木曽義仲

木曽義仲には巴御前、葵御前という二人の女武者が同行したというが、
史実かどうか、かなり疑わしい罠。

木曽義仲は倶利伽羅峠で大勝した他は勝ったり負けたりの五分。
甲斐源氏、摂津源氏、美濃源氏、などの混成部隊で、これといった指揮系統もなく、
統制もなく、ただむやみに戦って暴れ回った、ということで良いのか。

逆に言えば、鎌倉勢には指揮系統があったということ。
頼朝に司令官としての才能があったということ。
そして、それはおそらくは、義朝、義家、頼信から受け継いだものだろうと思われる。
数十万の軍勢を、日本全土にわたって、
鎌倉に居ながらにして指揮できた。
よくよく考えると、西暦1180年当時にそれをできたというのはすごいこと。
家康ですら、関ヶ原の戦い・大阪の陣はみずから現地で指揮をした。
頼朝は、鎌倉を出てすらいない。
恐るべき事ではないか。
そして、
頼朝のプロトタイプである義家はすごい。
かつ、清盛の遺産を完全に引き継いだという意味でも頼朝はすごい。
そう考えていけば、義経の戦功というのは、大したことはない。
ハンニバルやナポレオンと比べられるほどの戦術家でもなかっただろうと思われる。

頼朝は意識したかしないかわからんが、「軍団」という機能集団の必要性を、
おそらく初めて日本で意識したのではないか。
いや、天皇家は律令制を輸入することで、先駆けて軍団を作ってみせたのかもしれんが、
それを源氏という、家の子郎党という、血縁と地縁で再構成したというところが頼朝はすごい。
いや、おそらくは、八幡太郎義家がその素地を作ったのだろう。

いやしかし、ただ平家物語を読んでいるだけだと、金もかからないし、時間もつぶせるし。
フィード読むのを半分減らすだけでだいぶまともな読書生活が送れる罠。

家飲みメイン。

いい加減金がなくなってきたので、家飲みメイン。
topvaluの麦の薫り。
まずくはない。
よくまあ、10年前には、まずい偽ビールか、さもなくばホッピーくらいしか無かったのに、
ここまで進化したわな。
だが酒税は間違っているよな。
単純にアルコール分に課税すればいいじゃん。
偽物よりも本物飲もうよ。
酒は文化だろ。
偽物よりも本物が儲かるようにしてあげようよ。
そして私らも本物がほんとは飲みたいわけだよな。

空気読む客。

[よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 – 活字中毒R。](http://b.hatena.ne.jp/entry/www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808)

ふーむ。
私なら、持ち込みしても怒られないなじみの店に行って、こういうことはやると思うな。
そういう店はふつう店長がオーナーで、融通がある程度効く店だよな。
初めての店で、しかもチェーンの居酒屋で、こっそり持ち込みの酒を飲むなんてことは、
まあやらんわな。
てかそういうこと、武勇談ぽくブログに書くとかどうよ。

私も、この年まで、いろんな店でいろんなことやってきたわ。
もしかしたらすげー経験値かもしれん。

[客の空気を読むのが、店の仕事じゃないの?](http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51271236.html)

いや、なんつーか、そうじゃないと思う。
私は居酒屋の経営なんて、やったことないから、店の人間がどう思うかなんてわからんのだが、
個人経営の店であれば、
もうけがある範囲で好き勝手やればいいんじゃないの。
客を友達扱いしようが、慇懃無礼に客扱いしようが、なんでもいいんじゃないの。

つーかね。
私もよくやるほうなんでね、持ち込みって。
でもそれは、
長いこと通って通い慣れて、ついわがまま言ってしまったとかそういう後ろめたさはあるんだよね。
金はらって接待されてます、みたいな飲み方じゃ酔えないんだよね。
そういう飲み方する人たちもいるかもしれないし、
したけりゃすればいいんじゃねえの。
しかし、だからと言って、お使い頼まれたり皿洗ったりしてあげるような飲み方もしたくないしな。

居酒屋ってさ、
知り合いと一緒に行って楽しむ場、じゃないんだよな。
家族でもなく仕事の同僚でもない、なんの利害関係もない人たちと、
いっしょに酒を飲む場、なんだよな。
仕事仲間や家族と酒飲んでもストレス発散にはならんのよ。
だから、見ず知らずの他人と一緒に酒を飲みたくなるんじゃねーかな。
家飲みと外飲みの本質的違いはそこだと思うんだがね。

ていうか、よしもとばななの父親って吉本隆明だよな。
理解不能だよな。
よしもとばななの小説も読んだことないしよくわからん。

> 居酒屋の売りって、「居」だろ?「居ること」だろ?「客としてもてなされること」だろ?

