kdp戦略

ほんの1、2週間前までは無料ベストセラーに「ブラックジャックによろしく」が並んでいたのだが、
今はまったく見かけない。
有料ベストセラーで「限界集落温泉」がトップに来たのも一瞬だった。

ここからえられる結論は、とにかく電子書籍は最初出たときしか売れないし目立たない。
一度埋もれてしまったら二度と売れない。
ということになる。

すでに広報が行き届いているコンテンツに関してはそうかもしれんが、
逆に、
広報をまったくやらない、口コミや評判によって知られていくコンテンツの場合には、
も少し緩やかに売れていくのじゃないかと思う。

で、私のところの場合、無料キャンペーンを一つずつやると、
それが一瞬目立つ。
それを見に来たひとがついでに有料のものも買う。
ということを繰り返すしかない。
そんで、固定客というかファンは絶対必要なんだなという気がしてきた。
固定ファンが付けば彼らがネットで広報の代わりになってくれるからだ。

となると、それなりに面白いコンテンツをある程度の数そろえておいて、
たまに新作も投入するなどして、
新規の客も無料キャンペーンでこつこつつかんでいく、
粘り強く固定ファンが付くのを待つ、
という戦略しかないのではないかと思う。

ただ目立っているだけでしょうも無い無料コンテンツが上位に居続けているのを見るが、
逆の言い方をすれば目立てば読む人は絶えないということだろう。
どうやって目立たせるか。

ラノベというのは基本子供向けであり、
その大人向けはBLみたいなものであり、
あるいは画像付きのアダルトコンテンツみたいなものなわけだが、
挿絵付の中年向けのラノベ(?)にまだ開拓の余地があると思っている。
「スース」とか「超ヒモ理論」とかはそういうつもりで書いたものだ。
も少し時間かけて、挿絵をもっとちゃんと描いてから、kdpで出そうと思う。
さらにも少し時間をかけて「アルプスの少女デーテ」も出す。
たぶんこのあたりが売れ線なんじゃないかと思うんだが。
もちろん文章だけで読ますコンテンツも書いていくつもりだが、
何かキャッチーなものはあった方がよい。
表紙とサンプルでダウンロードされるページにもう一つくらい。
あと中に五つくらい入れればいいかな。
絵を描くのも元来嫌いではないのでそっちの方で少しがんばってみる。
なんかだんだんピュアにkdpだけで売れるコンテンツを作るには、みたいな方向に関心が向かいつつある。

kindleベストセラー

ものすごくじわっとだが、売れ続けている。
この先どうなるかわからんが少しは夢見ても良いのかもしれん。

『ノーファインダー』だが、しばらく読んでいるとスカイツリーの話題が出てきてどうやら 2010年くらいが話の舞台らしい。
作者は40代半ばくらいか?
となるとほぼ私と同年代、小説を書き始めた動機も同じ?などと思えなくもない。
文章は非常に書き慣れていてほとんどまったく破綻がない。
一気にさっと書いてる感じがする。
そりゃまあ他人の文章だからそう感じるだけかもしれん。
私の場合書いてる途中でプロットが変わったり人称変わったり順序入れ替えたりするので、
ある程度落ち着いた後でもいろいろ修正しないとまともな文章になってくれない。
落ち着くところに落ち着くまで数年かかる、ような気がする。

次は『紫峰軒』を無料キャンペーンする。
これはたぶん完成度は高いと思う。短いし。
現代小説だが、昭和五十年頃を回想する話なのでプチ歴史小説とも言える。
徳川幕府が駿府藩に転封する、という小説を書こうかと思ってたのをこいつにまるごと突っ込んでいるので、
なんとなく歴史小説の匂いもする。
そうね、なんとなく歴史小説の匂いのする現代小説、と言うこともできるかね。
田舎は砂利道、桑畑が広がり、飲み屋といえば屋台くらいしかなかった時代、
藁葺き屋根の農家を改造した、8トラックのカラオケスナックが出来始めた頃のノスタルジーみたいのを書きたかったわけ。それだけ。
昭和三十年代のノスタルジーものってけっこうある気がするが、五十年代はまだちと近すぎて書かれたものがあんまりないよね。
ていうか当時書かれた風俗小説が腐るほどあるからそれを読んでもいいのかもしれんが、
現代の視点で書かれた、しょんべんくさい、戦後昭和末期的な。

