航西日記8

6日、波風は昨日と同じ。午後4時、サルディーニャ山脈を望む。10時、コルシカとサルディーニャの間を過ぎる。コルシカはナポレオン一世が生まれた地であり、サルディーニャの一島にはガリバルディの旧宅がある。今その境を過ぎて心を打たれずにはおれない。詩を二つ作る。曰く、

昔の事は雲のように過ぎ去り追うことはできない
水辺の英雄の故郷
かつて欧州を席巻しようと志した者も
今は小さな園に永眠している
赫々たる兵威はアメリカにも及んだ
平生の戦闘では私讐を捨てた
自由の一語は鉄よりも固い
英雄が危謀を多く用いたとは必ずしも言えない

7日、雨。午後2時、フランス国マルセイユに着く。一時的に停船を命じられて上陸が許されない。そこで黄色い旗を掲げて船を退かせて、港の入り口にある一島に停泊する。4時になってやっと入港することができた。ポートサイドからここに至るまで2017里、船の中で詩をいくつか作った。雑詩に言う、

果てしない風と潮に一隻の船を浮かべてから
目に入る山の姿も絶えてない
闇夜にかかる一輪の月だけが
万里相伴って客の愁いを照らし慰めてくれた
透き通るような肌 金髪 青い瞳
髪飾りがちらりとみえれば心はさらに勇み立つ
浮き草が漂いヨモギが転ぶような危険があろうと恐れない
月明かりと歌舞が船の中にある

同行の諸氏に言うようなつもりで

みんなで同じように海外の雲に翼を広げて
兵事を談じたと思えばまた文事を論じ合う
こんな奇縁をいつの間に結んだのだろうか
こんな人間関係はただの雀やツバメの群れでは無い

某フランス人に贈って言う、

聞くところによればあなたは何年も税関に勤務したそうだ
異境の地にいるうちに容貌も変わってしまったあなたを憐れむ
あなたは再び颯爽として一家とともに
妻子を連れ立って故郷に帰っていく

海の光のことを記して言うには、

夜光るものは秋の蛍だけではないごくちいさな海棲生物にも魂があるのだ星もなくまた月も無い怪しげな海底に金色の波が広々とした青海原に湧いている

海の光は海中の微生物が放つものである。船の波に刺激されて暗い夜に発光する。

船が港に入ると厄涅華ホテルの主管が出迎えた。そこで荷物を託してともに税関を通った。税関の役人が問うて言うには、紳士か、そのとおり、また言う、タバコや茶を持っているか、無い。それ以上は調べなかった。

7時にホテルに投宿する。時に雨がそぼふって深秋のように寒い。詩を作る。

頭を巡らせば故郷の山は雲路に遙かである
四十日間船の中にいて無聊を嘆いていたが
今宵はマルセイユ港埠頭の雨に降られている
旅人の愁いをすっかり洗い流してくれるようだ

また、

人がひっきりなしに通行し肩を触れあわんばかりだ
道を照らすガスライトが幾万とある
驚くことに激しい雨や冷たい雨の夜にも
その光は空の月明かりのように明るく照らす

8日、午餐の後に設哩路速家に着いて記念撮影する。午後1時、田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與ら諸氏は先発する。ストラスブール方面へ行くためである。6時に汽車に乗りマルセイユを出発する。一等の車両は四区画に分かれており、一区画に二人が入る。ずっと座ってもいられないので、別に寝室を借りる人もいる。夜、リヨンを過ぎる。月や星がキラキラと輝いている。肌寒い。詩を作る。

秋の空に月が明るく輝いている
塔の先端にも木の梢にも
暑い町も冷たい村もあっという間に通り過ぎた
詩を作っても推敲しているひまがない

9日早朝、田野の間を過ぎる。綿の葉はすでに枯れ、菜の花は半ばしぼんでいる。木を植えて畝を耕すのは日本と変わりない。鳩が群れ飛ぶのを見ると、背は黒く腹が白い。農家はみな小さい。ただ、石畳を敷いているのが異なっている。午後10時、パリに至り、咩兒珀爾ホテルに泊まる。佐藤佐と出会う。佐は長い間ベルリンに留学していた。今はまさにマルセイユに行こうとしている。木戶正二郞が病気に罹ったので送るのである。夜「夜電」部劇場を見る。客は6000人、客席は4層になっている。俳優には男も女もいる。イタリア人が多い。演じられた戯曲の名称は「宮中愛」である。およそ四つの場面に分かれている、最初は名妹が王に謁見する。次は壮士が決闘する。次は英雄が凱旋する。最後は夜の宴。女優の名妹に扮する者は媚態をまきちらして人の魂を虜にする。別に一場面があった。「騒擾の夜」という。波瀾万丈で観客は絶倒した。劇場内の器具は精緻を極めている。あるものは鏡で影を映し、あるものは色とりどりの照明を使っている。明月が林を照らしたり、噴水がしぶきをあげたりするのは、ほとんどほんものそっくりである。この日、佐藤氏に詩を贈る。

あなたと別れて三年が経った
あなたはずっとドイツにいた
思いもしなかったパリ城外の月に照らされて
暫時手を取り合って別れのつらさを語り合うとは

10日、公使館に着く。午後8時、汽車はパリを出発する。車両の両壁に鉄道図が貼ってある。ブレーキがかかっていて、急な時にこれを引っ張ると車両を停めることができる。また窓の上に小さな穴を空けて換気することができる。はなはだ便利である。

11日午前7時、ドイツ国ケルンに達する。私はドイツ語を解する。ここに来てやっと人の言葉がわかるようになった。愉快だ。午後8時30分、ベルリンに至る。ドイツ皇帝がホテルに訪れる。田中、片山らを問うに、皆まだ到着していなかった。

本文

初六日。風波如昨。午後四時望泪第尼山脈。十時過哥塞牙、泪第尼之間。哥塞牙者拿破崙一世所生之地。而泪第尼一島有加里波第之故宅。今過此境。不能無感。賦詩二首。曰。往事如雲不可追。英雄故里水之涯。他年席捲欧州志。已在小園沈思時。赫々兵威及米州。平生戦闘捨私讐。自由一語堅於鉄。未必英雄多詭謀。

初七日。雨。午後二時抵佛國馬塞港。偶有停船法。不許上陸。乃揭黃旗退舟。泊于港口一嶋。至四時。纔得入港。自卜崽至此二千零十七里。舟中得詩數首。雜詩曰。森漫風潮泛隻舟。絕無山影入吟眸。可憐碧落一輪月。萬里相隨照客愁。氷肌金髮紺靑瞳。巾幗翻看心更雄。不怕萍飄蓬轉險。月明歌舞在舟中。似同行諸子曰。鵬翼同披海外雲。談兵未已又論文。奇緣何日曾相結。不是人間燕雀群。贈佛人某曰。聞說多年官稅關。殊鄕憐汝改容顏。飄然又作全家客。手拉妻兒向故山。記海光之事曰。夜光何獨說秋螢。水族幺麼却有靈。怪底無星又無月。金波萬頃湧溟。海光者水中微生物之所放也。舟激波。則昏夜見之。舶之入港也。厄涅華客舘主管來迎。廼托以行李。俱至稅關。々吏問曰。紳士乎。曰然。曰有烟茶否。曰無。則不復査矣。七時投於客舘。時細雨霏々。冷如深秋。有詩。囘首故山雲路遥。四旬舟裏歎無聊。今宵馬塞港頭雨。洗盡征人愁緖饒。行人絡繹欲摩肩。照路瓦斯燈萬千。驚見凄風冷雨夜。光華不滅月明天。

初八日。午餐罷。至設哩路速家撮影。午後一時。田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與、諸子先發。以取道於斯都刺士堡也。六時乘汽車。發馬塞。一等車箱。分爲四區。每區容二人。可坐而不可臥。故有別買寢室者。夜過里昂府。星月皎然。寒氣侵膚。有詩。淸輝凛々秋天月。影自塔尖遷樹梢。熱市冷村塵一瞥。無由詩句費推敲。

初九日早。過田野間。綿葉已枯。菜花半凋。植木畫畝。與我無殊。有鳩群飛。黑背白腹。農家皆矮小。唯磚石疊成爲異耳。午前十時至巴里。投咩兒珀爾客舘。邂逅佐藤佐。佐久留學於伯林。今將赴馬塞。送木戶正二郞有病歸鄕也。夜觀「夜電」部劇塲。容五千人。設座四層。俳優有男有女。多伊太利人。所演之戲。名「宮中愛」。凡四齣。曰名姝謁王。曰壯士決鬪。曰英雄凱旋。曰夜宴簪花。女優扮名姝者。媚態橫生。使人銷魂。別有一齣。名「騷擾夜」。戲謔百出。觀者絕倒。塲中器具。極其精緻。或借鏡影。或用彩光。若明月照林。噴水籠烟。殆不可辨其眞假也。此日贈佐藤氏詩。別來倐忽閱三秋。期爾依然在德州。豈憶巴黎城外月。暫時握手話離愁。

