東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、
宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。
割と面白い。
特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、
完本は伝わってない。
ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。
北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

> ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり

> 世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして

> 山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。
さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。
泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、
六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。
残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。
御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。
武人としての能力はどうだっただろうか。
棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、
泰時と同時代人だったと思われる。
熊谷直実は蓮生と呼ばれる。
蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。
でもまあ全くの別人だと思う。
熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。
少なくともネットをぐぐっただけではわからん。
こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、
ネットで調べられるようにならんものだろうか。
調べてみたい気はあるのだが、
調べるのに要する気力に見合うかどうか。

新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の[新類題和歌集](/?p=4842)をだらだらと読んでいたのだが、
後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父)
などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、
通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、
勅撰集には当たらないとされているのだが、
私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。
21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。
後水尾院の歌は確かに良い。

> 梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

> たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。
しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。
皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。
武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、
幸仁親王がただ幸仁、
太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。
普通勅撰集には官職名を添えるものだ。
藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、
藤原定家が権中納言定家となるようなもので、
中には官職しか書かれない場合もある。
実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。
親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。
霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。
そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。
和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、
どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、
近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。
windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。
なんとかしてもらわないと困るのだが。

発泡酒

思うに昔は澱ができようができまいが、
発泡しようがしまいが、
瓶詰めして出荷していたのだと思う。
瓶詰めして二次発酵が進むとアルコール濃度が高くなるのと糖分が減ることによって酵母は自然に死に、
発酵はとまる。
そしておそらく澱ごと飲んでいたか、
飲むときにデカンタージュして澱がある程度沈んでから、上澄みだけ飲んだ。

日本酒でも火入れしないで発酵させたままのやつは発泡している。
マッコリも、たぶん大半はわざと炭酸ガスを入れているんだと思うが、
どぶろくの一種であって発泡している。

ビールがなんで発泡しているかなんて誰も気にもしないが、おそらく密閉した容器の中で発酵させているからだろう。
ランブルスコが作られるイタリア式のスパークリングワインの作り方に近いと思う。

瓶の中に澱はできるだけ残したくない、しかし発泡したままにしたい、
という要望からシャンパンはできた。
シャンパンが一般化することによってスパークリングワインとそれ以外のワインがわかれたのではなかったか、
ということだ。
ビールだって、イギリスのエールだって、二次発酵用の密閉容器が発明されなければ発泡するわけはないのだ。
それらはかなり近代になってからの話だろう。
近代以前はどんなお酒も作り方は似たりよったりで、おそらくはどれも微発泡で、
醸造してから一年、長くて三年くらいで飲んだはずだ。
蒸留酒はまた別として。

何が言いたいかといえば、
近代以前の素朴なワインが飲んでみたい、
そんなものは無いというなら、そういう古態をとどめたワインが飲みたい、ということなのだ。

清酒の製法は江戸時代からさほど変化してないと思う。
度数はだいぶ高くなっていると思うが。

ワインの謎。特にフランスワイン。

フランスのワインってやっぱなんか変だと思うんだよね。
長期間熟成させたワインを好むじゃん、フランスって。
古けりゃ古いほどありがたがって値段も高くなる傾向があるじゃん。
そうすると長期熟成した方がうまい葡萄の品種ばかりがもてはやされると。
もはや骨董品扱いなんだよね。
何年ものはよくて何年ものはできが悪いとか。

しかし、私にしてみるとそういう熟成させた、濃くてくどいワインは嫌いなんだよね。
かといって甘いジュースみたいなワインも嫌い。
両極端にふれきっていてその中間が希薄。

たぶんその中間くらいのワインが私は好きで、
たまたまランブルスコは葡萄の品種的にも醸造方法的にも私に向いていたのだと思う。

みんながみんなフランス風のワインを飲む必要はない。
イタリア人もそう考えてるだろう。
イタリアにはイタリアのワインの歴史があって、自分がそれに合ってると思えばそういう飲み方をすればいい。
軽くて飲みやすいワインが良い。

