滝野邦雄氏の[明代初期の八股文について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008638605)
などを読むに、初めて「八股」という言葉に言及したのは明末清初の学者・[顧炎武](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%82%8E%E6%AD%A6)であろうか。
> 経義の文、流俗、之を八股と謂う。蓋し、成化(1465-1487。第9代憲宗成化帝)以後に始まる。股とは、対偶のことなり。
天順(1457-1464。第8代英宗天順帝)以前は、経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対句にし、或いは散文にし、初めは定型なし。
その単句題も甚だ少なし。
とある。「八股」という語が俗語(おそらくは受験用語)として始まったと言っている。
明朝は 1368年から1644年まで。
1465年というのは、建国から100年経ったくらいだからまあ中期くらいと言えるか。
初期は、四書五経などの一部が出題されて、その意味について敷衍するだけであり、
対句を使ったり散文を使ったりして、その形式には定型がなかった。
出題も、長い文章の中から一句だけ取り出したりとか、わざと一部を切り出したようなもの、
つまり暗記力を必要とするようなものはごく少なかった。
などと述べている。
八股文の題については、やはり滝野氏の[清代八股文の題目について](http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0001109912)
に詳しい。
長いセンテンスをそのまま出題することもあれば、
一部のフレーズだけを切り出して出されることもある。
要するに、八股文の題というのは、四書五経の一部をただ切り出しただけのものであり、
その語句がどういう意味を持つかを敷衍する(自分の意見を述べるというよりは、元の文章の箇所の意味を説明する)
というだけだった。
そもそも八股文と言っても、昔の漢文には句読点も改行もないから、ただずらずらと漢字を並べた文章だったわけで、
それを解析すると、八股という、対句部分と、始めや終わり、途中の散文の部分に分けられるということであり、
後にはその各パーツに「破題」「承題」「起講」などの名前が出来、
さらにたとえば「起講」の冒頭にはなんという文字を書くとよろしい、とか、そういう定型ができてきたのだろう。
明代初期の文章は後世になってから、改竄というか、勝手に手が加えられて、
さかのぼって八股文の形式に直されたものが多いらしい。
四つの対句で八股だが、初期には二つの対句(前股、後股)しかないものも良くあったようだ。
『儒林外史』にはもちろん八股という言葉が出てくるのだが、これは清朝の康熙・雍正帝の頃で、顧炎武よりはずっと後の話。
宮崎市定の『科挙』は非常に詳しく、いろんなことが書いてあるが、どうしても八股文という言葉は出てこない。
もちろん彼は『儒林外史』を読んでいて「八股」という語も目にしているはずなのだが、
おそらく、彼が主に典拠とした書物には、ことさらに「八股」という語が使われていなかったということではなかろうか。
で、宮崎市定『科挙』によれば、たとえば北京で行われる会試の一回目の試験は三日がかりだが、
一日目は入場するだけ。翌日は朝から始まり、三日目夕方まで解答してよい。
三つの四書題と一つの詩題が出る、などと書いてある。
通常は一日で書き終えて次の日は答案を出して帰るだけだが、夕方まで粘っても良いということらしい。
というよりは、一度に退場はできないから、三日目は退場にかかる時間込みということになる。
『明代初期の八股文について』に出てくる答案例を見るに、そんなに長文というわけではない。
どれもこれも、せいぜい200字程度に思える。
後に多少長くなったとしても、400字程度ではなかろうか。
それを一日に三つと、後は韻を指定された詩を一つ作れば良い。
時間配分で言えば一題に三時間もかければ十分だろうと思う。
宮崎市定が言うには、清朝の初期は、征服王朝であったから、漢民族から官僚を登用するのに、
科挙が役に立ったが、次第に役人がインフレーションになり、
学力も向上し技巧も発達してきたので、
試験で選抜するのがだんだんに困難になり、
問題も複雑高度になって行った。
また、試験のみによる登用というのは、教育にかかる費用をすべて民間にゆだねるということだから、
結局は金持ちしか試験には合格しなくなる。
明治の日本では国の所得税の十倍くらいの村税が課され、
その村税のほとんどは小学校の維持に使われた。
このように真に才能のある人材を発掘するには、貧乏人でも教育を受けられるようにせねばならない、
などと言っている。
それもまあそうかもしれない。