> 空気の読み疲れから、開放されることだろ?

> なんで、客が店の空気読まなきゃいけないの?

いや、違うよ。
それは断じて違う。
客が空気よまなきゃならない居酒屋の方が多いと思うよ。
居酒屋あんまわかってないんじゃないのかと思うのだが。
まあ、趣味の違いかもしれんが。
SとMの違いというか。
でもある種の一部のラーメン屋に比べればMの度合いはまだ少ないと思うんだ、居酒屋の場合。
友達感覚なのが楽しいんだよ、居酒屋って。
一方的な奉仕を求めるのなら、いわゆるレストランってとこに行けばいいんじゃないのか。

ありがちなのは、メニューに無い料理作らせて喜んだりとか値切って喜んだりする客。
肉体労働者がいない店で生牡蠣に白ワイン飲んで喜ぶ客。
いやな店だな。
まあ、そういう店はそういうふうにして稼げば良いんじゃないの。
私は行かんが。

それはそうと、
店長がいつも店員を叱ってる店があって、
確かに酒がまずくなる。
が、しかし、別にだんだん気にならなくなる。
酒がまずくなる一番の理由はたばこの煙の方がだんぜん大きい。
そのほかにもいろいろあるが、
店長が店員を怒っているというのはさほど大きな問題ではない。

富士川と倶利伽羅峠

平家物語を相変わらず読んでいるが、源平合戦というが、
富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いでほぼ決着が付いているんだなあと思う。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦いの方が有名だが、これらはもう平家が都落ちした後の掃討戦にすぎず、
重要性という意味では富士川と倶利伽羅峠にははるかに及ばない。
この二つの戦いによって、
保元・平治の乱であれほど優勢になった平氏の権力はまったく逆転され、
源氏に有利になった。

富士川の方は、甲斐源氏が主力であると言われているし、
倶利伽羅峠は明らかに木曽義仲の功績であって、
となると、頼朝や義経などは、大したことはやってない、という結論に達する罠。
宇治川の戦いは単に頼朝の名代というに過ぎず、
一ノ谷の義経の功績も疑問が多い。
となると実は義経は別に大したことはやってないんじゃないか、
実は虚構なのでは、という気になってくる。
源平合戦というものが、
民間に広まるにあたって、
一人の英雄を必要として、
そのために仕立てられた役者、という気もしてくる。

頼朝に至っては、単に北条氏に担がれて、
源氏の嫡子だ棟梁だと言い張ってたらみんな遠慮してくれただけなんじゃないのか。
源氏にも危機感はあっただろうから頼朝一本で団結しただけなんじゃないか。
実際頼朝の子孫なんてあっというまに使いつぶされてしまうし。

いや、義経や頼朝をおとしめたいのではなく、
富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いをもっと評価すべきなんじゃないかってこと。
歴史の骨格として、保元・平治の乱と同じ重みで押さえておくべきではないか。

ていうかね、
富士川でも倶利伽羅峠でも一ノ谷でも、平氏はそうとうな大軍であったくせに戦略が何もないよな。
どうしてこんなにもろかったのか。
たぶんだけど、集団で戦うということができなかったんだな。
保元・平治の乱といっても別に大軍どうしの戦いではなく、
小競り合いと政略で平氏がたまたま勝っただけだもんな。
源氏は関東北陸東北中部地方に渡る広い範囲に一族がちらばっていて、
その首領たちがそれぞれ戦がうまく、
それぞれ独立して戦えたのだろう。
そういった戦力が、一気に集中して平氏打倒という目標に向いたから強かったのではないか。