てか半七の作者の岡本綺堂が、麹町に茶畑とか桑畑があったって書いてた。
幕府や武家屋敷が退いた後の明治時代の話。
薬草なんかも栽培しててそれで元園町という名前になったとか。
今の半蔵門駅のあたり。
元園町なんて地名はもう残ってない。

[kindleベストセラー](http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/digital-text/2275256051/ref=sv_kinc_2)
をチェックするのが日課のようなものなんだが、
マンガが top100 にほとんどない。
kindle は画像だけでできてる写真集や漫画などのコンテンツには向いてない。
日本は漫画じゃないと電子書籍が売れない、と言われていたわけだが、
kindle ユーザーは必ずしもそこにこだわってない、てことが言えるのではないか。
まー、私も最初は「限界集落温泉」(有料)とか「ブラックジャックによろしく」(無料)とか買いましたけど。
それからなんかしょうもない無料の写真集も落としてみたけど。
こういう画像コンテンツを読むためのデバイスじゃあないよね、kindle は。
どちらかといえば青空文庫なんかテキストベースの軽いコンテンツを電車の移動時間中などに手軽に読むもんだよね。
有料のラノベが上位に来てるのはわかる。
テキストメインでたまに画像ね。わかるわかる。
あとは、自己啓発本とかビジネス本、英会話本。
これもわかりやすい。

そのほか。よくわらかん個人のブログみたいのをそのままkindle本にしたようなもの。
これは痛い。
でもしょうがない。それが kdp ってもんでしょ。

やっぱね、需要というのは漫画だけじゃないんですよ。
さくっと活字が読みたい人もたくさんいるわけですよ。
アマゾンのユーザーには普通に活字の本(新書とか)読む人がもともとたくさんいるのだと思う。
今まで電子書籍は漫画であると、漫画じゃなけりゃ売れないという既成概念はね、やっぱ間違ってたんじゃないかな。
極めて健全な方向性だと思う。

kindle本がほとんど売れてないだけかもしれんけど。
「伝え方が9割」ってやつもまだ100とかしか売れてないらしい。
100じゃあねえ。
でも将来はどうかわからんよ。今は過渡期だからなあ。

アナン『ノーファインダー』

どこからでてきたのかわからない、ネットで検索してもみつからないが、おそらくまともなライター、
新聞社勤務かなにかの人が書いたものだろう。
まだ途中までしか読んでないが、非常に面白い。

話の内容と、ネットに全然ひっかからないことから、ずいぶん古い紙の時代のものの復刻ではないかと思う。
たとえば著者はすでになくなっていてその遺族がアップしているとか、そんな感じ。

たぶん今から五十年前のカメラマンって仕事は今のCGクリエイターみたいなもんだよな。
すごく稀少な技術者だった。

まてよ、有料の本の書評書いた方が、少しは儲かるんじゃないか。
図書館で借りてくるか(笑)
賃金として考えりゃ安いもんだわな。

思うに、パブーにも読者がいないわけではなかったが、
ほとんど売れなかったのは、
パブーでお金を払うのには面倒な手間があったからだ。
アマゾンを見に来る人は多い上に普段からポチり馴れている。
アマゾンのユーザーというのは、ふだんからネットで買い物をするのに馴れている人、ということだ。
そういうところに本を並べておけば、
たくさんの人の目に触れてたまには買ってくれる人もいる。

それに紙の中古だとアマゾン以外に古書店がいてたいてい別に郵送料がかかり、届くまでに時間がかかるじゃん。
kindle だとポチったらすぐに読める。
これは便利だわな。

