ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。

ドナルド・キーン

ドナルド・キーンという人はまだ存命中の方のようで、88才くらいだろうか。源氏物語か何かを研究して海外に紹介した人、というようなイメージであっているだろうか。「日本人と日本文化」という本で、司馬遼太郎と対談しているのだが、何かずいぶんへんてこなことを書いている。

私は正規に日本史教育を受けた人間ではない。高校では世界史を取った。いわば独学なのだが、それもつい最近、日本外史を精読するようになったから、ついでにいろいろ調べてみているに過ぎない。で、日本史を特に知らなかったころの自分がこの本を読んだら、ふーんなるほどで済ませてしまっていたと思う。なるほど、司馬遼太郎とドナルド・キーンがそういうのならそうなんだろうな、と。しかし、ある程度わかってみて、自分の考えというものが固まってから読んでみるとかなり個性のある、独自の主張、もっというと異様な主張をしているように思えてくるのだ。

特に驚いたのは、足利義政と本居宣長についての評価だ。司馬遼太郎は義政を

法制的には(共和制ローマの)護民官みたいな立場にありながら、まったく政治ということにタッチしなかった

と言っている。また、キーンは

ローマ皇帝のネロが、ローマの燃える炎を見ながら、バイオリンを弾いていたという伝説がありますけれども、これは嘘でしょう。しかし事実として義政公は、花の御所で、いろいろ風流の遊びをし続けていた。そのごく近い所で、多くの人々が死んでいった。

などと言っている。ようするに彼らは、足利将軍をローマ皇帝だか護民官のようなものと比較して、あまりに義政が無為で文弱だった、と言いたいわけだ。しかし私は、もしドナルド・キーンが義政と同じ立場に立たされれば、きっと義政と同じようにやるしかなかっただろうと思う。

足利高氏は逆賊となるよりはと、一族郎党にかつがれて、幕府を作り北朝を立てた。義満の時代に南北朝は解消したが、必ずしも義満に権力が集中したわけではなく、すでに有力守護大名や関東管領らによる合議体に成りつつあった。おそらく南北朝の争乱を通じて将軍家としては、功績のあった諸侯に褒賞として守護職を与え続けるしかなかったのだろう。畠山にしろ細川にしろ山名にしろもとは関東から出てきて足利氏を御輿にして一緒に戦ったわけだが、だんだん足利氏の手に負えなくなった。

ところが足利義教の時、鎌倉公方を滅ぼしたり守護大名の力を押さえたりして、中央集権の強化を図った。義教は足利将軍の中では一番強権的で、帝政ローマの皇帝か共和制の護民官に匹敵したかもしれん。しかし、義教はあんまり調子に乗りすぎたせいで、守護大名の一人の赤松氏に弑されてしまい、赤松氏を討伐した山名氏は赤松氏の領国も合わせてますます強大になった。ここで当時最有力だった細川氏との間で緊張が高まった。

そもそも守護大名らはいくつもの領国を持っていたので、将軍家よりも力を持っていた。山名宗全など赤松氏の領国を合わせて但馬・備後・安芸・伊賀・因幡・伯耆・石見・播磨の八ヶ国の守護職だった。足利氏が独力で細川氏や畠山氏を討伐することなど不可能だし、討伐したらしたで功績のあった大名の領国が増えるだけだ。最悪、赤松氏に殺された義教のように、自分も守護大名に殺されることだってあり得る。そういう状況で義政が大名の家督争いを下手に仲裁しようとしたもんだから、応仁の乱に発展し、日本全土に戦が広まって、長期化してしまった。おそらく、義政にできたことは、荒れ果てた京都において、天皇家や公家らを保護するくらいのことだっただろう。義政は最初はおそらく将軍らしくいろいろな問題を仲裁しようと思ったが、自分にできることがあまりにも少ないので絶望してしまったのだろう。だから早く引退したかったのだが、子供もいないので仕方なく養子を育てることにしたのだが、実子が出来てしまい、正室の日野富子がどうこうということがあって、なかなか将軍職を辞めらなかった。

