インターステラーみた。
オチが少し面白いかな。
はるか未来の人類が五次元に進出してとかいうあたりが反則技っぽいけど。
まあ見ても損はない。
マン博士役が火星の人だった。
インターステラーみた。
オチが少し面白いかな。
はるか未来の人類が五次元に進出してとかいうあたりが反則技っぽいけど。
まあ見ても損はない。
マン博士役が火星の人だった。
今敏の劇場版アニメ4作を全部見終わったので、感想を書いておく。
今敏監督が原作も書いた『千年女優』と『東京ゴットファーザーズ』はやっぱ雰囲気似てるのよね。
『パーフェクトブルー』『パプリカ』はやっぱり原作の骨が残っていて、
『パプリカ』はかなり勝手にいじったっぽいが、
筒井康隆原作だと言われればなるほどそうかと思わせる。
しかし『パーフェクトブルー』は原作もしくは脚色の原型がかなりそのまんま残っている感じで、
監督はもちろんアニメーションの部分はコントロールしてるわけだが、
今敏監督以外の要素がかなり濃厚だとみた。
いろんな伏線も後でちゃんと説明されている。
演劇と現実がちゃんぽんされているのでわかりにくいが、
全部見終わってみると、どこがドラマで、どこが現実で、どこが夢か妄想か、
というのがわかるようになっている。
竹内義和というサイコホラーの作家がきちんとサイコホラーを書いているからだと思う。
ごまかしがない。
もしかすると原作はもすこしストレートな話で、
それをアニメ化するにあたって少し謎解きをひねったのかな。
原作は入手困難のようだが、アマゾンの作品解説とか読むと。
『千年女優』もやはり演劇と現実をちゃんぽんにした作品で、
単なる劇中劇ではなくて、劇の中に劇を入れ子にしてさらに相互に絡めたりして、
『パーフェクトブルー』の延長線上にあるわけだが、かなりファンタジー色が強い。
一応最後までみて、ヒロインの回想や妄想がファンタジー仕立てになっている、
ってことはわかるんだが、
『パーフェクトブルー』みたいに緻密ではない。
理屈でちゃんと説明できない要素が多い。
かなり迷走している。
ヒロインが一目惚れした男を一生追いかけ続けるという設定も少し無理があると思う。
『パーフェクトブルー』と『千年女優』を見た筒井康隆が今敏に『パプリカ』のアニメ化を希望したというのはあり得る話だと思う。
『パプリカ』ではこんどは夢と現実が入り交じる。
これもストーリーはほとんど破綻しかけている。
映像のおもしろさで強引にまとめている。
『東京ゴットファーザーズ』は一種の群像劇なんだけど、
ストーリーがご都合主義すぎて、何でもアリな展開で、途中でついていけなくなる。
今敏という人が、自分でストーリーまで作ってしまうと、こういう浪花節的なものになってしまうのだろうか。
でまあ、映像的には『パプリカ』がやはり一番すごい。
でもまあこれは監督一人の力というよりはマッドハウスのスタッフがすごいんだろうと思う。
『パーフェクトブルー』は映像以外の部分は今敏の作品とは言いがたいが、
完成度は一番高いと思う。
『千年女優』はまあまあ。
『東京ゴッドファーザーズ』は映像のおもしろさはもちろんあるのだが、
あまり評価できない。
社会運動なんかやっても無駄だという感覚と、社会運動はどんどんやろうという感覚は、表裏一体なわけよね。
私の場合、社会問題にしてもらいたいことってのは、犬の無駄吠えうるさいとか、
ペットショップは虐待だとか、
戦闘機うるさいとか、
新聞配達のバイクうるさいとか、
空調うるさいとか、
喫煙者いなくなれとか、
パチンコなくそうとか、
通勤ラッシュ死ねとか、
自転車二人乗り死ね(アニメによる表現を含む)とか、
マスメディアの偏向報道死ねとか、
そういうことなわけだが、
世の中の社会運動ってだいたいは反原発とか沖縄基地問題とか憲法第九条とかじゃん。
まあやる気なくすわな。
そこでやる気なくさなかった人がむりやりつっぱしった先にあるのが社会運動だわな。