長期熟成をありがたがるのはもともとはウィスキーなんかの蒸留酒だったと思うんだよね。
ところがフランスではそれを醸造酒のワインでやった。

日本にも梅酒や古酒をありがたがる文化がないわけではない。
しかし梅酒はリキュールだし、古酒はそれほどまで好まれない。
もし古酒の方が良いという話になり、五年物、十年物、五十年物などがありがたがられるようになったら、
日本の清酒というものは全然違った酒になっていただろう。
それはたぶん紹興酒みたいなものになってしまったはずだ。

フランス料理もやたらと時間をかけて秘伝のソースみたいなの作ってステーキにかけたりする。
フォアグラなんかもかなり異常な食材。
とにかく脂と肉。
イタリア料理ではそんなことしない。
素材の新鮮さを活かした素朴な料理を作る。
せいぜい保存食としてハム作るくらいだろう。

北王子魯山人も言ってたことだが、フランス料理というのは、過大に評価されている。
魯山人がイタリア料理を知っていたらきっと意気投合したのに違いない。

イタリアはフランスよりも長い歴史と古い文化を持ってるから、
フランス料理やフランスワインが異常な進化を遂げてもまったく気にしなかった。
たぶんフランスをここまで持ち上げたのはアメリカだ。
イギリスには大した食文化がなくドイツやイタリアは敵国だから、フランスに憧れるしかなかった。
フランス人だって毎日あんなくどい料理を食べくどいワインを飲むはずもない。
アメリカ人がわけもわからず変に持ち上げたせいじゃないのか。
オーストラリアもアメリカと同じ。
オーストラリアワインのサイトを調べて気づいたことだが、
このワインにはこんな香りと味わいがあってこういう料理に合う、などという解説がくどいほど書いてある。
しかしイタリアワインのサイトにはそんなくどい説明はない。
そんなことにこだわるのはフランスと、フランスに影響を受けたアメリカと、
アメリカ商業主義に毒された多くの国々なのだ。

オーストラリアワインはフランス原産の葡萄の品種を節操なく栽培し、時にブレンドしている。
ようは、フランス風のワインを作ろうとしているのだ。
従ってフランスの基準と価値観でワインを評価する。

イタリアはそんなことにはたぶん無関心だ。
イタリアがなければ私はワインを飲みたいとは思わなかったはずだ。

この
[Wolf Blass](http://www.wolfblasswines.com/en.aspx)、
[Cavicchioli](http://www.cavicchioli.it/ing/lambrusco.php)、
[Medici Ermete](http://www.medici.it/eng/)
などのサイトを見比べただけでわかるはずだ。

アジアとエジプト

ブログのリンクをツイッターにはろうかどうか悩んでいる。宣伝にはなると思うが、このブログはおもいついたことをそのまま書きためておくところで、永遠に未完成の書きかけなのだ。後から書き直すかもしれない。

そんなことを言えばKDPで出版したものも後でわりと書き直すほうなのだが、どうもブログを宣伝するのは気が引ける。

アドンとエデンなどというものを昔書いていてすっかり忘れていた。なぜ今更思い出したかといえば、JetPackというwordpressの統計プラグインのおかげである。

アラビア語ではエデンをアドンという。ヘブライ語で主をアドナイという。アドナイはアドンの複数形。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアメンホテプ四世による、エジプトのアトン信仰にさかのぼることができる。フェニキア人の神にアドニスがいる。これらはみな同じであると仮定するとどういうことになるか。

エジプトにとって東とはほぼ間違いなくアジア(狭義にはメソポタミア)のことである。
つまり、エジプトにおける一神教とはメソポタミアから輸入された舶来の宗教であったといえる。

思うにエジプト新王国はアジアの征服王朝ヒクソスから独立して生まれたものだ。エジプト古来の文化や宗教が復活し、アジアとエジプトという対立概念が生まれた。外圧によってエジプトがエジプトを自覚したと言ってもよいかもしれぬ。アトン信仰はヒクソスの時代にすでにエジプトにもたらされていたかもしれぬ。いきなりエジプトに来たのではないかもしれぬ。