キーンは、京都に住んで京都大学で研究してたから、京都のことはよく知っていたに違いない。いろんな人からいろいろ義政の話も聞いたのだろうが、義政の極めて一部だけを知って、つまり銀閣寺を建てたとか花の御所で遊び暮らしたとか、そんなことだけをとがめ立てして憤慨しているとしか思えない。

ある意味では気違いだったのでしょうか。

とまで言っている。気違いだとかアスペルガーだとか言ってしまえばもうそれから先は思考停止しかない。

司馬遼太郎はもっとひどい。義政はまったく政治にタッチしなかったのではない。なんとか仲裁し調停しようとはしたのだ。しかし守護大名らは勝手に戦を始めてしまった。軍事力をもたず調整役でしかない将軍が、始まってしまった戦をどうすることができようか。さらに応仁の乱はあまりにも長期的で全国的な争乱だった。おそらくは散発的なものだったのだろう。それで焼け出された民衆を助けるといっても限度があったに違いない。おそらくは、まったくなにもしなかったのではなかろう。やってみたが、焼け石に水だったのだ。それに、民衆を助けるというが、その実態は「足軽」という名のよくわけのわからない民衆たちが、勝手に寺や神社や公家の屋敷などに火を付けて略奪して回った、というのが事実なのではなかろうか。そんな民衆をどうして助けたいと思うだろうか。

なるほど、ドナルド・キーンと言う人が、義政について、よくわからないと。分からないなりに外国人としての視点から指摘をするのはまだ良いが、それについて、きちんと誤りを正す立場にある日本人が、司馬遼太郎のように、

キーンさんは、いわば義政はろくでなしの政治家であるとおっしゃった。まったく言われてみればその通りですが、しかしわれわれは将軍というものに、それほど政治家であることを期待していない。
当時も後世のわれわれも期待してないわけです。

足利将軍家の義政というのは東山文化を生んだたいへん偉大な人物であると、われわれ不覚にも単純に思っていたら、キーンさんはそれを大統領にして、あの「大統領はよくなかった」とおっしゃるからおもしろかった。

などと言ってしまっては、もうどうしようもない。司馬遼太郎の認識では足利義政は銀閣寺はすばらしいくらいでしかなく、そこに外国人から為政者として批判があっても、それにうまく答えられない。そればかりか、無学な北条氏はまじめに政治をやったが、教養人の義政は不真面目だった、要するに学問があるやつは政治にむいてないくらいの、ただの飲み屋の親父が言う程度のことしか言えてない。

思うに北条泰時などは相当なインテリだっただろう。ああいうことはよっぽどきちんと宋学を学んでないとできないはずだ。それに泰時は定家に学んで歌も残している。無学どころではない、きちんと当時の京都の最新の教養を身につけた人だ。始祖の北条時政もずいぶんと利口だった。でなければあんな大それたことはできまい。それがどうして

鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。

などということになるのだろうか。司馬はさらに

どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが、

などとも言っているのだが、ようするに、彼にとって秀吉や義経や龍馬のような、わかりやすい英雄とか、わかりやすい決着が不在の戦争、ごちゃごちゃした始まりも終わりもないようなうやむやな内戦のような戦争は無意味でただ騒ぐだけの戦争に見えるということだろう。そういう認識は間違っていると思う。そしてほんとうに問題なのは、日本人の多数が司馬遼太郎程度にしか応仁の乱を認識していないってことだよな。

なるほど。ドナルド・キーンは足利義政について何冊か本を書いているようだな。まあ、だいたい内容の予測はつくが。

草加

出張で草加まで行く。広々としている。綾瀬川。ほとんど起伏無く真っ平らな、典型的な武蔵野。武蔵野の広さを実感するには、浅草から日光までじっくり東武に乗ってみるとわかるだろう。これが神奈川だと、だいたい川沿いには深い谷ができる。崖にすらなっているが、神奈川の風景とはだいたいが山から川が出てくる谷地ばかりだからだ。草加の綾瀬川などは、周りの土地に何の渓谷も形成していない。つまりここは氾濫原であって、川筋が固定されたのはつい最近のことなわけだ。これだけまったいらで広々したところに首都を作ればどれほど便利だっただろうか。軽くロサンゼルスくらいの規模の街を作れるだろう。だが、江戸時代にはそんなに広大な都市を造ろうという発想はなかったに違いない。

