人の出去りし跡を掃くことを忌むこと

玉勝間というのは、徒然草に匹敵するものだと思うのだが、あまり古典として高校教育などで読むことはないのだが、
その玉勝間に

> 人が出でゆきしあとを掃くことを忌むは、葬の出でぬる跡を掃くわざのある故なり

とある。人を追い払ったあとで塩をまくというのもあるが、同じことだろう。
立ち食いする、一本箸で食べるなども葬式の習俗らしい。
ご飯に味噌汁をかけて食うのも葬式の風習ではなかろうか。
古くは葬式でご飯に味噌汁をかけて一本箸で立ったまま(急いで)食べたという。
このようにただ単に行儀が悪いとかみっともないと言って忌み嫌っているものの多くは葬式に由来しているように思う。

椿三十郎

おもちゃの刀をいじっていてふと気づいたのだが、
椿三十郎の最後の立ち会いの場面で、
三船敏郎は、左手で左にさした刀を外側に向かって抜き、
右手を左手と刀の間に入れて、
右手で刀の背を押し出すようにして、相手の右脇腹を押し切りしている。

ということは、刀を最初から、刃が下になるように挿していたということになる。
刃が上向きならば自分の右手が斬れてしまう。
通常、刀は刃が上になるように挿す。
剣道でも竹刀には上下の区別がある。目印として上に弦が張ってある。
左腰に竹刀を持つときには弦を下にする。
竹刀を抜いて構えると、弦は上にくる。

鞘に収めたとき刃が痛まないように、刃を上向きにしているのだと、そのように納得していたのだが、
古くは刃を下向きにしていた。
というのは、やはり、刀が湾曲している場合、刃を下に向けた方が安定するわけだよ。
刃が痛むというのは誤差の範囲だと思う。
刃を上向きにしたのはやはり居合抜きなどの理由で、振りかぶったときにすぐに敵を切れるには、
刃を上向きにしておかねばならないからだ。
或いは、左から右へなで切りにするには、刃を外向きにしなくてはならない。
しかし、上向きから左向きに刀を回すのはそれほど困難ではない。

しかし、椿三十郎の立ち会いでは、最初から、刃を下向きにしていたと考えざるを得ない。
わざわざ刀を抜くとき刀を180度回転させてから抜くだろうか。
いやいやあの一瞬の勝負でその時間的余裕はない。

思うに、椿三十郎の立ち会いは、西部劇の一対一の決闘のシーンなどに影響されたものだと思う。
黒澤明が一方的に西部劇に影響を与えたのでなく、黒澤明もやはり西部劇から影響を受けているのだ。
一発の銃撃で勝敗が決まるというのは、レボルバーが開発される前の話ではないか。
単発しか拳銃が撃てなければ二丁拳銃の方が有利だっただろう。
何発でも撃てるレボルバーの方が絶対有利に違いない。
しかし、椿三十郎では、一発で決着を付けるシーンがとりたかったのだ。
だからあんなに近い間合いで抜き打ちの勝負となったのだが、
ああいう立ち会いはそもそも日本にはもともとあり得なかったと思う。
一対一の勝負というものはあっただろうが、そもそも居合抜きというのは不意打ちで敵をたおす技であり、
お互い立ち会うつもりで、
ああいう形で刀を抜かずに最初から間合いに入って向かい合うということは、まずなかっただろう。
剣道の試合の形からしても全然違う。

で、問題なのは、三船敏郎は、最初からああいう近間の抜き打ちの決闘を想定していて、
最初から刃を下に向けていたのかということだが、状況的にはあり得ないことだ。
もしかするともっと遠間で立ち会うことになったかもしれん。

刃を下に向けて他方の手を添えてすばやく斬るというのは、たしかにカムイ伝などの忍者の斬り方に似ているかもしれん。
片手で抜いて片手で素早く斬るわけだが、それでは力が入らないから、もう一方の手を添えて押し斬りにするわけだ。

もう一度コマ送りで確かめてみないとわからんが、もしかすると、刀を抜くとき、
左手で180度刀を回してから抜いたのかもしれん。
ちと考えにくいが。

仮名遣意見2

> 假名遣を國民一般に行はうと云ふことは不可能であると云ふ論があります。此の方の側は大槻博士の御論の中にありました。其の中の最も有力なる論據として仰しやるには、斯うして委員が大勢居るけれども委員の中で一人でも假名遣を間違へないものはないと云ふのでありました。實に其の通りでありまして、自分なども終始間違へますけれども、間違つて居ても、間違つたことは人に聽いて訂して行かう、子供にでも間違つて居ないことを教へてやつて、少しでも正則の方に向けようと云ふことを考へて居るのであります。當局に於ては不可能とまでは申されませぬけれども、困難だと云ふことは申されてあります。是れは一般にさう言つて居ります。困難となれば程度問題であつて、不可能ではないのであります。