初十日。至公使舘。午後八時。滊車發巴里。車箱兩壁。貼鐵道圖。懸槓杆。有急之時動之。可停車行。又窓上設小孔換氣。甚便。

十一日。午前七時。達德國歌倫。余解德國語。來此。得免聾啞之病。可謂快矣。午後八時三十分。至伯林府。投於德帝客舘。問田中、片山等。皆未到也。

厄涅華ホテル。不詳。

設哩路速家。不詳。

斯都刺士堡。ストラスブールか。

咩兒珀爾ホテル。不詳。

外国地名および国名の漢字表記一覧。役に立ちそうで立たんかった。

航西日記7

10月1日。秋のように涼しい。寒暑計の針は67度。午前6時、スエズ港に至る。アデンからここに至ること1314里。スエズ港は紅海が尽きる所、見渡す限り赤い野であり、通年雨が少ない。アレクサンドリアまで鉄道が通じている。10時、船が出発して運河に入る。運河は長さ100海里。深さは72フィート。幅員はそんなに広くはない。巨艦どうしがすれ違うときには一方を待避させて他方を通す。南のスエズから来たのポートサイドに至る。エジプト王アリーが開鑿した。工事を監督したのはフランス国の学士レセップス氏である。竣工は15年前であるという。緑の木を周りに植えた家が河口にある。おそらく収税所であろう。河に入ると両岸の土の色はみな黄色である。薄が芽を出しているものがある。また水柳がある。堤防の上に電線が数本架かっている。所々に板屋を建てて河を守る者がここにつめている。また小汽船で川底をさらっている。夜は月が明るい。河の中に停泊する。詩を作る。

河をさらって破天荒な功績を成した
地下でまさにナポレオンも驚いたことだろう
人が喜望峰を巡ることもなくなり
十五年が経ってその名はむなしくなった

ナポレオン一世がエジプトを征服したとき運河を作ろうとしたができなかったことを二行目は言っている。

6時に船出する。地中海に入る。寒暑計の針は76度。

3日、船はどんどん走る。しかもいつもよりも安穏である。

4日、カタニア島を望む。これは欧州の地をみる初めである。

5日、波風が起こり、船は揺れて止まらない。イタリア山脈を望む。草木は少ないが谷地が多くやや湿り気を帯びていてアラビアの死の山とは比べようもない。だんだんに山麓に近づくと村落や田園、鉄道、橋梁などが見え、樹木も繁茂している。エトナ山を望むと雲がかかっていてはっきりと見ることができない。

晩にシチリア海峡を過ぎる。船が海峡を行く間、水面はほぼ平らであった。メッシーナの町が目前にある。詩を作る。

帆を二つまたは三つかけた船が浮かぶ
海峡の潮流が紫の嵐を隔てている
楼台がいくつか見えるがまだ灯をともしていない
夕べの霧がメッシーナを深くとざしている

夜、雨が降る。

本文

十月初一日。氣冷如秋。寒暑針六十七度。午前六時。至蘇士港。自亞丁抵此千三百十四里。蘇士港在紅海盡處。四境赤野。累年少雨。有鐵路通歷山府。十時放舟入運河。運河長百海里。深七十二英尺。幅員不甚濶。巨艦相逢。則避一過一。南起於蘇士。北至於卜崽。埃王鵶禮所鑿開。而督工者爲佛國學士列色弗氏。其成功在十五年前云。河口有屋。環植翠樹。盖收稅衙也。入河。則兩岸土色皆黃。有芒抽芽。又有水楊。堤上架電線數條。所所築板屋。守河道者居之。又有小滊船。濬治河道。夜月明。泊河中。有詩。濬河功就破天荒。地下應驚佛朗王。喜望峯前人不到。名虛十有五星霜。〈初拿破崙一世征埃及。欲開河道。不果。第二故及。〉

初二日。行河中。有水禽蹴浪而飛。嘴喙甚大。岸上土人乗駱駝而行。旋風時起。捲砂若柱。堅立数十丈。沙接天処。望之如海。蓋野馬也。至午望綿楂勒湖。見漁父挽網。自蘇士至卜崽。有四湖。緜楂勒湖其一也。午後二時。至卜崽港。則湖北之一沙嘴也。買舟上陸。街上多「尼泪爾弗」樹。土人牽驢勸乗。有楽堂。入而聴焉。堂容二百人。正面爲楽手設座。男五人女十五人。各執楽器。管絃合奏。頗適人耳。每曲終。女子降座乞銭。有詩。水狹沙寬百里程。月明兩岸艸蟲鳴。客身忽落繁華境。手擧巨觥聞艷聲。六時開行。入地中海。寒暑針七十六度。

初三日。舟行甚駛。而安穩異常。

初四日。望干第呀嶋。是爲視歐洲土壤之始。

初五日。風波起。舟蕩搖不止。望伊太利山脈。雖少草木。而皺紋緻密。稍帶生氣。非亞刺伯死山之比也。漸近山麓。則見村落、田園、鐵路、橋梁。樹木亦繁茂。望葉多䏧山。烟雲晦冥。不可明視。晚過細々里海峽。舟行峽中。水面稍平。墨西南府在目睫間。有詩。蒲帆兩々又三々。一帶潮流隔紫嵐。多少樓臺燈未點。暮烟深鎖墨西南。夜雨。

埃王鵶禮。直訳すればエジプト王アリーか。おそらくオスマン朝皇帝ムハンマド・アリーのことを言っているのだと思われる。

航西日記6

18日未明、コロンボ港に入る。シンガポールからここに至るまで1570里。港の沖に堤防を築いて大洋を隔てている。おそらく鉄道にも利用するために作られている。激しい波が堤防に打ち寄せている。10丈の高さで建てられている。白い波しぶきが乱れ飛ぶ。まことに心を動かし、魂を驚かせる光景だ。人家が赤い瓦で葺かれているのはサイゴンと同じである。はしけ舟は木をくりぬいて作っている。形は狭く小さい。ふなべりに弓なりの木を二本しばりつけて、その端にいかだをつけて、舟が傾かないようにしている。二人でこの舟を操縦している。水を運ぶ舟も来た。現地の服務者らは常に無駄口をたたいている。

午前ににわか雨。食事を終えた後に、小さな汽船に乗って上陸する。人を雇って道案内させ、街の中を巡覧する。現地人は目が大きく鼻が高い。服装はシンガポールと同じである。婦人が挿す櫛は半月の形をしている。湖があって蓮が多い。牧場には牛が数十頭いて緑の草の上で起きたり寝そべったりしている。路傍には椰子の木、ねむの木、黃麻竹が多い。ガジュマルがくねくねとまがりねじれた奇怪な形をして空を覆い日を遮っている。呉子が「谷を覆いつくす牛や羊」と言ったのはまさにこれであろう。路上で車を引く牛はみな皮膚に文様を焼きこんでいる。その惨状を見るといやな気分になる。博物館に入る。禽獣魚虫などがたくさん陳列されている。家のように大きな象の骨がある。また、古い道具に、剣、槍、琴、鼓、金石仏像などがある。どれも古色蒼然としている。

外へ出て桂の林を見る。木はみな小さい。一つの仏寺に入る。釈迦涅槃像がある。陶器のお盆に花を供えている。香気が堂に満ちている。僧侶の容貌は阿羅漢の像のようである。黄色い袈裟をかけて、革の靴を履いている。寺には貝多経が収められている。字はマレーの書体を用いている。

ここは仏教が隆盛した土地であり、方言の中に、旦那、伽藍、などの言葉がある。詩を作る。

鳩は林の外で鳴いて雨音が聞こえる 
禅寺の扉を叩こうとして車を暫く停める
錫杖を持った僧侶が案内してくれる
いくつもの箱に入れた、畳まれた葉に記されたお経をみせてもらった

羅約兒ホテルでしばらく休憩し、午後1時に船に帰る。3時、港を離れる。夜、月が明るかった。詩を作る。

どこでここのような幽かな風物を見ることがあろうか
赤い花に緑の葉が四季を通じて生い茂っている
船はもやい綱を解いてこの地を去るが名残惜しい
清らかな月光に照らされた国の秋を去るのが心苦しい

『西遊記』によれば、おそらく月国とはインドの意味。この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針は75度。