アンドロイドのスマホ、つまり google play のユーザーではどうだろうか。
人は多いだろうが、たいてい無料で済ますのではなかろうか。
よくわからん。
いずれにしても他の買い物をしたことがあるひとは割と気軽に別の買い物もできるわけだ。

将軍放浪記も将軍の仲人にしてもいままで一度も売れなかったのに、
川越素描を無料キャンペーンにした巻き添えでちょこっと売れた。
すごいなあと思う。

梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件

慶応四年、「神仏判然令」。
明治三年、「陰陽寮」廃止。
明治四年、廻国聖(山伏?)、普化宗(虚無僧)廃止。
明治五年、修験道廃止令、修験者(山伏)を天台宗か真言宗に帰属させる。
明治六年、[梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%A2%93%E5%B7%AB%E5%B8%82%E5%AD%90%E4%B8%A6%E6%86%91%E7%A5%88%E7%A5%B7%E5%AD%A4%E4%B8%8B%E3%82%B1%E7%AD%89%E3%83%8E%E6%89%80%E6%A5%AD%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%83%8E%E4%BB%B6)。

「梓巫」は「あずさみこ」と読むらしい。
「梓巫子」とも。
「市子」(いちこ)は梓巫女にほぼ同じ。
[歩き巫女](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E3%81%8D%E5%B7%AB%E5%A5%B3)

梁塵秘抄
> 我が子は十余になりぬらん 巫(こうなぎ)してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと いかに海人(あまびと)集うらん まだしとて 問いみ問わずみなぶるらん いとおしや

[梓巫女](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%B7%AB%E5%A5%B3)は
[梓弓](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%BC%93)を鳴らす。

「憑祈祷」
これはそのまんまか
[憑依](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%91%E4%BE%9D)
鎮魂帰神。神懸かり。
『英霊の声』川崎君。

「[口寄せ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%AF%84%E3%81%9B)」陰陽師が寄り人に物の怪を憑依させて口走らせること。
筆記するのは「お筆先」みたいなものか。
「神おろし」
トランス。エクスタシー。
入神、脱魂、恍惚、三昧、法悦。

「孤下ケ」(きつねさげ)。
「狐憑き」「稲荷下げ」

[イタコ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3)
[ユタ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BF)
[霊媒](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%AA%92)
[降霊術](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%8D%E9%9C%8A%E8%A1%93)
[交霊術](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9C%8A%E8%A1%93)
[ネクロマンシー](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC)

[明治初年の民間宗教禁止令](http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/65)

まー、普通に禁止されて当然だと思う。
民間信仰から国家神道へ集約、ってことですかね。

万歳

[半七捕物帳 三河万歳](http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/997_14994.html)
に屋敷万歳や町万歳、出入り万歳、乞食万歳、
などという言葉が出てくるが、
普通の国語辞典や古語辞典を見ても意味が通じない。
ネットを検索してみると、
正月に武家屋敷や町屋などを回って、悪鬼を祓い福をもたらす芸のようなもの、
千秋万歳というのが正式らしい。

[コトバンク](http://kotobank.jp/)

> まんざい【万歳】

> 民俗芸能。祝福芸,門付芸の一つ。正月に家々の座敷や門口で予祝の祝言を述べたてるもので,〈千秋万歳(せんずまんざい)〉の末流と考えられる。平安時代後期成立の《新猿楽記》には〈千秋万歳之酒禱〉と見え,千秋万歳はこのころすでに職能として存在していたと思われる。鎌倉時代以降には宮中をはじめ寺社,武家などの権門を訪れるようになり,室町時代の中ごろには一般の民家にも門付してまわるようになった(《臥雲日件録》)。

