歌だけは残ってほしい

実際私は哲学とか思想というものにまったくなんの価値も認め得ない。ただのたわごとだと思っている。「寝ぼけた人が見間違えた」ものだと思っている。それゆえ当然哲学者というものになんら存在価値も認めないし敬意を払う気持ちもない。宗教に対しても同じだ。

宗教や思想などというものがすべて失せてホモ・サピエンスが登場した時代にさかのぼってもなんら惜しいとかもったいないとは思わない。むしろそのほうがずっとさっぱりしてすがすがしいと思う。私はコロナ騒ぎを見て、人類の進歩というものに対する一切の幻想を失った。人類(の精神)はまったく進歩していないし、今後も進歩することはない。人間社会を進化させようとするのはまったく無駄な努力だ。

人類が滅亡することにもなんら惜しいという気持ちはないしまして悲しいとか哀れを感じることもない。人類はこれまで当然滅びてしかるべきことばかりしてきた。報いをうけてしかるべきだとは思うが、それ以上何も人類に期待するものはない。人類は単に不完全な、偶然、自然発生的にうまれた種に過ぎず、それ以上の、なにか崇高で特別な存在ではないし、これから完全になることもなければ、完全に近づき得る存在でもない。

しかしながら私は、人類が滅びることによって私が詠んだ歌が失われることは、もったいないと感じている。人類があとかたもなく滅んでしまっても別になんとも思わない。そんなことは私にとって痛くもかゆくもない。もし人類に代わる何かの知的存在が私の歌を記憶していてくれればそれで十分だ、と思える。

私が書いた小説などみな消え失せてもかまわない。私が書いた論文など紙屑になってもかまわない。しかし私の歌は何とか残ってほしい。日本人とか日本とか人類とか芸術とか真理とか、そんなものにはまったく興味はない。

ただ私の歌だけは残ってほしいと思う。

私には昔からそうした傾向があったと思う。私はいつも、研究するときには、自分が人類であるからこの研究をしたのか、それとも私の研究は人類以外にも理解されるものであろうか、人類以外の存在にとっても価値があるだろうか。そういうことを考えていた。もし人類にしか価値の無い研究であればそんなものはもともとなんの価値もないと思っていた。自然科学の研究をしていても歌を詠んでいても、結局私は人類というものをまったく信用してはいなかった。人類ではなくもっと、なにかもっとアブストラクトな存在のために仕事がしたいのだと思う。

であればこそ、周りの人や、職場の同僚や、雇用主や、国や地方自治体や民間企業に認められようという気にはまったくならなかったのだ。それではいっこう、良い気持ちにはなれなかった。承認欲求も満たされなかったのだ。

ワンオペ個人店

浅草に越してきてだいぶ暖かくなってきた。そろそろ花見だうれしいなという浮かれた気持ちにはなれない。これから先暑くなって下水の匂いなどがけっこうきつくなってくるのではないかと今から恐怖している。

浅草でいろんな店を開拓してそれはそれで面白いんだけど、私は昔からワンオペでやってる個人の居酒屋なんかが好きなんだと思っていた。今でもそうなんだが、しかしワンオペの店というものは店が混んできたりするとみていて非常に気の毒というか痛々しいというか、こっちのメンタルまでやられてくる感じが最近するのである。たぶんこれは私が年をとってメンタルが弱くなったせいもあると思う。もちろん私一人が行こうがいくまいがそれで店が忙しくなったりヒマになったりするわけじゃないんだが、とにかく気をつかう。いつもガラガラの店ならそんな気にすることはないが、繁盛店だとすごく気をつかう。なので、鳥椿とかほていちゃんのようなチェーン店に行くのが吉な気がするのだ。

あと中国人のやってる中華とか。これもガラガラならば快適なのだが、どんどん客が入ってきて、しかも店員が延々と団体客にメニューの説明してたりすると、いらいらしてくる。

要するに私は混んでいる店が嫌いなわけだから、そういう影響を受けにくい店にそういう状況になりにくい時間帯に行くしかない。という結論になるわね。

中華生麺

生パスタ麺よりは中華の生麺のほうがコスパが良いと聞き、中華生麺を生パスタ代わりに使って食べているのだが、普通に食える。3玉か4玉まとめ買いすれば、1玉あたり70円くらいだろうか。米が高止まりしている昨今、麺を主食にするのもアリだ。

