桂園一枝 恋・雑

> いかでかく 逢ふは夢なる ここちして つらき別れの うつつなるらむ

> 限りあれば ふじの煙も 立たぬ世に いつまで燃ゆる 思ひなるらむ

このころまで富士山は活動していたか。

> 世の常の 草の枕の 旅にのみ やつれたりとや 人は見るらむ

> すきまあれば ふたり伏す間も 寒き夜を いかに寝よとや 隔て初めけむ

> ふたつなき 命をかくる いつはりも なき世ならねば うたがはれつつ

> 疑ひの 心のひまぞ なかりける 我が身ひとつの 数ならぬより

> 我が背子が 棹取る池の 島巡り 濡らすしづくも うれしかりけり

> しづのをが うつや荒田の あらためて 作るにはあらず かへす道なり

> うつせみの 世にこがくれて 住む宿の 心に夢は ならはざりけり

> 山よりも 深き心の ありがほに 市の中にも 隠れけるかな

> 憂き世をば すみ離れても 山の井の みづから濁る 心をぞ知る

> 思ひ出づる ことも残らず 夢なれば さめしともなき 我が寝覚めかな

> あまりにも 背きそむきて 世の中の 月と花とに またむかひけり

面壁の達磨を。

> やまがつも うまき昼寝の 時ならし 瓜はむ烏 追ふ人もなし

> わがよはひ 昔の数に かへらめや この炒り豆に 花は咲くとも

節分の豆まきの歌を。

> 心には 何を怒るか 知らねども さへずる声の おもしろげなる

おそらくは鳥の鳴き声を。

> ゑのころは はやもあるじを 見知りけり 呼べば尾振りの うれしがほなる

「ゑのころ」は犬。

> 猫の子は 鼠取るまで なりにけり 何に暮らせし 月日なるらむ

猫の子に比べて自分は、という意味。

> 人うとむ かどには市も なさざりき 世をあきものと いつなりにけむ

> わづらはし いざ世の中に 隠れ笠 着つつや経なむ 雨降らずとも

> わびて世に ふるやの軒の 縄すだれ くちはつるまで かかるべしやは

若い頃に陋屋に隠れて住んでいて、故郷の友が聞きつけて、帰って来いと言われたときに詠んだという。

> 杣川に おろす筏の いかにして かばかり道は くだりはてけむ

> 空に散る 鳥の一羽の 軽き身を おきどころなく 思ひけるかな

> 樫の実の 一つふたつの 願ひさへ なることかたき 我が世なにせむ

> 石をのみ 玉と抱きて 歎くかな 玉はたまとも あらはるる世に

> 朝づく日 出でぬ先にと ひむがしの 市にあきなふ はたのひろもの

> 風の上に 立つ塵よりや 積もりけむ 空に離れし 不二のたかねは

> 老いにけり つひに心の 遅駒は 鞭打たれつる かひもなくして

桂園一枝 春・夏・秋・冬

> しのすだれ おろしこめたる 心をも 動かし初めつ 春の初風

しのすだれは篠竹で作ったすだれ。

> 都人 とひも来るやと 松の戸を 開けたるのみぞ 宿の春なる

景樹は徳大寺家に出仕し、堂上の歌会も出席したとあるので、
その歌に「都人」「大宮人」とあるのは徳大寺家の徳大寺実祖か、またはその息子で景樹に師事して歌を習ったという徳大寺公迪であろうかと思われる。
住んでいたのは岡崎というから今の平安神宮のあたりか。

> しづくにも にごらぬ春に なりにけり むすぶにあまる 山の井の水

冬の間は井戸の水も少なくて手にすくおうとすると、こぼれ落ちる雫ですぐに水が濁ってしまったが、の意味。
同じような歌に「こころしてくむべきものを山水のふたたびすまずなりにけるかな」がある。

> 音たてて 氷流るる 山水に 耳もしたがふ 春は来にけり

六十にして耳従ふ。論語だ罠。

> けさもなほ まがきの竹に あられふり さらさら春の ここちこそせね

なかなか奇抜でよろしい。
と思ったが、和泉式部「竹の葉にあられ降るなりさらさらに独りは寝べき心地こそせね」の本歌取りのようだ。
おもしろいなあ。恋歌から春歌を作るとは。

