藤原氏も徳川氏も大差ない。

思うに、徳川氏だって、武力によって強権的に統治していたのではなく、
常備軍を撤廃し、諸侯の軍事行動も極力抑制・抑圧し、
武装解除に近いことをして、
鎖国やキリスト教の禁令などによって生産性や社会的な発展を犠牲にし、
天皇家の権威を飼い慣らして、
「無為な大平」状態を作り出すことによって、
世の中を治めたのだ。
天皇家や藤原氏がかつて平安時代に統治した方法と大差ない。
足利氏とも大差ない。
実際、黒船が来たり外様大名が本気で蜂起したらひとたまりもなかったではないか。
日本では為政者は戦争状態でないときには常備軍を持たないし、
定期的に動員することもない。
ある意味で、それがまずい。
常備軍を持ち、常に臨戦状態だったのは(戦国時代は別として)鎌倉幕府の北条氏くらいだろう。
さぞ神経をすり減らしたに違いない。
源氏や足利氏、天皇家など、身分の高い家柄も統治し得たのは奇跡に近い。
北条氏はおそらく日本で初めて本当の「政治」を行ったというところが強みなのだろう。

ところで、応仁の乱によって、守護大名は京都に常駐しなくなった。
それまで守護職は一応将軍の命令で赴任するものだったのだが、
勝手に領国を取り上げたり与えたり鎌倉公方を廃しようとした義教が殺されたりしたもんだから、
守護大名はいわば勝手に実力でなるようになった。
応仁の乱で大名は領国から出てこなくなる。
足利幕府は合議制で成立していたから、
有力大名が京都に常駐しないから、幕府そのものが存在しないと同じ状態になる。
そうすると守護大名たちは幕府という行政・司法が存在しないから隣国と勝手に交戦するようになる。
守護職も形式的に将軍に事後承諾を取る形になる。
だから自然と戦国時代に突入する。

応仁の乱というのはつまり単に山名氏と細川氏が一定の和解に達して終了したことになっているが、
実はそのまま戦国時代につながっているということがわかる。

また、応仁の乱を避けて京都から公家が地方に散ったために地方文化が栄えたというのだが、
たぶんそれは嘘だ。
京都の戦乱はたかだか3、4年程度の散発的なものだったはずで、その程度で公家が地方に行きっぱなしになるはずがない
(公家は宮中行事に関わることで食いつないでいるのだから、地方で生きていけるはずがない。
明治の奠都でほとんどの公家が天皇と一緒に東京に移り住んだようなもんだろ)。
太田道灌等のように、地方の武士が文化の担い手になったというだけだと思う。
当時の地方武士はすでにそのくらいの教養はあっただろう。

歴史的仮名遣い2

契沖仮名遣いという言い方にならえば、
明治政府が普及させ、昭和の敗戦まで国語の「正書法」として確立していた仮名遣いは、
「宣長仮名遣い」とでも言うべきものだと思う。
おそらくそのくらい、宣長の影響は大きい。

坂本龍馬の仮名遣いもかなりへんてこだった。
「宣長仮名遣い」はともかくも、当時の混乱した仮名遣いを矯正するには必要なものだった。
戦後は「現代仮名遣い」というものになったのだが、これは、
すでに区別の意味も失われた化石的な痕跡を無くしてしまうというのが目的だったのだろう。
おそらく、大した抵抗もなく歴史的仮名遣いが捨て去られてしまったのは、
大半の人たちにとって、この宣長が作り上げた、精緻だが煩瑣な仮名遣いについてこれなかったのかもしれない。
しかし、宣長ほどの天才が作り上げた仮名遣いをただ面倒だという理由で捨ててしまうのは、
もったいない気がする。

[本居宣長「在京日記」における仮名遣い : 歴史的仮名遣いとの相違を中心に](https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/10371)

この論文の中で、永山勇の説として

> 明和初年(1764年、宣長34才)頃まで、仮名遭いが彼此勤揺し、きわめて不安定な語がすくなからずあった

> 概していえば定家流仮名還いの系譜につながるものであり、更にいえば、
当時の世俗的仮名遣いに従っていたものとものと評して大遍ない

などと紹介してあるのは興味深い。
また、宣長の京都遊学中の日記である「在京日記」の仮名遣いを実に詳しく調べている。

歴史的仮名遣い

思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。
上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。
宣長は30才くらいまではへんてこだった、
だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。