スーパーでは割と中華の生麺が売られているのだが、豚骨スープなんかは自分で作るのは無理だが、あっさりした塩ラーメンや醬油系のラーメンなら自宅で作るのもそんなに難しくはなく、需要があるのかもしれない。まさか私のようにパスタ代わりに使っている人がそんなにいるとは思えない。

年寄りのメディア離れしなさすぎ

私は高校生の頃から新聞を読まない人だった。というより、某新聞が大嫌いだった。大学生になるとテレビもほぼ見なくなった。最後まで見ていたのは俺たちひょうきん族くらいだった。

町で指のない男が某大手新聞を取れと脅してきたのでその新聞も二度と取るまいと思った。しかしながら、比較的嫌いではない新聞は取って読んでいたのだが、日経もまたいやになってやめ、最後はしばらく、消去法で残った産経新聞を取っていたが(主に折り込みチラシ目当てで)、それももういいかげん要らんだろと思ってだいぶ前にやめた。

今の若者は新聞もテレビもみないと、私の同世代の人たちは嘆く。ツイッターとかユーチューブばかりみていて「一次ソース」をみて確かめないと(笑)。

なるほど。新聞やテレビを見ることが「ファクトチェック」ですか?

新聞は一応一次ソースであろう。週刊文春も、時事通信も、共同通信も、テレビ番組も、一次ソースかと言われれば一応、マスメディアなので一次ソースなのであろう。その一次ソースが信用できないんだから、その信用できない一次ソースで確かめたって意味ないだろという問題なわけじゃないですか。

マスメディアだろうと個人配信だろうと一次メディアは一次メディアであって、個人配信でもきちんと自分で裏を取って配信している人はいる。マスメディアだっていわゆるこたつ記事というやつで、実際に取材しないで勝手に書いてる記事もある。現場に赴いて、もしくは現地の人と接触して、独自取材しているものが一次ソースであり、マスメディアか個人かということは関係ない、個人メディアもマスメディアもスポンサー、或いはSNSの運営会社の顔色をうかがって記事を書いているから大差ないってのが、今のメディアリテラシーであろう。それを判断するのはニュースを取捨選択する個人しかない。株を買って儲けるか損するかも自己責任だし、どのニュースを信用するかも自己責任。何を信用するか見誤れば陰謀論にはまってしまうかもしれないがそれも自己責任。誰も信用できない。AIも、自分自身さえも信用はできない。

そもそも「一次ソース」というのは生のデータのことだ。嘘も本当もゴミも宝石もまぜこぜになっている。一般人にはそのままではわからん。だから選別して加工する。マスメディアがいう一次ソースというのは一般人向けに調理加工されたものであってすでに一次でもなんでもない。報道する側の意図で方向づけされ味付けされてしまっている。

研究の世界だって同じで、論文がたくさん書けそうな新しい研究テーマがみつかるとイナゴのように群がり集まって、人の論文を適当に見繕って、先行研究をちょこっと手直ししただけの薄っぺらい論文を通して業績を稼ぐ。そんなの民間企業の営業や開発と同じだろ。何がしたくて研究者になったんだよ、研究がしたくて研究者になったんじゃないの、って思うことが多々ある。商売で取材しているメディアだってまったく同じことだ。ツイッターがインプレッションで、ユーチューブが再生回数や再生時間で(つまり広告収入で)コンテンツを最適化させるのと何も違わない。そんなソースが信用できるはずがないだろ。そんなことは当たり前じゃないか。そういう事実に目をつぶっているのか、それともほんとうにわからないのだろうか。

そういうことをおそらくまったくわからず、テレビ離れ、新聞離れしている若者もそりゃいるだろう。大半はそうかもしれない。が、十分わかったうえでテレビ離れ、新聞離れしている若者はけっこういるはずだ。テレビはしょせん洗脳装置だ。新聞はしょせんプロパガンダだ。今の若者は幸せなことに昔と違って選択肢の幅がある。選ぼうという意思があれば選ぶことができる。昔はそれすら容易ではなかった。

年寄りと話をしていると、メディアに対する考え方、信頼性が何十年も前からまったくアップデートされていないことを感じる。実に嘆かわしい。10年前のOSや言語やデータベースを未だに使い続けているようなものでセキュリティ上危なくて仕方ない。

