俳句と主・副・控

生け花の基本は主・副・控の三点配置であることはよく知られており、
ほかにも日本庭園の造園技法で立木や庭石や池の配置にもこの三点配置ということが応用されているらしい。
どうやら絵画などを含めて近世の日本美術全般にわたってこの「主・副・控」配置理論は影響を及ぼしているようにも思われる。
美術だけではなく、文芸においても、
もうすでに誰かが指摘していることのようにも思われるが、俳句というのも実はこの主・副・控ということで説明がつくのではないか。
たとえば

> 荒海や佐渡に横たふ天の川

だが、ここでは印象的な三つの単語「荒海」「佐渡」「天の川」が使われているのであるが、
景観の大小で言えば、これは「副・控・主」の順番で配置されている、といえる。
大きさ(重要性、印象の度合い)の違う三つのものを配置する、というのが生け花的技法の本質というわけだ。

> 古池やかはづとびこむ水の音

では、これまた「古池」「かはづ」「水の音」のキーワードが使われていて、
「古池」「水の音」のどちらがどちらとは言い難いがやはりこれも「副・控・主」の順番で配置されている、といえまいか。

> 夏草や兵どもが夢の跡

ここでは「夏草」「兵ども」「夢の跡」が、たぶん、「控・副・主」の順番に配置されている。もしかすると「副・控・主」。
俳句は三句から成り、たいていは三つのキーワードが含まれているから、こんな具合にだいたいあてはまる。

> 敦盛の鎧に似たる桜哉

これも「敦盛」「鎧」「桜」の三つ。たぶん「主・控・副」。もしかすると「副・控・主」。

> 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

「柿」「鐘」「法隆寺」。あるいは「柿食う」「鐘が鳴る」「法隆寺」。
「控・副・主」かな。もしかすると「副・控・主」。
このなんということのない写生の句が深い感動を伴うとしたらそれはやはり配置の妙によるものではなかろうか。

たぶん、「副・控・主」という配置が一番収まりがよい。
あるいは、単に三句を配置することによって暗黙の大小関係が割り当てられる。
芭蕉によって確立された俳句的パターンとして。
しかし、それをわざとはずすというのも効果としてはありえる。

真ん中がおおむね「控」で、前後に「主」「副」を配置しているように思われる。
俳句は声に出して詠むものだから、やはり「主」を最後に配置するのが圧倒的に収まりが良い。
そして真ん中はややバランス的に小さいものを配置することにならざるを得ない。
この本質を発見したのはやはり芭蕉だろうし、ヒントは生け花にあったかもしれない。
ふつう、生け花では目線は「主・副・控」の順に移動するだろう。
またその三者の間をぐるぐるといったりきたりする。
ところが俳句は音声だから時系列となる。「荒海」「佐渡」「天の川」という順番に視線は誘導される。
このような、強制イベントを含むところが、平面構成、あるいは立体構成であるところの生け花とは異なる点とはいえる。
ただ字面として見れば俳句も平面構成の一種であって、生け花とその鑑賞の仕方にそれほどの差はないし、
いったん脳裏にイメージとして描かれればそれは絵画的にも解釈されよう。

このように、いろんな俳句に対してどのような配置になっているかを考えてみるのは楽しい。
俳人たちは、意識的か無意識的か知らないが、おそらくは生け花の「主・副・控」的な配置を考えながら、
三つのキーワードを並べていき、間は助詞のようなもので「適当に」文法的にまずくない程度に整えていく。
これが俳句というものの本質、奥義なではないか。
逆の言い方をすれば、俳句においては「てにをは」などの助詞や「や・かな」などの切れ字は、
重要な要素ではあるが、たとえて言えば生け花の鉢とかかご程度の役割なのであり、
文法というものはさして重要ではない。

くどいようだが、和歌はそうではない。
俳句には可能かもしれない上記のような解釈は、和歌には絶対に当てはまらない。
そんなことをしたとたんに和歌はただ字数の伸びた俳句に成り下がるのである。
そもそも俳句のごとき短い詩形が成立し得るのはその三点配置による絶妙な均衡にあるのは間違いあるまい。
一方、和歌の本質は文法にある。キーワードの配置によって和歌ができあがるのではない。
地名などの固有名詞を取り込むことはあるが、あくまでもそれらは添え物であり、主人公ではない。
「あさか山」の歌にしてもあさか山は「浅い」をイメージさせるための単なる縁語だし、
また叙景的なあざやかさを加えるための、いわばジオラマ的要素に過ぎない。
言いたいことは要するに「浅き心をわが思はなくに」なのだから。
このように、「よろづの言の葉」を総動員してできあがるのが和歌だ。
たとえば、俳句では恋を歌うことはできまい。
そんな要素はそぎ落としてしまったからだ。

