原音至上主義

久しぶりに『エウメネス』を読み直してみる。
しばらくして読むといろいろ忘れているので新鮮に読める。
だいたいこんな感じで間違ってないと再確認する。

ギリシャはヘッラス、ヨーロッパはエウロパ、
パピルスはパピュルスと表記すべきではないのかなどと思い始める。
しかしギリシャをヘッラスに統一すると、
ギリシャ語はヘッラス語になり、
あるいはヘッレニーケーなどとなるのだが、あまりにもわかりにくい。
ギリシャというのはラテン語であるから、
当時のギリシャをギリシャと呼ぶのはほんとはおかしい。
きわめてよろしくないことなのだがあまりに不便だ。
めんどくさいのでほっとくことにした。

文中「ヘーレスポントス海峡」というのが出てくるが、
これは現代ではトルコ語でダーダネルス海峡。
本来は Έλλης πόντος だから直訳すれば「ギリシャの橋」
という意味だ。
これまた訳しにくい。
原音至上主義ならば
「ヘッレースポントス海峡」とすべき。

しょうがないので、
パピュルスとヘッレースポントスは次回なんかの機会に修正することにする。
どうも些末なところばかりいじっている印象がしてよろしくない。

他人事だが『ヒストリエ』ではアレクサンドロスがギリシャ統一のためにビュザンティオンを攻めるという。
なんだかよくわからない。
マケドニアによるギリシャ統一は父フィリッポスの代で終わっているはずだ。
何がやりたいのかよくわからないのだが、もしかして、
カイロネイアの戦いみたいなことを描きたいのだろうか。
テーバイ、アテナイがペルシャと組んでマケドニアに対抗し、
ペリントス、ビザンティオンで戦いが起きたというのは、
カイロネイアの戦いの前のことだ。
要するにギリシャのポリス間の戦いまで描いて終わらせたいのだろうか。
もともと史実とはあまり関係なさそうだったが、
『ヒストリエ』という題名からますます離れていきそうだ。

BNP

BNPの値が6月急に252とかになって、
心房細動とか出たりとか心肥大だとか言われてあせったが、
毎日ちゃんと薬を飲んで今日の検査にのぞんだら、
4.2に下がっていてほっとした。
BNPは50超えると心不全とか言われてて、
アンカロンという薬が不整脈を抑えてくれると私の場合それが回復するらしい。

思うに、心房細動は30歳頃から出ていたから、
私の心臓というのは、昔から不整脈がでやすいたちだったのだろう。
不整脈のせいで心臓に負担がかかり、心不全となって、肺水腫となった。
さらに不整脈が進行して心室細動となった。

アンカロンを1日1錠では足りなかったが、
1日2錠飲むようになり、BNPが下がり、症状が改善した。
薬飲むのをさぼってアンカロンを1日に1錠かそれより少なく飲むようになってまた
BNPの値が高くなった。
1日2錠忘れずに飲むようにしたらまた治った。
ということだろうと思う。

世の中戦争かなんかになってアンカロンが入手できなくなったら、
私はたぶん数ヶ月で死ぬのだろうと思う。
だけど毎日薬飲まなきゃ死ぬ人なんてたくさんいるわけだし。
人工透析してる人もいるし。
まあ、よくいる病気持ちってことだわな。
国が認めた重病人。

宗教というのは、霊長類の脳があまりに肥大しすぎて、
特に人間の場合はそれが顕著で、
脳の産物が現実世界にあふれ出してできたものであろうと思う。
人間の最終目標というのは、脳の中の世界をそのまんま現実化することだろうと思う。
自我というものを永遠化することだと思う。
宗教というのはその不完全な段階に相当するのだろう。

暑いときを涼しくするとか、寒いときを暖かくするとか、
食べ物を安定供給するとか。
そういうことは、宗教ではないだろう。
しかし、精神を病んだときに心を救済するというのは宗教だろうと思う。
カウンセリングとか臨床心理学などという言い方もするのかもしれない。
心を救済するには事実や真実でなく、虚構であってもよいらしい。
そこが、エアコンを発明するとか、
農産物の収穫を増やすなどということと根本的に違うところだろうと思う。