> あはれにも 咲きこそ匂へ 梅の花 折られたるとも 知らずやあるらむ

折り取った梅の花を。

> 帰るには まだ日も高し 稲荷山 伏見の梅の 盛り見て来む

> 我ぎも子が ねくたれ髪を あさなあさな とくも来て鳴く うぐひすの声

「疾く」と髪を「解く」をかけただけの歌ではあるが、そこが良い。

> たが宿の 梅の立ち枝に 触れつらむ 今朝吹く風ぞ 香に匂ひける

特に説明もいらない。

> けふもまた 靡きなびきて 長き日の 夕べにかかる 青柳の糸

これも単に、「長い日が夕べにかかった」ということと、「青柳の糸が靡いてかかった」ということをかけているだけだ。
しかしまあ景樹の歌にはこういうものも多いということは、誰かが指摘せねばなるまい?

> 三島江の 玉江の里の 河柳 色こそまされ のぼりくだりに

「三島江の玉江の里」は万葉集の歌にも出てくる言い回しで淀川沿いの水郷であるという。
淀川を上り下りするときの川岸の柳が美しいという、まあそれだけの歌。

> あまりにも 春のひかげの 長ければ 暮るるも待たで 月は出でにけり

現代語、というよりは狂歌に近いのだと思う。
というより、和歌を俗語や口語で詠もうとした試みは、江戸時代には主に狂歌であったが、
それを景樹が伝統的な詠歌に積極的に取り入れて、様式化したと言えるか。