> せんずまんざい【千秋万歳】

>〈せんじゅまんざい〉とも読む。正月の祝福芸能の一つ。また,それを業とする者をさす場合もある。鎌倉期では《明月記》《勘仲記》などにその参入の記事がみえる。《名語記》によると散所法師が初子の日に家々を訪ねて行う祝言芸で,それによって禄物を得たという。室町期に入ると,声聞師が正月に禁裏(5日),公方邸(7日)をはじめ,諸家に赴いて,千秋万歳を演じ,曲舞を舞った記録が多い。

岩波古語辞典

> 年の初め、家々を訪れて、家門・寿命の長久を祝い、歌舞を演じて回った下級の法師・陰陽師。

> 今日万歳参啓、祝言、退出。

> 一種の乞食輩、歳首に人家に到り祝言を歌ふ、世に之を万歳と号す

万歳はマンザイとも読み、漫才に通じるという。
もともと漫才は正月にやるおめでたい芸能だったのかもしれず、
今の正月三ヶ日のテレビ番組にその痕跡があるといえるのかもしれない。

尾張万歳というものもあるらしく、三河万歳とか、もともとあの辺りから回ってくる渡り芸人的なもの、
もしかすると熱田神宮や伊勢神宮なんかに属する祝(はふり)や巫女(かむなぎ)などの渡りの神職とか、山伏などと関係するものなのかもしれない。

『半七捕物帳』は関東大震災以前に書かれた時代小説なので(※連載後半は違う)、東京にも江戸の町並みがほぼそのまま残っていただろうし、
作者の岡本綺堂も、江戸時代の生き証人から直接話を聞くことができたのだろう。
江戸時代のことをうだうだ書いている私にとっては、当時の江戸の雰囲気が感じられる、非常に貴重なものだ。
明治維新からまだ50年弱しかたってない。
彼にとっての江戸は、私にとっての昭和30年代みたいなものなわけだ。

野村胡堂は、文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、『銭形平次』を書いたという。
昭和の戦前戦後に渡って書かれたものだ。
『新選組始末記』は昭和の初め。
『鬼平犯科帳』ともなると完全に戦後だ。
このへんになるともうあまり役に立たない。
永井荷風の作も、役に立つような立たないような。

もっと江戸や明治の小説をきちんと読まねばな。

> 「どうだ、半七。けさの行き倒れは、何者だと思う。あんな因果者を抱えているのをみると、香具師やしの仲間かな」と、弥兵衛は云った。

> 「さあ、手のひらの硬い工合ぐあいがどうも才蔵じゃねえかと思いますが……」

> 「むう。おれもそう思わねえでもなかったが、香具師ならば理窟が付く。やあぽんぽんの才蔵じゃあ、どうも平仄が合わねえじゃあねえか」

> 「ごもっともです」と、半七も考えていた。「しかし旦那の前ですが、その平仄の合わねえところに何か旨味があるんじゃありますまいか。ともかくもちっと洗いあげてみましょう」

「平仄が合わない」こんな使い方するんだな。

才蔵。

> 雑芸人の名称。千秋万歳や万歳はふつう2人一組で演じられ,一方を太夫,一方を才蔵と称する。
万歳は太夫と才蔵の掛合が基本で,太夫は烏帽子,直垂(または素襖)姿,才蔵は投頭巾(大黒頭巾)に裁着姿が一般的である。シテ役の太夫は扇子を持って千代万歳の祝言を言い立て,才蔵はワキ役で太夫の語りの間をぬって相槌を打ち,鼓を打ち鳴らし,囃したり,歌ったりしながらモドキの役割と滑稽な三枚目を演じる。

> 正月の万歳に小鼓を打ちながら大夫の相手をして人を笑わせる役

> 才蔵は飲みかねまじき面っ付

「やあぽんぽんの才蔵」とは、よくわからんが、要するに太鼓叩きの芸人、とでもいう意味か。

悪質な香具師に因果者師というのがいて、身障者を見世物にして、
「親の因果が子に報い」などとやったらしい。
なので、香具師が子供を抱えて行き倒れしたなら平仄が合う、太鼓持ちだとちとおかしい、そう言いたいわけだ。
で実際この子供は生まれつき犬歯が生えた鬼っ子で・・・。
なんかむずいな。