小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。
まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。
明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、
しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、
詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。
しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。

丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。
49才以後ということになる。
かなり遅い。

こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、
「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、
完全には行われなかったのだ。
なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、
それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。
歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。
実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。

ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。
やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。

岩波文庫版排蘆小船

岩波文庫版排蘆小船は底本が戦前岩波書店から出た宣長全集。
普通に普及しているのは戦後に大野信が編集した筑摩書房版の全集なのだが、
やはり同じ岩波から出すと言う関係で戦前のものを底本にしたのか。

カタカナがひらがなに改めてあり、読みやすい。
歴史的仮名遣いがかなり間違っていることに驚く。

> おひてのみ惜き物かは年の暮れわかきも同じ心なりけり

宣長満で20才の時の歌だが、仮名遣いが間違っている。「老ひて」ではなく「老いて」でなくてはらない。

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉も

満で22才、まだ仮名遣いに間違いがある。「よみをける」は「よみおける」が正しい。

> 八月十四日の夜くまなき月影に軒ちかう出侍てひとりしめやかになかめ侍るまゝいとゝさやけさまさり行心ちしてとみにもいりやらすいと久しうしつゝなをあかねは

満23才。「なを」は「なほ」の誤り。

> 桃のさかりを見にまかりていとかえりがてにして

満24才。「かえり」は「かへり」の誤り。

> 大かた花のころも過ぎぬる比高台寺にまいり侍りけれは

同じく24才。「まいり」は「まゐり」の間違い。

> 此里の名を句の上にすへて蚊遣火の烟の立を見てよめる

満29才。「すへて」は「すゑて」の誤り。
そうか、本居宣長ともあろう人が30才くらいまではきちんとした歴史的仮名遣いで書けてなかった、ということか。
そりゃあそうかもしれん。そういう教科書もないわけだから。
上田秋成などもかなりいい加減だ。

なので排蘆小船も30過ぎに書かれた可能性があるわけだな。

肝大小心録

岩波文庫版上田秋成「肝大小心録」を読む。
戦前の復刻。かなり珍しいもの。

> 天にさまざまあるはいかに。
儒・仏・道、また、我が国の古伝に言う所、ことごとくたがへり。
天と仰ぎてのみにもあらず。
天禄・天資・天命・天稟など儒には言うなり。
仏は天帝も下りて我が法を聞くとなり。
キリシタンらの外道の法は、ただ天師と言ひて、天に尊称の君あり。
これを願へり。
この国には天が皇孫の御本国にて、日も月もここに生まれたまふと言ひしなり。
これはよその国には承知すまじきことなり。
さればよその国には君とあがめて崇敬すべきことありと言ひたれど、
このことわりはことわりならず。

とまあ、天と同じ言葉で言っても宗教によってさまざまであり、
我が国の天とか日とか月というものは、よその国では承知されないものだろう、と言ったところで、

> 月も日も、目・鼻・口もあって、人体に説きなしたる古伝なり。

これは何を言っているのか。文脈からしてみると、神道のことのようだ。
天照大神や月読命が擬人化されていることを言うか。

> ゾンガラスという千里鏡で見たれば、日は炎々たり、月は沸々たり。
そんなものではござらしゃらぬ。

ゾンガラスはサングラスの意味で、太陽を観察するためガラスにすすを付けたものと言う。
千里鏡とあるから望遠鏡のようなものだろうか。
沸々とはつまりクレーターだらけという意味か。

> 田舎人のふところおやじの説も、また田舎者の聞いては信ずべし。
京の者の聞くは、王様の不面目なり。

やや難解だが、「ふところおやじ」とは狭い世界に閉じこもった親父という意味のようだ。
田舎の世間知らずの親父の説も、田舎者が聞けば信じるだろう、
京都の人間が聞いたら、恥ずかしくて天使様にも顔向けできない、くらいの意味か。

> やまとだましひということをとかく言うよ。
どこの国でもその国のたましひが国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ

> 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらす山さくら花

> とはいかにいかに。おのが像の上に、尊大の親玉なり。そこで

> 敷島のやまと心のなんのかのうろんなことをまたさくら花

> と答えた。
いまからかと言ひて笑ひしなり。

最期の部分、
[「敷島の歌」その後](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishima_sonogo.html)
では、「喧嘩っ早いねと言って笑った。」となっているが、はて。