19日、アラビア海に入る。

20日、航海はすこぶる穏やかである。

21日、日曜日にあたる。ヨーロッパ人客の踊りを見る。

22日、午後に風が起こるが、航海には支障ない。

23日、風はまだやまない。

24日、昼過ぎに風がやむ。晩にソコトラ島を望む。山は深く険しく、のこぎりのような形をしている。

25日、水面は蓆を敷いたように平たい。巨大な魚が波の上に浮かんでいるのを見る。

26日、アデン港に入る。セイロンからここに至るまで2135里。この港はイギリス人が開いた。紅海の入り口に位置し、海は西南に面している。この地を赤い山がとりまいている。4時、雨が少し降る。見渡す限り赤い野が広がりまったく緑はない。現地人は褐色で頭髪は黄色く枯れている。鼻に金の輪を通し、衣は半身を覆っている。アラビア語と英語交じりの言葉を話す。宗教はみなイスラム教である。現地人が来て物品を売る。ダチョウの羽が最も美しい。

この地には雨水を貯めておくための貯水池があって、ソロモン王が始めたものであるという。行ってみてみたいと思ったが、体調が思わしくなくはたせなかった。光明寺三郎と偶然出会う。三郎は外務書記官で、パリから帰る途中であるという。

午後6時、船出する。暑さがはなはだしい。寒暑計の針は90度。詩を作る。

万里、船は大波の間を過ぎる
旅衣には涙の跡がまだらになっている
禿山に赤い野 青草はない
故郷の山にはまったく似ていない

また、

誰かと相見て、笑って口を開くこともない 
海の上に立ち込める黄色い砂埃には驚いた
体質が弱い者でなくとも耐えることはできまい
赤い日が山を焦がし海を煮ている

この日、故郷に手紙を送る。

27日から30日まで、ずっと朝から夕べまで紅海の中を行く。海底にサンゴを生じるので、紅海と呼ぶのであると世には伝えられている。あるいは両岸の土が赤いので、このような名になったともいう。この間航海はずっと安穏で、気候はいくらか涼しかった。大きな炉を出たような心地よさがあった。

本文

十八日。未明入歌倫暴港。自星嘉坡抵此千五百七十里。港澳築堤。以限大洋。葢兼作鐵道之用也。激浪觸堤。堅立十丈。白沫亂飛。洵動心驚魄之觀也。人家葺赤瓦。不殊塞棍。三版刳木造之。形狹而小。扁舷縛兩木。彎曲如弓。其端挂以浮槎。令無傾欹。二人行之。有舟來輸水。土人服事者。絮語不絕口。午前驟雨。食罷。乘小滊船上陸。雇人爲導。驅車巡覽街衢。土人睅目隆準。服裝與新港同。婦人插梳。形如半月。有湖多蓮。有牧牛塲。見牛數十頭。起臥于綠艸之上。路傍多椰樹、合歡木、黃麻竹。有榕樹。離奇古怪。參天遮日。吳子所謂可蔽滿谷之牛羊者卽此。路上挽車之牛。皆烙皮成文。慘狀可厭。入博物局。所列禽獸魚蟲甚多。有象骨大如屋。又古器中有劔、槍、琴、鼓及金石佛像。皆古色蒼然。既出。見桂林。樹皆矮小。入一佛寺。有釋迦涅槃像。陶盤供華。香氣溢堂。僧貌如阿羅漢像。挂黃袈裟。穿革鞋。寺藏貝多經。字用巫來由體。此地釋迦隆興之所。方言中猶有檀那伽藍等之語云。有詩。鳩啼林外雨淋鈴。爲扣禪扉車暫停。挂錫有僧引吾去。幾函疊葉認遺經。小憩於羅約兒客舘。午後一時歸舟。三時離港。夜月明。有詩。風物何邊似箇幽。紅花綠葉四時稠。扁舟解去多遺恨。蓽負淸光月國秋。盖印度者月國之義。說出西域記。此日發鄕書。寒暑針七十五度。

十九日。入阿刺伯海。

二十日。舟行頗穩。

二十一日。當日曜日。觀歐客歌舞。

二十二日午後。風起。而不至苦船。

二十三日。風未歇。

二十四日。至午風歇。晚望速哥多喇嶋。山骨㟏岈。作鋸齒狀。

二十五日。水平若席。觀巨魚浮波上。

二十六日。至亞丁港。自錫蘭抵此二千百三十五里。港英人所開。紅海之咽喉也。西南面海。赭山繞焉。四時少雨。滿目赤野。不見寸綠。土人褐色。頭髮黃枯。鼻穿金環。衣掩半身。操亞刺伯音。雜以英語。所奉皆囘敎也。土人來賣貨物。駝鳥羽最美。聞此地有貯水池。以貯天水。速爾門王所創。欲徃觀而不果。以有微恙也。邂逅光明寺三郞。三郞爲外務書記官。自巴里歸者。午後六時開行。熱甚。寒暑針九十度。有詩。萬里船過駭浪間。征衫來此淚成斑。童山赤野無靑草。豈有風光似故山。誰得相看笑口開。堪驚波上泛黃埃。雖非蒲柳何能耐。赤日焦山煑海來。此日發鄕書。

二十七日至三十日。皆早暮行紅海中。世傳水底生珊瑚。故名。或云。兩岸赭土。所似有此名也。此間舟行安穩。氣候漸北漸冷。有出洪爐中之快。

歌倫暴。コロンボ。

吳子所謂「可蔽滿谷之牛羊」者卽此。「呉子」の兵法書のことを言っているのだろうが、不明。

貝多経。貝多は貝多羅葉の略。貝葉とも。椰子の葉に書かれた仏教の経典。

羅約兒ホテル、不明。Mount Lavinia Hotel か?

速爾門王。ソロモン王。

開行。港を出ることだろうか。以下そのように訳す。

1984

なぜか若者らに 1984 (1Q84じゃないほう) の読書感想文を書かせるということをやったのだがなかなか興味深い。ビッグブラザーやニュースピークは悪いという、確かにビッグブラザーはプライバシーを無視したあからさまな監視社会、管理社会であって、よろしくない。ただ納税とその対価としての公共サービスというものがある以上、市民はある程度まで管理されなくてはならず、もし管理が緩いと税や社会保障費負担の不公平とかさまざまな問題が生じる。マイナンバーカードはやめろというのと同じだ。

漢字の種類を制限しようということは秦の始皇帝のころからすでにあったわけで、中国共産党の専売特許というわけではない。言語は人工的なものだ。義務教育は富国強兵殖産興業のため、近代国家は言語を、教育を管理する。学習効率をよくしようとすることは必ずしも悪いことではない。ドイツ語が簡略化して英語が生まれ、さらにピジンやクレオールが生まれる。サンスクリットからパーリ語がうまれる。古典語から現代口語がうまれる。あるいは簡単に学習できることを目的としたエスペラントなどの世界共通語が考案されたりもした。ニュースピークというものはそうしたものの一種だ。Basic English、Simplified Technical English、ウィキペディアにもシンプル英語版などというものがある。

政府ばかりではない。マスメディアも報道しない権利を行使することによって、SNSもシステムの匙加減である言葉ははやらせたり、他の言葉は人の目に触れないようにすることができる。

問題は良いか悪いかということが明確ではなく、周りが間違っているように見えるが間違っているのはしばしば自分のほうだ、ということだ。正岡子規が「再び歌よみに与ふる書」で「見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで、隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。」と言っているが、子規が乗っている汽車が動いているのか止まっているのか、子規自身にすらわかるまい。過去を断罪することはたやすいが、これから全く新しいメディアが発明されれば人はまだそのメディアに対して免疫がないから、経験に頼ることもできず、昔の人と同じように扇動されたり同調圧力に屈したり、付和雷同したり、思考停止したり、陰謀論が流行ったりするわけで、ホモサピエンスという種は何十万年もまったく進化していないから、ナチスドイツやコロナ騒ぎのようなことは再び起こるし、それをできるだけ早く察知して回避するにはやはり、すべてのことをとりあえず疑ってみる、比較してみるというのは大事だろう。

大阪の中之島図書館を図書館として残すか残さないかという話が twitter で盛り上がっていたが、私は維新の会に同情を禁じえなかった。建築物の価値と、その建物が図書館として使われるかどうかは別問題だろうと思う。あれは明治のころには意味があったかもしれないが、現代において図書館としての機能を充実させたければ、郊外か地下かもしくはビルの中に倉庫のようなフロアを作ってそこを図書館にすれば十分だろ。もしくはオンラインの、青空文庫や国会図書館デジタルコレクションのようなものを充実させたほうが良いに決まっている。また中之島の建物は、民間に払い下げて商業施設にするかどうかはともかく、図書館として使い続ける意味はほぼないと思う。本好きにはしばしば本を実際に読まない人、図書館を利用しない人、図書館の利用方法や価値がわからぬ人、本を読むという目的以外に図書館を使いたがる人が多く(実際多くの読書家は本を読んでいる自分、というか、本を読んでリラックスしている時間とか雰囲気、が好きなだけで本の中身なんかどうでも良いんじゃないかと思えることが多い)、そうした人たちの声ばかりがバズるのが問題だ。

