デフレと税収

税収が減っているのはデフレだから仕方のないことだと思うんだよね。
デフレになると同時に個人の所得も減って支出も減っている。
デフレは悪いことばかりではなくて、支出を減らすことができる。
こないだ某安売り店で、靴下一足100円、Tシャツ一着200円で買えた。
合わせて300円。
ジーパンだって近頃は700円くらいで買える。
デフレは悪いことばかりではない。

ところが国の支出はなかなか減らない。
デフレだから調達する予算はそれにつれて減っても良い。それなのに減らない。なぜか。
それからITがものすごく進んでいる。
ITが進んだから必ずしも支出が減るわけではないが、事務処理は明らかに合理化されるはず。
国の支出が激減してもおかしくはない。
しかし歳出が減る気配がない。これではなんのためのデフレかわからん。
年度内に予算を使い切らないと翌年に持ち越せないとか翌年から予算を減らされるから、
むりやり要らない予算まで使っちゃうでしょう。
それで減るはずのものが減らないんじゃないの。
あれはよろしくないよな。
あれは、インフレの時にはうまく機能するかしれんが、デフレでは最悪な仕組みだよな。
お役所で予算減らすには部署ごとなくしたり統廃合するしかない。
部署ごとに予算をやりくりして少なく効率化するという機能がそもそもそなわってない。

それに、歳出が減らないのは景気刺激策とか言ってばんばん税金を投入するからだろう。
しかし長期的傾向がデフレだというのに歳出を減らさず、むしろ増やして景気を刺激しても、
結局は国の借金を増やすだけではないか。

トヨタの社長でもなんでもいいから、とにかく経費を削減するにはどうすりゃいいかから考えるのがやはり筋ではないかな。

史観を否定するために新たな史観を作るのはどうか。

司馬遼太郎「手堀り日本史」の中の「史観というフィルター」という一文があってこれがくせ者だ。

> 楠木正成の時代、このにぎやかな時代がつまらぬ時代であるということ

とあって、戦前、義経、正成、秀吉、この三人が国民的英雄であったが、
戦後、正成だけがその地位から脱落したのはなぜか、という問いかけをしている。
なるほど、これはもっともらしい問題提起に見えるが、一種のトリックに過ぎない。
今なら三大国民英雄と言えば誰だろうか。義経、秀吉、龍馬といったところか。
しかしそれも司馬遼太郎によって正成と龍馬の首がすげ替えられたに過ぎない。
戦前と同様にきわめて不自然なものだ。

楠木正成がよくわからん人というがそれは当然だろう。
高氏や義貞に比べるとあまりにも身分が低すぎる。しかも南朝なので、
公家の日記にもほとんど記述が残っていない。正成について書かれているのは太平記くらいしかない。
まあそれを言えば義経ですらそうで、ほとんど公式の記録は残ってない。
ほとんどは後世の脚色に過ぎない。

> 南北朝の時代には、時代の美意識がない。・・・現実は果てしもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられて、一見すばらしい風景にみえるんです。

とあるが、平家物語の中の義経だった同じことだ。
あの仏教臭く、脚色だらけの嘘八百の平家物語のフィルターを取っ払ってみれば、ただの利権争いの泥沼しか残らん。
そんなことは少しまじめに歴史と向き合ってみればすぐわかることだ。
同じことは戦国時代にも幕末維新にもあるし、同様に日本の近現代にもある。
フィルターなしで眺めてみれば歴史というのは常にどろどろの利権争い以外の何ものでもない。
だが、司馬遼太郎にして見れば、鎌倉武士やら戦国武将やら幕末維新の志士にはそれがあると言いたいらしい。
一方で南北朝や室町や昭和にはそれがないと言いたいらしい。
それが史観というものだ。
司馬遼太郎は、戦前の史観がにくくて仕方なかったのだろうが、
それを否定するために新たな史観をこしらえてしまった。
どちらがどれほど悪だろうか。
言わせてもらえば彼の史観は決して立派なものではない。
非常に不完全なものだ。
もうちょっとどうにかならなかったのだろうか。