> 伊勢の海の 千尋たく縄 長き日も 暮れてぞ帰る 海人の釣り舟

> あくがれて 心も花に のる駒の みちさまたげに もゆる若草

> 常見れば くぬぎ混じりの ははそ原 春はさくらの 林なりけり

普段見ると、くぬぎ混じりの雑木林にしか見えないが、春に桜が咲いてみると、桜の林のように見える、の意味。
古典文法に忠実に従いつつ、現代的な感覚を詠んでいる。

> おほかたの 花の盛りを 心あてに そことも言はず 出でしけふかな

まあだいたい花は咲いているだろうと、どこへ出かけるとも言わず今日は出かけた、の意味。

> とふ人も なき山かげの 桜花 ひとり咲きてや ひとり散るらむ

> 人知れず 花とふたりの 春なるを 待たせても咲く 山桜かな

> 梢吹く 風も夕べは のどかにて かぞふるばかり 散る桜かな

> 照る月の 影にて見れば 山桜 枝動くなり 今か散るらむ

> 世の中は かくぞかなしき 山桜 散りしかげには 寄る人もなし

まあ、ふつうかな。

> こきたれて 雨は降れども 行く春は かへる色なき ふぢ浪の花

> 山吹の 花ぞひとむら 流れける 筏の棹や 岸に触れけむ

> 今朝見れば いつか来にけむ 我がかどの 苗代小田に つばめとぶなり

> 語らはむ 友にもあらぬ つばめすら 遠く来たるは うれしかりけり

有友自遠方来。これも論語だ罠。

> 今よりは 葉取り乙女ら にひ桑の うら葉取るべき 夏は来にけり

> 我が岡に けふも来て摘む をみな子が その名だにこそ 聞かまほしけれ

> 降り初むる けふだに人の とひ来なむ 久しかるべき さみだれの雨

> さみだれの 雲吹きすさぶ 朝風に 桑の実落つる 小野原の里

> 刈りあげし 畑の大麦 こきたれて 降るさみだれに 干しやわぶらむ

> 鳴く鳥も 空に聞こえず 谷川の 音のみまさる さみだれのころ

> おほ空の みどりに靡く 白雲の まがはぬ夏に なりにけるかな

> なれがたく 夏の衣や 思ふらむ 人の心は うらもこそあれ

> 浦風は 夕べ涼しく なりにけり 海人の黒髪 今かほすらむ

> うつせみの この世ばかりの 暑さだに 逃れかねても 歎くころかな

> 山かげの あさぢが原の さざれ水 わくとも見えず 流れけるかな

> 夏来れば 世の中狭く なり果てて 清水のほかに 住みどころなし

夏は暑いという歌。

> 見渡せば 神も鳴門の ゆふ立ちに 雲立ち巡る 淡路島山

> 近わたり ゆふ立ちしけむ この夕べ 雲吹く風の ただならぬかな

> あまりにも ゆふだつ雲の はやければ 雨のあとだに 残らざりけり

「あまりにも」が好きなんだな。

> かたぶきて 立てるを見れば 人知れず ものをや思ふ ひめゆりの花

> わが宿に せき入れて落とす 遣り水の 流れに枕 すべきころかな

石に漱ぎ流れに枕す、だわな。

> あらざらむ 後と思ひし 長月の こよひの月も この世にて見し

病気をした年に。

> 涼しきを 雨のなごりと 思ひしは やがても秋の はじめなりけり

割と好き。

> 心なき 人はこころも なからまし 秋の夕べの なからましかば

俊成「恋せずは人の心もなからまし物のあはれもこれよりぞ知る」の本歌取り。

> 言はねども つゆ忘られず しののめの まがきに咲きし 朝顔の花

「つゆ」と「朝顔」が縁語。ただそれだけ。

> 出づる日の かげにただよふ 浮き雲を 命と頼む 朝顔の花

> 山巡る しぐれの雲に あひにけり 染めたるかげや あるととはまし

> はつ時雨 降りしばかりの あと見えて 梢のみこそ 色付きにけれ

> けふもまた しぐれの雨に 濡らしけり 木曽の麻ぎぬ さらしなの里

これもほとんど意味はない。縁語だけ。

> おどろかす まきの板屋の 玉あられ さびしくもあらぬ 我がねざめかな

> 軒高く 降るやあられの 打ちつけに 瓦も玉の 音立てつなり

> いかばかり おどろけとてか 寝る人の 夢を待ちても 降るあられかな

夜中にあられがうるさくて目が覚めたという、それだけの歌。

> 照る月は 高く離れて 嵐のみ をりをり松に さはる夜半かな

少しおもしろい。

> 菊の花 こぼるるけさの 露みれば 千世もはかなき ここちこそすれ

わかる気もする。

> いたづらに 明かし暮らして 人並みの 年の暮れとも 思ひけるかな

> なれなれて 年の暮れとも おどろかぬ 老いの果てこそ あはれなりけれ

「桂園一枝講義」訳

ネットで調べてたら見つけた。

* [第1回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi15.html)
* [第2回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi16.html)
* [第3回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi17.html)
* [第4回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi18.html)
* [第5回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi19.html)
* [第6回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi20.html)
* [第7回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi21.html)
* [第8回](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi22.html)
* [抄出](http://www.banraisha.co.jp/humi/saikachi/saikachi12.html)

文献複写

新編国歌大観から、景樹と蘆庵の歌をちまちま書き写していたが、まったく時間も足りないんで、
特に蘆庵歌大杉。
図書館で文献複写させてもらうことに。
全部コピーしても1枚10円で500円になりません。
さすが新編国歌大観。
電話帳なだけはある。情報量大杉。

橘千蔭のうけらが花がけっこうおもしろい。しかしこれも数千首くらいある。
大杉。
一度にコピーせず、何回かに分けてやろう。
霊元天皇もわりとおもしろい。が、やはり大杉。
ゆっくり少しずつ目を通す。
ものすごい作業量だわこれ。

図書館によれば書籍全体の半分未満ならば複写して良いらしい。
へぇ。
ともかく、新編国歌大観第九巻はすばらしすぎる。
しかし買うと五万円くらいする(笑)。
困ったねえ。

steam cloud

serious sam HD の saveデータがどこにあるかわからん。
steam cloud というやつでサーバ側で管理しているのかとも思ったが、
別のPCでは同期できませんとか言われた。
steam cloud のやつ(笑)。

桂園派

香川景樹の桂園一枝、同拾遺は、近世和歌集に収録されているが、抜粋であって、
全体は新編国歌大観を見るしかないようだ。面倒くさい。
だいたい全部で二千首くらいあると思われる。
めんどうだが、やはり自分で一通り目を通してみないと、
他人が選抜したものではどうにもならない。