ただし和歌はさまざまな文法の技法を含み得るので、俳句的な、
生け花的な配置による歌というものも十分にあり得るだろうし、
そういう和歌を探し出して分析してみるのもまあおもしろいかもしれない。

新類題和歌集

ふーむ。
霊元天皇も後水尾天皇に続いて「新類題和歌集」という勅撰和歌集を編纂させている。
21代の勅撰和歌集から通算で数えれば、
22代が後水尾天皇の「類題和歌集」(1703年)、
23代が霊元天皇の「新類題和歌集」(17??年)、
となる。

[歌集のこと 参考:吉川弘文館発行「古事類苑」](http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8850/885010.htm)

> 但し後水尾天皇の朝に「類題和歌集」あり、霊験天皇の朝に「新類題和歌集」あり。
共に勅撰なれども、一題の下に衆多の歌を載せたるものにて、
勅撰の春夏秋冬等を以て分類し、毎首に題を加へたるものとす。
自ら其の撰を異にする所ありて、古より勅撰の中に算入せず。

うーん。
おそらくは、題詠の手本のために、同じ題の歌をたくさん、昔の勅撰集との重複も含んで集めたもので、
確かに21代集までとは性格の違うものかもしれないが、
時代が変われば編纂方針も変わるし、時代に即していく必要もあるだろうし。
つまり、21代集までは「秀歌の選抜」という意味があったのだろうが、
類題和歌集では「和歌の分類と習得」という意味の方が濃かったのだろう。
あるいは先行する「夫木和歌抄」などと類似する性質のものか。
あるいは当代の歌はごく少なくて、主に古い歌を類別すること、
或いは21代集の総集編たることが主たる目的だったか(確かにそういうものがあると便利だろうし、
そういう動機もわからんでもない)。

「類題和歌集」「新類題和歌集」を、勅撰集から排除する理由はあるのかないのかよくわからないが、
ともかく一度現物を読んでみる必要はあるな。
と、思ったがOPACでほとんどヒットしない。
あるのは国会図書館くらいか。
これは厳しい。

風邪気味

> 寝覚めして起き出でもせでつらつらときのふのことを思ひ出だしつ

送別会ということを

> いくたりかまたあひも見む思ふどちつどひて人を送り出だせば

岩波書店には近世和歌集と近世歌文集(上・下)の二つがある。
ややまぎらわしい。
しかも内容が一部かぶってるようだ。

ふと、逆接ということを考えたのだが、
AなれどもBなり、AなりBなれども、BなりAなれども、BなれどもAなり、
と、和歌ならば倒置や配置換えで同じことを四通りに表現できる。
もちろんそれぞれ微妙にニュアンスは違うが。
しかし俳句には難しい。

春は立てども雪ふれり、春はたてり雪はふれども、雪はふれり春は立てども、雪は降れども春は立てり、
など。
どれでもいいじゃん、とも思う。
しかし、文字数と、五七調と七五調のどっちにしようかとか、
あとは思い入れしだいではどれか一つに限りなく収束する。
「春は立てども雪はふれり」では雪が降ったほうがメインで、
「雪は降れども春は立てり」では春が立ったほうが感動のメイン、だわな。
またこれを倒置して
「雪は降れり春は立てども」ではさらに雪が降ったことを強調し、
「春は立てり雪は降れども」では春が立ったことを強調している。
しかしだ、和歌の場合には、倒置して先に出したから必ずしもそれを強調しているばかりではなく、
逆に歌の最後に配置したことでじらして歌全体を緊張させる効果がある。
も一つは、上の句と下の句の対比の効果というものがある。
こういうことをうだうだ考えるのが和歌を詠むということだが、
宣長のような平淡な歌詠みでもそういう技巧は凝らすものだが、
しつこいが、俳句にはそんなことはあまりない。