つまり、エデンとかアトンというのは、もともとは、エジプトの神に対する、メソポタミアの神、のことを言っていたのではなかろうか。エデンというのは、メソポタミアでは単に平原を表す普通名詞である。エジプト人はメソポタミアのことをエデンと呼んでいたかもしれない。エデンの神のことを、だんだん略して単にエデンとかアドンと呼んだかもしれない。

エジプト新王国はしだいにアジアのミタンニ王国と同盟するようになった。さかんに王族どうしで婚姻するようになった。これが王家と神官たちの宗教的対立を産んだだろう。エジプト国粋主義の神官たちと、アジア由来の神を信仰する王族。

ミタンニ王国は実はヒクソスの末裔であるかもしれない。エジプトはいったんヒクソスの支配を脱したのではなくて、ヒクソスによる支配はある程度残存していたのではないか。
第15王朝から第18王朝まで、王朝の交代という不連続な変化が起きたのではなく、エジプト固有勢力とアジア勢力の連続的な均衡が続いていたのではなかろうか。少なくとも当時、よりエジプト的な部族や人民、よりアジア的な部族や人民が、エジプトに混じり合って住んでいた。アジア的な部族とはつまり「エジプトへ下ったイスラエルの子ら」である。

イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。

エジプト新王国はまさにそのような状況だっただろう。

アジアとエジプトの対立が極端な、最終的な形で現れたのがアメンホテプ四世による宗教改革であった。エジプト古来の神と、アジア由来の神の対立によって先鋭化したものが一神教であったはずだ。この時期、きわめてリアルな彫像が作られたのも、アジアの影響だったはずだ。いきなりエジプト人の中からああいうものが出てきたと考えるほうが不自然で、どこかから輸入されたアートだと考えるべき。リアルと言えばギリシャ彫刻だが、その由来も案外同じかもしれぬ。このエジプト第18王朝はエジプト保守勢力によって途絶えた。そのとき王族がエジプトを脱出したのが出エジプト記の記述に相当する。おそらく、旧約聖書に記されている多くの古代の事績はまずアジアからエジプトにもたらされ、エジプトから迫害されて、ユダヤの地に残存したのだろう。

フロイトも指摘しているように、割礼はアフリカで広く見られる風習であって、アジア的なものではない。アトン信仰がエジプトの宗教となった結果、土着の割礼という風習を何かのきっかけで採り入れたと考えるべきだろう。

スーパーサイズミー

スーパーサイズミーという映画はただ30日間、
スーパーサイズのハンバーガーを食べ続けたというだけの映画ではなく、
アメリカの学校給食事情などが取材されていて興味深い。

アメリカの通常の公立学校の給食というのは、いわば自由主義であって、
おそらく国家は給食業者を恣意的に選別してはいけないという思想に基づいているのだろう。
だから業者はチョコレートでもポテトチップスでもなんでも売る。
もちろんそうではない、ダイエット食のようなものも売る。
どの食べ物を選ぶかは子供の自由、あるいは子供をしつける親の責任、ということになる。

で、もし、子供の体重とか健康をきちんと管理したい親は、
子供をそのようにしつけるか、
あるいはそういうしつけをしてくれる私立の学校に通わせる。

その結果子供も大人もどんどんデブになっていくのでこりゃまずいんじゃないのという考えが、
「良識あるアメリカ人」に芽生えてきた。

実際アメリカの飲食店はどれもこれもスーパーサイズでシズラーやデニーズなども日本に比べればはるかにスーパーサイズで、
Tボーンステーキとかばんばん出している。
マクドナルドだけがスーパーサイズなわけではない。