江戸期の歌人として、重要なのは、蘆庵と景樹の二人だと思っている。
もう一人、良寛を入れても良いが、私自身それほど興味はない。
また、さらに秋成を入れても良いが、彼の歌はつづらぶみの中にわずかに七百首くらいしか残っておらず、
しかも近世歌文集に完全収録されているので、割と簡単にすべてに目を通すことができる。
秋成は、やはり、歌人というには歌数がやや少なすぎる。
蘆庵の六帖詠草および同拾遺だが、これも本来は数千首ほどあって、近世和歌集はその抜粋であり、結局は新編国歌大観を見なくてはならん。

蘆庵から景樹はほぼ桂園派の直系をなすものであって、明治期まで大きな影響を持った。
いわゆる明治の「短歌」というものは、実質的には桂園派に接ぎ木をしたものなのだが、
真淵だとか橘曙覧だとかその他の後継を偽装しているのであって、非常に恩知らずでけしからんことだと思う。
江戸期の狂歌や桂園派などによる大衆和歌の素地がなければ、明治の短歌など出てきようがなかったはずである。
その重要性は、強調しすぎることはないと思う。

桂園派の復権は重要だが、しかし、思うに、蘆庵・景樹亡き後の桂園派は、急速に二条派との違いを失ってしまい、
あるいはマジョリティであり保守派である二条派が新興勢力の桂園派を取り込む形で、
なし崩しに因循姑息な方向に行ってしまったのかもしれない。
それは徳川幕府が維新政府によってとって代わられたのと同じ理屈だったかもしれない。
つまり、幕藩体制を活かしたまま近代国家を発展的に作っていこうという発想があり得たように、
桂園派を活かしたまま発展させようという発想はあったに違いないが、
より暴力的で破壊的な方法があの時代にはとられたということだろう。

ともかく、香川景樹の桂園一枝、小沢蘆庵の六帖詠草を、きちんと再評価すること、
これを新しい目標として掲げてみる。

たけゆく

また和歌データベースで遊ぶ。
21代集をカバーしているので、そこそこ遊べる。
「たけゆく」だが、
「月」「月影」「日影」「春」「夏」「秋」「年」
など。
一番古いのは古今集かげのりのおおきみ

> さ夜ふけてなかばたけゆく久方の月ふきかへせ秋の山風

次は実朝

> さよふけてなかばたけゆく月かげに飽かでや人の衣うつらむ

どうでも良いがどちらも大した歌じゃないな。実朝のは本歌取りというより習作か。
後鳥羽院宮内卿

> 差し登るひかげたけゆく朝凪の雲無き空に田鶴遊ぶなり

「たくる」
も少ないがある。為家

> 老いらくの来ると見ながらふりにけり霜のよもぎに秋たくる身は

よもぎに「世」、秋に「飽き」をかけているのだろうが、まあどうでも良いか。

「たけて」
新古今、西行:

> 年たけてまた超ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山

うーん。きざな歌だな。「年たけて」とは「年をとって」と同じ意味のようだ。

> 春たけて紀の川白く流るめり吉野の奥に花や散るらむ

誰の歌だろう。知ってるような知らないような。

明日香井雅経

> 春も過ぎ夏もたけぬる今年かな今秋冬もあはれいくほど

悪くないが良くもない。
定家来た。

> 朝なあさな散り行く萩の下もみぢうつろふ露も秋やたけぬる

うーん。さすがというか。ひと味違う。

> ゆふさりて すずかぜふけど なつごろも ここちよきまで はるぞたけぬる

「すずかぜ」というのは割と新しい言葉のようだな。
そうか、芭蕉が使ったのか。
しかも晩夏の涼風を言うらしいぞ。まあいいか。

曽禰好忠

> なつかしく 手には折らねど やまがつの 垣根のうばら 花咲きにけり

なるほどね。
なかなか良い歌ではないか。

新葉集文貞公花山院師賢:

> 風寒み 秋たけゆけば つゆしもの 布留の山辺は 色づきにけり

なるほど。

> わがやどの かきねのうばら としごとに はるたけゆけば 咲かむとすらむ

> すべもなく なすこともなく ひとりゐて ことしのはるの たけゆくをみる

だって歩き回ると金かかるし。
家に居ても、良い考えが浮かんでくるわけでなし。
連休もまだ残ってるし。
だめだめ。