保元の乱といってもこれは皇族どうしの戦いで、源平はきれいに分かれて戦ったのではなかった。
しかも単に皇居周辺の局地戦にすぎない。
平治の乱は反清盛、反平氏だったから、
平氏と源氏はきれいに分かれた。
で義朝が敗れて、義朝の子供がほぼ絶滅したのだが、
しかし、頼朝と義経は残ったし、
義朝以外の源氏はほぼ無傷で全国に残っていた。
やはりこれも京都周辺だけの局地戦だし、
その後の鎌倉対京都という、全国規模の、数万数十万単位の軍勢の、何ヶ月にもわたる戦争とは、
明らかな違いがある罠。

蛭が島

源頼朝が流されたのが伊豆の狩野川の中州の蛭が島で当時は湿地帯だったというが、
うわー。
蛭がうじゃうじゃいそうで怖いよー。

丹沢には蛭が岳って山もあるしな。
よっぽど蛭だらけだったんだな。
怖すぎる。

卒塔婆流

鬼界ヶ島から和歌を詠み書き付けた卒塔婆を流し、
それが厳島神社まで流れ着いて、清盛にまで達し、
それで恩赦につながったという。
まあ、あり得ん罠。

島に熊野権現をまつったとき俊寛だけは関わらなかった、
というのも伏線というやつか。

それはそうと長野の善光寺が焼けたというのと、平家の滅亡となんの関係があるのかと。
なんかそういうのがやたら多い。

腹の皮

ダイエットは行きつ戻りつ。
体重の振れ幅が5kgくらいはある。
内臓脂肪はだいぶ落ちたのだろう。
皮がものすごく余る。
腹とあと、背中。
へそ周りに最後の最後まで肉が余る。
これを落とすにはやはりあと5kgほど減らして標準体重にしなくては。

新田次郎

新田次郎著「新田義貞」上下巻を図書館から借りてくる。
いちいち取材旅行しているのがなんとなく、経費で旅費落としているんだろうなあと思わせる。

稲村ヶ崎の解釈はずいぶんくどい、しかし、それが正解だとも思えない。
できるだけ科学的に史実に忠実に記述しようとしたあとがあるが、
そんなことをしてどれほどの意味があるのだろうか。
太平記は確かに作り話臭い。
作り話臭さを解消するために天文学的に分析をしてみる。
しかしそれだけでは単に新解釈を加えたにすぎないだろう。

新田次郎としては、
一ノ谷の断崖を馬で駆け下りた義経のように、あるいは平忠常の乱のとき源頼信が浅瀬を馬で渡ったときのように、
稲村ヶ崎も奇襲であったと解釈したいようだ。
私も最初はそうかと思ったが、
実際には、
六波羅が落ちて関東の武士がこぞって倒幕軍に合流した結果、
鎌倉側がとうとう支えきれなくなって、
たまたま稲村ヶ崎が突破された、
と考えるのが自然ではなかろうかと思う。
幕府に反抗したのはもはや足利尊氏や新田義貞だけではなかったということだろう。
新田義貞が挙兵してわずか15日で鎌倉幕府が滅んだのは、それだけ、
倒幕の機運が満ちていたからだと言える。

また新田次郎は、金剛山が落ちなかったのは、楠木正成が特に有能だったからではなく、
寄せ手にやる気がなかったからだという。
果たしてこの解釈もどうだろうか。

ところで、wikipediaなど読んでいると、
一ノ谷にはひよどり越えのような絶壁はなかったと書いてあり、
また一ノ谷の別働隊は義経ではなくて多田行綱だったという説もあるようだ。
多田行綱は、平家物語では清盛に鹿ヶ谷の陰謀を密告した人物となっているがそのような事実は疑わしいなどとも書いてあり、
どうも摂津源氏の子孫らが行綱に同情的な記述をしているようにも思える。

そのように歴史的に正しいか正しくないかという観点で軍記物語を読んでもおもしろくないのであり、
太平記は太平記のままに読まなくてはつまらんのであって、
史実は脚注に書くなりしてもらえば良いのであり、
戦後民主主義作家の脚色の方がよほどうっとうしいと言う気もする。