まとめのまとめ

まとめをまとめとく。

[やまもといちろう「いい加減にしろハゲ」 岩崎夏海「金もらわなければ作品作れないというやつがクリエイター名乗るのは…」](http://togetter.com/li/483849)

[古本じゃなく新刊を買ってほしいなぁと漫画家が呟いたら、何故か叩かれた](http://togetter.com/li/338917)

ていうか、こういうのって反論がどうとか、どちらが正しいかでなくって、つい突っ込みたくなるネタなんだろうなあ。

生前売れなかった作家もいるしな。
ジョン・ロック、モディリアーニ、ゴッホ、中島敦、いくらでもいる。
北大路魯山人だっていまkindleで売れているのは無料本だからだよね。
たとえ売れなくても死後残ってくれれば良い、というのも執筆動機の一つ。
もひとつは、今の仕事を定年退職まで惰性で続けたくない。
そのため別の収入が欲しい。ただそれだけ。

不知所終堂

kdp で割と改版する方なんだが、
アマゾン見てると、「出版社」を書かないと、版も表示されないような気がするんで、
とりあえず出版社名を決めようと思い、
「不知所終堂」
とすることにした。
読みは、フチショシュウドウ、かな。
ややこしい名前だ。
不知所終堂店主こと田中久三ということでよろしく。

google play books なんだが、これで出版しようとするとかなりややこしいようだ。
ペンネームで著者紹介なんかを入れようと思うと、
まず、
google+ でペンネームのアカウントを作らねばならぬようだ。
それから google books に epub かなんかでコンテンツをアップロードして、
「Google ブックス パートナー プログラム」というものに登録して、
あとは kdp みたいな感じに値段きめて、
レビューされて、
掲載されるという段取りのようだ。

正直めんどくさい。
それに kdp セレクトみたいなキャンペーンもないようだから、
たぶん出版しても埋もれてしまう。

また google play と amazon の両方で出版すると
kdp セレクトから外れて印税も半分になるしキャンペーンもできなくなる。

どうもねえ、今のところ kdp だけにしておくのがいいんじゃないかねえ。

PC で読んでるとどうしても流し読みしてしまうからアラに気付きにくい。
kindle だと一度に読める文字数が少ないから、自然と精読することになり、
誤字脱字に気付きやすい。
同じ文章でもまったく印象が変わってしまうから困る。

google play books

android のスマホで小説読んでる人がいたから見せてもらったのだが、どうみても kindle アプリではない。
google play トップにはいきなり書籍というボタンがあり、そこからいろいろ小説が読めるようになっている。
で、sony xperia で試してみたら、どうやら google play books という google 純正の電子書籍リーダー。

google には kdp のようなもんはないからここで自分の小説を売るわけにはいかん。
だが、google play books は今後ものすごく流行るような気がする。
なぜってスマホだろうがタブレットだろうがいきなり本が読めちゃう。
kindleアプリは自分で探してこなきゃインストールされないが、
google play books ならほとんど自動的にインストールされちゃう。
そこには青空文庫のタダの小説もあり、
ついでに有料の小説を買う人もいるだろう。

iphone や ipad は廃れると思う。
主流はタブレットではなくスマホ、それも android。
タブレットを持ち歩いている人を見たことない。
いやたまには見かけるが電子書籍専用端末もってるやつは皆無。
皆無と断言できるくらい皆無。
これはね、もう勝負ついたんじゃないかと。

誰か私をフツーの幸せにして

私小説か自伝のようなものかと思ったら、すごくまともでびっくりした。
ちゃんとタネがある。
文章や構成をいじってくれるプロの編集がついている。
よくある自己啓発本だってことが最後まで読むとわかる。
いやしかしこれは普通に楽しめる本だと思うよ。