そういう私だって昔からテレビや新聞が嫌いだったから、今も同じように嫌いなだけかもしれんが。人は変われない。年をとったら若者の感性からどんどん離れていく。年寄りたちが若者にあいそをつかされるのも無理はない。年寄りには若者が間違っているように見える。しかし歴史的にみれば間違っているのはどちらかと言えば年寄りのほうであった。もちろんナチスや学生運動、オウム、コロナ騒ぎ、ポリコレのように若者が過激思想にかぶれて暴走することもある。しかし年寄りもまた自分の価値観を更新できない。若者が間違っている、SNSが間違っていると決めつけてそれ以上疑わない。思考停止。老害。死による以外その弊害からまぬがれることはできない。だから私たち老人は若者の迷惑にならぬよう、後進に道を譲り、静かに世の中から退場するしかない。

これさあ。まず、アインシュタインを使って説得力を増そうとするところが姑息だよな。それにこれ見る限り、歴史はユーチューブ動画見ていれば小学生でもわかっちゃうわけだからわざわざ大学で学ぶまでもないって結論にならないか(笑)。

科学は哲学じゃないんだろ?じゃあ、科学者に哲学を語らせてはいけないんじゃないのかな?科学者はただ単に科学的真理を追究することに長けた人に過ぎないのに、どうして哲学的考察ができると考えるのかな?そこ、めちゃくちゃ安直すぎじゃね?戦争が得意な将軍においしいコーンポタージュの作り方を教わろうとするようなものじゃね?たまたま偶然軍人に料理人としての才能があるかもしれない。しかし、全然畑違いでそんな知識もスキルもないのが普通じゃないの。アインシュタインは別だって?それってあなたの感想ですよね?

少なくとも科学者がいうことが哲学になってるかどうか疑う必要があるんじゃないの?さらに言えば、何が哲学で誰が哲学者なんてことは誰にもわからないし決められないし、哲学を学ぶとは何かってことさえ哲学に決められないとしたらそもそも大学で哲学を学ぶ必要はないんじゃない?

科学は道具で、大学は道具の使い方を学ぶところ、生き方は人それぞれなんだから、それぞれが考えれば良くて、人生の目的はそれぞれがユーチューブ動画でも見て見つければ良い話で、大学の大講義室で一斉授業するのには適してないんじゃないの?

己の思想を説きたければ教壇の上から偉そうに、単位の縛りがあって講義を黙って聞かなくてはならない学生に対して説くべきではないよね。路傍で、荒野に出て、道行く人に説くべきだよね?ヨブやヨハネやイエスがそうしたように。

芸術や芸能、文芸などはスキルを学ぶ側面があるし、その習得に4年間必要だというなら大学という機関で学べばよい、ただそれだけじゃないかな。哲学にも思考訓練が必要でまた一般知識を身につけるだけの時間が必要だから大学で学ぶ。それでいいんじゃないの。

科学は道具であり、使い方を間違えれば危険であり、科学はその危険性を教えてはくれない。科学は何物かによって制御されねばならない。その通り。では哲学はほんとうにその方法を教えてくれるのかな。哲学で科学を制御しようとするからフランス革命とか文化大革命みたいなことがおきるんじゃないの?科学にできないことを哲学ならできる、みたいな言い方をするのはよろしくないよね。どっちもどっちだろ。科学同様哲学も十分危険なんだよ。それを哲学自身が解決できると考えること自体単なる思い込みだろ。

通勤客の負のオーラ

朝の通勤ラッシュ時間帯に道を歩くと通勤客から発せられる負のオーラに自分の精神までさいなまれてしまいつらい。なぜ早く首都移転しろと民衆は暴動を起こさないのだろうか?なぜこんな境遇に耐え忍んでいられるのだろう。もしかして人類は自ら奴隷となること、家畜となることを望んでいるのではなかろうか。為政者は単にその性質を利用しているだけで、人類はそもそも他人から支配されることを喜ぶ種なのではなかろうか。

定年退職して早く田舎に引っ越したい。好きな時に起き好きな時に寝る生活。年を取って私のメンタルはもうそろそろ限界に近づいているのに違いない。

人が比較的外を出歩かない時間帯というものがある。早朝深夜、人はだいたい家にいる。昼間はだいたい仕事場にいる。だから道や電車が比較的空いている。そういう時間帯に私は移動しなくてはならない。今の仕事を辞めて東京を脱出したいのはやまやまだが収入が減るのは困る。また東京が便利なのも事実だ。だからなんとかして東京に適応しなくてはならない。あと数年の辛抱だ。