龍馬の手紙・新葉集

[慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E5%85%83%E5%B9%B49%E6%9C%889%E6%97%A5%E4%BB%98%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%99%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%B9%E5%AE%9B)。
たしかに龍馬の手紙の中に新葉集についての言及がある。

> 是よりおやべどんに申す。
近頃御面倒おん願いに候。どうぞ御聞きこみねんじいり候。

おやべとは龍馬の乳母らしい。乳母に面倒な願いが二つあるという。

> そもそも、わたしがお国におりし頃には、
吉村三太と申すもの、頭のはげた若い衆これあり候。
これが持ち候歌本、新葉集とて南朝 (楠木正成公などの頃、吉野にて出来し歌の本也)
にて出来し本あり。これがほしくて京都にて色々求め候へども、一向手にいらず候間、
かの吉村より御かりもとめなされ、おまへのだんなさんにおんうつさせ、おんねがいなされ、
なにとぞ急におこしくださるべく候。

吉村という若くてはげた男が新葉集という南朝の歌集を持っているのだが、
京都で求めようとしてもなかなか手に入らないので、
吉村から借りて、おまえの夫に筆写するようお願いして、至急送ってくれという、確かにややこしいお願いだ罠。

これに関連して、
2009年6月10日に、日本政策研究センター岡田幹彦主任研究員による
「元気のでる歴史人物講座(23) 坂本龍馬」という記事が産経新聞に掲載されたようだ。
だが、上記手紙の文面から

> 和歌を愛し自ら詠んだ龍馬は新葉和歌集を愛誦した。

とまで言い切れるのか。
そうとう飛躍があるような気がするのだが。

龍馬の歌

けっこうたくさんあるんだな。歴史的仮名遣いに直したりした。

春夜の心にて

世と共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水

湊川で詠んだものらしい。「月と日の」は謎。日月旗(錦の御旗)の意味か。単に月日、歳月という意味か。菊の下水とは楠木正成の菊水紋を言うか。

憂きことを 独り明しの 旅枕 磯うつ浪も あはれとぞ聞く

明石で詠んだもの。

嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉

嵐山。

梅の花 みやこの霜に しぼみけり 伏見の雪は しのぎしものを

伏見で江戸へ出立の時に

又あふと 思ふ心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな

先日申てあげたかしらん、世の中の事をよめる

さてもよに 似つつもあるか 大井川 くだすいかだの はやき年月

いずれも淀川。

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も 心やすげに 見ゆるかな 花なき里の 夕暮の空

心から のどけくもあるか 野辺はなほ 雪げながらの 春風ぞ吹く

丸くとも 一かどあれや 人心 あまりまろきは ころびやすきぞ

これはちょっと面白い。

奈良崎将作に逢ひし夢見て

面影の 見えつる君が 言の葉を かしくに祭る 今日の尊さ

「かしくに」は「かしこに」か??

父母の霊を祭りて

かぞいろの 魂や来ませと 古里の 雲井の空を 仰ぐ今日哉

蝦夷らが 艦寄するとも 何かあらむ 大和島根の 動くべきかは

常磐山 松の葉もりの 春の月 秋はあはれと 何思ひけむ

世に共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

土佐で詠む

さよふけて 月をもめでし 賤の男の 庭の小萩の 露を知りけり

泉州名産挽臼

挽き臼の 如くかみしも たがはずば かかる憂き目に 逢ふまじきもの

これは何か。結構面白い歌だな。単なる月並みでも人まねでもない。上司と部下がうまく噛み合って連動すればこのようなつらい目にあうことはないのに、という意味。いろいろ解釈はあるようだが、土佐や長州というよりは、勝海舟の立場を詠んだものではなかろうか。ははあ。ただしくは吉村虎太郎の作という説もあるようだ。なかなか簡単には信用できないね。