ヒストリエとか

KDP をやり始めて、おぼろげではあるが、読者がいて、他にどういう傾向の本を読んでいて、
どんな感想を持っているのかが、わかるようになった。
パブーの頃はPVとダウンロード数とコメントしかないのだが、
コメントはほとんどもらえなかった。
第三者の意見というのがほとんどまったくわからなかった。

でまあ、今は『川越素描』の無料キャンペーンをやっているのだけど、
いっそのこと『エウメネス』を無料キャンペーンにしようと思ったが、
せっかく有料で買ってくれた人がいるのにすぐに無料にしては失礼な気がするので後回しにするが、
他に広報手段もない私としては、定期的にすべての本を無料キャンペーンしようと思っている。

『川越素描』はもともと、現代のストーリーと過去のストーリーが並行する話にしたくて、
現代の話から歴史の話に誘導した方が読者がその世界に入っていきやすいだろうと思ってそうしたわけだが、
こういうのは普通タイムスリップというSF仕掛けになっているのだが、私はそういう手垢の付いた手法はいやだったのと、
『千夜一夜物語』的な入れ子になった劇中劇が書いてみたかったので、
実験的にあんなぐあいになったのである。

今から読んでみるとあまり読みやすくない。
というか無駄にストーリーを複雑にしてしまっている感もある。
しろうと向けでは決して無い。普通の小説を読み飽きた人なら面白いと感じるかもしれない、という程度。
最初にプロットだけ決めて書き始めたら膨大な量になってしまった。
考えながら書いていったという意味ではまさに『素描』かもしれない。
『素描』というよりは『実験作品』、かな。

またジャンルを間違えてしまったが自分では変更できない。
「世界史」ではない。
「日本史」だ。
KDPの中の人にお願いしなきゃいけないのだろうか。

山崎菜摘というキャラにしても無理があると思う。
所詮こんな女性はいないと思うのだ。
文学少女といっても扇毬恵くらいにしておくべきだと思う。
仁科世津子の方がまだ現実的かなと思う。

今なら歴史初心者向けに書くなら全然違う書き方をすると思う。
多少構想はある。
たとえば歴史好きな男とパワースポット好きな女がどうしたこうしたとか。
歴史蘊蓄が大嫌いな京都の舞妓さんとか。
歌物語的百人一首とか。
ようはまあ、初心者は知識が限られていてその外の広がりを知らない。
まずは誰もが知っている知識でもって興味を持たせて、どんどんその外まで連れ出さなくてはならない。
知識が増えて世界が広がるほど歴史は面白くなる。
そのおもしろさを体験させたいわけである。
そうすると入り口は正門がよい。
いきなり勝手口から入れようとしてはダメ。

『アルプスの少女デーテ』『司書夢譚』なども入れ子構造、多重構造の話になっている。
『セルジューク戦記』なんかも、時系列だが西欧、東欧、中近東、中東の話が並列しててややこしい。
そういう複雑な構造をした話を書くのに凝ったこともあったが、
ここらへんで新規読者を獲得するのはたぶん無理だろうと今では思ってる。
もっとシンプルな話の方が良い。

『エウメネス』はたまたま実在する『ヒストリエ』という漫画とネタがかぶったのだけど、
キャッチーな主人公を使った小説というのも、やはり読者を誘導するには必要な気がしてきた。
坂本龍馬とか土方歳三なんかの話は絶対書かんけどな。

『ヒストリエ』の主人公がなぜエウメネスなのか、ということを考えてみるに、
たぶん、アレクサンドロスをそのまんま主人公にしてはあまりに破天荒でなんでもありのキャラになってしまうし、
特にファンタジー仕立てにするとコントロール不能になりかねん。
キャラとしても手垢が付きすぎている。
自由にいじれるキャラがほしい。
そこでアレクサンドロスの後継者の将軍たちの誰かを主人公にしようとした。
エウメネスは前半生が不明なのでキャラを造りやすいから、
アレクサンドロスと出会うまでのいろんな話をこしらえて、
ペルシャ征服の話も書いて、
そのあとの継承者戦争も書こう、ということだろう。
そうすると10年くらいの連載になってもおかしくない。
むしろ、長期連載するためにエウメネスを主人公にしたのだろうと思う。