一方日本では一部にやたらと大盛りの焼肉丼とかラーメンを食う文化があって、
それがアメリカのスーパーサイズ文化と或る意味共通していている。

今の秋葉原に行くと、これはアメリカをバカにはできぬと思う。
アメリカ以上にバカである。
昔はこうではなかった。
秋葉原は比較的食文化的には貧困な町であった。
食事をしようと思えば御徒町・上野・御茶ノ水、あるいは神田まででかける必要があった。
あるいは昭和通り沿いに多少の飲食店があったくらいだ。
もちろん皆無ではなくて昔から多少の居酒屋や定食屋などはあったわけだが、
わざわざ秋葉原に食事をしにいくという風潮はなかった。
夜八時を過ぎると閑散とした町になる。
ある意味神保町もそんな町だった。

今の秋葉原はあれは何だ。
電子部品やPCパーツを売る店の隣にラーメン屋やハンバーグ屋があってむさくるしい男たちが行列している。
あれを見苦しいといわずしてなんといおう。
ラーメン屋もじゃんがらが出店したころはまだかわいかった。
いまじゃ二郎もどきがどんどん店をだしている。
このまま秋葉原が進化しつづけたらと思うと恐怖だ。

電子部品やPCパーツや、せいぜい同人誌なんかを売る町だったころはまだよかった。
コスプレしたメイドがちらほら恥ずかし気に歩いてたころはまだよかった。
24時間365日不夜城のコミケみたいな町になってしまうのではなかろうか。
なんかのテーマパークみたいに隔離したほうがいいんじゃないか。

ま、それはそうと、あれは非常に偏見に満ちたプロパガンダ映画にすぎない、ということは言っておくべきかもしれない。
あれを見てハンバーガーは悪いと信じる人はプロパガンダに弱いと自覚すべき。
ああいう恣意的なあおりをドキュメンタリー映画などとと言ってほしくはない。

靖国神社合祀

A級戦犯の合祀ということがとかく問題とされるが、
[富田メモ](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E3%83%A1%E3%83%A2)を見る限りでは、
昭和天皇が不快感をしめしていたのは、
軍人以外の政治家や大臣までも合祀するようになって、
靖国神社が政治的な意味合いをもってしまい、
政治から距離を置く立場の昭和天皇としては、
参拝することが困難であると考えたのではなかろうかと思う。

明治天皇の時代は靖国神社は戦死した軍人だけが祀られていた。
国のために戦って死んだ軍人を祭る神社であるから、昭和天皇も参拝した。

ところが満州事変のころから戦死者以外にも公務中に死んだ人、つまり政治家や公務員などが殉職した場合にも合祀するようになった。
もし私が昭和天皇の立場ならこれは非常に嫌だと思う。
政治責任や戦争責任などがどうしても絡んでくるからだ。

> 明治天皇のお決めになったお気持を逸脱するのは困る

とはそのことだろう。
A級戦犯とは言っても昭和天皇は東条英機を高く評価しているし、彼は紛れもない軍人であるから、
東条英機が合祀されることに昭和天皇が反対するわけはない。

> 米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり

と昭和天皇が認識しているのであればむしろ堂々と参拝するのではないか。

昭和天皇は、
国家総動員法などで、挺身隊や、原爆でなくなった動員学徒などの民間人までもが、
なし崩し的に靖国神社に祭られてることを快く思っていなかっただろう。

> 私は或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、
易々と、松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから 私はあれ以来参拝していない。

問題なのは靖国神社が合祀ということをどんどん拡大解釈していって歯止めがなくなったことだろう。
その傾向は戦前からあったわけだが、とりわけ、
参拝しなくなった直接の原因は当時の宮司の[松平永芳](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%B8%E8%8A%B3)個人に対する不信感・不快感があったのではないか。
誰でもかれでも靖国神社に祭るということになり、そこに天皇も参拝するということになれば、
戦争責任というものはどんどん曖昧で混沌としたものになってしまう。
そういうなれ合いのようなことを、昭和天皇は嫌う。
少なくとも私は嫌う。
軍属と民間人、軍属とシビリアンの区別は厳しくつけるべきだ。

