保ち得なかったと思う。
白河天皇は上皇になって再び院宣によって勅撰集の編纂を命じている。
上皇による編纂というのはこれが初めてのことになる。
金葉和歌集だが、これは二度も書き直しを命じられている。
つまり白河上皇は、非常にねちっこい性格であり、おそらくは気まぐれな性格でもあり、
成立までになかなか許可を与えなかったのだ。
後拾遺集も、途中経過は不明だが、同じように何度も書き直しを経て成立したのじゃなかろうかと推測できるし、金葉集も、おそらく、後拾遺集が成立した直後から計画され、
上皇が死期を察してようやく完成したのではなかろうか、と思われるフシがある
(金葉集は1126年成立、白河上皇の崩御は1129年、76歳)。
つまり、白河上皇という人は、勅撰集を一つ作っても飽きたらず、さらにもう一つ作り、
しかしそれにもなかなか満足せず、死の直前までこだわり続けた人なのだ。
なぜか。わからん。
そこをつっこんでいる人もなかなかいない。
次の詞花集は崇徳上皇によるが、金葉集三奏本との重複が多いことや、
構成が金葉集に似ていることからも、大きな影響があったことがうかがえる。
また崇徳上皇と白河上皇の孫で自分の親の鳥羽天皇とは仲がとても悪かったことでも知られる。
崇徳上皇としては、鳥羽天皇や近衛天皇ではなく、自分が白河天皇の正統な後継者だと、
言いたかったのではなかろうか。
ま、ともかく、白河天皇は、勅撰集を二つも作ったこと、
事実上、後に室町末期まで続く勅撰集を創始したということ、
編纂に異様に執着したということ、
その他、歴代天皇の中でも、最も典型的な院政を行ったこと、
おそらく最も大きな経済力と権力を握り、
専制君主として一番最後の天皇だったこと、
などからして、非常に興味深い人だ。
勅撰集にこだわった天皇としては後鳥羽天皇もいるが、
どちらもあくの強そうな人だな。
だが、勅撰集の中でも、金葉集はあまり人気がある方ではない。
言及している人もほとんどいないし認知度も低い。
そこがまた面白い。