いろいろ試してみてわかったが結局職場に寝泊まりして職場近くのスーパーや飲み屋だけを利用して生きるのが一番楽だってことだ。最初からそんなことはわかりきっていたのだが改めて実感している。移動が最小限になるようにスケジュール管理をする必要がある。

wordpressのメニューは便利だが項目数を増やすと管理がめんどくさくなる。keep it simple studid! mediawikiのほうへ移した。

近況

浅草に部屋を借りて3ヶ月が経った。いいかげん浅草に飽きてきた。そりゃそうで、どんだけ新宿が好きでも毎日遊んでりゃ嫌になる。渋谷だろうと池袋だろうと。飽きて当然だ。どんだけ新宿が便利でも毎日通勤で通過していると神経をすり減らしてしまう。

しばらく実際に住んでみなきゃわからんこともあるから無駄だったとは思わないし、私の人生の中では割と有意義な時期だと思う。

中島敦の「山月記」ではないが、還暦を迎えて、二十代、三十代の頃に一緒に仕事していた人などと会って話をすると、仕事の選び方でずいぶんと境遇が違ってしまっているのを感じる。私も彼らのような人間になることもできたはずだし、やり方次第ではもっと大きな仕事もできた気がする。

しかし大きな仕事をしたからなんだというのだろう。10億円100億円の金が動く大プロジェクトをマネージしたとか、国際的な仕事をしたとか、世界中を渡り歩いて人脈を広げたとか。そういう人もたくさん見てきたが、自分がそういう人間になりたいとはあんまり思わない。例えば大企業の重役になったとしてそれだけで歴史に名を残すわけではない。ただ単に社会的地位が高くて多少贅沢ができ便利な暮らしができるというだけのことではないか。死んでしまえば人魚のように泡に戻ってしまうだけのことだ。

そう思うからこそ私は結局、何の仕事をしていようと、どんな人生の選択をしてこようと、一人でできる仕事、他人に頼らない仕事、創作活動、執筆活動に最後には戻っていただろうと思う。おそらくソレだけは確実に言えると思うのだ。自分がどういう人間なのかはいまだにわからないし、そもそもそんなものは自分の周りの環境次第で、わかりようがなく決めようがないのかもしれないが。

もちろん仙人のように社会から孤立して一人だけで生きていて意味のある仕事ができるはずもない。人の世に交わってそれでも結局自分一人の世界に戻っていくのだろうと思う。

会社の中で出世するとか、スポーツのように誰かと競い合って1番になるとか、そういう他人との関係性の中で自己実現するということに私はたぶんまったく価値を認めていない。人と違ったこと、人が思いつかないようなことをしたい、まだ誰も手をつけていないことを最初にやって始めたいのであって、人と同じことで競い合って人よりうまくやったところで仕方ないと思う。

私は仕事の傍ら、仕事とは直接関係ない著作をかなり残してきた。余暇を、余力を、ほとんど著作に費やしてきた。それで良いのだと思う。私以外の誰かがやることもできる仕事を私がやる必要はない。私にしかできない仕事、私が死んだ後にも残る仕事をやればそれでよい。

最寄り駅として入谷を使いたいが日比谷線はいつも混んでいてまず座れない。仕事場までそれなりに時間もかかる。とりあえずいろいろ試してみる。

最近書いた記事を見ると鴎外に比べてはるかに漱石のほうがみんな関心が高いことがわかるね(笑)。

カラヒグ麺を食べてから生麺に興味が出てきて蕎麦も乾麺ではなく生麺を食べるようにしている。中華の生麺をゆでて粉末のナポリタンの素をまぶして食べてみたが、安いわりにそれなりにうまい。どこがどううまいか説明しにくいがともかく生感が良い(笑)。

月曜早朝の吉原はさすがにひとけもなく送迎車もほとんどおらず快適。ビッグエーに謎の米を買いに行ったが、いつものお米、アカフジしかなくて、しかも税込みで4200円。また値上がりしたんじゃないの?米不足と値上がりの原因は私は絶対家庭の主婦と彼女らを煽るマスコミのせいだと思っている。家庭の主婦が5kgの米を1袋ずつ備蓄するだけで世の中から米は消え失せてしまう。マスクの時も、トイレットペーパーの時もそうだったではないか。

源氏物語

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。桐壺帝は仁明天皇。桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。一院は嵯峨院。弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