いくつかリンクを貼っておく。

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由が分かった
[その1](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-424.html)
[その2](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-426.html)。

平敦盛の話は、平家物語(或いは源平盛衰記)にしか出てこないわけだが、
これを時代の美意識というのだろうか。
こういうものを時代の美意識と言って良ければ、太平記だって時代の美意識だろう。
だが、太平記を否定しているくせに平家物語、あるいは吾妻鏡はそのまま、まるで歴史的事実であるかのように受け入れている。
あまりにひいきが過ぎないか。
畠山重忠、梶原景季にしても、何がそんなに面白いのかさっぱりわからない。
景季が梅を挿したというのは源平盛衰記だけにある。
つまり後世の作り話ということだろう。
そういうものを時代の美意識というくらいならなぜ太平記を(以下同文)。
ただの個人的な好き嫌いに過ぎないじゃないか。

「項羽と劉邦」後書き

司馬遼太郎は「項羽と劉邦」の後書きで次のように書いている:

> 日本史においては、大流民現象がなかったために、それに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。有史以来の最大の乱世といわれる室町期にあっては、政治とかかわりなく農業生産が飛躍した。

こういうことを書くのはまずいと思うんだよなあ。
「日本史においては、大流民現象がなかったために、それに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。」
ここまでは良いとして、
「有史以来の最大の乱世といわれる室町期にあっては、」
これは嘘だ。日本の歴史は過去に遡ればさかのぼるほどに乱世であって、
でなければ前九年後三年の役なんてものが起きるわけがない。
日本は全国で一斉に武装蜂起が起きるほど開けてなかった。
未開拓の原野だらけだったのだ、室町時代までは。日本全土に兵隊を動員できたのは頼朝が最初だ。
「政治とかかわりなく農業生産が飛躍した。」
ここに至っては意味不明。

司馬遼太郎が中国史を書いたのは珍しくてたぶん「項羽と劉邦」しかなくて、
それを書いた後書きで気分が大きくなってこういうことを書いたのだと思うのだが、
原野の開拓とか開墾というものは高度に政治的なものであって、少なくとも領国単位では極めて政治的な事業だったはずで、
「政治とかかわりなく農業生産が飛躍」することなんてあり得ない。

たぶん守護大名や戦国大名が領国内で行った政治は政治とは言わないと、司馬遼太郎は言いたいのだろう。
いやそんなものが政治と呼ぶに値するとは気づかなかったのだろう。
中国皇帝の独裁政治と比較すれば確かにとるにたりないほど小規模な政治かもしれんが。

司馬史観

いちいちいろんな人の批評を見ずに wikipedia の記述などでだいたいしか知らないで言うのもなんだが、
司馬史観と言われるものは確かにある。
司馬遼太郎が書いた小説は、小説はフィクションだからそれをどうこう言うつもりはないが、
しかし後書きや対談などで彼ははっきりと自分の歴史観について語っているのだから、
それについて彼は、自己の意見に対して他人から批評を受ける責任があろう。
また彼は作家なのであるから、作家が抱いていた歴史観という観点で批評されて当然だと思う。

代表的な歴史作家、時代小説作家、たとえば吉川英治や新田次郎らと比べたときに、
司馬遼太郎には明らかな特徴がある。
吉川英治や新田次郎は日本の古代から現代まで比較的均等に、好き嫌いなく勉強し、取材し、題材にしている。
しかし、司馬遼太郎は幕末・明治、戦国時代のものがほとんどである。
南北朝や室町は嫌いだと明言もし、一つも小説は書いてない。
これが司馬史観の第一の特徴だと私は思う。

日本人の多くは司馬史観論者である。
たとえばある財界人のスピーチで私は聞いたのだが、室町時代は政治は混迷していたが、文化や産業が栄えた、
これは戦後の日本と同じ状況だなどと言っていた。
これとまったく同じことを司馬遼太郎も言っている。
これを意識的に司馬史観だとわかって言っているなら良いが無意識に言っているようだ。
聞いている側も無意識にその通りだと思って聞いているが、非常にまずい、危険な状況だと思う。