神宮外苑の銀杏並木にしてもあれは関東大震災以後に植えたもので、せいぜい100年の歴史しかないのだから、伐りたきゃ切れば良い。こればかりは小池都知事に同情する。あれを切ってならんというのであればさっさとお濠や墨田川沿いに建てた高速道路を撤去して江戸時代の景観を戻してほしい。

航西日記を現代語訳していて wordpress に「更新に失敗しました。データベース内の投稿を更新できませんでした。」と怒られるので調べてみると、phpMyAdmin で文字コードを utf8mb4 にしろなどと書いてある。使われている漢字が特殊すぎてデータベースに格納できないのかと思って、調べてみるとデータベースは最初から utf8mb4 になっているじゃないか。わけがわからない。しかし特定の漢字とデータベースの相性が悪いことが原因なのは確からしいんで、できるだけ普通の漢字に置き換えてやり過ごした。wikisource に原文はあるのだし、森鴎外が使った漢字にこだわる理由もない。

1984については以前も書いていた。

これも。

georg-orwell.org 1984

似たようなことを以前にも書いていた。

温泉旅行

某温泉に来たのだが、surface go のキーボードを忘れて来てしまい、日本語入力が不便でしかたない。まだスマホのフリップ入力の方が慣れている分ましだと思い、このブログをおそらく初めてスマホで書いている。twitterなんぞに短文を書き散らかすくらいなら、こうしてブログにメモした方がましだろう。

大浴場に行くと後から入っていきたお年を召した方が5秒か3秒かに一度「あーっ」という、感に極まった声を発するのがうざくて気分最悪になった。また某梅園に行くとずっと犬を吠えさせている人がいて思わずにらんでしまった。いつ終わるともしれない人の声や人が飼ってる犬の声など聞かされ続けるのが苦痛なのだ。こんな思いをするくらいなら温泉旅行なんてしなきゃよかったと思った。できるだけ一人で生きていくしかあるまい。

インバウンドは皆無で年寄りばかりの珍しいところだったが田舎の観光地なんてどこも同じなのかもしれん。日本中に観光客が散ってくれたほうが私には都合が良い。一箇所に集中するのが良くない。

源泉近くの山の中まで連れて行かれ旅館の周りにはコンビニの一軒もない。途中でしまった、駅前のコンビニでビールとつまみを買っておけば良かったと思ったが、手遅れだった。

例の森鴎外の日記の現代語訳何だが、特殊な漢字がまじっているせいか、データベース更新があるうまくいかんと怒られる。とりあえずだましだましやってみる。

航西日記5

7日早朝、サイゴン川を遡る。両岸はどちらも平坦で草木が生い茂っている。村の家並みが点在して風景画のようだ。ところどころに非常に大きな椰子の木や蘇鉄の木が立っている。午後1時にわか雨。詩を作る。

寂寞とした漁村が途切れ途切れに続く
船を挟む深緑には薄いもやが立ちこめている
椰子林に降る一陣の雨が
たちまち涼しい風を客船に送るのを喜ぶ

2時、港に達する。香港からここへ至ること815里。船が港に入るとただちに埔頭に接して停泊する。しかしながら市街へ行くには、はしけ舟が来るのを待つほうが、速やかに行くことができる。市街を眺めると屋根瓦はすべて赤い。初めて椰子の実を食べてみる。形はスイカのようである。殻を開けてジュースを取り出すと味は極めて甘美である。その殻をそのまま椀としたり杯にすることができる。この日、香港にて病院を視察したことを軍医本部に報告し、また故郷に手紙を送った。

8日早朝。馬車を雇って花の庭園を見る。馬は痩せているが力は強い。街を覆う土は赤い。道路の両脇に樹を植えている。槐(えんじゅ)に似ている。いわゆる尼泪爾弗樹である。朝顔、芭蕉もある。民家は非常に狭く、屋根を覆ったり扉を編んだりするのにみな椰子の葉を用いている。網を二つの柱の間に張って腰掛け代わりにしているものもある。また竹のすだれを垂らしているものがある。室内は土間が多い。豚や鴨と共に住んでいる。シナ人で店を開いている者が多い。売っている木の実は、あるものはワンピ、またはフトモモ、みな食用である。現地人はみな山子を嗜む。一枚を切って四つに分けて、貯蔵することなくじかに、ハコベや石灰といっしょにこれを噛むので、男女ともみな歯が黒い。山子とはビンロウの実である。婦女は髪に櫛を挿しているが、日本の古代のものに似ている。馬を御する者はみな黒人である。首や肩に赤い布をまとっている。一つの川を渡る。鉄橋が架かっていて庭園に入ると草木はみな大きくうるわしい。香港の庭園にはこのような天然の色はなかった。庭園の中は蝉の声がやかましい。庭園を出てフランス兵の屯舎の前を過ぎる。兵卒がいて抜剣して門を守っている。途中一人の兵卒に会った。左の下肢に義足を付けていた。また別の庭園に入った。たくさんの動物を飼っている。鶴、孔雀、猩々、あるいはまた虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈(すっぽん)、蟒(うわばみ)などなどがいた。最も変わったものは巨大な鰐(わに)であった。そのうろこは老松の幹のようである。池には蛙がたくさんいて、その声はホラ貝を吹くようであった。午後船に帰った。夜寝床で詩を作った。

夕暮れ空は晴れ 人は暑さを忘れる 
初めて船の中で安らかに眠る
夜半にボーイがロウソクを吹いて火を消す
虫の声が窓に迫り寒い

この地は蚊や虻が多いと聞いていたが、今はそれほどでもない。寒暑計の針を見るとカ氏85度。

9日午前3時、サイゴン港を出発する。目が覚めたときにはすでに数十里、川を下っていた。風が強く吹いて夜になってもやまなかった。

10日、風がいまだに激しい。木々が倒れ伏している。三度食事をするほか何もやることがない。

11日早朝、マラッカ岬とスマトラの間を過ぎる。山脈は断続して南北にうねり長く連なっている。むしろを敷いたように海は平らに凪いでいる。詩を作る。

昨夜は風が生じてとても苦しんだが 
今朝は風がやんでみな笑っている
人間の悲喜こもごももこれと同じだ
ある日は眉をひそめ またある日は眉を開く

午前8時、シンガポールに達する。いわゆる「新港」である。サイゴン港のときのように船が埔頭に接する。沿岸にはすすけた倉庫が多い。子供が舟に乗って近づいてきて、銀貨を水中に投げよと請うて、水に潜ってこれを拾うのだが、百に一つも取り損なうことがない。その舟は狭くて爪でえぐったようだ。『嶺南雜記』に海人が水に入っても潜らず、客のために浮かんだ残り物を取るというのはこのようなことをいうのだろう。

午前11時、馬車を雇ってさまざまな寺院や庭園を見物する。街を覆う土の色が赤いのはサイゴンと同じだ。多くのシナ人が店を開いて食べ物を売っている。また人力車を引いて生業としている。現地人は全身黒く、肩や腰に紅白の布をまとっている。女は鼻に金の輪を通している。皆はだしである。イスラム教徒らは桶のような形の帽子をかぶっている。車を引く牛は肩が突出していてラクダのようだ。庭園には椰子やサトウキビをたくさん植えている。シナ寺院に掲げられた扁額には「環州會舘」と書かれている。そのほかイギリスやフランスの礼拝堂があるが、特記すべきほどのものはない。庭園に入る。盆栽を束ねて人の形を作っている。我が国の菊人形のようなものだ。ヨーロッパ式のホテルで休憩したが、香港のホテルよりも数等劣っている。

午後3時、船に帰る。たまたまフランス船、屋幾斯号が入港する。日本客がいると聞くので見に行く。その姓名を記録すると次の通り。今村淸之助、福原允。並びに陸奧宗光を送って帰る者、圓中孤平、巖見鑑造。そのほか商人ら。晩餐の後、近くの岸辺を散歩する。港の入り口に島嶼が星のように連なり、幾万という船の灯りがその間に灯っている。おそらくこの地はマレーの島々の一つにすぎなかったが、イギリス人が開港して以来、シナとインド、二つの海の喉を扼しているから、その盛んなことは論じるまでもないことである。詩を作る。

聞くところによれば ここシンガポールは蛮族が焚く煙が漂う水郷であったという 
今その埔頭を見ると千隻の船が連なっている
イギリス人はまさに錬金術を持っている
錆びた鉄の塊もたちまちに光を放つ