たまたま個人の欲求と社会全体が向いているベクトルが完全一致した人がいて、その人にカリスマみたいなもんがあれば、
その人は意識せずに社会運動できるのかもしれんが、そんな人はまあいない。
一般大衆というものにはベクトルはない。そろわない。
市民の声なんてものはだいたいはばらけているものだが、それが一方向に向かえば市民運動、社会運動になる。
実際には市民の声なんてそろわない。
何かやらせがある。
犬やペットショップが好きな人が多いからその規制には向かわない。
たばこやパチンコが好きな人が多いからなくならない。
エアコンがうるさいくらい平気な人が多いから、エアコンはいつまでたっても静かにはならない。
人がばたばた死んだりしないかぎりふつう自発的な社会運動はおこらない。
でも社会運動はよくおこっている。それはやらせがあるからで、
やらせを専門職とする人がいるからよね。
読者の購買意欲とかも本来はそろわないものだが、
それをそろえちゃう仕事もあって、それはふつうに営業とか広報とかマーケティングなどという。
しばらくツイッターの固定表示でカクヨムへリンクしてたのだが、
ほとんど誰も読まないことがわかった。
たぶん、私が書いたものは何でもとりあえず目を通すという奇特な人は3人くらいしかいない。
無料だろうとなんだろうと。
だから、私が書いたものを読者に読んでもらう、読ませるためには、
まったく別の努力をしなくてはならない。
洋物のKDPの新着無料タイトルを見てみるとレズビアンものばかりだ。
内容は、よく読んでないが、かなりロコツなもののようである。
これが日本のKDPになると、あんなふうな感じになるわけだ。
何を書けばよいのだろう。
正直悩む。
『エウメネス』の続編を書けばある程度は売れるだろうと思う。
そして私としては、それは、ギリシャ古典とかギリシャ哲学とかいう「ギリシャ神話」を完全に破壊するためのものにするつもりでいる。
そのために、ディオゲネスとアリストレテスをペルシャ風の僭主として描こうと考えている。
ディオゲネスはアナトリアのシノペの出身であり、彼の思想はたぶんインドかペルシャから伝わってきたものだ。
当時のギリシャ人、とくにアテナイ人がディオゲネスを理解できなかったのは当然で、
逆に、アレクサンドロスはある程度までディオゲネスを理解したはずだ。
アレクサンドロスの思想はかなりペルシャに近い。
そしてアリストテレスはまあ間違いなく、アナトリアの僭主の養子であって、
アレクサンドロスの家庭教師になったのも、おそらくはアレクサンドロスがアナトリアに進出する意図を持っていたことと無関係ではないのだ。
ここまではある程度史実に沿っている、と思っている。
だがそこから先もっと脚色して、暴れさせる。
エウメネスはアリストテレスの遺志を継いでアナトリアの僭主となる。アレクサンドロスのディアドコイ、というよりは。
そういう構成になるだろう。
アリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師だったから有名なのにすぎない。
アリストテレスの百科事典なんてものは完全に後世の捏造だ。
前にも書いたが、アリストテレスの本名はニコマコスで、ニコマコス倫理学だけがかろうじて、
彼自身か、彼の父か、彼の子か、あるいはその三代で書き残したものであろうと思う。
プラトンの出自に関して言えばほとんどすべて空想の産物だ。
クセノフォンという人はいた。ペルシャのキュロス王子の傭兵となったクセノフォンという人が。
彼はソクラテスの弟子だっただろう。しかし、クセノフォンの著作が彼自身によるものかどうかはかなりあやしい。
アナバシスは口述筆記のようなものだったはずだ。
それ以外の彼の著作はおそらく他人がまとめたものだ。
プラトンの著作も、アリストテレスの著作もおそらくそう。
当時のデモステネスとかイソクラテスは確実に存在した弁論人であり、
イソクラテスは当時としては完全な学者だった。
だがイソクラテスの人気も知名度も非常に低い。なぜか?