肉も卵も食べなかったがコレステロール値が下がらない。
思うに、コレステロール値というのは体重に相関するのだろうと思う。
要するに、コレステロール値を下げるにはやせるしかない。
炭水化物であろうがなかろうが、
食べる量を減らすしかないようだ。

feedの整理

[前書いたこと](/?p=12966)と同じだが、
読んでるサイトのfeedがあまりに混沌としているので、
割とひまなんで(とりあえずモデリングくらいしかすることない)、
新たにdigg readerにアカウントを作り
(今までgoogleでログインしてたのをtwitterアカウントでログインし直しただけだが)、
そちらにどうしても読みたいものだけ移すことにした。

みんながまじめにウェブサイト作ってればフィードリーダーの時代は続いたのかもしれんが、
twitterとかfacebookとかに流れてしまって過疎ってしまった。
一番良いのはやっぱりみんながきちんとウェブを維持することだと思うが、
それがなかなかできないんだろうな、やっぱ。
しきいが高いってのかな。
フィードリーダーでサイトの更新チェックして読むというのは、
今から思えば新聞や雑誌の記事を購読しているのと一番近い。
記事の執筆にはそれなりに労力が必要で、誰もができるわけではない。
ということか。

twitter とかだと逆にアホな子がどんどん露出してきて、
それはそれで問題だ。
facebook は知り合いか知り合いじゃないのかわかんないやつから友達リクエストが来て、
誰だこいつとか考えるのが面倒なんでそろそろやめようかとも思う。

そんで田中久三というのは虚構の部分で、
リアルな自分というのもあるわけだが、
できるだけネット上の存在は田中久三の方に収束していったほうが幸せなんじゃないとか、
思わなくもない。
定年退職まであと20年切ってるわけで、
実世界では現状維持のままなんとかやりくりして、
よけいな冒険はしない。
こっちの世界でやりたいことやるというのでどうか。
できるだけ実世界から前倒しで引退してこっちの世界で遊びたい気持ちもある。

昔はだらだら実名で身内話とか書いてたわけで。
fj とかなら 1991年くらいからそう。
web だと 2000年くらいまではそんな書き方してた。
よく考えると今の twitter や facebook の使い方となんら違いない。

矯正視力は両目とも1.5以上と、たぶん生涯で今一番視力が良いのだが、
パソコンの画面が見づらくて仕方ない。
老眼鏡を買うべきなのだろう。
キンドルなんか読むときは裸眼で顔近づけて読めばよいが、
パソコン作業は画面全体を見なくちゃならぬ。
作業効率的にどうにもならん。

WP Social Bookmarking Light

このサイトは見ればすぐわかるが wordpress でできている。
wordpress を使い始めたのは tanaka0903 という名前を使い始めてだから、
2009年3月からだと思う。
それ以前は一時的にはてなダイアリーを使っていて、
それ以前のことはよく覚えてないが、たぶんHTMLじかうちだったと思う。
このサイトは1986年くらいまで補完されているが、
もちろんそんな昔からこのサイトがあったはずもない。
私は1994年からwebサーバーを立ち上げているんで、
おそらく日本でも最初期からずっーとwebに関わってる人間の一人だと思うんだが、
それ以前にはwebなんてものはかげも形もなかった。
ただ、1986年頃からすでに和歌を詠んでいたというのを見せびらかすために、
さかのぼって載せてある。

そんで当初は wordpress よりか movable type のほうが人気があったと思う。
周りでも wordpress よか movable type 使っている人が多かったように思うが、
wordpress にしといてよかった。
perl が嫌いという理由が一番大きい。
php も嫌いだったが知り合いに使ってる人がいて普通に使うようになった。
wikipedia だって php + mysql だしね。
趨勢は見えてたよな。
movable type で perl + postgresql とかでやってた人たちはそろそろ死滅したことだろう。

そんなことはどうでも良くて、
[WP Social Bookmarking Light](http://wordpress.org/plugins/wp-social-bookmarking-light/)
というのを使い始めたのはつい最近で、
twitter でつぶやけるようにしようと思ったらいろんなほかのSNSにも使える。
今まで、はてぶとツイッターで反応があったが、
検索してもよくわからん。
もしかすると非公開のはてぶとかツイッターで使われているのかもしれず、
単に検索に引っかからないのかもしれない。
facebook 反応ないんで削っておいた。
正直SNSをずらずら並べるのはうざい。
私自身ははてぶあんま使わないのだが使ってくれる人がいるようで、残しておく。
このプラグインの作者は日本人のようで、
ソーシャル・ブックマーキングという呼び名からしてやはりはてぶ関係者だろうと思われる。