また、

日暮れに船を離れて木陰に立つ 
林を隔てて寺から鐘の音が聞こえてくる
子供らが数人 はだしで色は黒い
土地の言葉を話しながら色鮮やかな鳥を売っている

この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針はカ氏85度。

12日、日の出を見る。赤く大きな輪が海を離れるのはまるで盆のようで、偉観だ。午前8時雨が降る。9時シンガポールを出発する。航海ははなはだ穏やかである。

13日、スマトラの海浜に沿って進んで行く。この地はオランダ人が領有しているが、原住民との戦いはいまだにやんでいないと聞く。数年前、オランダ軍はアチェ王国を攻めたが、我が林君紀が軍中にあって『閼珍紀行』を著した。私はかつてこの著書を読んで知っていた。今、この地に訪れて、その人をずいぶん久しぶりに思い出した。アチェはスマトラの首都であり、その北西端にある。詩を作る、曰く、

万里船を浮かべてスマトラ島を過ぎる 
アチェの府城がかなたのもやの中に見える
昔、林君は詔書を奉じて 身を奮ってオランダ軍に従軍した
元来、医者の道は簡単ではない
思い通りにいったりいかなかったり とてもややこしい
いわんや戦争の最中ならばなおさらだが
従容として傷病兵を措置し殊勲を建てた
林君は名高い家柄に生まれ
気象は英邁、人よりも抜きんでいた
西洋人の手段をすでに見抜いて
そのやり方を胸の内におさめた
日本に帰ってからその計画を天子に奏上した
その弁論は認められて高い官禄を得た
それ以来しばしば変事を調査した
君が残した策略は世に知られぬものもない
私はこの地にきて慷慨して彼方をみつめる
水煙がたちこめて夕日をおおっている
今誰が立ち上がって君の雄志を継ぐだろうか
当時の医学界にはすでに君がいたのだ

ああ、林君は志を得た立派な人であったがパリで客死したのはまことに惜しむべきことだった。

14日、ベンガル海に入る。

15日、風が強い。魚群が海面を飛んでいる。青い背中、白い腹。長さは1尺ばかり。

16日、風がますます強い。

17日、セイロン島に近づく。島はイギリス人が領有している。椰子の林が数十里続いているようだ。詩を作る。

インド洋の波は山のように大きい
トビウオが鳥のように何匹となく飛ぶ
今宵からセイロン島に近づく
青い霞が十里の椰子の林にかかっている

午後5時、ポアン・ド・ゴール港を望む。

本文

初七日早。遡塞棍河。兩岸皆平澤。艸木蓊然。點綴村舍。風景如畫。間見椰樹蘇鐵樹甚大。午後一時驟雨。有詩。寂寞漁村斷復連。夾舟深綠鎖輕烟。喜他一陣椰林雨。乍送微凉到客船。二時達港。自香港抵此八百十五里。舟之入港也。直接埔頭而駐焉。然赴市街者。猶有待於三版。取其捷也。瞻望市街。屋瓦皆赤。始試椰子。形如西瓜。解穀得漿。味極甘美。其穀可以爲椀爲盃。此日報軍醫本部。以香港觀病院之事。又發鄕書。

初八日早。倩馬車見花苑。馬瘦軀而多力。街上土色殷赤。兩邊種樹似槐。所謂尼泪爾弗樹也。有牽牛花及芭蕉。民家甚矮小。覆屋編扉。皆用椰葉。有繫網於二柱間。代榻用之者。又有垂竹簾者。室內多土床。與豕鴨同居。多支那人開廛。所鬻之果。曰黃彈。曰蒲桃。皆可食。土人皆嗜山子。一枚切爲四片。以蔞葉石灰幷嚼之。不復須劉穆之之金柈。故男女齒牙皆黑。山子者檳榔實也。婦女插梳。似我古代物。馭馬者皆黑人。首肩纏紅布。渡一川。有鐵橋架焉。入苑。草木皆偉麗。香港花苑。無此天然之色也。苑中蟬聲聒耳。出過佛兵屯舍前。有卒拔劒衞門。途逢一卒。左下肢挂假脚。又人一苑。多養動物。有鶴、孔雀、猩々、果然、虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈、蟒等。尤奇者爲巨鱷。鱗甲如老松幹。有池多蛙。聲若吹螺。午時歸舟。夜枕上有詩。暮天雨霽人忘熱。始覺舟中一枕安。夜半房奴吹燭滅。蟲聲喞喞迫窓寒。原聞地多蚊蚋。今殊不然。撿寒暑鍼八十五度。

初九日午前三時。發塞棍港。眠覺則既下河數十里矣。大風。至夜不歇。

初十日。風猶厲。多僵臥。不缺三餐耳。

十一日早。過麻陸岬蘇門答臘之間。山脈斷續。蜿蜒南北。波平如席。有詩。昨夜風生太苦辛。今朝風止笑顏新。人間悲喜何殊此。一日攢眉一日伸。午前八時。達星嘉坡。所謂新港。舟接埔頭。如塞棍港。沿岸多煤庫。有兒童乘舟來。請投銀錢於水中。沒而拾之。百不失一。舟狹而小。如刳瓜。嶺南雜記云。蛋戶入水不沒。每爲客泅取遺物。亦此類。午前十一時。倩馬車觀諸寺院及花苑。街上土色之赤。與塞棍同。多支那人。開廛鬻食。又挽腕車爲活。土人渾身黧黑。肩腰纏紅白布。女鼻穿金環。皆跣足。奉囘敎者。戴帽若桶。有牛挽車。肩峯突起。似駱駝。園多植椰子甘蔗。支那寺院。扁曰環州會舘。其他英佛禮拜堂。無足記者。入花苑。束盆樹作偶人。猶我菊偶也。憩於歐羅巴客舘。劣于香港客舘數等矣。午後三時歸舟。偶佛舶屋幾斯號入港。聞有日本客。徃見。錄其姓名如下。曰今村淸之助。曰福原允。並送陸奧宗光而歸者。曰圓中孤平。曰巖見鑑造。並商賈。晚餐後逍遥近岸。港口島嶼星羅。船燈萬點。々綴其間。盖此地麻陸一島。英人開港以扼支那印度兩海之咽喉。其盛固不待言也。有詩。聞說蠻烟埋水鄕。埔頭今見列千檣。英人應有點金術。塊鐵之頑乍放光。又日暮離舟立樹陰。隔林有寺送鯨音。兒童幾個膚如漆。蠻語啾々賣彩禽。是日發鄕書。寒暑針八十五度。

十二日。觀日出。紅輪離海。其大如盆。亦偉觀也。午前八時雨。九時發星嘉坡。舟行甚穩。

十三日。沿蘇門答蠟海濱進行。此地蘭人所領。聞其與土人戰。猶未止也。往年蘭軍攻閼珍。我林君紀在軍中。有閼珍紀行著。余會讀之熟。今對此境而想其人。憮然久之。閼珍者蘇門答蠟之都府。在其西北端。有詩云。萬里泛舟過蘇門。閼珍府城渺烟氛。憶曾林君奉明詔。奮身來從和蘭軍。由來爲醫道非易。知期愆期事紛々。况在兵馬倥傯際。措置從容建殊勳。林君生爲名閥子。氣象英邁自超群。西人手段看既透。條理井然胸裏存。歸來披圖奏天子。辯論稱旨官祿尊。自此屢閱邊陲變。君無遺策世所聞。我來慷慨遥決眦。水煙茫々罩夕曛。如今誰起紹雄志。當事醫林猶有君。嗚呼林君亦大丈夫得志者。其客死巴里洵可惜也。

十四日。入榜葛刺海。

十五日。風勁。見有魚群飛海面。碧背白腹。長尺許。

十六日。風益勁。

十七日。近錫蘭島。々英人所領。已而望椰林不知其幾十里也。有詩。印度洋波山樣大。飛魚幾隻似飛禽。今宵來近錫蘭島。十里靑烟椰樹林。午後五時望波殷徒噶兒港。

尼泪爾弗樹。不明。ニルジフ?

屋幾斯号。不明。オキシ号?