公の場で弁論したこともなく、その書簡もほとんどが信用するに足りない。
あとからにいくらでも偽造可能な証拠しかないのだ。
当時、アテナイに住んでいて、
アテナイのエクレシア(民会)と完全に没交渉でいられた学者や言論人がいたはずがない。
だから、もし実在するのであれば、エクレシアとのなんらかのインタラクションが記録に残ってなくてはならない。
イソクラテス、デモステネス、ソクラテスにはある。
ディオゲネスにはたぶんあると思う。
ディオゲネスはテーバイの娼婦との関係などの逸話が多く残る。アレクサンドロスと会ったのもたぶん事実だろう。
しかしプラトンとアリストテレスにはない。たぶんまったくない。逸話の断片すらない。
プラトンはソクラテスの裁判に出席していたという。ほんとだろうか。
プラトンが実在していたとしても、アテナイにはいなかったとしかいいようがない。
プラトンというのは、反イソクラテス学派(おそらくは親デモステネス学派)全体、多くの無名の学者の総和をひとりの人格で表したものだろう。
ほかのひとがどうかはしらんが私はまあ、基本的に、書き手の書きたいものと読み手の読みたいものが合致した場合に読めば良いという考え方だ。
私が読んできたものはだいたいそういうものであったと思っている。
だからそれ以外の読み方も読ませ方もしないつもりだ。
そして PPAP みたいになんかわからんが偶然売れる可能性が0でないのなら書き続けてみようというだけのことだ。
通勤というものがいやで、特にラッシュ時の通勤が嫌でたまらない。ラッシュ時に通勤しないですむように、また通勤回数を減らすために、もう少し頻繁に職場に泊まろうと考えている。
ところで職場に泊まるときにときどき配管が異様にうるさい。天井板がはまってなくて配管が剥きだしなのだが、施設の人に苦情をいったら、それは熱交換器というものであるという。
この熱交換器というもの、暖房のときと冷房のときで熱媒体(冷房のときは冷媒)を交換するのだという。熱媒体を暖房のときと冷房のときで別の液体に交換することによって節電になるというわけらしい。その熱媒体を交換するときに配管で耐えがたい騒音が出る。
でまあ、いろいろ試してみると、24時間ずっと暖房を入れっぱなしにしていればこの媒体の入れ替えが発生しないので、そうとう快適になることがわかった。廊下で盛んに音がしているときも、居室の中は音がしない。でも、暖房を切るとまたなりだすわけです。
なんでそれがわかったかといえば、今日は一日中寒かったので一日中暖房を入れていたら、一度も熱交換器が騒音を出さなかったからなんですよね。なので居室にいるときは24時間ずっと暖房を入れることにします。
まあ、いわゆる室内機のファンの音も、比較的にうるさくないとはいえるが、うるさいっちゃうるさいので、寝るときは切りたいのだが、それもできない。
それにしても、誰もいなくて、空調を使ってないときにも、この媒体の入れ替えというのは発生しているらしいんだが、こいつ「アホなのか?」と思ってしまう。ほんとに節電になっているのだろすか。思うのだが、もしかすると、運転切り替えではなくて、室温の高い低いによって、「自動的」に媒体を入れ替えているのではなかろうか。だから室温が高くなりすぎると、冷房用の媒体に切り替えるとか、室温が低くなりすぎると、暖房用の媒体に切り替えるとか、そんなあほなことをやっているのではないのか。夏はずっと冷房の媒体を入れ、冬はずっと暖房の媒体をいれておけばよいではないか。そのくらい集中管理でできないのか?それとももしかすると、すでに暖房の媒体が入っているのに、暖房を切ったり入れたりするたびに媒体を入れ直そうとしているのだろうか。そんな馬鹿じゃないと信じたいが。
世の中いろいろ要らないものが多すぎる。特に電力系。ガスはそんなうるさいやつはない気がするのだが。やっぱ電気じゃなくてガスを使いたいが、もう年寄りなのでガスは怖い。将来的にはキッチン周りは電化すると思う。でも風呂と暖房はガスで良い気がします。エコキュートとか深夜電力とか嫌い。
某G社だが、普通の作家の本も出しているが自費出版に力を入れている。
普通の作家の普通の作品は呼び水だとみて良い。
で、G社が某タレント本をだしたが、その作家は自費で1万部買い取って自分で売ったという。
で、そのやり方をもてはやしているメディアもあるのだが、
これでG社としてみたら、自費出版して1万部も買い取ってもらえれば大喜びなわけである。
で、タレントも一種の炎上商法を兼ねている。
だいたいタレント本ほどどのくらい売れるか読みやすい本はあるまい。
普通に売るよりも、すこし話題性を持たせる広報をうっただけだろ。
どうみても100%やらせとしか思えない事例だ。
kindle のプライスマッチだが、
2016年以降でも、
してもらえなかったとか、途中で切られたという人もいて、だんだん不安になってくる。