> 国民一人一人の「個の連帯」に基づく国民護持・国民総氏子で行くべきと強く提唱し、靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。

いやいや、それこそがまさに政治利用であるし、国民総氏子などナンセンスだ。
危険思想だ。
まさに親の心子知らずであり、昭和天皇の逆鱗に触れていることに無自覚なのだろう。

むろん、A級戦犯だから合祀しないとか、
A級戦犯の中でも特定の誰それは合祀しないなどいうのは、
明らかに恣意であってやってはならない。
要するに、靖国神社を戦死した軍人を祀る神社に限定すれば良いだけの話ではないのか。

> わたしとしては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと堪えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことをも忍ばねばならぬと思う

昭和天皇は誰かを戦争責任者として処罰することは耐えがたいと考えていた。
しかし戦争指導者、特に国務大臣には戦争責任があるのは当然だ。
東条英機などはたまたま軍人でたまたま時局に当たるために総理大臣になったのであって、戦犯というのにはあたらないと思うが、
ここまでは戦犯でここからは戦犯ではないという線引きをするのは不可能だろう。

どうも問題の論点がずれているように思う。

smart tv box

やはり現時点においても、最も効率の良いユーザーインターフェイスはPCのキーボードとマウス、
そしてGUIとしか言いようがない。
その次に来るのはゲーム機のコントローラーか。
スマホというのは、PCの代用というよりはテレビのリモコンがやや進化したものと言ったほうが当たっている。
あれが便利だと思うのは錯覚だろう。
一種のバカチョンデバイス。

昔のハードディスクレコーダーの時代から、AV家電のユーザーインターフェイスはタコだった。
それに比べれば今のリモコンは長足の進歩を遂げた結果なわけだが、
もとがあまりにもひどすぎたから良く見えるだけで、
未だにテレビ周りのインターフェイスはひどい。
テレビは年よりが見るものだから、あまり複雑な機能がついていると操作できないというのはあるだろう。
ならばテレビを捨ててすべてPCで視聴したいところだが、
既得権益というやつのおかげでPCでテレビを見るのは非常に不便である。

つまり、ユーザーインターフェイスを良くしようという努力が、
意識的にも無意識的にも妨げられているのであって、
こういうバカなことをするから日本はアップルに先に ipod や iphone や ipad なんかを作られてしまうのである。
頭悪すぎる。
たぶん技術者というよりか、経営者とか業界とかがバカ過ぎる。
改善の余地がありまくりすぎる。

まず、この au 製と思われる smart tv box。
ネットワーク的には普通の光回線には及ばない。
そりゃそうだろう。テレビの視聴や録画が優先されていて、
しかも3チャンネルもあるんだから、インターネットが割を食うというわけだ。
それは値段相応なので仕方ないとも言える。
本体の基本性能はまあまあだ。
若干不満はあるが、よく頑張ったといえる。

ひどいのはリモコンだ。誰がこんなものを設計したのか。
特にひどいのは十字キーで、ちょっとずれると上下左右を判定してくれない。
頭が悪すぎる。
少しはゲームコントローラーを見習えば良いのに。
あと、ホームボタン、戻るボタン、再生ボタン、早送りボタンなど、
使用頻度が高いボタンが極めて操作しにくい。
頭が悪すぎる。
できればリモコンだけでも買い換えたいのだがどうにかならんか。
で、スマホのアプリでも操作できるというのに少し期待したのだが、
このアプリの出来も全然よろしくない。
レイテンシーが悪すぎるというか。
とにかくすべてが不満だ。

ユーザーインターフェイスも地上波を優先しすぎていてむかむかする。
CMを切り抜くなどの編集機能が無いのかあるいは貧弱すぎる。

近頃は hulu とか apple tv なんてのが出てきたらしいからそっちに切り替えようかと思うが、
番組内容は catv と同じかそれよか貧弱。
vod なのは良いが、
catv も普通は hdd に予約録画して溜めておいたやつを見るわけだから、
大差ない。