藤の花 今をさかりと 咲きつれど 船いそがれて 見返りもせず

「船急がれて」か。これも吉村虎太郎作らしい。

文開く 衣の袖は ぬれにけり 海より深き 君がまごころ

世の人は われをなにとも 言はば言へ わがなすことは われのみぞ知る

春くれて 五月まつ間の ほとどぎす 初音をしのべ 深山べの里

人心 けふやきのふと かわる世に 独り歎きの ます鏡かな

消えやらぬ 思ひのさらに うぢ川の 川瀬にすだく 螢のみかは

みじか夜を あかずも啼きて あかしつる 心かたるな やまほととぎす

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行末

もみぢ葉も 今はとまらぬ 山河に うかぶ錦や おしの毛衣

山里の かけ樋の氷 とけそめて 声打ちかすむ 庭の鶯

道おもふ ただ一筋に ますらをが 世をしすくふと いのりつつゐし

くれ竹の むなしと説る ことのはは 三世のほとけの 母とこそきけ

うーむ。謎は深まった。もっとサンプルがたくさんあるとわかりやすいのだが。

居酒屋ばくまつ (過去ログ置き場です

龍馬の和歌ですが、龍馬が詠んだと伝えられている和歌の数はそれほど多くはありません。現存する短冊や書簡、あるいは関係文書に収録されているもので殆どですが20首前後です。ただ、坂本家は実は歌人一家で代々、玄祖父直益、曽祖父直海、祖母久、父直足、兄直方、姉栄、外曽祖父井上好春、義兄高松順三などなど、詠んだ和歌が遺されており、歌会もしばしば営まれていたようです。この歌人一家の環境の中で龍馬は幼少期より姉乙女の薫陶を受け和歌も学びますが、大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです。

なるほどなあ。

駿府城

たまたま静岡出張で、初めて行くところだったのであちこちぶらぶらした。
なんか典型的な県庁所在地という感じ。
しかし雰囲気は城下町というよりは、門前町の長野に似てる。
一応東海道の宿場町だったはずだが、
旧街道と、浅間神社の表参道が交わるあたりが一番の繁華街だったろうと思われるが、
風俗店はパチンコ屋が二軒くらいしかない。かなりストイックな感じ。
すぐそばに徳川慶喜の隠居跡もあるくらいだし。
慶喜は水戸か江戸に住んでいたはずだが、老後は静岡というのは、
やはり駿府城下が一番徳川家にとって人情的には居心地よかったのだろうか。
旧旗本ごと越してきたからか。
ははあ。なるほど晩年は巣鴨に住んだんだな。
明治天皇に謁見したり勝海舟と会ったのもこの頃だわな。
するとまあやはり静岡に暮らしたのは謹慎・蟄居とかそんな感じだったのだろう。
正室美賀子の歌:

> かくばかりうたて別れをするが路につきぬ名残は富士の白雪

「別れをする」と「駿河」をかけている面白い歌。慶喜が美賀子の三回忌に詠んだ歌:

> なき人を思ひぞ出づるもろともに聞きし昔の山ほととぎす

慶喜の歌を一通り調べてみたい気もするよね。

駿府城はお堀がなんとも立派だった。
三重の堀のうち、内堀はほとんど埋め立てられ、外堀も部分的に埋め立てられていたが、
なんかすごい城だ。
だが家康が晩年住んだ他はあまりメンテナンスもされなかったようだ。