で、そういう人の作品を kobo や bw で探してみるとすでにもう存在しないようだ。
いったいどうなってるのだろうか。
私はだいぶ精神的にうたれ弱くなった。
酔っ払って変な歌をtwitterで呟き始めた頃からもうダメだったのだが、
ますますダメになっていく。
昔から他人とのもめ事はあったのだ。
しかし今は、人に責められたり、人に怒られたりすることに耐えられなくなった。
人は怒ったり怒られたりして生きていくものだろう。
それを平気でいられなくなったら、他人との交流を極限まで切断して生きていくしかない。
責められたり怒られたり、それがたまりにたまって、ある限度を超えてしまい、
それ以上責められることに耐えられなくなるのだと思う。
つまり、人に責められることに、アレルギー反応を起こしているのだと思う。
一度アレルギーを発症するともうダメだ。どんなささいなことでも気にしてしまう。
私の場合そういうことが多い。
犬がうるさいと感じるようになったのも、ある一線を超えてからだ。それまでは別にどうということもなかった。
タバコも似たようなものかもしれない。
僭主(τυραννος)と王(βασιλεύς)の違いはなんだろうかということをずっと考えていた。
Wikipedia の「僭主」を読んでもよくわからないと思う。
英語由来のタイラントだともっとわからない。タイラントには「暴君」という意味しかない。
これは一般化するよりは、古代ギリシャ世界における特有の呼び分け方だと思ったほうが理解しやすいと思う。
王というのは、血縁と地縁があって、その族長がなるものである。
だから王には血統があって、血筋というものが重視され、才能などはまあどちらでもよいということになる。
族長というものはどんな原始社会にもある。
王は、歴史に残らぬ古代から現代までずっとある君主の形態である。
人の集団は多かれ少なかれ、地縁と血縁、宗教や習俗でできているからであり、それは昔も今も大差ない。
これに対して、僭主はある程度文明が発達した社会にしか生まれ得ないはずである。
たとえば、地縁や血縁が強固なスパルタには僭主は生まれ得ない。王しかうまれない。
いっぽうアテナイやテーバイなどでは、無産階級が生まれ、奴隷や富豪などさまざまな、
地縁とも血縁とも関係のない市民がいた。
同じことはペルシャでもいえるのだが、
ペルシャのような巨大な国では皇帝独裁というものが発達した。
アテナイのようなミニチュアのような国では逆に、市民全員が政治に口出しする直接民主制というものが生まれた。
アテナイでもペルシャでも、一代で財をなしたり、あるいは領主となったり、
あるいは領地を相続したり、あるいは武力にうったえて政治権力をもったり、
戦争に功績があった将軍が民衆の支持を得て独裁を行ったり、
そういう形で僭主が生まれることがあるわけだ。
アテナイでは直接民主制もしくは貴族による寡占政治から逸脱した状態として、僭主が嫌われた。
しかし、ペルシャのように、大昔に支配者と被支配者が完全に分離した社会では、
ある日突然、一般人が領主になることがある。
それは婚姻によるものであったり、
跡取りがない領主が親しい奴隷に領地を相続させたりする。
宮廷の官僚や宦官などが王位を簒奪して領主になることもある。
アテナイではペイシストラトスとかテミストクレスが僭主と呼ばれる。
ペイシストラトスは貴族の親玉だった。無産階級をたくさん雇って農地や鉱山を開発させて一代で巨富を得た。
テミストクレスは戦争の英雄だった。サラミスの海戦でペルシャ艦隊を覆滅させた。
どちらも大衆を扇動して権力を独裁しようとしていると疑われたわけだ。
だけど、同じギリシャ人のポリスでもシチリアあたりだと全然違う。
どちらかといえばペルシャ世界と近い。
ギリシャ本土以外では、領主が血縁以外で継承すると僭主と言われる。
娘婿でもたぶん僭主扱い。
ただそれだけだ。
アテナイでは血縁や地縁が薄れてきたので、王政が貴族政に移行したのだろう。
直接民主制に移行したのは直接的にはペリクレスのせいだが、
狭いポリスで、アゴラに無産市民が集まって好き勝手いう環境が民主制というものを生み出したのだ。
でも同じギリシャ人でも、スパルタではそうはならなかった。
無産市民が発生せず、市民はみな農村にはなればなれで暮らしていたせいだろう。
kwl (kobo writing life) も bwi (book walker) も無料販売はじまった。年末年始はさんだせいで時間かかった。bwi では『妻が僕を選んだ理由』のジャンルが「画集」になっていたため(つまりジャンル指定を忘れたため)、出版できなかった。ジャンル変更して再出版となったが、1週間延びてしまった。なんか変更すると基本1週間延ばしになる。kdp (kindle direct publishing) はジャンルが結構いい加減であとから直してもらったりするのだが、bwi は出版拒否の理由になるとか、なんかなあ。