便利なので以前よりかたくさん映画を見るようになったが、
使えば使うほどひどさが見えてくる。

ていうか、ビデオレンタル屋は結局ツタヤの一人勝ち状態に落ち着いたわけだが、
そのツタヤですら、あと10年もつかどうかだろう。
何でもネットでみりゃ済むんだから。
地上波放送はさすがになくならんだろうが、
ネットでコンテンツ拾って見ればいいんで、
私としては邪魔なだけだ。
速やかに衰退してほしい。

岩佐美代子

※もう少しリライトする必要があるとは思いますが、
趣旨はだいたいこんなかんじです。

後醍醐天皇が統幕に失敗して隠岐の島に流されると、
光厳天皇が即位した(1331)。
このときはまだ鎌倉幕府が存続していて、三種の神器もあり、皇太子にも立てられていたので、
光厳天皇の即位には特に問題がない。
光厳天皇を正統な歴代天皇の一人に数えないほうがおかしいと思う。

ところが幕府が倒れて北条氏が亡び(完全に血脈が絶えたわけではない)、建武の新政が始まる(1333)と、
北条氏の後ろ盾を失った光厳天皇は廃位され、後醍醐が復位する。
光厳天皇は即位していなかったことにされてしまい、後醍醐も重祚したのでなくて、
ずっと天皇だったことになってしまうが、これもかなりまずい解釈だと思う(しかし小一条院の前例がある)。

建武の新政が失敗して後醍醐が吉野に移り尊氏が京都に入ると、
光厳院は弟を立てて光明天皇とする。
このとき京都に三種の神器があったかなかったかよくわからないのだが、
後鳥羽天皇の即位にも三種の神器はなく、
上皇の院宣だけで即位したわけで、特に問題とは言えない。
このとき後醍醐天皇と光明天皇の二人の天皇がいたわけで、南朝と北朝ができたのは光明天皇からなんだが、
どちらにも正統性がある。
同じことは後鳥羽天皇と安徳天皇のときにも言える。どちらにも正統性があるとしか言いようがない。
その次の崇光天皇にも正統性に問題はない。

しかし後光厳天皇の即位は上皇の院宣もなく三種の神器もなく、
継体天皇の前例に倣うというまったく根拠のない理由で尊氏が即位させたものであり、
その次の後円融天皇とともに、正統性がない、というのが私の解釈である。
しかしさらにその次の後小松天皇は義満によって南北朝が合一したのちの在位期間には正統性がある。

南朝の後醍醐、後村上、長慶、後亀山天皇には正統性がある。

とまあ私の解釈ではこんな具合なのだが、
岩佐美代子の専門は玉葉和歌集と風雅和歌集であって、
このうち特に風雅集は光厳院が親撰した(1346)のだが、
このとき北朝は光明天皇、南朝は後村上天皇。
なので彼女は南北朝というややこしい時代に巻き込まれてしまう。

明治に「南朝だけが正統」とされて、光厳天皇が北朝とされ、
光明、崇光天皇の正統性まで否定されてしまったのは不幸なことであった。
だからと言って北朝のほうが正統だという主張はおかしいと思う。
というかそこで議論するのは不毛だと思う。
どっちの主張も同じくらいにおかしいから議論自体ナンセンスだ。

風雅集が無視されてきたのは、北朝の歌集だったからではない。
足利氏にとっては北朝の方が正統なわけだし、
足利幕府を継承する形の徳川幕府もまた北朝を正統だと思っていただろう。
少なくとも江戸時代初期までは、風雅集が北朝だからという理由で排除されたはずがない。
しかし江戸初期までに京極派は完全に廃れてしまっていた。
だから玉葉集も風雅集も、ほとんど無視されたのである。

南朝にも京極派以上に京極派的な歌人はいた。
後醍醐天皇や後村上天皇がまさにそういう歌人だった。
後鳥羽院はよくよく見れば単なる秀才であり、後醍醐天皇には及ばない。
後村上天皇は明らかに天才である。
岩佐美代子が後村上天皇の歌に一切言及していないのは惜しい。