森鴎外ですら間違えるんだから、まあ無理がある罠。
確かに無理はある。
みんな困ってたんだねぇ。

鴎外の仮名遣意見

假名遣意見 森鴎外。すばらしいね、こういうものがさくっと検索してただで読めるのだから。この中で、本居宣長のことは、本居とか、本居先生とかで出てくるのだが、

扨(さて)古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡(とほかゞみ)の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性格が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから、そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度(インド)の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅(しゆだら)とか云ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑(いや)しんだ爲めに、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。

本居の遠鏡というのは古今和歌集遠鏡のことだが、確かにこれは宣長の著作としては珍しく、古今集を当時の完全な口語訳を、しかも逐語訳的に作ろうとしたものである。しかし、森鴎外の言うように、宣長は、俗語というものを卑しんだがために、ぞんざいな口語訳を作ったかというと、そうとは言えないように思うし、また仮名遣いという意味では、きちんと「を」「お」や「い」「ひ」「ゐ」などを使い分けているように見える。

それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。

明治も終わりのころまで仮名遣いをどうするか、結論が出てなかったということだな。本居宣長が明治に生きていて、国民に「俗語的な仮名遣い」と「歴史的な仮名遣い」とどちらを教育しようとしたか、ということについては、まったく見当もつかないのだが。ていうか鴎外は、本居宣長の心境になりかわって、本居宣長ならばどう考えただろうかというような思考実験をしているようにはとても思えない。ただ宣長という権威を利用して自分の説を補強したいだけのようにみえる。

鴎外は要するに、ドイツ語にも英語にもフランス語にも正書法 (Orthographie) というものがあり、綴りと発音は決して一致していないのであり、それが当たり前なんだと言いたいわけだ。フランス語や英語に関してはまったくその通りで、特に英語はひどい。ドイツ語はかなり綴りと発音が近いが、 lieben の形容詞 lieb が [li:b] ではなく [li:p] と発音するなどの例をわざわざ探し出している。そして「歴史的仮名遣い」という言い方自体が何か過去の遺物のような印象を持たせてよろしくないから単に「仮名遣い」と言うべきだ、
などと言っている。

* 臨時仮名遣調査委員会
* 仮名遣

藤原氏も徳川氏も大差ない。

思うに、徳川氏だって、武力によって強権的に統治していたのではなく、
常備軍を撤廃し、諸侯の軍事行動も極力抑制・抑圧し、
武装解除に近いことをして、
鎖国やキリスト教の禁令などによって生産性や社会的な発展を犠牲にし、
天皇家の権威を飼い慣らして、
「無為な大平」状態を作り出すことによって、
世の中を治めたのだ。
天皇家や藤原氏がかつて平安時代に統治した方法と大差ない。
足利氏とも大差ない。
実際、黒船が来たり外様大名が本気で蜂起したらひとたまりもなかったではないか。
日本では為政者は戦争状態でないときには常備軍を持たないし、
定期的に動員することもない。
ある意味で、それがまずい。
常備軍を持ち、常に臨戦状態だったのは(戦国時代は別として)鎌倉幕府の北条氏くらいだろう。
さぞ神経をすり減らしたに違いない。
源氏や足利氏、天皇家など、身分の高い家柄も統治し得たのは奇跡に近い。
北条氏はおそらく日本で初めて本当の「政治」を行ったというところが強みなのだろう。

ところで、応仁の乱によって、守護大名は京都に常駐しなくなった。
それまで守護職は一応将軍の命令で赴任するものだったのだが、
勝手に領国を取り上げたり与えたり鎌倉公方を廃しようとした義教が殺されたりしたもんだから、
守護大名はいわば勝手に実力でなるようになった。
応仁の乱で大名は領国から出てこなくなる。
足利幕府は合議制で成立していたから、
有力大名が京都に常駐しないから、幕府そのものが存在しないと同じ状態になる。
そうすると守護大名たちは幕府という行政・司法が存在しないから隣国と勝手に交戦するようになる。
守護職も形式的に将軍に事後承諾を取る形になる。
だから自然と戦国時代に突入する。