司馬遼太郎はまた、近世日本から近代への連絡を、また同時に近代から現代への連絡を、
意図してかせずにかは知らないが、分断してしまった。
まるで、幕末維新の頃だけを劇場の中に祭り上げてしまい、
その前もその後も出来損ないの無用の時代のようにしてしまった。
幕末維新の偶像崇拝、特に坂本龍馬など。
これが第二の特徴なのだが、
第一と同じで、要するに、司馬遼太郎がまんべんなくすべての時代の歴史を公平に描写していれば、
そういう誤解を生むことはなかったのだ。
歴史は本質的には連続なものであり、因果関係によってできている。
むやみに切り取ってはならない。
一部を切り出して誇張するならその副作用についても考えないと。
もう彼は死んでしまったのだから彼だけの責任ではないのだが。

室町幕府や足利将軍というのは非常に面白いのだが、
通常は、司馬遼太郎も言っているように、
吉川英治や新田次郎がやったように、太平記を下敷きに書いてしまっている。
新田次郎はくどくどと独自取材をやった上で書いたんだなどと言い訳しているが、
それでもやはりおおよそは太平記に沿って書いている。
太平記の時代のことを太平記によらずに書くのはもちろん非常に難しい。
公家の日記などの一次資料を丹念に読めば可能かも知れない。
室町時代まで下ってくるとこの手の資料は探せばいくらでもあるはずだ。
しかし、歴史小説家は歴史研究者ではないから、
だいたい太平記を読んでざっと現地取材して小説にしてしまった方が楽だろうと思うし、
おそらくその程度のことしかしてないだろう。
吉川英治や新田次郎はそこまでしかやらなかったし、
司馬遼太郎はそこから先に行こうとさえしなかった。

平家物語の時代には一次資料がおそらく圧倒的に少ない。
その代わり、文芸作品としての平家物語のできが良い。
となると、平家物語から離れて小説を書くことは不可能だろう。
しかし、室町時代ともなると、太平記のような読み物もあるがそれ以外の資料もある。
資料に当たり出すときりがない。
だから、たぶん普通の小説家はやらない。
もっと派手な、戦国時代とか、
あるいはもっと身近な江戸時代など書いた方がましだということにならんか。

室町時代は政治が混迷していたのではない。
一次資料が多すぎて、互いに矛盾しあっていて、小説として、歴史としてまとめにくいのだ。
政治的にはだから現代と同じくらい豊かな時代だったのだと思う。
つまり、政治というものは当然錯綜するものであり、
きちんと誰かが統治していたなどというのは嘘八百に違いないからだ。
文化や産業が栄えた時代にそれなりの政治がなかったはずがない。
単に将軍家の権力が衰えたというだけで、領国ごとに政治はあったはずなのだが。
司馬遼太郎はそこをあえて無視する。
おそらくはそのおもしろさに気づいてなかった。
ある意味「もののけ姫」はその辺に気づいてあえて挑戦している。
司馬史観の本質はそこだと思う。
宮崎駿がそこまで考えて「もののけ姫」を作ったかは知らん。

宿貸せ

家隆の

> 海の果て空の限りも秋の夜の月の光のうちにぞありける

だが、この人は定家と同時代の人で、けっこうおもしろい歌をたくさん詠んだのだが、
玉葉集に採られていると思って見るとなんとなく浪漫的で幻想的のような感じがする。
つまり為兼の

> くにつちうるふあめくだすなり

のような感じ。定家の幽玄とかそういう禅宗的、前衛的な意味での幻想的というのでなくてね。
浪漫的としか言いようがない。
つまり、説明しにくいが、日本の花鳥風月を歌っていても、
どことなくドビュッシーやラヴェルの交響曲のようなものを感じるということ。