ということを以前に書いた(ほかにもこれとかこれとか)。すると源氏物語に出てくる今上帝とは宇多天皇、今上帝の母、承香殿女御とは班子女王ということになる。ほかにも

光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ言ひ伝へたるとなむ

とか、

そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける

など、高麗人と幼い頃の光源氏が深い関係にあったことも注目すべきであろう。光源氏の母は百済人だった。それですべてがすんなりと説明できてしまう。百済王族は日本人、特に藤原氏に対抗して妃を入内させ天皇を立てることもできたはずだが、藤原氏は猛反発、おそらく実力行使に出ただろう。そうしてやがて百済人は歴史の表舞台から消えていった。

桓武天皇は百済人の子であった。妃にも百済人が多くいた。嵯峨天皇、仁明天皇のころまではそういう傾向が続いた。しかし時代が下り、文徳天皇のころになると百済人はやっと宮中でマイノリティになり、奈良時代のように藤原氏が実権を握り始めた。百済の王族の女が産んだ皇子は、親王になることはできない。親王の名は二文字、それ以外の王の名は一字をつける、というならわしがあった、ように見える。天皇の子であるのに源氏を賜り臣籍降下する、というのも源氏物語の記述と同じだ。

それでこの光の君の物語の原型が宇多天皇の時代、つまり、古今集が成立する直前くらいに成立したとしよう。それは西暦でいうとだいたい900年くらい。紫式部が生きたのがだいたい1000年くらい。源氏物語絵巻がつくられたり、最古の写本が出てくるのが平安末期、だいたい1150年くらいだろうか。藤原定家はほぼ現在と同じ形の源氏物語を読んでいたはずだ。菅原孝標女は紫式部より少しだけ後の人であるから、もし紫式部が源氏物語を書いたとすれば、紫式部が書いたそのままの源氏物語をほぼリアルタイムに読んだことになる。「更級日記」には「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」という形で出てくる。

紫式部が源氏物語を書いたことを疑う理由はないのでそうだとして、紫式部は嵯峨天皇 (800年頃)から宇多天皇 (900年頃) の時代に、日本人と渡来人の間で起きた皇位継承問題から成立した光の君伝説というものをもとにしてそれを膨らませて源氏物語を書き、それを菅原孝標女が読んだのだが、その後も100年以上の歳月をかけて、源氏物語はブラシアップされ、続編が書き足されていって、藤原定家の手に渡ったのであろうと思う。定家が書いた写本が最古の写本の一つとされているが、定家がいろんな写本を集めて今の源氏物語の形にした、つまり源氏物語の最終的な作者は定家である、ということもできるのではないか。

何度も書いているが「伊勢物語」は紀有常が漢文で書いた日記が元になり、それが拡散し、和文化することによって成立したのだと私は思っている。となると「伊勢物語」と「源氏物語」はどちらもほとんど同じ頃にその原型が成立したのだろうということになる。つまり、源氏物語の原型というものがあったとしたらそれは伊勢物語のように、一つの歌に少し長めの詞書きがついたようなものの集合体だったのではないか、そうしたものが村上天皇時代辺りに集積されつなぎ合わされた。その編集の主体は宮中に仕える女房らであった。

伊勢物語には惟喬親王や在原業平や紀有常らが藤原氏によって左遷されていくという政治的な要素も含まれている。源氏物語にはその要素は希薄ではあるが、というのは女房らにとってはそうした男たちの世界は直接興味がなかったからだろうが、しかしよくよく観察すると政治の世界のなまなましい駆け引きがみえかくれする。光源氏は浮世離れしたプレイボーイというだけではなかったのだろう。少なくともその原作においては。

さらに想像を膨らませると、百済王族が書いた漢文の日記があってそれがのちに伝説化、和文化して、全体のあらすじとして、源氏物語の冒頭に付加されたものが「桐壺」であったのかもしれない。

ファウスト

ファウスト第2部冒頭、アリエル(シェイクスピアのテンペストに出てくる空気の妖精らしい)が草地に寝そべっているファウストに歌う歌

Wenn der Blüthen Frühlings-Regen
Ueber Alle schwebend sinkt,
Wenn der Felder grüner Segen
Allen Erdgebornen blinkt,
Kleiner Elfen Geistergröße
Eilet wo sie helfen kann,
Ob er heilig? ob er böse?
Jammert sie der Unglücksmann.

der Blüthen は複数2格、der Felderは複数2格、Kleiner Elfen は単数2格強変化、に思えてならないのである。2格やばいよ2格。2格(所有格)は口語ではほぼ使われなくなった古い雅文的な言い方という。英語では ‘s で表されるアレ。