ときどき過去記事を発作的に非公開にすることがあって、
それをツイートされているのを見つけた。
とくに非公開にするような内容ではなかったので公開に戻しておいた。
0903以前のものは当たり障りのないものだけが公開されているだけで、
実際にはもっといろんな雑記が残っている。

『特務内親王遼子2』はすでに減速しはじめていて前作『スース』には及ばないことはほぼ判明した。
『スース』はイラストを増やしてラノベ風にしたから読まれたのだろうかと思ったが、
単に女子大生がお酒を飲む話なので読まれたらしい。
てことはいくら pixiv とかと連携して cg 増やしても、
それだけでよそのラノベと同じくらいに注目されたり、
読まれたりするわけじゃない、ってことだ。

世の中、ラノベやミステリーが読まれる、
というより、kdp だろうが紙の業界だろうが、ラノベやミステリー以外は売れない、
というわけを、kdp やりながら我が身の上のこととして思い知っているところだ。

ある文学部出身の人がいて今彼はアーティスト兼デザイナーをやっているが、
彼は文章を子供の頃から書きまくっているが、自分のためだけに書いて、
人には決して読ませないという。
文学好きな人にはそういう人もいるのかもしれん。
私がキンドルで出版してあれやこれや売ろうとがんばっているという話をすると、
なんだか作家のようですねと言われる。

「文学」はともかくとして「文芸」というのは芸能の一種で、
落語や演芸のたぐいだと、最近は思っていて、
いかに人に読ませるか巧むところがたいへんでおもしろい。
だから世間一般のラノベやミステリーは確かに「文芸」だ。
せっかく書いたものは私の場合できるだけたくさんの人に読んでもらいたいし、
後世に遺したい。
後世に遺らぬものをいくらがんばって書いても死んだら終わりだと思う。
死んで終わりなら生きてるうちに楽しんだほうがましだ。
たくさんの人に読ませる技能の部分が「芸」だと思う。
ただその「芸」の部分にも何かの「アート」はあると思う。
「芸」と「アート」ね(笑)。

というか、読んでる人などいないと思ってたら意外といるらしいのでうかつなことは書けない。

ドアノッカー

一気に読んだ。
途中から、サスペンスの一種なんだろうなと思った。
最後まで読んで謎解きがなかったので少し困った。

後書きと[作者のツイッター](https://twitter.com/cowfieldtinysno)
も読んだが、
犯人は教えないとのこと。

勝手に推理したことを書くのは、
ネタばらしとは言わないと思うから書くが、
たぶんマモルクンは一種のトロイの木馬みたいなもので、
人が家にいるかどうかを犯人が確認しているのだろう。
マモルクンを買うということは独り暮らしだろうし、住所もわかる。
犯人が自分で宅配すればどんな住人か(性別、容姿)もわかる。
で、最初のほうに出てきたドアの営業の彼氏というのがマモルクンを通販している人物と同一、
というあたりかと思う。

で、さらにまあ余計なことを書くが(後で非公開にするかもしれない)、
こういう猟奇的な推理小説というのは、確かに一気に読ませるのには向いているのかもしれない。
私がイラストを入れラノベを偽装するのと同じで、なんとか読者に読ませよう、
読者を獲得しようという、営業の一種に思えてしまう。
だから純粋に物語の構築ということからは割り引いて評価してしまうとこが自分にはある
(作家の仕事とはなんだろう。読者へのサービスか。物語の構成か。それとも文章の巧みさか。全部か)。
最初の女性三人の会話がなかなかリアルで女性作家かと一瞬思わせたところもよくできてると思う。

私の場合、伏線を張るというのは推理小説の一種であり、
推理小説ですと看板を掲げるのは潔くないと思っている(つまり小説なんだから伏線くらいあって当たり前だという)。
で、伏線は必ず回収しないと気が済まないたちなんで、つまりそれが謎解きなわけだが、
謎解きくらいしてあげないと私の小説は難しすぎて読めないだろうという、
[強迫観念というか、不安](/?p=12926)みたいなのもある。