後鳥羽天皇はどうすれば北条氏に勝てたか

後醍醐天皇の例を見るまでもなく、
後鳥羽上皇の時代にはまだ、天皇や上皇が軍事力を掌握し動員することは不可能ではなかった。
保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇の間の権力闘争だったが、
この時代までは確かに、軍事力を動かす権限は、天皇か上皇か或いは親王にあった。
南北朝の頃までは、皇族の宣旨には武士団を動かし、日本全体を戦乱に巻き込む力があった。

実朝が死んで鎌倉幕府は混乱の極みにあった。
ほおっておけば内部崩壊していたかもしれない。
ところが、承久の乱によって、政子と義時と泰時を核として、
鎌倉幕府は結束を固めてしまった。
外向きの戦争によって中は逆に固まったのである。

北条政子は1225年に死んでいる。
承久の乱のわずか4年後だ。
もし後鳥羽上皇が、あと5年待って挙兵していたとしたらどうだろう。
鎌倉幕府は内紛でくだぐだで、日本国内さまざまな矛盾が噴出していただろう。
後鳥羽上皇は、北条氏打倒の機運が高まるまで「善政を敷いて」待っていればそれでよかったのだ。
自分から戦いを挑んだので負けた。
そういうことではないのか。
その余韻が後醍醐天皇の倒幕を成功させたのではないのか。
後鳥羽上皇のもとに大江広元レベルの政治家・戦略家が何人か居ればなお良かっただろう。

だが。
後水尾天皇の時代にはもはや天皇は、なんら軍事力を持ってはいなかった。
なにしろ、関ヶ原の合戦や大阪の陣などは、天皇の宣旨とはなんの関係もないところで起きたのだった。
かりに後水尾天皇が徳川追討の宣旨を出しても、まったく何の効力もなかっただろう。

類題和歌集

後水尾天皇は、それまでの勅撰集のやり方をやめて、
類題和歌集というものを作り始めた。
古今集よりも後の勅撰集は、その前に出た勅撰集と歌がかぶらないようにした。
だが、類題和歌集は、それまでに出た勅撰集からも採れば、
それ以後の歌も採る。
歌の数も一万首以上になる。

後水尾天皇の宣旨によって編纂されたのだから、
勅撰和歌集の一種に違いないのだが、
後世の人はこれを勅撰集とは言わない。ほとんど注目もされていない。
これはいったいどうしたことだろうか。
天皇の影響力が相対的に低下していたからだろうか。
また、後世悪名高い古今伝授というものが固定していったのも後水尾天皇の頃からのようだ。

後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」

> 駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波

1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。
承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。
丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」
などと表現している。
確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、
戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、
「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。
非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。

源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、
それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、
若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。
たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。
そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。

承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。
後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、
頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、
若くはつらつとした時期だったのに違いない。

1189年、頼朝が上洛したとき、後鳥羽天皇は在位中であり、頼朝は天皇に拝謁している。
後鳥羽天皇はまだわずかに9才の時だが、もはや分別は付いている頃で、その印象は強烈だったに違いない。

宮廷文学が喪失したあと、「玉葉」「風雅」などの、実質的には存在しない、
バーチャルな宮廷というものに逃避したような連中も確かにいただろう。
正徹はそうだったのだろう。
しかしそのようなバーチャル宮廷文化を「受け継ぐ天才」など居るはずもない。
そこで江戸時代に目を転じたときに、丸谷才一の目に映ったのは「芭蕉」や「蜀山人」といった、
町人文化の「天才」たちだけであり、
秋成、良寛、景樹、蘆庵といった歌人たちの業績はまるで見えてないのだろう。
江戸時代における宮廷文化とは「一粒の麦」であって
「もし死なずば一粒にてあらむ。死なば多くの実を結ぶべし」
というように、万葉時代には広く大衆のものであった歌の文化は、
後鳥羽院時代を頂点として一時期宮廷の中に凝縮され、
宮廷サロンが喪失したのちには、再び武士のサロンや町人のサロンなどの広い多様な形態に拡散して行ったのであり、
もはやバーチャル宮廷など必要としなくなった、と考えるのが一番素直ではないか。

[蜀山人](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html)
が天才かどうか知らないが、あのような下品なげてものを優れていると感じる感覚には、
正直ついていけない。