駿府というのは駿河国の国府という意味なのか。
甲府と同じだわな。

浅間神社にも行く。
このような、甲斐を甲府といったり、駿河を駿府と言ったり、浅間をせんげんと読んだりする趣味はあまりすかん。

静岡鉄道にも乗る。

海産物が安いようだ。駿河湾と相模湾はお隣どうしだから、江ノ島や小田原あたりと魚も近いようだが、
こちらの方がずっと安いようだ。金目とかしらすとか。

関東

司馬遼太郎全集第50巻評論随筆集「歴史と視点」の中の「石鳥居の垢」あるいは「私の関東地図」という文章で、彼が戦車部隊に居たときのことを書いている。
彼らの部隊は満州に居たが、戦争末期、ソ連との不可侵条約を「わらをもつかむ気でソ連の信義というものを信じざるを得なくなって」、新潟に引き揚げてきた。
新潟から群馬の前橋まで来て、榛名山の入り口の箕輪というところに徒歩で移動して、
そのあと栃木の佐野に移ってここでソ連の参戦を知り、北関東にしばらく駐屯していた。
関東に米軍が上陸してきたときの「邀撃」に備えるためだった。
厚木の相模川沿いの「深田」で戦車の渡河実験などもした。
それで、司馬遼太郎は関東平野というものをある程度は知っているはずなのだが、
どうもまったく曖昧模糊としたことしか書いてない。
ただ単に「こんな広いところが日本にもあったんですねえ」とか
「こんなところ、空と桑畑があるだけじゃないか」とか、
そんなことばかり書いている。

思うに「燃えよ険」に出てくる府中から八王子にかけての雰囲気は、戦時中の記憶によるところが大きいのではないか。
もちろん小説を書くにあたって大国魂神社などを取材したに違いないのだが。
だから、関東と言っても鎌倉や小田原や、あるいは伊豆など相模湾のあたりがピンと来ないのではないかと思う。

甲州街道

「街道を行く」の「甲州街道」で、いきなり冒頭

> 「武蔵の国」というのは、いうまでもなく今の東京都のことである。

などというぼけをかましている。
なぜ編集者も注意しないのだろうか。
「武蔵国」とはいうまでもなくおおよそ今の東京都と埼玉県を合わせた地域であり、面積で言えば埼玉の方がずっと広い。
司馬遼太郎の文章を読んでいると随所に、関東の土地勘のなさが見える。

次に太田道灌と後土御門天皇のエピソードが紹介されるが、以前[宗尊親王](/?p=3212)にも書いたように、
私もころっとだまされたのだが、この話自体が300年も後に書かれたもので、
実話である可能性はきわめて低い。
それはそうと、誰が詠んだ歌かは知れないが、武蔵野の広さをうまく詠んだ

> 露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

という感じは、
東京というよりは埼玉の景色、
東京から埼玉の方にずーっと続いている平原をイメージしたものに違いない。
それはつまり、だいたい新田義貞が鎌倉攻めしたルートに当たる。

埼玉というのは、東西で言えば秩父から川越、大宮、春日部まであるわけで、実に広い。
それがほとんど平地なのだから。
川越街道を描いたと思われる夏目漱石の[坑夫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html)の

> さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩いたって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。

> 東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない。

なども、関東平野の広さをよく表している。
明治天皇御製の

> かぎりなき野辺の桑原小松ばらおなじところをゆくここちせり

もそうだ。

埼玉の東、渡瀬遊水池の先はひろびろとした茨城の水田地帯、
霞ヶ関の水郷でこれまた真っ平らに広い。
実際、板橋あたりから北を見ると、筑波山や日光の山が遠くにかすんで見えるだけで、
ほとんど何も山らしいものがない。
世田谷や府中の当たりでも多少広さは感じるが、北関東の方がずっと広さを感じると思う。
東京都心や神奈川などは山ばかりなんで、どちらかと言えば関東という感じじゃないんだよな。
こういう狭苦しい坂ばかりの町は日本中にある。
ただまあ東京というところはほんとに晴れたときに遠くに富士山が見えるくらいで、
山の近い田舎に育ったものには寂しく感じるものだ。

あと、埼玉あたりだと、人がいなくて道がまっすぐだから二車線以上の一般道だと平気で100kmくらいで車が走っている。
東京当たりから行くととても怖い気がする。

> 北条氏なども、結局はいくじがない。関東平野の真ん中にその首府を置かず、西のすみのそれも箱根大山塊を後ろ楯にして城を堅固に設け、その天険にかくれつつ、へっぴり腰で関東に手をのばしては経営していたような印象がある。

いやあ。
これまたひどい言い方だな。
だいたいにおいて司馬遼太郎は関東に良い印象を持ってないのだが、
こういう言い方をしなくても良さそうなものだ。

中央と地方 いわゆる都鄙意識について

文藝春秋に昭和57年に掲載された司馬遼太郎の文章で、
「中央と地方 いわゆる都鄙意識について」というものがある。
これが司馬遼太郎の文章かというくらいずさんな論理で書かれている。
たとえば、