家隆の歌では私は

> 思ふどちそこともいはず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯

これがわりとすきなのだが、素性法師の

> 思ふどち春の山べにうちむれてそこともいはぬ旅寝してしが

と大中臣能宣の

> をみなへし我に宿貸せいなみののいなと言ふともここを過ぎめや

の二つの歌を合成したような歌なのだな。

為兼の謎の連作

> 来し方はみなおもかげに浮かび来ぬ行く末照らせ秋の夜の月

これは玉葉和歌集にある定家の歌で、その後に為兼の歌が

> いかなりし人のなさけか思ひ出づる来し方語れ秋の夜の月

> 秋ぞ変はる月と空とは昔にて世々経しかげをさながらぞ見る

と続く。
いや、その定家の前の西行の歌

> 人も見ぬよしなき山の末までに澄むらむ月のかげをこそ思へ

や家隆の歌

> 海の果て空の限りも秋の夜の月の光のうちにぞありける

もなかなかすごい歌で、玉葉集に採られてなければもっと有名になったのかもしれん。
それは定家の歌についても言えることで、たまたまこの歌が玉葉集に採られたことによって、
定家の秀歌であるにもかかわらず歴史に埋もれてしまったのかもしれん、などと考えてしまう。

まず定家の歌だが、素直に解釈すれば、久しぶりに会った人に、その面影を見て、
これまでのいろいろな思い出がよみがえってきた、あるいは自然と想像される、というような意味だろう。
下二句はたぶんただの付け足しだ。

続く為兼の歌だが、これもそのまま素直に解釈するしかしようがない。
どのような人の恩義があったのか、思い出すことを語ってくれ、というような意味だろう。
最後のは、単なる叙景の歌とも取れる。
昔ながらのそのままの秋の月と空を見ている、という意味。
しかしながら、この、秋の夜の月の一連の歌の配置はみごとだ。

俊成

> 世を憂しと何思ひけむ秋ごとに月は心にまかせてぞ見る

> あはれとは我をも思へ秋の月いく巡りかは眺め来ぬらむ

西行

> 憂き身こそ厭ひながらもあはれなれ月を眺めて年の経ぬれば

きざな歌だな。定家

> 何となく過ぎ来し秋の数ごとに後見る月のあはれとぞなる

玉葉集に採られた歌だと、俊成や定家でも違ったおもむきがあるわな。
孝標女

> あはれ知る人に見せはや山里の秋の夜深き有明の月

孝標女。珍しい。どうやら更級日記に出てくる歌のようだ。当時18才。

> 思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜深き有明の月

なんとこちらは新千載和歌集にも採られているようだ。
初句が違ったので同じ歌とはわからなかったようだな。
それほどオリジナリティのある歌ではなさそうだ。
清原元輔

> 思ひしる人に見せはやよもすからわかとこ夏におきゐたるつゆ

能因法師

> 心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を

あるいは真淵の

> もろこしの人にみせばやみよしのの吉野の山の山さくら花

などなど。そういえば

> 外つ国の人にみせばや武蔵野の千代田の城の春の盛りを

なんてのもあったな。

カッコウ

カッコウはもちろん古語ではない。
ホトトギスは万葉時代からあるまぎれもない古語である。
ホトトギスを郭公と表記したとして、この郭公なるものが、
カッコウではなくホトトギスであるなどという証拠はあるのか。
漢語ですら、しばしば混同されているのだから、
和語でも同様ではないか。

岩波古語辞典によれば、ホトトギス、カラス、ウグヒスなどの語尾の「ス」は鳥を表すという。

杜鵑は音読みではトケン。

「杜鵑啼血」の最古にして最も有名な出典はやはり白居易なのではないか。
角川新字源にも引用されている。
ホトトギスの鳴き声というのは、
私もYouTubeか何かでしか知らないが、
「キョッ・キョッ・キョキョキョキョ・・・」という、なにやら怪鳥が叫ぶような、すさまじいものなので、
血を吐くほどに声をふりしぼって啼いている、というのだろう。
血を吐くまで鳴き続ける、という意味ではないわな。
それはたまたま正岡子規がそうだったというだけだろう。
子規にしても、日清戦争の従軍記者など無茶なことをやらなければもっとずっと長生きできただろう。
中島敦だって、ずっと南洋に居て戦後特効薬が出来てから治療を受けていれば普通に天寿を全うしたのではないか。
自らもパラオに居て、
ロビンソンクルーソーの伝記なんか書いて、
そんなことは承知していたはずだ。
しかし、当時の日本の切迫した時勢というのが、子規と同じく、
無茶な行動をとらせたのかもしれない。
そういう時代に、二十代後半から三十代前半に身を置いてみなくてはわからない何か。