別に江戸時代について勉強したいわけではなかったのにどうしてもそうなってしまうのは、
江戸時代の文芸や学問というものが、いろんな意味でさけて通れないからなのだろう。
「大正天皇御集 おほみやびうた」の解説で岡野弘彦氏が言うには、
武士はいついかなるときに腹を切ることになるかもしれないので、
はずかしくない辞世の歌を詠むためだけに、ただそれだけのために、普段から一生懸命和歌を学んでいたのだと。
思うに、歌人の風習に、辞世の歌を詠むということはそもそもなかったはずだ。
宣長は遺言状の中に歌を詠んだがこれも別に辞世の歌というつもりはなかったと思う。
その由来は、wikipedia にあるように「禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗」だったはずで、
さらに状況証拠で言えば、辞世の歌を多く詠んだのは、江戸中期以降の狂歌師たちだ。
歌舞伎となった忠臣蔵の大石内蔵助や浅野内匠頭長矩が切腹するときに辞世の歌を詠んだことになっている。
たぶん創作だろうけど。
それで武士や狂歌師らに広まっていったのだが、
実際に武士が切腹する場面などそうそうないので、狂歌師の狂歌が目立つということなのだろう。

だから、武士の心得として和歌を学んだというは、あっているかもしれないが全然違うかもしれない。
たとえば田安宗武がそういうつもりで和歌を学んだとはとても思えない。
切腹自体が江戸時代に様式化されたものであり、太平記の時代には切腹は単なる自決方法の一つにしか過ぎなかった。
切腹、忠臣蔵、辞世の歌、桜、大和魂などというのは、
歌舞伎を媒介として江戸中期以降に作られたイメージではないか。

上田秋成

上田秋成の「つづらぶみ」を読んでいるが、
秋成の歌は相当うまい。
おそらく公平に見て、近世の歌人で一番うまいのが秋成、その次が良寛、景樹、
または蘆庵というところだろう。
この四名は一流と言って良いと思う。

「つづらぶみ」の冒頭だけ見ても、

> 都べはちまたのやなぎ園の梅かへり見多き春になりけり

都あたりは、町中の柳や庭園の梅など、見かえりすることが多い春になったという、
なにか浮世絵の美人画でも見るような、いかにも江戸時代らしい歌。

> 我が宿の梅の花咲けり宮人のかざしもとむと使ひ来むかも

これはまあたぶん「勅なればいともかしこし」辺りをイメージしているか。

> 折らばやと立ち寄る梅に鴬のゆるさぬ声をおどろかすかな

ひょうきんな感じがなかなか良い。
この辺りは景樹に通じるところがある。

> 大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。
おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。
おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

とは小林秀雄も指摘しているところだが、秋成は宣長とはかなり相性が悪かったようだ。
「敷島のやまと心の道とへば」とはかなり悪意ある誤読ではあるが、
漢籍にも親しみ、読本も書き、歌もうまかった秋成にしてみれば、
宣長のこのような歌がもてはやされるのが我慢できなかったのだろう。

宣長という人は、狂歌めいたふざけた歌は一切詠まない人だった。
心底まじめな人だったのだろう。
かたや秋成は、まともな歌も詠めば狂歌も詠むし、怨霊や妖怪物語も書く。
自由自在な、文芸人、というイメージ。
さぞ、相性は悪かろう。
その点、
景樹や蘆庵らとは心理的な障壁はない。仲も良かったようだ。
いずれも京都の文人、町人という雰囲気がある。
狂歌などは京都や江戸などの町中の文人サロンではやるものだから、
そこから一歩はずれていた宣長には影響が及ばなかったのかもしれない。
意固地な田舎者、というイメージも浮かんでくる。

秋成の代表作「雨月物語」はまだ読んだことないが、
これも死後に彼の作であることが知れたらしいし、
歌はなかなか認められず、無名のまま戯作など書いて暮らし、
不遇な生涯だったのだろうなと思う。

新編国歌大観

図書館で新編国歌大観を見てげんなりした。
まあいわば電話帳みたいなもんです。三段組みの。
それにこれでもかこれでもかといわんばかりに和歌が書かれてある。
一行に歌一つ。
21代集なんかこんなの読まなくてもほかにいくらでもあるわけで、
私が読みたかったのは第9巻の辺りにまとまっているのだが、
これ一巻読むのもかなり絶望的な労力が・・・。
要するに電話帳なんです。文字サイズは文庫本より小さいけど。
この圧倒的な物量。
刑務所に入ったときに持ち込むとちょうど良いかもしれん。