Kleiner Elfen Geistergröße Eilet wo sie helfen kann、これは、小さな妖精の魂の大きさは、が主語で、Größeは女性名詞だから人称代名詞はsieだけれども彼女ではなく、それ、と訳すべきではないかと思うんだ。だから直訳すれば「小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る(者がいる)場所へ急ぐ」となるはずだ。

普通は Kleiner Elfen が1格で主語、Geistergröße はその形容的な言い換えのようなものと思えるはずだ。しかしもしElfenがElf (もしくは Elfe) の複数1格だとしよう。もしそうだとすれば Kleine Elfen になるはずではなかろうか。

いろんな訳を見てみたが(英訳を含めて)妖精たちとか妖精の群れとか little elves などと訳しているものが多いのだが、私にはどうもこれが複数には見えないのだ。sie eilet, sie jammert どちらも単数にしか見えないではないか。3人称複数(あるいは2人称複数)なら sie eilen, sie jammern となるんじゃないの?

となると、「小さな妖精の魂の大きさ」とはアリエルが操る妖精の群れ、ではなく、アリエル自身のことにならんか。アリエルが自分でファウストを助ける、という意味なのではないのか。私は体は小さいが心は大きいからあなたを助けてあげましょう、と言っているようにみえる。

Segen blinkt は他動詞とみるしかあるまいと思う。

というわけでできるだけ直訳してみると、

花の春雨があらゆるものの上に漂い落ちる時、野の緑の恵みが地に生まれ出たあらゆるものをきらめかす時、小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る所へ急ぐ。彼が善良であろうと、彼が邪悪であろうと、それは不運な者を憐れむ。

となるのではないか。ちなみに英訳すると、

when spring rain of the flower falls floating on all, when green blessing of the fields sparkles all birth on earth, spiritual greatness of the little elf harries where it can help, whether he is holy or he is evil, it pities the unlucky man.

とでもなるか。

難しいなゲーテ。特に2格!人称代名詞を略したり、適当に意訳したりしてごまかすことはできるんだがなー。

ちなみに森鴎外はこう訳している。

雨のごと散る春の花
人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
かがやきて見ゆる時、
身は細けれど胸広きエルフ(Elf)の群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。

桜井政隆という人はおそらく鴎外訳を参考にして、次のように訳している。

咲匂ふ花、春雨のごと、
なべての上に漂ひ散れば、
野も狭に満つる緑の恵み、
天が下もろ人の眼に輝けば、
細身のエルフの群は強き霊もて、
救ひ得る方へと急ぎゆく、
聖なりとも、悪しき人なりとも、
幸なき者をあはれと見つつ、

中島清という人はこう訳す。

樹々の花、春の雨にもまがひつつ、
すべての者の上にひらひら降りかかり、
みどり色なす野の恵み、輝き匂ひ、
地に生まれたる者皆に笑みかくる時、
小さきエルフェの大いなる霊のつとめと、
群れて急ぐは、救はれむ人あるところ。
よし其の人に罪はありとも、あらずとも、
その幸なきぞエルフェの身には傷ましき。

秦豊吉という人はこう訳す。

花は春の雨のごとく
すべての上にひらめき落ち
野の緑なる恵みは
すべての地に生ふる者に輝けば
心大きく身は小さきエルフは
人を救はんと急ぎゆくなり。
尊き人をも悪しき人をも
幸なき者を哀れと思ふなり。

奥湯河原

湯河原はぎりぎり神奈川県なのだがあんなにさびれた温泉街がまさか神奈川にあるとは思わなかった。こんなに交通の便が良いところがオーバーツーリズムにまったく飲み込まれていないのは、千と千尋的な木造旅館が立ち並んでいるわけでもなく、今どきの鉄筋コンクリート造りのホテルか、さもなくば朽ちかけたバブル遺産みたいな廃屋しかなくて、都心に近いということが慢心となって、もっと媚びている温泉地に人の関心が向いているからだろうと思う。またやはりあまりにも東京に近い近すぎるというのが盲点になっているんだろう。まさかこんな温泉街が神奈川県にあろうとは。みんなそう思っているに違いない。