黃彈。黄皮。ワンピ。

蒲桃。プータオ。フトモモ。

山子、檳榔。ビンロウ。たばこのニコチンと同じ作用を持つアルカロイドを含むとされる。これを噛むと歯が黒く染まる。

劉穆之之金柈。劉穆之は中国の南北朝時代の人。「宋書」檳榔:

劉穆之少時,家貧,誕節嗜酒食,不修拘檢。好往妻兄家乞食,多見辱,不以為恥。其妻江嗣女,甚明識,每禁不令往。江氏后有慶會,屬勿來,穆之猶往。食畢,求檳榔,江氏兄弟戲之曰:「檳榔消食,君乃常饑,何忽須此?」妻復截發市肴饌,為其兄弟以餉穆之,自此不對穆之梳沐。及穆之為丹陽尹,將召妻兄,妻泣而稽顙以致謝。穆之曰:「本不匿怨,無所致憂!」及至醉,穆之乃令廚人以金盤貯檳榔一斛以進之。

昔貧しかった劉穆之が妻の兄の家に行って檳榔を頼んだ。檳榔は消化に良いのにいつもひもじい思いをしているおまえがなぜ檳榔を食べるのかとからかわれた。のちに劉穆之が偉くなったときお返しに檳榔を金の器に盛って出した、というような話。

星嘉坡。シンガポール。

嶺南雜記。吳震方という清朝の政治家が書いたものらしい。清朝の嶺南は広東、広西、ベトナム北部一帯を指す。

林君紀は林研海(林紀(はやしつな))。

閼珍はアチェのことと思われる。アチェ戦争はオランダがアチェ王国に侵攻した戦争。明治6 (1873)年–明治37 (1904)年。「閼珍紀行」については雑誌「鴎外」58を参照。

榜葛刺海。ベンガル海。

波殷徒噶兒。ポアン・ド・ゴール(Point de Galle)であろうと思われる。現在の地名はガル、もしくはゴール。

夏目漱石論

還暦を迎えて今更漱石とか鴎外を調べているのは個人的に調べる必要が出てきたからなのだがそれはともかくとして、鴎外に「夏目漱石論」という短い随筆があって、これで鴎外が漱石をどう思っていたかだいたいのことはわかる。随筆というよりはおそらく新聞記者か何かのインタビューで聞かれたから答えたというようなもの。漱石は何か計略や計算のようなもので売れてきたのか、漱石に対する評価は高すぎるか低すぎるか、などというあけすけな質問に対して、漱石に対する現在の評価は低すぎるので彼が今の地位にいるのは何かの企みではなく正真正銘彼の実力によるものだろう、などと言っている。鴎外はしかし漱石が書いたものをそんな真面目に読んでいるわけでもなく、通り一遍に知っているだけのようだ。漱石は金儲けに汲々としているかという質問に対して、そんな家庭の事情は知らないが、あまり金持ちになっていそうにも思えないと答えている。

漱石が小説を書き始めたのは生活の足しにするため、つまり小説を書いてそれを家計の足しにしようと思ったからに違いない(※追記「高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ」とウィキペディアにはある。また本業の気晴らしとして小説を書いたとも言われている)。新聞に掲載されるとどういうわけか非常に評判が良くてどんどん書くようになった。『吾輩は猫』も『坊っちゃん』も『草枕』も明らかにいわゆる新聞連載小説、通俗小説だ。

一方で鴎外は江戸初期から続く医者の家系であって、若い頃から漢詩も作っていて、蘭学も親から習い、ドイツ語も勉強し、非常な秀才であって、ドイツ留学から帰ってすぐに小説を書き始めたから、漱石よりも15年ほど早く本格的な作家活動を始めたわけだ。鴎外は別に売れっ子作家になろうと思ったわけではあるまい。軍医の仕事だけで十分暮らしていけた。鴎外から見れば漱石の漢詩にしても小説にしてもひよっこくらいに思っていただろうけど、漱石の小説が人気を博していて自分よりもある意味売れているのは事実として認めていただろうし、また漱石のことは紳士だと言っている。

「予が立場」というものもこれは記者に質問されたものがそのまま文章になったもののように思われるが、鴎外は世の中で誰が上で誰が下か序列を付けようとして大変迷惑しているのがわかる。この中で「少し距離のある方面で働いているのは夏目君に接近している二、三の人位のものでしょうか」と言っているのは、自分と漱石が働いている世界がかなり隔たっていることを言っている。世界が違うので比較のしようがないのに比較されて困っているともいえる。

私はといえばこれまで漱石も鴎外も愛読してこなかったくらいだから別にどちらが好きでも嫌いでもない。愛読したといえば中島敦とか小室直樹なんかのほうがずっと愛読したし、それより何より、頼山陽や本居宣長なんかを読んだ。芥川龍之介や志賀直哉なんかの短編も嫌いではない。

「なかじきり」と言う文で「叙情詩においては、和歌の形式が今の思想を容れるに足らざるを謂い、また詩(漢詩のこと)が到底アルシャイズム(archaism、懐古趣味、骨董趣味とでもいおうか)を脱しがたく、国民文学として立つ所以にあらざるを謂ったので、款を新詩社とあららぎ派に通じて国風振興を夢みた」などと言っていて、明治の人がそう思うのは仕方ないとして、アララギ派と親しくしたからには正岡子規とは親しかったはずだ。

鴎外はおそらく和歌はまったくわからなかったはずだし、大和言葉(擬古文)を操る能力もなかったと思う(それは漱石も同じだが)。漢詩に関してはずいぶん勉強してうまかったはずだが、やめてしまった。鴎外はしかし樋口一葉の小説の面白さは理解していたから、間接的にではあるが和歌や和文の面白さがわからぬ人ではなかったのだろう。ファウストの訳などみるに、どうもあれはやっつけ仕事に思える。しかし鴎外のほかまだ誰も訳していなかった時代に初めて訳してみせたのだからそれは偉いと思う。鴎外訳を下敷きにしてあまたの人がファウストを訳してみようと思わせただけでも偉いといえば偉い。何しろ鴎外は仕事が多すぎる。結局手当たり次第に手を付けて何がやりたいのかどうしたいのか本人にもわからなかったのではなかろうか。一つ一つの仕事はそんなすごくないと思うのだが、何しろ一通り読んでみるには時間がかかりすぎる。

航西日記4

9月1日、夜明けに港を望む。市街は山が迫り海に面している。区画は上環中環下環の三つに分かれている。家はみな石造りである。その清らかで汚れのない石は香港の山の中で採れるという。午後4時、はしけ舟を呼んで上陸する。駕籠を頼んで領事館へ行く。領事館は上環にある。坂道ははなはだ険しい。石畳に階段を作っている。領事館で晩餐する。魚膾・米飯・瓜の漬物などが饗される。10日間洋食ばかりで食べ飽きていたのでありがたい。中尉島村千雄が領事館にいて、清仏戦争の戦況を詳しく話してくれた。一緒にイギリス兵の屯舎を見に行くことを約束する。島邨は土佐の人、昔、萩原と知り合いであったという。舟に帰って宿泊する。盗難に遭うことを恐れるためである。おそらく香港の名はもとはポルトガル語の「盗賊」に由来するのだろう。清国の人がその音を今の字に当てたのである。王紫詮が言うに、山の上には泉が多く、甘く清いことは、よその土地とは異なっている。これによって香港というのではないかと。王紫詮はポルトガル語を知らないのでそのような説を言うのだ。この日、故郷に手紙を出す。寒暑針はカ氏85度。

2日、花の庭園に遊ぶ。その庭園は非常に大きくて上環にある。門に入ると緑が衣を透すようで、紅紫の花々に目がくらむようだ。サボテンの類いは驚くほど大きいものがある。檻の中に孔雀・鸚鵡・猿、鹿などを養っている。市街に足を伸ばし、坊門や看板を見る。皆その筆法はうるわしくなまめかしくたおやかである。香港のホテルで晩餐する。領事館の記室書記官が二人来て会う。一人は町田實一という人、もう一人は田邊貞雄という人。田邊もまたメンブレ号に乗ってホテルに来た者で、ドイツ語を解するので、快談して気張らしし、船に帰って寝た。

3日早朝に領事館に行く。島村とともにイギリス兵の屯舎を見ようと思ったのである。町田が言うには、昨日使いを遣わして、屯舎にいた某中佐にその意志を伝えたのだが、いまだその返事がないと。領事館で昼食をとる。にわか雨があった。

