ランチ

昨日は駅前のリンガーハットでラーメン・餃子ランチを食べた。
690円。
久しぶりに食べて満足。
今日は居酒屋の昼定食を食べてみたのだが、これはもう量が多いというだけで、
飯も茶も漬け物もおかずもとにかくまずい。
ひどい目にあった。
食べきれなくて残した。
外食もどうかなと思った。

いい加減金がなくなってきて某茄子までもつか心配なので(というか余裕でもたないとおかしいわけだが)、
超緊縮財政に移行しなくては。そうだな、夜飲みに行くのは週に一回のみとか。
ぎりぎり、週二とか。
まずは、月曜日から外飲みする習慣をやめよう。

真淵と景樹

引き続き宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」。

真淵の歌

> 大比叡や小比叡の雲の巡り来て夕立すなり粟津野の原

に対して景樹の歌

> 大比叡や小比叡の奥のさざなみの比良の高根ぞ霞そめたる

を挙げて、「この二首を比較しても、景樹の才気は十分窺いうる」などと言っている。
景樹の方が優れている、とまでは言ってないが、良い歌だと言っているわけだ。
どうもこの著者は、例の挙げ方がおかしい気がしてしかたない。

まず真淵の歌だが、「粟津野」はただの地名ではない。古戦場である。
おそらくかつて木曽義仲が討ち死にした近江の粟津野に真淵が実際に訪れており、
天気はだいたい西から東へと変わっていくものだから、西の比叡山の方から雲がやってきて、夕立になったという、
近江盆地の雄大な情景を詠んだものであり、
わざわざ古戦場辺りを探しあてて、平家物語か何かの義仲の最期をしのびながら詠んだものに違いなく、
真淵の作のなかでもなかなかの秀歌だと言って良いと思う。
「粟津野」をわざわざ「粟津野の原」と言っているのは「武蔵野の原」という東国風の言い回しをイメージさせる。

一方で景樹の歌だが、これは京都側からあるいは琵琶湖側から眺めた景色だか判然としない。
だがおそらくは著者の言うように京都側から見て、比叡山のさらに奥の近江の国の(さざなみは志賀の枕言葉)
比良連峰に霞がかかり始めた、と言っているのだろう。
悪くもないが特に良くもない。通俗的な印象すら受ける。
そもそもそれだけの遠景となると普通にかすんで見えるものではあるまいか。

小堀遠州、長嘯子、烏丸光広

引き続き宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」。
小堀遠州の

> 風冴えて寄せ来る波の跡もなし氷る入り江の冬の夜の月

を紹介しているが、これは定家の

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

などの単なる模倣であって別段大した歌ではない。
他にもいくつか紹介されているが、大したものもないし、
残っている歌もごくわずかで、なぜわざわざこの人を紹介しなくてはならなかったがはなはだ疑問だ。
と思ったら、最後に

> ・・・そのような人物であるがゆえに、あえて一文を草したのである。

などと書いている。

木下長嘯子が中秋の名月、八月十五日の前夜に詠んだ歌

> あくる夜の月をこよひの庭に見る命も知らずくもりもやせむ

を、烏丸光広が

> 名にし負ふ月はこよひに出でて見る身は浮き雲の定めなき世に

と直しているのだが、長嘯子の歌が、いかにも無骨な武士らしい歌なのに対して、
烏丸光広の歌は肝心要めの「命も知らず」を取り除いてしまい、
まったく何のインパクトもない、意味も通りにくい、というより、何を言っているのかさっぱりわからない歌にしてしまっている。
しかもこれを「堂上歌人の歌の技巧のうまさ」の一例としてあげているらしいのが、
まったく了解しがたいのである。

しかしまあこの著者の宗政五十緒という人は京都で大学の名誉教授までした人なので、
江戸時代の歌人のいろんな話題を良く知っているなあと思う。
実にうらやましい限りだ。

江戸時代の和歌と歌人

宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」を読む。
やや古い本で、著者自身はすでになくなっている。
きわめて興味深い本ではある。しかし、いろいろな短編のエッセイを集めて大学の助成金で出版したものであって、
いわば一種の珍本のたぐいで、
まったく予備知識のない人が江戸期の歌人について学ぼうと思ってこの本を読むとめんくらい、ひっくりかえるだろう。
江戸期の和歌史というのであればまず細川幽斉や後水尾天皇から始めて、
古今伝授がどうしたこうしたとか、真淵が出て万葉調がとか、
そういう流れになろうかと思うのだが、細川幽斉や後水尾天皇については名前が出てくるだけで歌の紹介などはほとんどなく、
松永貞徳の説明はあるが歌はひとつも紹介されていない。

冒頭に紹介される歌が後西院(後水尾天皇の第八皇子)で後水尾院から古今伝授されているのだが、
その歌というのが、

> 咲かばまづここにをき鳴けうぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ

をきは「招き」だが、万葉時代の古代語であり、ちょっとわかりにくい。
そもそも「招き鳴け」とは変な言い方だ。
「うぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ」も何のことやらさっぱりわからない。
「うぐいすが根から堀り取って植えた梅ではないのか」とはどういう意味か。
というかそれ以外に解釈しようがないではないか。
これが本歌取りでもとの歌は拾遺集の

> いにし年根こじて植ゑし我が宿の若木の梅は花咲きにけり

だというが、こちらはすっきりすんなり理解可能だ。
どうしてこんなへんてこな歌を紹介しなくてはならなかったのだろうか。
なんかいろいろとちぐはぐな印象を受ける。

一方、森河章尹(あきただ)の歌

> 露の身を送るばかりと聞きしかど草の庵にも月はすみけり

涌蓮(ようれん)の返し

> 草の戸に月すめばこそ露の身のかかる嵐も耐へて住まるれ

などはなかなか面白い。

さらに

> 近世和歌を言うならば、私は前期の第一の人は後水尾院であり、後期の第一人者は香川景樹であると評価するものである。
だから、近世和歌史はこの両者の線を基線にして記述されるべきである、と私は考える。
後水尾院、景樹、ともに人々のよく知るところである。
敢えて、この二人の和歌に言及せずして近世和歌の世界を述べてみたわけである。