> そのおそるべき習風は、いまの若い人にも(にもどころかいよいよ本卦がえりも濃厚に)ありますなあ。短大など、どんな山間僻地にもあるのに、わざわざ東京の短大に出ていきたがる。目的は、原宿などで群れたい。もうそれで都の手振りになり、東京人そのものになる。

恥ずかしい。実に恥ずかしい文章だ。
確かに昭和の終わり頃、長渕剛が「とんぼ」とか歌ってたころの世相はそうだったかもしれん。
しかしいまや地方の大学の方がもてはやされる時代だ。
地方の女子は、わざわざ東京に出さず親元の大学に行かせている。
たまたま自分が生きていた時代の風俗が太古の日本にも当てはまるという発想をするのはあまりに貧しい。

思うに、司馬遼太郎は、平安初期の地方の日本人は、中央の文化や芸術に目がくらんで、いくらでも反乱を起こそうと思えば起こせたのに、
中央の権威に盲目的に従ってきた。
中央政府はろくな軍事力も権力ももっていなかったのに、そうやって天皇制というものが作られてきた。
要するに天皇制というのは権威とか文化とか華やかな都の手振りとかそういうもんなのだ。
そういうふうに言いたいのだろう。

実際にはそうではなかったはずだ。日本全国至るところで、反乱や武力衝突のようなものは起きていた。
しかしそれはいわゆる私闘に類するものであり、中央政府は訴訟処理能力も警察力もないから、
とにかく部族ごとに勝手に武力闘争で解決するしかなかった。
たまたま一方が国府を味方につけ、ために他方が国府を攻撃すると、私闘から公然とした反乱というレッテルを貼られる。
それが将門・純友の乱のようなものに発展する。

奥羽地方の反乱など、平安朝では介入する気すらない。
介入すれば軍事費を公費から出さなくてはならず、官軍には褒賞や官位などを与えねばならない。
だからできるだけ私闘ということにしておきたかった。
前九年の役、後三年の役などがそうだ。
そうやって朝廷はみずから軍事権や徴税権、統治権を放棄し、地方政治を放任してきた。
そのために関東以北では源氏の棟梁が事実上の統治者として仰がれるようになり、その結果頼朝による鎌倉幕府ができたのだ
(これは典型的な日本外史史観であり、八幡太郎義家の後世に作られた伝説に基づくものではあるが、私はおそらくかなり真実に近いと思う)。

部族どうしの私闘でも詔勅を得た方は官軍として、敵を賊軍として討伐できるし、
討伐に成功すれば官位ももらえる。
だから武士たちは中央政府を利用しただけともいえる。
バブルの絶頂のころ、原宿や六本木にあこがれる女子短大生と同じ理屈で片付けられる問題ではない。

また、司馬遼太郎は後醍醐天皇一人を悪者にしようとしている。彼の悪い癖だ。
後醍醐天皇は宋学イデオロギーに凝り固まって天皇を中国的な独裁皇帝にしようとした、などと言っているのだが、
そんな事実があるのか。
むしろ宋学をかなり正確に理解していたのは北条氏だっただろう。
後醍醐天皇は後鳥羽天皇がいたから出てきた。
後鳥羽天皇は保元の乱、平治の乱、寿永の乱(源平合戦)を経て、
天皇の大権が鎌倉幕府に移ったから出てきた。
後醍醐天皇がいきなり出てきたわけではない。歴史の必然として出てきたのだ。
天皇家から武家政権に次第に権力が移っていくその過程にたまたま後醍醐天皇が位置しているだけだ。
司馬遼太郎にはそういう発想がまったくない。
突然、変なイデオロギーにかぶれた天皇が出てきたから悪い、そういう風にしか考えられない。
大いに問題だ。

> (反乱を)起こしても、すぐ中央から命令が行くと、地方の豪族から現地採用の官吏(在庁官人)が恐れ畏んで、その辺の兵をかき集めると、みな源平藤橘と名乗っているのですから、朝廷のためだと思って、反乱者をやっつけてしまう。