午後4時、返事が来る。行って見ることを許される。そこで駕籠を雇って療養病院に至る。時刻が遅すぎて屯舎を全部見るヒマがない。島村は理由があってこなかった。ただ丹波だけが同行した。病院は下環の南にある。規模はそれほど大きくない。下医の貝堀氏が迎えて診察室に入れてくれた。半時ほど話をしながら各区を巡覧した。実際に病兵が10人ほどいた。みんなインド人であった。200人のインド人から病にかかる比率を計算すると、100人に5人の割合である。その病は熱症が最も多い。下痢がこれに次ぐ。性病にかかるものは一人もいない。病室は三区に分かれ、区ごとに10のベッドを置く。2列に分けて2つのベッドごとに1つの窓がある。窓に上下の口がある。上が小さく下が大きい。部屋の隅には換気のための箱が設けられている。箱の側面は鎧戸に似ている。下の面に蓋があって開くことができる。部屋に麻のすだれがあり、船の中と同じである。支那人の小間使いがいて部屋の外で縄を引いてこのすだれを動かす。医者に、患者一人当たりの空気の容積を問うと、曰く、約1200立方尺であると。はなはだしく差があるわけではなさそうだ。診視治療の方法を問うが、特に言うべきこともない。その病名を名付けるのも非常におおざっぱだ。一つの病床日記があり、単に熱症と記載している。どんな熱かと問うても答えることができない。避病室があり、ベッドは2つ入っている。平病室とわずかに一つの壁で隔てられているだけだ。癩狂室は無い。発狂した兵がいたらこれを船に送るという。看護室に入ると兵卒が数人いて起立して礼をした。服装はきれいで垢に汚れた者はいない。厠を見ると普通の水洗であるが、臭気はない。廊下の一隅に濾過装置を置いている。また盥漱室がある。他には特に異なるところはない。薬局は病院と別に作られている。見終わってたまたま外科医長の末克耶烏殷氏が来て面会した。船で浮動病院というところへ行くとそれは巨大な船であった。船の中は甲板を除いて四層になっている。第一と第二層に病兵を入れている。層ごとに60台のベッドがあり、2列に分かれている。ベッド2つあたりに窓が1つあるのは療養病院と同じである。ただし、患者一人当たりの面積は療養病院の2倍ある。天井が低いためである。一番後ろの区は癩狂室であるが、ベッドが1つあるだけである。私は便器がないのをあやしんで問うてみたところ、平病のものと同じ厠があると。看護の兵卒が数人で助け合って看病している。船の中には現在病兵が50人いる。みんなイギリス人である。イギリス人1200人から病に罹る割合を計算すると100人に4人である。その病は梅毒と淋病が最も多く、熱症がこれに次ぐ。医官室、看護室、薬剤器械室、図書戯玩室、みな第一と第二層にある。浴室、便所もまたそうである。第三層は病兵の服や剣などをしまっており、下士官がこれを守っている。第四層には水を蓄えている。甲板には水兵室、厨房、役夫室がある。一隅に大きな鉄の箱が並んでいて、浄水を蓄えている。見終わり、挨拶して陸に上がる。すでに日が暮れていた。はしけ舟を呼んでフランス船楊子号に行く。同行の者たちは先にここに来ていた。荷物を収めて眠りに就いた。耶烏殷氏と面会したときに、病兵の中で足にむくみがあるものがいるかを私は問うた。脚気の有無を知りたかったからである。耶烏殷氏が言うには、はなはだ稀であると。しかしながらたまたま維新日報を読んだら、岡州の某医師の報告があって、もっぱら脚気を治療していると言っている。おそらく港にいる支那人は多くがこれを患っているのであろう。

4日午後、香港を出発する。港にいるうちに詩を二つ作った。

アヘン戦争当時のことはすでにはるか昔のこととなった 
時勢の移り変わりは喜びもあり憂いもある
誰が予測しただろうか、この草深い荒れ地が
イギリス人に与えられて幾万もの船を停泊させることとなろうとは
故郷へ送る手紙を書き終えると心はひどく寂しい 
重なり合った山々に霧が立ち上るのを座ったままみている
日は落ちても夕日はまだ波間に残っている
小舟がやってきて芭蕉の実を売っている

5日、海上に見るもの特になし。

6日、ベトナムの山並みを過ぎる。詩を作る。

安南の山の下に船が多く浮かび過ぎていく 
振り返り眺めているときりがない
辺りを見回して大昔の遠征のことを思う
雲のいずこに伏波将軍を弔おうか

安南とは交趾のことである。その俗は両足の親指をそれぞれ曲げて向かい合わせるのでその名がある。その說は「安南紀遊」に出る。

本文

九月初一日。天明望港。市街倚山枕海。區畫層々。分爲上環中環下環。家皆石造。皎潔若雪。石香港山中所產云。午後四時呼三版登岸。倩輿至領事署。署在上環。阪路甚峻。鋪石設級。晚餐於署。有魚膾米飯醃瓜等之饗。足以一洗十日喫洋饌之口矣。中尉島邨千雄在署。語淸佛戰况甚詳。約俱觀英兵屯舍。嶋邨土佐人。曾與萩原相識云。歸宿舟。恐盜也。盖香港之名。原出葡語。盜賊之義。淸人塡以今字。王紫詮曰。山上多泉。甘洌異常。香港之名或以是歟。紫詮不識葡語。故有此說。此日發鄕書。寒暑針八十五花度。

初二日。遊花苑。苑頗大。在上環。入門則碧翠透衣。紅紫眩目。霸王樹之類。有偉大可驚者。有檻畜孔雀鸚鵡猨鹿等。出步市街。見坊門招牌。皆筆法斌媚。晚餐於香港客舘。領事署二記室來會。曰町田實一。曰田邊貞雄。田邊亦乘綿楂勒舶來舘者。主解德國語。快談遣悶。歸宿舟。

初三日早。至領事署。欲與嶋村俱觀英兵屯舍也。町田曰。昨遺使吿意於在舍中佐某。未得其答書。午餐於署。驟雨。午後四時答書至。許徃觀。乃倩輿至停歇病院。以時已晚。不暇遍觀屯舍也。嶋村有故不行。唯丹波同行。院在下環之南。規模不甚宏大。下醫貝屈氏迎入診室。交語半晌。已而巡覽各區。現有病兵十人。皆印度種。以其全員二百。算其罹病比例。則爲百之五。其病熱症最多。下利次之。絕無染花柳病者。病室三區。每區置十牀。分爲二列。每二牀一窓。々有上下口。上小下大。室隅別設換氣方筐。々之側面。似我鎧戶。下面有盖可開闔。室垂麻簾。與舟中同。有支那奴在室外引索動之。問醫每人所領之空氣容積。曰約千二百立法尺。似不甚差者。問診視治療之法。無復足言者。其命病名甚疎。有一病牀日誌。單記熱症。問何熱。不能答也。有避病室。可容二牀。與平病室。僅隔一壁。無癲狂室。有兵發狂。送諸舟中云。入看護室。有卒數人。起立作禮。服裝鮮美。無垢汚者。見厠。尋常水圊耳。然無臭穢氣。廊之一隅。置漉水器。又有盥嗽室。無他異。藥局則別築之。觀畢。偶外科醫長末克耶烏殷氏來接。飛艇至浮動病院。則一巨舶也。舶內除艙板之外。分爲四層。第一二層病兵居之。每層置六十牀。分爲二列。每二牀一窓。與停歇病院同。唯一人所領之面積則倍之。以縱尺小也。最尾一區。爲癲狂室。亦置一臥床耳。余恠無便器問之。曰圊與平病者同之。看護卒數人扶掖而上。舶內現有病兵五十人。皆英人。今以其全員千二百。算其罹病比例。則爲百之四。其病則黴之與淋爲最多。熱症次之。毉官室、看護室、藥劑器械室、圖書戲玩室。皆在第一二層之間。浴室厠圊亦然。第三層藏病兵衣劔等。有下士守之。第四層貯水。艙板則有水兵室。有割烹室。有役夫室。一隅排列巨鐵函。以貯淨水。觀畢。辭別上岸。則日已旰矣。呼三版至佛舶揚子號。同行諸子皆先徒在此。安頓行李就眠。余之接耶烏殷氏也。問病兵中有腿脚水腫者否。驗脚氣之有無也。耶烏殷氏曰。甚稀。然偶讀維新日報。有岡州醫某吿文。謂專治脚氣。盖支那人在港者多患之。

初四日。午時。發香港。在港間有詩二首。開釁當年事悠々。滄桑之變喜還愁。誰圖莽草荒烟地。附與英人泊萬船。家書艸罷意凄然。坐見層巒烟霧起。日落餘光猶在波。扁舟來賣芭蕉子。

初五日。海上無所見。

初六日。過安南山下。有詩。安南山下蘯船過。顧望不堪應接多。囘首遠征千古事。烟雲何處吊伏波。安南則交趾。其俗兩足大趾。交曲相向。故取名。說出安南紀遊。

三版は三板、あるいは舢舨。小型船のことであろう。長崎でもサンパンと呼んでいた。

輿とは、神輿のように担ぐものではあるまい。駕籠か、あるいは人力車のことではないか。とりあえず駕籠と訳しておいた。

上環中環下環。西から東へ並ぶ。下環は今の湾仔(ワンチャイ)

清仏戦争は明治17 (1884)年と明治18 (1885)年に起きた。フランスによるインドシナ侵攻はアヘン戦争が起きた1840年頃から始まり、ベトナムに対する宗主権を巡り、1884年8月中旬、和平交渉は決裂、清国とフランスの間で戦争が勃発した。