子規

ホトトギスなのだが、
中文のウィキペディアには「小杜鵑」と表記されており、
単に「杜鵑」と書くとこれはカッコウの総称となる。
「中杜鵑」はツツドリ。
「大杜鵑」はカッコウ、これは「郭公」「霍公」とも言う。郭公または霍公は明らかに鳴き声の音写だろう。

さらに中文ウィキペディアで「子規」を検索すると「鷹鵑」にリダイレクトされる。
「鷹鵑」は英語では Large Hawk Cuckoo
で、要するに、鷹のように大きなカッコウということだろう。

[杜宇](http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E5%AE%87)は中文ウィキペディアにも記事がある。
杜宇は、商周から春秋時代まで蜀にあった国の帝王で、望帝とも言う。
宋代になった伝記「太平寰宇記」に、

> 望帝自逃之後,欲復位不得,死化為鵑,每春月間,盡夜悲鳴。蜀人聞之曰:我望帝魂也。

とあり、また、

> 傳說其死後,每逢農曆三月,便化為杜鵑,以叫聲催促蜀人趁農時播種。

とあるから、毎年旧暦三月にホトトギスが鳴いて蜀の人たちが種まきをしたという風習があったのだろう。
「不如帰去」とは杜宇の言葉だとあるが、単に鳴き声の音写だろう。
「蜀魂」もまた同じ伝説による。

「田鵑」というのは、田んぼにいるカッコウの一種か。ともかく、これらの漢字表記の差異は、
一つは古代の伝説、もう一つはさまざまなカッコウの種類によるものだと思われる。

沓手鳥、沓直鳥などは和語由来と思われる。

> ほととぎす鳴きつる夏の山辺には沓手いださぬ人や住むらむ

沓手とは靴を買う代金。
広辞苑によれば、ほととぎすは前世に靴を作って売っていたというが、
おそらくは中国ではなくて日本の伝承なのだろう。

それで、思うに、蜀に古代王国があって、戦国時代に秦に滅ぼされたなどというのは後世の作り話であろう。
おそらくそういう伝説はさかのぼれても三国志の頃までだろう。
さらに、ホトトギスが血を吐くうんぬんという話はもっとくだって宋代以後の伝承だろう。
となると、新古今集の時代に日本に伝わって影響を与えた可能性はあるが、
古今集以前にはありもしない話だったに違いない。

事実、和歌を見てもホトトギスが血を吐くなどという表現はまったくない。
江戸期になってもない。
しかるに、子規は22才で結核を患い喀血して子規と号した。
明らかに歌人の発想ではないと思う。
もし影響を受けたとすると漢詩か何かだろうと思う。

白居易の詩に

> 杜鵑啼血猿哀鳴

とある。唐代だな。ということは宋よりはずっと前だわな。
ということは古今集時代に日本にすでに伝わってるよな。うーむ。
まあ、ホトトギスやサルの鳴き声というのは美しいというよりもどちらかと言えば凄絶な感じだよな。
そんな雰囲気を詠んだものだろう。

享和元年宣長上京の理由

あいかわらずのネタ。
宣長日記享和元年三月十六日(グレゴリオ暦1801年4月28日)、

> 公卿勅使花山院右大将殿(愛徳卿)御参向、今夕当所御泊。
藤浪殿亦御参向、一時許先給、同泊。
抑、公卿勅使参向者、去寛保元年有之(庭田宰相殿)。
其後今度也、尤珍。

さらに十八日

> 公卿勅使御還向、当所御休。

この十日後の二十八日に宣長は京都に向かっている。

[花山院愛徳](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E6%84%9B%E5%BE%B3)は当時、
右近衛大将、従三位くらいだったと思われる。
[藤波家](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6)もまた公家。
御参向、御還向とは、伊勢神宮に勅使が行き帰りしたという意味だろう。
「当所御泊」の「当所」とは文脈的に宣長宅とは考えにくく、単に松坂のどこかの宿に宿泊したということだろう。
「一時許先給同泊」とは、一時的に先に行くことを許されたがやはり同じく泊まった、というような意味か。