前衛的・実験的・革新的な和歌というものは、いわゆる二条派とくくられる歌人の中にもいたわけである。
どちらかと言えば京極派のほうがより前衛的だったというにすぎない。
二条派と言われる正徹や細川幽斎もどちらかと言えば革新的で、京極派に近い。
京極派にも二条派にもマンネリズムに抵抗した歌人はいたのだ。

京極派からも、二条派からも、前衛は失われ、保守化していったのは、
やはり足利幕府の責任である。
足利将軍は和歌が大好きなので、
将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという勅撰集の量産体制が整った。
そしてこの三位一体の勅撰集量産体制こそが、和歌の独創性や創造性を殺してしまったのである。
足利将軍家は和歌音痴でもあった。
藤原氏も天皇家も足利に取り込まれてどんどん凡庸になっていく。
そして、応仁の乱によって足利将軍の権威が失われ勅撰集も編まれなくなると、
正徹のような個性的な歌人が生まれてくるのである。
尊氏から義政まではもっとも勅撰集が量産されたが、和歌の暗黒時代だった。

足利幕府は北朝側ではないか。
南北朝が合一した後もずっと京極派の歌集を作ればよかったではないか。
でもそうしなかった。
足利氏は歌が大好きだったが歌を詠む才能がなかった。
才能がないものに京極派の歌は詠めぬ。
天才でなくては京極派の歌は詠めぬ。
為氏・為世、頓阿あたりの、つまらぬ歌を量産した。
たまたま為氏・為世が二条家の血筋だったので二条派と呼ばれたのだが、
ようするに凡夫の歌が二条派ということになってしまった。
ただそれだけなのだ。
香川景樹などはかなり京極派に近い。

わかりやすい例をあげると、俵万智の歌は、結局は俵万智にしか詠めなかった。
俵万智をまねした凡百の歌人たちの歌はただ現代語で歌を詠んだというだけ。
ただそれだけでは優れた歌にはならない。
京極為兼もまた俵万智と同じ。
凡人は形式を踏んだ方が良い歌が詠める。

玉葉・風雅集が北朝なので無視されたというのはまったくの被害妄想だ。少なくとも江戸時代までは。
明治・大正・昭和期には、たまたまそうであったかもしれない。
宣長が京極派を嫌っていた理由はもしかすると京極派が北朝だったからかもしれない。

古今、新古今と来て、和歌から次第に即興性や写実性が失われ、形式的な堂上和歌となっていく過程で、
玉葉・風雅は異質すぎた。
凡人にはまねできないのだ。
凡人は参考書を読まなければ歌は詠めないのだ。
尊氏は北朝だから、京極派の歌を詠まねばならなかったはずだ。
しかし尊氏には二条派的なつまらぬ小心翼々とした歌しか詠めなかった。
歌を自分で詠んでみたらわかる。
京極為兼みたいな歌を詠むにはそうとうな自信と才能が必要だ。
才能というより霊感。
理屈ではない。
ほんとうに良い歌は理屈で説明できないところから生まれる。
尊氏はおそらく理屈でしか歌を詠めない人だった。
おそらく歌の才能はまったくないが歌が好きで好きで仕方なかった尊氏には為兼のまねは不可能だった。
尊氏の子孫たちも彼にならっただろう。

岩佐美代子の理論では、
後醍醐天皇や後村上天皇が京極派的であり、尊氏以下の足利氏が二条派的なのはなぜかということを説明できまい。

いずれにせよ北朝だけが正統だ、という主張も、南朝だけが正統だ、という主張と同じくらいに間違っていると思う。

岩佐美代子という人も自分では和歌を詠まぬ人だったらしい。
彼女の父などは良く歌を詠んでいたようだが。

彼女は永福門院の歌が好きらしい。
例として挙げてある歌はたしかにすべてすばらしい。
岩佐美代子が「木々の心花の心」で主張していることはまことにもっともである。
定家だって貫之だって俊頼だって京極派的な歌は確かに詠んでいるのである。
どんな二条派的な歌人だってひとつや二つは京極派的な歌は詠んでいるはずだ。
俊成や西行や実朝や為家を京極派的ということもできる。
尊氏は全然京極派的ではない。
それを見分ける能力は岩佐美代子にはあると思う。
ただ私は永福門院よりかは京極為兼の歌にひかれる。
やはり岩佐美代子は女であり、私は男だからだろうと思う。