私の場合もやはりアレクサンドロス大王ものを書きたかった。
一番興味があったのは王妃ラオクスナカ(ロクサナ)がペルシャの王女だったということと、
アレクサンドロスがスーサで合同結婚式をやったということ。
なぜ王は自分がペルシャ人と結婚するだけでなく将軍たちにもペルシャ人と結婚させたのか。
もひとつはゲドロシアの話が面白いと思ったからで、
それらを組み合わせて短く簡潔にまとめようと思った。
つまり最初からコンセプトも尺もヤマもオチもまえふりも、全部決めてから書き始めて、そのとおりに書いたたわけで、
『川越素描』の頃からするとだいぶ進歩している、と自分では思っている。
内容が、というより、執筆の仕方が、という意味だけど。

私は一人称で書くことが好きなのだが、それはあきらかに FPS の影響であり、
日本の私小説の影響ではあり得ない。
つまり「自分」とか「実体験」を描きたいのではない。
「自分」の見たモノをありのまま読者に追体験させたいからではない(ただし『安藤レイ』は途中までは実体験なのだが、これは個人的な入院日記のように見せかけて、だんだんSFミステリーのようにしていくという実験。『紫峰軒』はモノローグ、一人語りだといわれても仕方ないかもしれないがもちろんフィクションである)。
自分が作り出すフィクションの世界の中に読者を完全に埋め込みたいから、
immersive な感じ(※没入感。バーチャルリアリティ用語です)を出したいから一人称にしているに過ぎない。
さらに『アルプスの少女デーテ』『巨鐘を撞く者』では一人称視点が次々に切り替わっていく。
プレイヤー変更あるいはジョブチェンジとも言えるし、ルポルタージュ形式とも言える。
実際、『巨鐘を撞く者』は子母沢寛『新選組始末記』を真似たものである。

エウメネスはアレクサンドロスを描くための三人称視点として選んだ。
つまり TPS 的な手法でアレクサンドロスを描きたかった。
一番王に近い視点に読者をおいて、王の実像を描きたかった。
歴史上伝説上の王、超人的な英雄、現人神的なもの、ではなく、
目の前に実在し、今まさに生きていて、会話できる、等身大で生身の王、というものを。
これはつまり NPC (Non playable character) 的な表現だと思っている。
アレクサンドロスを観察しているエウメネス、という構図。二人称視点、とも言えるかもしれない。

だいたい私は学者か詩人か芸術家、技術者を主人公にすることが多い。
さらに彼らを視点として王とか将軍を描く。
アレクサンドロスに対するエウメネス、
北条時行に対する宗良親王、
明治天皇に対する高崎正風、
ナポレオン三世に対するアルムおじさん、
サンジャルに対するオマル・ハイヤーム、などなど。
まったくそうではない小説を書くこともあるが、自身が学者であり詩人であると思っているので、
その方が自分を歴史の中に投映しやすいし、
従って小説を書きやすい。
というより、そっちの方向にプロットが流れやすい。
読者もまたそうであるとは思わないがそうしないとそもそも小説が書けない。

『ヒストリエ』もまたエウメネスに感情移入させたいのだろう。
あれはしかし古代ギリシャを舞台としたファンタジーものだから、
そういうものが好きな著者がそういうものが好きな読者をひっぱっていけばそれでいい。

ちなみに『ヒストリエ』を直接読んだわけでなく、
いろいろ調べてそんなんだろうなと思っただけである。
私の話というのは、古代ギリシャ史と言うより、
古代アジア史とかペルシャ史とかヘレニズムとでもいうもので、
テイストは全然違うと思う。
少なくとも西欧視点ではない。