kdp だと修正して 12時間ぐらいで新しい版を出版できて、年末年始も特に変わりない。アップし損ねたり設定間違っててもすぐリカバーできる。kdp がいかに便利か痛感した。まあ、kwl も bwi も頑張ってるんだろうが。サポート態勢が全然違う。どうも怖くて kwl と bwi は修正できないよ。当面、kdp だけ常に最新版にしとく。
これで kdp でプライスマッチして無料になってくれれば、とりあえずOK。もう無料はとうぶんこの2冊だけでいい。
そんでまあ、『西京極家の秘仏』の続編を書こうかと思っているんですよ。しかも同時に『潜入捜査官マリナ』の続編にもなっている。よくあるパターンだよね。キャラとストーリー使い回すやつ。続編だから読者を誘導しやすいというのがあるし、キャラを一から説明しなくて済むから楽。同じワールドでどんどん続編を量産する。そしてとにかくひたすら読みやすく読まれやすく書く。ストーリーはだいたい決まってる。秘仏は実は贋作でしかも密輸入されたものだった。万世警察署に配属されたマリナは神保町の榎本書舗に聞き込みに訪れる、というものだ。ベタだなあ。我ながらベタだとおもうよ。でもべたべたくらいがちょうど良いんじゃないかな。
その代わりといってはなんだが『エウメネス』シリーズはどんどん難しくしていこうとおもっている。
もともと難しいんだけどね。こっちはとにかくたくさん知識を詰め込むのが快感な人向けに書く。ハルパロスを動かすのがおもしろかったので、それを今度はアリストテレスかディオゲネスでやってみようと思う。オリュンピアスとアルトニスもぐりぐりいじる。しかしそれには準備が必要だ。
東ローマ帝国が滅びる直前一番近かったのはキエフ公国だった。血筋が一番近いのはグルジアとかアルメニアだったかもしれないが、
近隣諸国で一番でかいのはキエフだったし、
その後継のハールィチ・ヴォルィーニ公国とかモスクワ公国とか。
ともかく東ローマが滅んだ後にその血統と文化を継承したのは、いまおおざっぱにいうところのロシアの中にみんな入ってる。
なんでそうなったかといえば、キリスト教がカトリックとギリシャ正教に分かれたせいで、
両者の間ではほとんど通婚がなかったわけだ。
西ヨーロッパは、のちに宗教改革があるけど、要するに、王侯はみんな親戚どうしだから、
いざとなれば外敵には団結してあたるけど、
東ローマは血縁関係が薄いから見捨てられてしまった。
おなじようにギリシャも。
だけどまあ、近代になって、西ヨーロッパが対外進出し始めると、
一度は見捨てて見殺しにしたギリシャ世界、というか、ヘレニズム世界に食指を伸ばし始める。
オックスフォード辺りの学者が一生懸命ギリシャ語の勉強をやる。
その背景にはやはり、新約聖書がもともとはギリシャ語で書かれていたからでもある。
それで東ローマが滅んで400年近くたってから、
やっぱギリシャは俺等のもんなんじゃね、という機運が西ヨーロッパで盛んになる。
イギリス人もドイツ人も夢中になる。
一方、ロシアを含めたギリシャ正教の国々は旧態依然としてたわけよね。
というより、ロシアもペテルブルクなんか作ってドイツとかの西ヨーロッパの文化文明に憧れて、
もうギリシャとかどうでも良いと思ってた。
まあそれが今ちょっと話題になってる「社会問題」化しちゃったわけで、
ヨーロッパの若者がフィーバーして、ギリシャ独立戦争とかにつながる。
ギリシャは最初独立して王国になったが、その王様がなんとバイエルン王国の王子。
その理由が、東ローマ皇帝の血を引いているからってものなんだが、ものすごいこじつけだ。
ドイツ人のヘルダーリンも『ヒュペーリオン』とかいうおかしな小説書くし。
ゲーテもヨハンナ・シュピリもギリシャ大好きだった。
冷静に観察するとかなり頭おかしい。
しかも頭おかしいってことに自覚症状が無い。
自分たちがギリシャ人の子孫だって本気でおもってる。
ギリシャ人の子孫は今のトルコ人だよな。明らかに。
ついでにイタリアもオーストリアもイギリスもフランスもロシアもどんどんオスマントルコに進出して、
領土を切りとりはじめた。
でまあ、オックスフォードで始まった古代ギリシャ研究というのはすごいものではあるのだが、
もともとはなんの根っこもないもので、
特に初期の研究はけっこうおかしなものもあり、
それをいままじめな学者は一生懸命修正しようとしているのだが、
いったん定着したステレオタイプはなかなか消せない。
キリスト教とか19世紀のヨーロッパの哲学なんかとすごく深い教義の部分で絡み合ってしまっているので、
分離できなくなっている。
で、日本なんかはただのヨーロッパの受け売りだから、よけい始末に負えない状態に今ある。