あと、男性作家なのに女性の表現がうまかったり、
女性作家なのに男性の表現がうまかったりとか。
若いのに年寄りの表現がうまいとかその逆とか。
現代人なのに昔のことをうまく書くなとか。
自分にはないものを一生懸命補完して書いてるところとか。
そういうのに加点してしまう傾向があるわな、自分には。
それはたぶん、私小説みたいなのは技術がなくても誰でも一発ネタで書けるってのと、
現代ドラマというものをテレビで見飽きていて反発を感じるせいだと思う。

feed reader

『特務内親王遼子2』だが反応はいまいち微妙。
ま、こんなもんか。
一冊ごとに、一喜一憂しても始まらんわな。
次に近々出す予定の『超ヒモ理論』は知人に手描きのイラスト描いてもらってて、
こちらの反応が気になる。
CGのが評判がいいか。
手描きのがいいか。
どっちも大して違わないか。
なんかいろいろ実験してるわけですね。

そんで google reader が死んでから結局 digg reader というを使うようにしているのだが、
いろいろフィードをまとめてまとめて、必ず読むのと、ひまつぶしに読むやつに分類して、
だいたいこのふたつのカテゴリーしかもう読んでない。
100あるかどうか。
で、必ず読むことにしたのが

* [カナ速](http://kanasoku.info/)
* [本の虫 江添亮のブログ](http://cpplover.blogspot.jp/)
* [ぼんのう](http://bonnoh.jugem.jp/)
* [カラパイア](http://karapaia.livedoor.biz/)
* [デイリー・ポータルZ](http://portal.nifty.com/)
* [ガベージニュース](http://www.garbagenews.net/)
* [Schuzak’s Blog](http://d.hatena.ne.jp/Schuzak/)
* [居酒屋礼賛](http://hamada.air-nifty.com/raisan/)

たったこれだけ。
カナ速は2chのまとめサイトとして読んでるというよりは、カナ速こみっくがカナ速に統合されたから読んでいるというのが99%。
本の虫は、過激な自由ソフトウェア主義者なので楽しく読んでる。
ぼんのうは、Andy山本という人が昔出したマエストロムジークというゲームがおもしろかったのと、最近心臓病で倒れたのが興味深くて読んでいる。
カラパイアは、ナショジオ的な気分で。
デイリー・ポータルはくだらない取材がおもしろい。
ガベージニュースは、まあ普通に興味深くおもしろい。ためになる。
Schuzak’s Blog は FPS 関連で。
居酒屋礼賛は飲み屋巡りの参考に。

特務内親王遼子2

CGをすべて clip studio と blender に移行して、 autodesk sdk 由来のプラグインとかも使わずに、
まあ完全商用利用可能な態勢が整ったんで、 せっせと続編書いてCGも描いて、 kindle で出すことにした。

同人出版のラノベに見た目は非常に近いが、 内容は全然ラノベではない。 「青春ラブコメ・ハーレムもの」に分類することも可能かもしれないが、 たぶん違うと思う。 どちらかと言えば近代アジアの軍事・政治ものというか。 『ジャッカルの日』とかそんな感じ?

遼子のモデルは川島芳子なんですけどね、 バレバレだけど。 安彦良和の『虹色のトロツキー』の影響を受けてないとも言いがたい。 タプイェンなんて麗花の丸ぱくりだと言われればそうかもしれん(麗花は李香蘭こと山口淑子がモデルであるという)。まあそこはオマージュってことで。いずれにせよ『虹色のトロツキー』なんてマイナーな漫画、一般人が読んでおもしろいともおもえんよなあ。

世の中に受け入れてもらえるのかどうかしらん。ていうか、変に狙い過ぎ、はりきり過ぎてて外してなきゃいいなと思う。

まだ続きがあるんで、実はストーリーはもうラストまでだいたい考えてある。勘の良い人(近代中国史に詳しい人)ならもしかすると部分的には予測つくかも。完全なフィクションですがね(一応のお断り)。『虹色のトロツキー』のオチとはだいぶ違うと思う。まあ、これまで書いてきた小説の同工異曲なんで、類推は可能なんだが、そこまで読んでくれている読者がいるとも思えん。

安彦良和はおもしろいよね。『王道の狗』『三河物語』『クルドの星』あたり。『麗島夢譚』は連載中だが、微妙。安彦良和はおもしろいのとおもしろくないのがあるから困る。日本神話ものはたいていおもしろくない。近代史がわりとよく、古代史や神話ほどつまらない傾向がある。『アリオン』も話としてはつまらない。『アレクサンドロス』は読んでみたいがつまらなかったらどうしようって感じ。外れなにおいがする。