あまりにも浅薄な理解と言わねばならない。たぶん司馬遼太郎は、将門の乱も前九年後三年の役も、何も知らないのだろう。
少し調べればわかることなのに。
反乱というものがわざわざ自分と何の関係もなく遠くへだたった朝廷に対して起こされると思っているのがまず間違いだし、
反乱が起きたら朝廷のために戦うというのも間違い。
前提条件のすべてが間違っている。
頼朝の挙兵も最初は将門の乱と同種だと思われていた。しかしそうはならなかった。
将門の乱がわからなければ、頼朝の挙兵の意義もまるでわからんのに違いない。

> 彼女たちは、平安期の板東武者たちが京にのぼりたがったようにして、「とにかく短大は東京ですごしたい」と思っています。

> 板東武者が都でけちな官位をもらって板東に帰り、近隣に誇示するように、夏休みなどに帰省して土着の同窓生に「やっぱり違うわね」といわせたいというのがのぞみなのでしょうか。
・・・日本における地方のはかなさを思わざるをえません。

> だから島根大学及び松江市の短大は、もっと力を持つべきだし、それを育てるために、島根県人がもっと意識を高めるべきだ。

いや、なんでこんなへんてこなことを言っているのか。
島根県の人口は70万人しかない。
相模原市の人口と同じだ。
仮に島根県の人たちが意識を高めても、相模原市と同じくらいの力しか持てないはずだ。
それはたかが知れている。
どうしろというのだろうか。

板東武者で都に行きたがったのはもっと時代がくだって源実朝あたりからだろう。
実朝はほんとに変な人だった。
板東武者が都に頻繁にのぼったのは訴訟のためだ。
自分が開拓した土地の所有権を保証してもらうため。
源氏や平氏などの武士団に分かれたのも、京都の藤原氏など有力者とのコネを作るのもみんなそう。
要するに、朝廷が設置したオフィシャルな出張所である国府と国の役人である国司がなんの役にもたたないからだ。
それがどうして都にあこがれてとかいう話になるのか。
もし国府に訴え出ればきちんと訴訟を処理し裁判してくれて土地を確保できたとしたら、
どうして都なぞに行く必要があろうか。
行きたがったのは実朝のような変人だけだ。
実際、鎌倉幕府ができて訴訟が鎌倉で解決するようになると、
鎌倉武士はまったく京都には行かなくなったはずだ。
板東武者がうんぬんというのはようするに平安朝のときのことを言っているのだろう。
仮に京都が文化と権威の中心であるなら、
鎌倉幕府が出来たあとも武士はみな京都に行きたがったに違いない。
だがそんなことはない。

いやさらには。
承久の乱以後は北条氏が京都に六波羅探題を作って西国の訴訟まで裁くようになった。
警察は頼朝の時に全国に守護・地頭をおいた。
ようするに鎌倉幕府が出来るまでは仕方なく京都まで訴訟にいくしかなく、
しかもその訴訟もろくに裁いてもらえず、仕方なく私兵を自費で動員して解決するしかなかったということだよ。
そういう状況でも、当時の日本人が京都に何かあこがれを抱いていたなどと言うか。

朝廷が軍隊も警察も司法も持たない(というか持っているはずなのにサボタージュした)から、
次第しだいに武家に政権が移った、ということだ。
具体的には、天皇の外戚で官職を独占した藤原氏の怠慢ということだ。
藤原氏政権が腐敗し、国を統治するという当然なすべき義務を怠った。
司馬遼太郎が言うように、天皇が最初から権威しかもっていなかったのではない。

島根大学にしても、別に悪口を言いたくはないが、戦後作られた地方国立大学の一つに過ぎぬ。
せいぜい戦前の島根高等学校までしかさかのぼれない。大和朝廷が地方に作った国府とどれくらいの違いがあるのか。
司馬遼太郎はいったい何が言いたかったのか。
奈良平安の国府にできなかったことをなぜ地方国立大学に要求するのか。
司馬遼太郎という人はほんとに矛盾の総合商社だ。