応仁の乱というのはつまり単に山名氏と細川氏が一定の和解に達して終了したことになっているが、
実はそのまま戦国時代につながっているということがわかる。

また、応仁の乱を避けて京都から公家が地方に散ったために地方文化が栄えたというのだが、
たぶんそれは嘘だ。
京都の戦乱はたかだか3、4年程度の散発的なものだったはずで、その程度で公家が地方に行きっぱなしになるはずがない
(公家は宮中行事に関わることで食いつないでいるのだから、地方で生きていけるはずがない。
明治の奠都でほとんどの公家が天皇と一緒に東京に移り住んだようなもんだろ)。
太田道灌等のように、地方の武士が文化の担い手になったというだけだと思う。
当時の地方武士はすでにそのくらいの教養はあっただろう。

歴史的仮名遣い2

契沖仮名遣いという言い方にならえば、
明治政府が普及させ、昭和の敗戦まで国語の「正書法」として確立していた仮名遣いは、
「宣長仮名遣い」とでも言うべきものだと思う。
おそらくそのくらい、宣長の影響は大きい。

坂本龍馬の仮名遣いもかなりへんてこだった。
「宣長仮名遣い」はともかくも、当時の混乱した仮名遣いを矯正するには必要なものだった。
戦後は「現代仮名遣い」というものになったのだが、これは、
すでに区別の意味も失われた化石的な痕跡を無くしてしまうというのが目的だったのだろう。
おそらく、大した抵抗もなく歴史的仮名遣いが捨て去られてしまったのは、
大半の人たちにとって、この宣長が作り上げた、精緻だが煩瑣な仮名遣いについてこれなかったのかもしれない。
しかし、宣長ほどの天才が作り上げた仮名遣いをただ面倒だという理由で捨ててしまうのは、
もったいない気がする。

[本居宣長「在京日記」における仮名遣い : 歴史的仮名遣いとの相違を中心に](https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/10371)

この論文の中で、永山勇の説として

> 明和初年(1764年、宣長34才)頃まで、仮名遭いが彼此勤揺し、きわめて不安定な語がすくなからずあった

> 概していえば定家流仮名還いの系譜につながるものであり、更にいえば、
当時の世俗的仮名遣いに従っていたものとものと評して大遍ない

などと紹介してあるのは興味深い。
また、宣長の京都遊学中の日記である「在京日記」の仮名遣いを実に詳しく調べている。

歴史的仮名遣い

思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。
上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。
宣長は30才くらいまではへんてこだった、
だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。

小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。
まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。
明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、
しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、
詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。
しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。

丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。
49才以後ということになる。
かなり遅い。

こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、
「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、
完全には行われなかったのだ。
なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、
それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。
歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。
実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。

ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。
やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。

岩波文庫版排蘆小船

岩波文庫版排蘆小船は底本が戦前岩波書店から出た宣長全集。
普通に普及しているのは戦後に大野信が編集した筑摩書房版の全集なのだが、
やはり同じ岩波から出すと言う関係で戦前のものを底本にしたのか。

カタカナがひらがなに改めてあり、読みやすい。
歴史的仮名遣いがかなり間違っていることに驚く。

> おひてのみ惜き物かは年の暮れわかきも同じ心なりけり

宣長満で20才の時の歌だが、仮名遣いが間違っている。「老ひて」ではなく「老いて」でなくてはらない。

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉も

満で22才、まだ仮名遣いに間違いがある。「よみをける」は「よみおける」が正しい。

> 八月十四日の夜くまなき月影に軒ちかう出侍てひとりしめやかになかめ侍るまゝいとゝさやけさまさり行心ちしてとみにもいりやらすいと久しうしつゝなをあかねは

満23才。「なを」は「なほ」の誤り。

> 桃のさかりを見にまかりていとかえりがてにして

満24才。「かえり」は「かへり」の誤り。

> 大かた花のころも過ぎぬる比高台寺にまいり侍りけれは

同じく24才。「まいり」は「まゐり」の間違い。

> 此里の名を句の上にすへて蚊遣火の烟の立を見てよめる

満29才。「すへて」は「すゑて」の誤り。
そうか、本居宣長ともあろう人が30才くらいまではきちんとした歴史的仮名遣いで書けてなかった、ということか。
そりゃあそうかもしれん。そういう教科書もないわけだから。
上田秋成などもかなりいい加減だ。

なので排蘆小船も30過ぎに書かれた可能性があるわけだな。