産業革命はやはりすごい

アメリカ建国とかフランス革命なんてのは、産業革命より前だから、
実は単発の事件で終わる可能性があった。
実際フランスではなんども王政復古したり帝政になったりしている。
アメリカも南北戦争でどうなるかわからんかった。

しかし、産業革命があり赤色革命があって、
市民兵というものが貴族よりもはるかに戦争が強いというのが実証され、
それで国民国家ができていった。

ただ単に、権力のバランスが動いたのよね。
昔は王侯貴族による支配のほうが実際的だったし、
産業革命で人口爆発した後は市民による支配のほうが実際的になった。
けんかになったときだれが一番腕力が強いか。
それだけなのではなかろうか。
善政が悪政を倒した的なのはたぶん間違っている。

もし人口が産業革命より前に戻れば、単に、王侯貴族的社会に戻るのではなかろうか。

予定調和

読者の期待した方向へストーリーをもっていかないほうが意外性があってお得、
予定調和は罪悪、
手あかのついてない新しいストーリー展開にあえて挑戦、
という観念があるせいか、
ネットで感想を探し出して読んでみると、期待を裏切られたとか、
思ってたのと違ったとか、そういう反応を目にすることが多い。

予定調和的でないストーリー展開はざっくり切り捨てられ、
予定調和的な部分だけが読まれ、
かつ、
予定調和になってない部分はなってると(他の自分の知ってる類似作品を持ち寄って)勝手に脳内補完して読まれている可能性が極めて高い。
それはかつて知合いに「[安藤レイ](/?p=10614)」や「濹西綺譚」を読んでもらって感じたことでもある。
だんだんその漠然とした不安は確信に変わりつつある。

読者に逆らいわが道を行くのは難しい。
それは既存の出版業界に逆らうよりも難しいかもしれない。
kdpの時代になっても読者は昔のままだ。
読者は案外強い立場にいる。
圧倒的多数の読者は作者より強いのだろう。
いろんな意味でいろいろ難しい。

そう、記号と予定調和が支配する世界。
二次創作にされやすい、素人にやさしい世界。
だが空虚だ。
記号は記号に過ぎない。

ガンダムもそのままでは二次創作されえなかった。
何度もシリーズ化され、
準備されたのちに、
二次創作されるようになった。
オリジナルから二次創作へ変容していく過程はだいたいいつもこのようなものだ。
わらわらとたかってくるファンやスタッフによって意図は変えられていく。
大乗仏教もそうやって成立したのに違いない。

私としてはこれから3DCGを量産できる態勢にもっていく。
一年もすればどんどんイラストが描けるようになると思う。
もちろんキャラクターをたくさん出したりすれば破綻するが、
小さくまとまった短編ものならどんどんいけると思う。
とりあえずしばらくはそちらのほうで戦おうと思う。

夢を見てて思う、人間にとって創作文芸のルーツは夢にあるのかもしれん。
脳の中で勝手に作られるイメージを固定しただけでは作品にならぬが、
そういう夢物語のようなストーリー性の乏しい作品を作る素人はたくさんいる
(これは夢の話なのでストーリーがなくてよい、これはPVだからオチはなくてよい、etc)。
しかし、素人とプロの境界はあいまいだから、
そこから本格的な文芸が生まれてもおかしくない。

人の絵を描くときに筋肉や骨の構造を知らねば描けぬように、
脳の中で情報がどのように処理され、どのように間違われ、
どのように解釈されるのかということがわからないと、文芸作品は書けぬのかもしれんし、
わかってしまうと、いろんな可能性とともに制約が知られるのかもしれない。
つまり、人間の脳というものはこういうインプットには必ずこういう反応をするものである。
それに沿わぬストーリーを提示するのは無謀だ、とか。

kdpレビュー

『スース』はあっという間にレビューが終わるから、ああ、kdpのアルゴリズムが少し賢くなったのかなと思うと、
今度は『エウメネス』のレビューが全然終わらない。
中で何が起きているのかさっぱりわからない。

思うに、レビューというのはコピペルナーみたいなものでWeb検索と照合しているのだろう。
『スース』は類似した文章や固有名詞がほとんどネットにない。
『エウメネス』は、たとえば「エウメネス」「アレクサンドロス」などについて書いた小説は無限にあるから、
それらと照合してるとなかなか終わらない、ということなのだろうか。