犬が嫌いだ

年取ると怒りっぽくなるというが私はまさにそれだと思う。

昔は散歩が好きだったが、
今は道を歩いていると車や自転車や他の歩行者や道路行政に腹が立ってしょうがない。
もっと車が少なくて、歩道が広くて、自転車がいないところ、
自転車がいてもいいが坂が少ないところが良い。
下り坂の自転車ほどいらいらするものはない。
坂を登っているときは自転車が前から下りてくるから良いが、
坂を下っているといつ後ろから追突されるかとびくびくする。
だから住むとしたら坂がないところが良い。
コクリコ坂とか最悪だ。
雨が降ると自転車がわいてこないのですこし気持ち良い。

自分のせいではないが図書館が混んでいて、
人から押されるともう図書館で並ぶのがいやでいやでたまらなくなる。

開かずの踏切で殺意がわくのだが、そもそもそういう踏切に近づかなければ良いわけだ。
関わらなければ存在しないのと同じだ。
いちいち腹を立てても仕方ない。
というより不快な気持ちになるのは損だ。
損はしたくない。

近所の犬が毎朝鳴く。屋内で飼っているようだが、近いのでどうしても聞こえる。
一定間隔で何分でも鳴いているのは飼い主を起こそうとしているのだ。
飼い主詩ねとか思う。
もともと犬がいなくてもいつ隣が犬を飼うかもしれぬから人間社会は恐怖だ。
法律でどうにかしてほしいがそのために政治活動をするなんてめんどくさすぎる。

タバコも犬もそうだが、昔は別に気にもしていなかった。
しかし何十年もタバコや犬で嫌な思いをするとある日からもうどんなに煙が薄かろうが遠くで鳴いていようが、
気に障って許せなくなる。
それは花粉症なんかと同じで一種のアレルギーなのだ。
年を取ればとるほどそういう精神的アレルギーが増えていく。
それを上回るほど楽しいことは増えない。

最近は酒を飲んでいてもいらいらするのでもう逃げ場がない。

今年50だが定年まであと15年も働くのかと思うと絶望的になる。
私の周りには仕事が好きな人が多いのだが、私には理解できない。
仕事が嫌いというよりは、今のポジションにいるのが苦痛なのだろう。
私をもっと必要としている職場はほかにある気がする。
私がもっと楽しく仕事できるところはほかにある気がする。
同じ仕事を続けていると仕事自体が私にはアレルギーになるようだ。

割と軽く考えていたが、私の症状は思ったより重いかも知れない。
いつまでもつだろうか。

精神的には、本が売れればかなり助かるだろうと思う。
売れるとは限らないのが問題だ。
本を書いている間は割と気力がもつが、
書き終わると一種の喪失感がある。依存とか離脱のようなものだ。
執筆活動もあまり自分を追い詰めるのは良くない。

たがよべばとて 春は来るらむ

水戸に出張したときに作った詩。今更題を考えるのが面倒なのでとりあえず無題。

> 関東水戸城 一夕偶来泊 饗宴雖招吾 憂心欲独酌

水戸にたまたま一泊した。みんなで呑もうと誘われたが、そのあと独りで飲みに行った、という話。

> いそぢこえてなほいきめやもそのことと望みも無きにはるさめの降る

今年50歳になるわけだが、
割とやりたいことはやってしまって、
今更工夫がしたいということもない。
いや、違うな、このくらい努力したらこのくらいの結果が出るというのが見えてしまっているので、
やるまえから萎えるというべきか。
仕事への情熱などなくはやく辞めたいのだがまた春が来るなあという話。

> ひさかたの 月日のすぐる かひもなし 誰がよべばとて 春は来るらむ

最終稿を提出して少しひまになった。
こういうものは期限を決めないと全然終わらない。
私の場合書いているうちにどんどん詳しくなって新しい発見があってそれを旧原稿に盛り込もうとすると、
構成全体が変わってしまって校正のスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
だから期限決めてそこまでで一旦終わりにするしかない。
これはもうしょうがないこと。

で、もっと書きたければまた書けば良いし、書き直したければ第2版で修正。

もうたぶんダメだしとかなしにこのまま3月くらいにゲラの校正があり4月くらいにでるだろう。
普通のハードカバーで値段もそれなりなやつになる。
若干反応があればいいがないともうどうしようもないなあ。
キンドルだとまた売れなかったな(笑)で済むが。

著者名は田中久三ではなく久三のところが雅号みたいなのになる。
今のところ新人として書くことになっているので、しばらくその名前は出さないが、
だいたいタイトルと内容ですぐわかると思う。

思いついた順にだんだん書き足していくのだが、
重複したのをまとめたり順番を入れ替えたり。