勅使が松坂を行き来したことは書かれているが、勅使と宣長が面会したかどうかまでは書いてない。
面会したとしてどちらがどちらを訪れたか。
だが、宣長の上京がかなり長期にわたり、また入門や講義などの準備がかなり周到で、
公卿らの表敬訪問や歌会などもあったことを思えば、
ただ単に京都から来た勅使を見て宣長が急に京都行きを思い立ったというよりも、
京都の公卿か富裕な町人たち(富小路貞直、服部敏夏らか)から勅使に託して宣長宛の招待状のようなものがもたらされて、
もともとそういうことは好きなたちの宣長が、では京都にいこうかとなった、というのが真相なのではないか。
当時の宣長の名声からしてあり得ないことではない。
だが、日記にもどこにも明記されてはいない。
なんか微妙な事情があってその辺は日記に残したくなかったのかもしれんし。
宣長が、松坂に宿泊した勅使のもとをおとづれて、宣長の京都での評判などを聞いて、その気になった、という可能性もあるし、
逆に、勅使が行き返りわざわざ宣長に念押しした、とも考えられるわな。

勅使が寛保元年以来だと書いているが、1741年から1801年まで、60年もの間、
京都と伊勢神宮との間の勅使の往来が途絶えていたという意味か、
単に松坂を勅使が行き来したのが60年ぶりという意味か。
京都・松坂・伊勢の位置関係からして、伊勢に行くには必ず松坂を通るに違いなく、
わざわざ松坂を迂回する意味も見あたらないし、「尤珍」という言い方からしてどちらかといえば前者の意味か。
庭田宰相とは時代的には[庭田重熈](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%86%88)か。

宣長の遺品は奇跡的にほぼ100%残されているそうだ。
なので、普通なら残ってないようないろんなディテイルまでわかってしまう。
だが、ディテイルがわかればわかるほどさらにその先のディテイルまで知りたくなる。
宣長上京については、いろんな日記が残されているが、
当たり前のことだが、自分の関わった部分、自分に関心のある箇所しか残ってない。
香川景樹とやりとりした歌は景樹の歌集や遺稿にしか残ってない。
ホスト役の公卿や町人の日記も当時は存在していたかもしれないが、今は残ってない。
それらをすべてつきあわせたらきっともっといろんなことがわかるのに。

科挙

某つぶやきでエキサイトしてしまったのだが(あれは「もう寝ます」とか言ってやめるべきだっただろうか)、
もともと考えていたことは別のところにあって、中国が、アヘン戦争以来、西欧列強にぼこぼこにやられて、
とうとう科挙というものが廃止されて、西洋の学問体系や教育制度が採り入れられた。
そのとき、政治家や軍人を登用するのに詩人の素養を試験するのはおかしいうんぬん、だから中国は負けたのだということが言われるようになった。
中国では高級官僚は詩が作れた。
日本でも貴族は和歌をたしなんだ。
東アジアではずっと支配者階級、特権階級が詩歌を文学的な教養の基礎においてきた。
だが今はそんな教育はしない。
そんな教育はすでに否定されてしまった。

もし政治家や官僚や軍人やあるいは思想家が歌を詠むと弱くなるとか、
歌詠みの素養は政治とは関係ないとか、
歌詠みは国を滅ぼすとかいうとしたら、その反例はいくらでもあげることができる。
足利高氏、吉田松陰、頼山陽・・・。

つまり今の世の中は、政治家や官僚を養成するのに、西洋の法学とか経済学とかを大学で教えるのが当たり前なんだが、
なぜ国語ではいかんのか、国語の中でも詩歌ではいかんのか、大学入試に歌を詠むということがなぜないのか、
小論文ならあるのになぜ詠歌はないのか、なぜ国語教育は、
かつてのようではないのか、ということをつらつらと考えていたのだ。