玉葉集は為兼が、風雅集は光厳院が選んだのだが、
玉葉集はプロの歌人が選んだので風雅集よりもずっとできがよい、
などと言っているのは面白い。
伏見院もそんなほめてない。そりゃそうだろう。
まあ、まともなのは為兼と永福門院くらいであとの京極派の歌人にそんな影響力のある人はいない。
だから自然と衰退してしまったのは仕方ないだろう?

崩し字が読みたい。

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[裏柳生口伝](/?p=8615)
はおそらく裏柳生口伝でググった人がみんな見に来てるのじゃないかというくらい、
最近のびが速い。

伊東静雄は
[これ以上にないくらい完璧にデジタルテキスト化した人](/?p=16481)
がいたのではずかしくて非公開にした。
これはすごい。
青空文庫に収録すべきだと思う。
収録しなくても永遠に(?) archive.org で読めるだろうとは思うが。

最近ランクが上がってきているのが
[明治天皇御製集](/?p=2344)。
これは「歌詠みに与ふる物語」
というのを書いている最中に調べたことをリアルタイムで書いたもの。
「歌詠みに与ふる物語」は現在非公開。
高崎正風を主人公にした小説だが、なかなかうまくまとまらない。

> 明治天皇や昭憲皇太后の歌をせっせと記録したのはたぶん税所敦子だろうと思われる。高崎正風はそんなにまめな性格ではないだろう。

そう。あの膨大な量の明治天皇・昭憲皇太后御製が残ったのは、
税所敦子という女官のおかげだと思う。
孝明天皇も光格天皇も、江戸時代の歌が好きな天皇はみな、
膨大な歌を詠んだが、それをきちんと残してくれる人がいなかった。
ただそれだけなのだと思っている。

[明治天皇の和歌の由来](/?p=11868)。
そう、これなんだよね、これを考え始めてからわからなくなった。
だから書けないの。
明治天皇は誰の影響を受けてあのような歌を詠んだのかということ。
まだ誰もその正確な答えをみつけていない。

薩長閥の高崎正風から香川景樹の影響を受けた、それがすべてだ、と言うのはたやすい。
高崎正風や八田知則、香川景樹だけでは説明つかないところが多い。
父孝明天皇の影響もよくわからない。
孝明天皇は光格天皇の影響を受けているのではないかと思うがこれもよくわからない。
光格天皇御製を調べようと思っても崩し字のテキストしかなくて私には読めぬ。
崩し字が読めるようになりたい。

高崎正風が自分の前任だと言っていた三条西季知の影響はほとんどないと思う。
一番初期には后・一条美子(昭憲皇太后)の影響を受けたことは間違いないと思う。
明治天皇が即位して一条美子を后としたころには皇后の方がはるかに歌はうまく、
すでにほとんど完成の境地に達していたからである。

[蛍雪苦学の志を断って](/?page_id=10926)。
この頼山陽の息子の頼三樹三郎が作った「百印百詩」はその名の通り百あるはずなんだが、
デジタルテキスト化されているのはその一部であり、
全部読もうと思うとやはり手描き文字のテキストしかない。
読めない。
とても困る。
今更書道をやっておけばよかったと悔やんでも間に合わない。

[池田雅延氏 小林秀雄を語る](/?p=14163)。
これも誰がどこから見つけて読みに来ているのだろうか。
ランク入りしている。

全体的に、和歌か国学の記事が読まれているのは、良い傾向だと思う。