以前も一度湯河原には行ったことがあったが駅より東側、海のほうの、どこにでもある普通の街並みと変わりないあたりしかうろつかなかったので、ああいうものが湯河原だと思っていた。しかしずっと山の中、奥湯河原とか理想郷とか源泉郷とかいうあたりまでいくと、温泉の井戸のやぐらというか骨組みがあちこちに建っていて、お湯を通すパイプが乱雑に河原などに敷かれていて、修善寺と鬼怒川を足して二で割ったような雰囲気のところで、温泉街にはまったくコンビニやスーパーなどはなく、旅館の売店にしか酒が売ってなくて、しまった、駅前でビールとつまみを買っておくのだったと思ったときにはもう遅かったが、こうなってはもはや浮世とは隔絶した世界を堪能するしかないのだった。

そのあと浅草に戻ってきたのだが、やはり安心感がある。外国人もそうなのだろう。初めて日本に来る人はまったく土地勘がないわけだから、いきなり難易度の高い田舎にいくのはリスク高すぎる。とりあえず一通りなんでもあって、スーパーもコンビニもまいばすけっともある浅草とか京都とか鎌倉に来て、もう一度来ようかということになったら、もっと自分の好みにあった地方の観光地に行けば良いわけだ。

私だっていきなり東向島や曳舟や新御徒町なんかにいかない。まず浅草を一通りマスターしてから、その周辺にとりかかっている。

新御徒町の佐竹商店街なんかはもう少し流行ってもよさそうなものだ。合羽橋商店街から少し足を延ばして新御徒町、そこから上野あたりまで歩いても大したことはない。

そんでこのオーバーツーリズムが一息ついたら外国人もバカではないから、だんだんにもっと空いてて快適なところへ移っていくだろうと思う。浅草の公衆便所の女子トイレなんかは行列ができていてもうひどいありさまだ。エキミセやROXなんかにいけばトイレはあるんだけど、初めて来た人にはどこのトイレが比較的空いているかなんてわかるわけがない。

話は戻るが奥湯河原というところは都心から近いわりにさびれてて空いているから箱根や熱海に飽きたら行ってみると良い。奥湯河原は掛け値なしで源泉間近の源泉かけ流しの温泉宿がある。こういうのは箱根湯本にはない。あまり知られてないのが不思議だ。テレビでもめったに取り上げないよな。

私が泊まったところは夕食も朝食もいかにも昭和の旅館という感じで、夕食はまあまあとして朝食は塩分の多い漬物、梅干し、味噌汁、アジの開きも塩辛く、年寄り客ばかりなのにこんなに塩分摂らせていいのか、今風な献立にしたほうがいいんじゃないかと思った。たぶんごはんを何倍もお代わりしなくてはこれだけの漬物は食べきれないが今どきごはんお代わりなんてしないよな。若者はもちろん年寄りはなおさら。

ともかくも滝のそばに建っている茶屋なんかも昭和遺産とでもいうべき熟成された味のあるところで、行ってみる価値はある。

真鶴や湯河原には楠木の原生林があるというのがとても信じられない。楠木が群生しているのはずっと昔に人の手が入っているからだろう。もし気候的に楠木の自然林ができるのであれば、真鶴や湯河原に似た場所は伊豆や静岡、房総半島や三浦半島あたりにいくらでもあるのだからそういうところにもできなくてはおかしいではないか。

伊豆山温泉の伊豆山神社や走り湯にも行ったのだが、ここはすごいところだった。湯河原からバス路線はなく、熱海からならばある。私は実朝の和歌で知っていたから一度行ってみたいと思っていたのだが、昭和39年に掘りすぎて一度枯渇してしまい、掘りなおしたとはしらなかった。

動画をyoutubeにあげておいた。

JRのえきねっとで湯河原から東京まで踊り子を予約していたのだが、熱海からに変更しようとしたらアプリからWebサイトに飛ばされてなんかうまくいかないので、もいっかいアプリに戻って払い戻ししようとしたらバグって、Webサイトで変更しようとしてもなんかうまくいかないのでしかたなく熱海駅の激混みの緑の窓口にならばされて、結論としてはたぶん、湯河原は神奈川県で熱海は静岡県で区間が違うせいか、チケットレスのせいかしらんが、ともかく Webサイトでいったん払い戻ししなくてはならないらしかった。

今から思えばすぐさま対応窓口に電話すればやり方を教えてくれたのだろうけど、JRはチケットレスしたけりゃもう少しなんとかしてくれと思った。得られた知見としては、JRは変更しようとしてはいけない、手数料はかからんからいったん払い戻ししろってことのようだ。知らんがな。