宿坊

司馬遼太郎は、祇園という町が挙げて長州を贔屓にしていたというのだが、ちょっと妄想入ってるんじゃないか。
長州征伐で京都から排除されてもかまわず匿い続け、鳥羽伏見の戦いで長州の紋の入った旗を見て涙を流して喜んだとか。
まあ、そんな人も居たかもしれないが、京都人全体がそうというのは余りにこじつけが過ぎないか。

確かに、幾松・君尾などの芸妓が居たがそれらが有名なのはたまたま維新が成功して、
政府要人の正妻や妾となり、
明治・大正の頃までそれらの芸妓が生き残っていて、講談などにおもしろおかしく採られたからだろう。
負けた側の記録はその反対にほとんど残らないだけのことだろう。
長州以外の連中も祇園で遊んでいたに違いないし、
長州だけが贔屓にされていたはずもないのではないか。

[勤王芸者](http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886104)
近代デジタルライブラリーで読める。
このjpeg2000のデジタル文書だが、
1920×1200のモニターで、ブラウザ全画面表示で拡大率50%で読むとそこそこ読める、
しかしもっと楽な読み方がありそうなもんだ。

> 侍に勤王佐幕あれば芸妓にもその客種によって勤王佐幕あったもので、長州の侍に馴染があれば、
長州だけで座敷が忙しく、薩藩ならば薩藩の座敷だけで良い加減に忙しいものであったから、
自然客贔屓により、勤王党の芸妓と幕府方の芸妓が出来ていました。

まあ普通はそうだろう。
佐幕派では徳川一橋、会津などが綺麗に遊んでいたという。

> 長州の縄手魚品、薩摩は末吉町の丸住、土州が富永町の鶴屋、新撰組は祇園の一力、

などが馴染みの店、つまり「お宿坊」であったという。

朱塗り

私は九州で生まれ育ったのだが、
九州には養蚕があまり発達しなかったせいか、
お稲荷さんの祠があまり無い。
従ってあのような赤い鳥居というものを見たことがなかった(祐徳稲荷に幼い頃行ったはずなのだが、鮮明に覚えてない。とにかくひたすら長い階段の回廊を登ったことだけ覚えている)。

また、九州はあまり地震がないわりに台風が良く来るからだと思うが、
鳥居は石作りのものが多い。
博多あたりだと朱塗りの鳥居や社殿も多いようだが、
たとえば長崎の諏訪神社などは朱はまったく使われていない。
石か黒々とした木肌か。

まあだから私が田舎を出て京都に住んだときに一番驚いたのは神社建築のけばけばしさだった。
特に上賀茂神社には驚いた。
上賀茂神社というのは、平安京が出来るよりも、渡来人の秦氏が入植するよりもずっとまえの山城の国に土着の豪族のなごりだろう。
それがあのように、白い砂、緑の芝生、朱塗りの鳥居のように、
なんといえば良いのか、派手な色彩でいろどられているのにびっくりしたわけだ。
上賀茂の近くに久我神社という小さな町中の神社があるがここも赤くて白くて実に清らかな神社だ。

その後、日光東照宮も見てみたが、いろいろ噂に聞いたよりは派手さも感じなかったしけばけばしいとも思わなかった。
むしろ、落語に聞いていた左甚五郎の眠り猫の彫刻があまりにちっぽけなのに落胆したくらいだ。

ブルーノ・タウト以来、桂離宮を褒めて東照宮をけなすのがはやりなようだが、
桂離宮は見たことないのだが、
どちらが駄目でどちらが良いという気にはならん。
もしケバくてデコラティブなのが駄目だというのなら伏見稲荷の鳥居の参道などどうなのだろうか。
廃仏毀釈以前の鶴岡八幡宮などはもっとデコラティブでまがまがしいところだったに違いない。

仏像も寺院も元の朱塗りや青塗りや金箔を残さないのがわびさびであって、それが室町時代に完成して、
日本ではそれ以来朱塗りはしなくなったのに東照宮はひどい、というのは明らかにおかしい。
朱塗りの事例はいくらでもあるからだ。
東照宮がいかんというのならお祭りの御輿や祇園祭の山鉾などはどうなのか。
仏壇の装飾はどうなのか。
同じようにけなさなくちゃなるまい。

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。