岡州、かつて広東省にあった地名。

伏波将軍は馬援。後漢の光武帝によってベトナムに派遣されこの地で病没した。

交趾とは、中国がベトナムに置いた郡。

航西日記3

29日、何事もなし。日東十客歌を作る。曰く、

大きな船を浮かべて長波を渡る 
日東の十客は実に興味深い
田中は快談して山岳を揺るがす
飯盛は痛飲して江河を飲み尽くす
穂積と長与は乙女のような
華奢な体付きで薄衣にも堪えないといった風情である
宮崎はいつも考え込んでいる
彼と片山は同じ科目を学んでいる
隈川はフランス語会話を学び操り
月日が飛ぶように過ぎ去るのを惜しんでいる
丹波はまるで覇気がなく
波風に遭うたび憔悴している
萩原はいくら歌っても情を尽くすことがなく
滑らかな声で子夜歌を歌うのはどうしたことか
ただ独り森だけがのどかにくつろいで
いびきは雷のようだが誰も敢えて叱ろうとしない
何年か後に欧州遊学を終えて 帰国した後
皆の面目は果たしてどうなっていることか

30日、福建を過ぎ、台湾を望む。詩を作る。

歴史に永久に名を残した 
鄭成功の業績は論じるまでもない
今朝はるか遠くの台湾の雲山の影を指さす
当時の鹿耳門はどのあたりだろうと

また、

絶海の巨船は凱旋して帰る 
果断一挙に 物わかりの悪い連中を破ったのだ
戦で亡くなった兵士らを哀れむ
その骨は瘴気に満ちた蛮族の地に埋もれている

アモイ港の入り口を過ぎると二つの島が並んで立っているのが見える。その名を問えば、兄弟島であるという。感じるところがあって詩を作る。

ひとたび故郷を出て大海原を渡り 
アモイ港の入り口でひどく心をいたませている
二つの島が波間に立っているのを私独り哀れんでいる
船人らはこの二つの島をわざわざ兄弟と呼んでいる

この日、船の中で体を洗う。

31日午後10時、香港に着く。まばらな灯火が近づくほどに多くなっていく。ほぼ神戸に似ている。夜、驟雨のために船に宿る。横浜からここに至るまで、約1600海里、船の中で雑詩を作った、ここに記す。

船旅中は家にいるときのように忙しくはない 
睡眠も十分に足りて窓に夜明けの光を見る
鐘が数回鳴って私に起きろという
給仕が来て香り高い茶を勧める
山海の珍味がうずたかく積まれている
寒い部屋で一人あざわらっていた貧しかった頃を思い出す
小間使いが来て縄を引いて二つの扇を揺らし
私の頭の上から涼風を送ってくれる

およそヨーロッパの船舶の食堂では、テーブルの脇に二枚の麻のすだれを吊るし下げて、テーブルを白衣で包む。すだれごとに綱をつないで、小間使いにこれを引かせる。ひっぱったり緩めたりすれば麻のすだれが揺らぎ動いて、扇をあおぐようになる。詩の中で二つの扇と言ったのはこれのことである。また後で香港のホテルや療養病院にもこれを設けているところを見た。

本文

二十九日。無事。作日東十客歌。曰泛峨艦兮涉長波。日東十客逸興多。田中快談撼山嶽。飯盛痛飮竭江河。穗也長也如處女。淸癯將不勝輕羅。宮崎平生多沈思。與也片山是同科。隈川學操法國語。孜々唯惜日如梭。丹波何曾無豪氣。每遭風濤卽消磨。底事老萩情未盡。滑喉唱出子夜歌。獨有森生閑無事。鼾息若雷誰敢呵。他年歐洲遊已遍。歸來面目果如何。

三十日。過福建。望臺灣。有詩。靑史千秋名姓存。鄭家功業豈須論。今朝遥指雲山影。何處當年鹿耳門。絕海艨艟奏凱還。果然一擧破冥頑。却憐多少天兵骨。埋在蠻烟瘴霧間。過厦門港口。有二嶋竝立。詢其名云兄弟嶋。有感賦詩曰。一去家山隔大瀛。厦門港口轉傷情。獨憐雙嶋波間立。枉被舟人呼弟兄。此夕洗沐于舟中。

三十一日。午後十時抵香港。燈火參差。漸近漸多。略與神戶似。夜驟雨宿舟。自橫濱抵此。約千六百海里。舟中得雜詩二錄左。舟中不似在家忙。眠足窓前認曙光。鳴鐸數聲催我起。薦來骨喜一杯香。山肴海錯玉爲堆。囘想寒厨獨自咍。有奴引索搖双扇。自吾頭上送凉來。凡西舶食堂。當卓之處。弔下二麻簾。包以白布。每簾繫索。使奴引之。一緊一弛。則麻簾搖動。如揮扇然。詩中所謂雙扇卽是。後見香港客舘及停歇病院亦設之。

日東十客とは森鴎外を含む10人の留学生を言う。

鹿耳門とはオランダが占領していた台湾に鄭成功が船で攻め入り上陸した地点。

航西日記2

24日午前7時30分乗船する。船舶名はメンザレ号、フランス人の所管。私と共に洋行する者は、およそ9人。穗積八束という人は伊豫の人で、政治を学びに行く。宮崎道三郞という人は伊勢の人で法律を学びに行く。田中正平という人は淡路の人で物理學を学ぶ。片山國嘉という人は駿河の人で裁判医学を学ぶ。丹波敬三という人は攝津の人で裁判化学を学ぶ。飯盛挺造という人は肥前の人で物理學を学ぶ。隈川宗雄という人は福嶋の人で小兒科を学ぶ。萩原三圭という人は土佐の人、長與稱吉という人は肥前の人、この二人は普通医学を学ぶ。
見送りの者らはすでに解散した。9時に横浜を発つ。別れに臨んで詩2首を作る。曰く、

港の夜は明け、水柵が見えてきて、警備の拍子木が聞こえる 
楼閣の歌が止んだかと思うと、再び杯を傾けている
広々とした海原に波しぶきが立ち、気分は爽快だ
すばらしい、この小さな船で万里の旅に出るのだ

また、

顔を見合わせて涙を流す必要は無い 
西と東に遠く離れていても人の世の中に違いはない
林おじさんが昔言っていたことを覚えているか
品川の海は大西洋につながっているということを

林おじさんとは林子平のことである。夜中に遠州灘を過ぎ、富士山が雲の上に突き出しているのを望む。詩を作る。

荒波が船を揺るがし、傾けてはまた平らにする 
遠州灘に日が落ち、旅愁を生じる
突然空のかなたに富士山が現れ
船に乗り合わせた日本各地の者たちの間に早くも友情が芽生える

25日、波風が大いに起こり、苦しんで寝込む。詩を作る。

船酔いで一日中食べることができない 
当分、すきっぱらに酒を注いで船酔いをまぎらすしかない
旅客らはみな悩み苦しんで一言もしゃべらない
ただ狭い船室の中で波の音を聞いている

26日午後、風がやや止む。

27日、薩摩の南を過ぎる。詩を作る。

遠くの山はもはや目をこらさなくては見えない 
同行の仲間を呼んでやぐらに登る
波の間に陸地は沈んでもはや周りは空と海の青しかない
これからもう日本の島々を見ることはないのだ

28日、船旅ははなはだ穏やか。終日甲板に寝ている。天幕で日差しを遮り、竹のベッドに寝そべっているのは至極快適だ。柴田承桂が言う、竹のベッドは航海中の良き友であると。まさにその通り。

本文

二十四日。午前七時三十分上舶。々名緜楂勒。佛人所管。與余俱此行者凡九人。曰穗積八束伊豫人。脩行政學。曰宮崎道三郞伊勢人。修法律學。曰田中正平淡路人。修物理學。曰片山國嘉駿河人。修裁判醫學。曰丹波敬三攝津人。修裁判化學。曰飯盛挺造肥前人。脩物理學。曰隈川宗雄福嶋人。修小兒科。曰萩原三圭土佐人。曰長與稱吉肥前人。並修普通醫學。送行者已散。九時發橫濱。臨別得詩二首。曰水柵天明警柝鳴。渭城歌罷又傾觥。烟波浩蕩心胸豁。好放扁舟萬里行。何須相見淚成行。不問人間參與商。林叟有言君記否。品川水接大西洋。林叟者謂子平也。晚過遠洋。望富嶽突兀雲表。有詩。駭浪搖舟々囘平。遠洋落日旅愁生。天邊忽見芙蓉色。早是殊鄕遇友情。

二十五日。風波大起。困臥。有詩。終日堪憐絕肉梁。且將杯酒注空膓。苫船一旅悄無語。只聽濤聲臥小房。

二十六日。至午風稍止。

二十七日。過薩南。有詩。遠山髣髴耐凝眸。呼起同行上舶樓。波際忽埋靑一髮。自斯不復見蜻洲。

二十八日。舟行甚穩。終日臥艙板上。布盖遮日。竹床支體。快不可言。柴田承桂曰。竹床者航海中良友也。果信。

メンザレ号、フランス船籍の郵便船。明治20年に上海沖で沈没したという。スエズ運河にMenzaleh湖というものがある。おそらくはこれにちなむ。