などと言っている。
これは「短歌研究」というものに初出の「近代和歌の展開」という文章らしいのだが、
単行本にまとめるにあたっていきなりこんなことをもち出すとはどういう読者を想定しているのかと、
雑文のただの寄せ集めであることの言い訳に過ぎないのではないかと言いたくもなる。

霊元院の歌

> 梓弓やしまの外の波風ものどかなる世の春やいたらむ

> 袖の香を家づとにせむ道の辺の垣根の梅は折るべくもなし

> 山水の一つ流れをいく町にすゑせき分くるしづが苗代

> 夏もはやなかばは過ぎぬさみだれの晴れぬ日かずを数へこし間に

> おのがためつれなき妻を有明の月にたぐへて鹿や鳴くらむ

> 消えなばと拾はで見るも笹の葉のうへにたまらぬ玉あられかな

> 都にはまだ降りそめぬ雪をけさ山の端白く見てぞおどろく

> 風に伏し霜にしほれて池水のみぎはに枯れぬ芦の葉もなし

> つたひ来る流れも細き岩間よりこほりにけらし山河の水

> にひまくらかはす言葉も年月の思ひのほどをいかが尽くさむ

> おどろかす一筆もがなあひ見しは夢かとたどる今朝のまた寝に

> ひとたびはあひ見し人の忘るばかりにまたぞつれなき

> ひととせのしわざいとなき民や住む田づらに見えてつづくいほりは

油谷倭文子の歌

> 雪深き谷の古巣のうぐひすはまだ春としも知らずやあるらむ

> 春風は吹きそめにけりつくばねのしづくの田居や氷とくらむ

> 花の色に心も染めぬうなゐ子の昔よりこの春は待たれし

> 雪深きかきほの梅もうぐひすの声聞くときぞにほひまされる

> いつしかも行きて見てしがみよし野のよしのの山の花の盛りを

> 昔より神も諫めぬわざならし花に浮かるる春の心は

> 玉と思ふ露はくだけしはちすばにまたこそけさはあざむかれけれ

> 月見ればおふけなくしもなりぬかな知らぬ千里も思ひやられて

> 山里のもみぢの色を見ぬ人は秋に心を染めずやあるらむ

> よひよひに涙はゆるすをりもあるをやるかたなきぞ心なりける

> 来じと言はば来む夜もありと待たましを来むと頼めて来しやいつなる

> 思ふなる心に数はなきものをなほこそ待ためみとせ過ぐとも

> 一夜経(ふ)と言へばたやすしきのふけふおぼつかなさの数ぞやは知る

> 末いかにちりやかさねむ手枕のにひしきほどにふた夜来ぬ君

祇園梶子の歌

> しづのめが降り立つ小田の水かがみ見るひまもなく取る早苗かな

> 雪ならばとひこし人のあとも見む木の葉に埋む庭の通ひ路

> 契りしは昔なりけり思ひ寝の夢には絶えぬ人の面影

> つらくのみ過ぎこし方を忍べとや憂きひとり寝に立てる面影

> 雪ならばこずゑにとめて明日や見む夜のあられの音のみにして

よみ人しらず

> あはぬ間にいかに恨みの多かりきこよひは何を語りあかさむ

かへし

> よしさらばくらべかこたむあはぬ間の恨みの数はいづれまさると

> あふことを夢なりけりと思ふにもさめしうつつぞ苦しかりける

> 契りあれば夢にもあふと思ふにぞさめしうつつのたのみなりける

> もえわたる沢の蛍を憂き人に見せばや身にも余る思ひと

> こひこひてまた一とせも暮れにけり涙の氷あすやとけなむ

最後の歌は14才(満で12か13才)の時の歌というから、なんとも早熟だ。

auの携帯

なんか、電波帯が無くなって使えなくなるというので、機種変更。
もし変更しなければどうなったのだろうか。
まあいいや。
5250円持ち出しで。
au共通充電器というものも980円で買ったのだが、
古い充電器でも普通に充電できてショック倍増。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、
時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。

蘆庵と宣長と景樹

長くなるので、記事を改める。
蘆庵と宣長と景樹、この三人は比較的仲が良く、互いに交友している。

思うに、蘆庵は、良い歌を詠むには、第一義には「無法無師」つまり何も決まりなく、誰にも教わらずに詠むのが良いとしている。
古歌はみなそうして自然とできたものだからだ。
第二義には、愚鈍蒙昧な私であるから、そうして「無法無師」できた古歌を見習って詠めばよい、とする。
第三義には、古歌をことごとく調べて良い歌を選り出すのは難しいので、とりわけ古今集を参考にすれば良い、と言っている。
古今集を参考にせよと明確に言っているのは景樹ではなくて実は蘆庵である。
しかも蘆庵は、最善でも次善でもないがやむを得ない第三の方法として、それを勧めているだけなのだ。

また、宣長は、真淵を師と仰ぎながらも、その万葉調の歌ぶりには与せず、比較的正統な二条派の歌風を生涯維持した。
また、景樹の「古今和歌集正義総論」など読むと、宣長の国学・神学の強い影響と賛同とが読み取れる。
景樹は、明らかに、自分よりも40才ほど年長のこれら宣長・蘆庵の二人の説を取り入れて自分の歌論を形作ったものと思われる。