しかも契沖とか見るとこれまためちゃくちゃ歌が多いの。
割と好きだが、単調すぎるので、読んでいるうちに意識朦朧となる。
後水尾天皇の歌も霊元天皇の歌も多すぎる。
ていうかみんな多すぎる。

そのあと群書類従、続群書類従、続々群書類従とかちらと見たが、
なんかもうごめんなさいって気持ちになってきた。
そのとなりに勝海舟全集ってのがあって、勝海舟ってこんなに自分で本書いてたのかとさらに絶望的な気持ちにさせられた。
おなかいっぱいになった。

みんなきっと21代集まではつきあえるんだよ。
21代と言ってもふつうはその中の古今と新古今くらいしか見ないしあとは万葉。
和歌は、応仁の乱で途絶えたのではなく、その後、臨界を超えて爆発的に増殖したんだと思うんだ。
万葉・古今・新古今と来て、歌学というものが発達した。
禁中並公家諸法度でも国学を奨励した。
世の中も太平になってひまができた。
そうすると契沖や宣長みたいにみんながみんな生涯に一万首とか軽く詠んじゃうんですよ。
それを徹底したのが明治天皇なんだな。
契沖や宣長の歌を私がおもしろいと感じるのはおそらく私が明治天皇から和歌に入ったからで、
この三人の歌風というのはよく似ているんだな。
日常を淡々と歌に詠む感じ。

で、出版技術とか発達しちゃって記録もだんだんに残しやすくなってくるし読者もいるもんだから、
膨大な和歌が大量生産されることになった。
江戸やばい。おなかいっぱい。

丸谷才一「後鳥羽院」

いろいろ手を広げすぎてもうわけわかめ。

新編国歌大観を図書館で見ておなかいっぱいになった。
しかし、これにも載ってない歌もたくさんあるんだろうな。
めんどうだ。

丸谷才一「後鳥羽院」読む。
目のつけどころは良いんだろうなと思う。
歴代天皇の中で後鳥羽院ほどの歌詠みはいなかったわけだし。

あとがきの、国学院大学の教員になったいきさつなどが割と面白かった。
英文科を卒業し「国文学を読もうとする英語教師」のためにあれこれと便宜をはかってくれる国文科の同僚たち、等々。

なんというか、Aという人が歌をこう解釈し、
Bという人はこう解釈し、著者はこう解釈した。
しかし、ほんとうはどうだかわからない。というのがこの種の本であり、
ある意味「逆接の日本史」なんかと同じで、
なるほどそんな解釈の仕方もあったか、というだけで、結局歴史の謎は解けないままで、
読後に釈然としない気持ちが残る。
しかし文芸評論なんてものは小林秀雄にしろなんにしろそんなものなのだろう。
読者はただそれをおもしろがれば良いわけだ。

2004年に第二版が出ているようだ。はて。

後鳥羽院四百年忌御会

後鳥羽天皇が隠岐の島で死去して400年目(1638)に開かれた歌会、その冒頭の後水尾院の御製

> 恋ひつつも鳴くや四かへりももちどり霞へだてて遠き昔を

なぜ4回なくかというと、ももちどり、つまり百匹いる千鳥が
(いやほんとは百千いる鳥、なのかもしれないがそれはさておき)4回ずつ鳴くので合わせて400回、
遠くへだててかすむしにしえの後鳥羽天皇の御代を慕って鳴くという、
なんとも言えずみごとな歌ではないか。
やはり、後水尾天皇はひと味違う。

新日本古典文学大系「近世歌文集 上」の解説で、上野洋三氏が指摘しているが、「禁中並公家法度」において、

> 第一御学問なり、学ならずんば則ち古道明らかならず、而して能く太平を致すもの未だ之有らざるなり。
貞観政要の明文なり。
寛平遺誡に経史を極めずと雖も群書治要を踊習すべしと去々。
和歌は光孝天皇より未だ絶へず、綺語たりと雖も、我国の習俗なり。
棄て置くべからずと去々。
禁秘抄に載せる所、御学習専要に候事。

要するに、天皇や公家は勉強に励み古道を明らかにせよと。
和歌は光孝天皇(なぜこの人なのか)から未だに衰えていない。
「綺語たりと雖も、我国の習俗なり」ずいぶんとひどい言い方だ。
「禁秘抄」は順徳天皇が書いた有職故実の解説書だそうだが、そこに書かれたことを一生懸命学べと。
かなり高飛車な文句に思えるな。