ヰタ・セクスアリス

ちと気になって「ヰタ・セクスアリス」を読んでみようと思ったらなんと冒頭に夏目漱石の話が出てくるではないか。

 金井しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。ことに縁の遠い物、何の関係もないような物をりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳にめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかしし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。
 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。
 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢ぎようを感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついついいやになってなんにも書かずにしまった。
 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

森鴎外は小説でも翻訳でも何でも書く人だが、小説は1897年から1906年までちょっとした休止期があった。その後また小説を書くようになって1909年にはついに「ヰタ・セクスアリス」を書いて懲戒されてしまう。私はなんとなくこれは、夏目漱石が新聞小説を書くようになって、鴎外もそれに刺激されて、さらに自然主義というものが流行るようになって、鴎外も何か使命感のようなものを感じて「ヰタ・セクスアリス」を書いたんじゃないかなと思っていたのだが、その「ヰタ・セクスアリス」にそのへんの事情がそのまんま書いてあるではないか。

この金井君というのは半分くらいまでは鴎外自身のことだろう。鴎外が濫筆家であるのに対して金井君は何も書かない。そこだけが違っている。そりゃまあそうで、小説というものは虚構でなければならず、金井=作者ではまずすぎる。他人だということにしておかなきゃならないからねそこは。ましかし、田山花袋あたりの私小説というか自然主義小説っていうのかな。そういうのにも明らかに影響受けているよね。あー。蒲団は1907年かー。蒲団が許されるんなら俺も書いちゃおうかなーとでも思ったのかな。

鴎外はもともと漱石という人を知っていたのだろう。子規のことも知っていたのだろう。そりゃそうで鴎外はアララギ派に加わったのだから、1903年の時点で子規を知っていたし、子規の古くからの友人である漱石のことも知っていたに違いない。それで漱石が「吾輩は猫である」を新聞に連載し始めて、それが世間で大いに評判になったから、自分も何か書かずにはおれない気持ちになったんだと思う。

ていうかウィキペディアを読んでもそんなこと何にも書かれてないのだが、今まで誰もこのことに気付かなかったのだろうか?誰も指摘してないの?いやそんなはずはない。「ヰタ・セクスアリス」と「吾輩は猫である」の関係について研究した論文はあるはずだが、誰もそんなことには興味がないのだろう。

たとえば「作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。」「作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。」というのは鴎外自身のことであろうし、「芸術品として見るのではない。」「芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。」と思っているのも鴎外であろう。鴎外は芸術品としての小説を書こうとして世間の評判がよろしくなかったから、しばらくやめていた。鴎外がどんな作品を書こうと思っていたかは初期の作品や日記をみれば明らかだろう。また芸術品と言うに足る小説とはたとえば彼が激賞した樋口一葉の小説のようなものをいうのだろう。

「技癢」とは何かがしたくてむずむずうずうずすること。鴎外も『猫』や『蒲団』を読んで、技癢を感じていたのだ。秀才で、良いとこのボンボンで、好奇心旺盛で、何でも自分でやってみなくては済まない人だったんだと思うなあ。

それはそうと成島柳北も「航西日乗」という紀行文を書いていてしかもそれはすべて漢詩だけでできている。鴎外は柳北の「航西日乗」を見て自分も日記を書こうと思ったのに違いない。だからあんなにやたらと詩が多いのだ。こうしてみていくと鴎外という人はけっこう人に影響されることが多いような気がする。

成島柳北「航西日乗」から少々詩を引用してみよう。かなりひどい詩が多い。

回頭故国在何辺 休唱頼翁天草篇 一髪青山看不見 半輪明月大於船

見渡す限り青海原で陸地は見えない。頼山陽が天草あたりで大海原の詩を作ったが、俺様はもっと遠くまできたんだぞ。海に浮かぶ半月は船よりも大きく見える。

幾個蛮奴聚港頭 排陳土産語啾啾 巻毛黒面脚皆赤 笑殺売猴人似猴

現地人がたくさん港に集まり土産物を並べてぺちゃくちゃしゃべっている。巻き毛、黒い顔、赤い足。サルを売っている人間がサルに似ていて思い切り笑った。

成島柳北やっぱ面白い人だわ。永井荷風に好かれてたのもわかる。

ついでに頼山陽の詩「泊天草洋」も引用しておく。

雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮 萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒 瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月

雲か山か呉か越か 海と空の境が一筋の青い髪のように見分けがたい 万里の旅をしてきて天草灘に船宿りする 窓の外にはもやがかかり日はようやく沈もうとしている 大魚が波間に跳ねるのが見えた 宵の明星が船の上に出て月のように明るい