エルトゥールル

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。
エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。

英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬とともに移動した。
そこでルームセルジュークの王によって武将に取り立てられて、東ローマ帝国との国境を任地として与えられたという。
1230年ということは、フビライが死んでオゴデイがモンゴルのハーンになったばかり。
バトゥによる西征が始まるよりも前である。
あるいは、1230年というのは概数であって、
エルトゥールルはバトゥのヨーロッパ遠征軍の中にいたのかもしれない。

なんか面白いなあ。

だいたいこんな具合ではないか。
エルトゥールルはバトゥとともに西へ向かった。
1241年にオゴデイが死ぬと、エルトゥールルも故郷のメルヴに帰ろうと思った。
しかし、バトゥがカスピ海沿岸のサライを都としてキプチャクハン国を建てると、
エルトゥールルも帰国を諦めてアナトリアで同族のルームセルジュークに仕えることにした。
まあ、曖昧な伝承しかないそうだから、このくらい脚色してもよかろう。

1157年にサンジャルは死去する。
彼には女子しかいなかったことになっているが、
その娘の中の一人がエルトゥールルを産んだ、とかいう話にすると面白そうだな。
『セルジューク戦記』の続編で『オスマン戦記』でも書くかね。
たいへんだなあ。

ある意味、チムールみたいな人だな。
エルトゥールルとチムールを対比させながら書いてみると面白いかもな。
あ、時代がまったく違ってた。
チムールの方が百年後だわ。

セルジュークの系譜

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。
このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、
Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジュークの子孫といわれている。

アナトリア定住はセルジューク朝のスルターンであるアルプ・アルスラーンが東ローマ帝国をマラズギルトで破って以来進んだということになっている。

しかし、ほんとだろうか。
一番気になるのは、Israel、Yunus、Musa、Mikailなどの名前が、
セルジュークの家系の中で浮いているということだ。
Yunus はアラブ語で、日本語訳聖書的に言えば「ヨナ」のこと。
英語では Jonas など。
Musa はモーセのこと。
スレイマーンはソロモンのことだが、スレイマーンという名前は、
おそらくは中東のキリスト教からイスラム教に入ってアラブ語化したものであり、
ユダヤ人に限らず、アラブ人にも多く見られる名前である。
ユヌスもそうだろう。
セルジューク王族の名前が、トルコ語由来ではなく、
アラブ語由来のユダヤ系の名前であってもおかしくはない。
他にはダーヴード (David、ダビデのこと)などがある。
しかし、それはアラブ世界に侵入して、
首長がスルターンと呼ばれるようになった後のことのはずだ。
もし彼らがトゥルクメニスタンやキプチャクから来たのであれば、当時はトルコ語由来の名前でなくてはおかしいのではないか。

セルジュークは伝説の人であるし、その四人の息子も名前しか伝わってない。
しかし、Mikailの子のチャグリー・ベクやトゥグリル・ベクなどはかなり詳しい伝承が残っている。

思うにルームセルジュークの始祖はセルジュークの家系とは直接関係ないのではないか。
トルコ民族はすでにキプチャク平原に広く移住してきていた。
あの辺りは当時は人口密度はほぼゼロに近く、定住する都市というものもなく、
あったとしても千人を超えることはまれだっただろう。
だから、遊牧民族が侵入してきて、ここは俺の国だと宣言するだけで国が作れたのに違いない。
アナトリアに侵入してきたのもルームセルジュークが最初ではなかっただろう。

たまたまモスルやアレッポなどのシリアの都市を征服したアルプ・アルスラーンが、
義侠心によって、アナトリアに居た同族(母語を同じくする人々)の加勢をした。
それがたまたまローマに圧勝した。
それでトルコ人のアナトリアへの入植が加速した。

クタルミシュなどの、ルームセルジュークの祖が、セルジュークの子孫である必然性が何もないのである。
一方、アルプ・アルスラーンはおそらく本当にセルジュークの子孫であり、
ホラサーンからわざわざシリアまで遠征したのに違いない。
バグダードでアッバース朝カリフからスルターンの称号をもらったというのも、まずほんとうのことだろう。
史実の濃密さが違う。
一方クタルミシュの家系はただ名前が羅列されているのに過ぎず、
伝説以上のものではなかろう。
アルプ・アルスラーンを参戦させるためにセルジュークの子孫である、と主張するくらいのことはしたのかもしれない。

オスマンは、セルジューク朝の成立以後もキプチャク平原に残っていたオグズの出身で、
彼らの一族はモンゴル族に圧迫されて西へ移動したらしい。
後にアナトリアに侵入し、ここで他のトルコ民族を糾合したのだろう。

ユニバーサルスクロールではまった。

左手でトラックボールを操作して上下左右にスクロールして、右手でペンタブのペンを持って、
あと、intuos4のホイールでズームしようと思ったのだが、なかなかうまくいかない。

まず、ロジテックの setpoint 6.32 というのが、何度やってもインストールに失敗する。
仕方ないので、4.80という古いやつを拾ってきたのだが、新しいのがすでにインストールされているから、
インストールを終了しますと言って、インストーラーが動いてくれない。
windows の普通の方法でアンインストールしてもダメ。

で、ネットで検索してみると、同じことで悩んでいる人は割といるようで、
regedit で logitech で検索かけて全部消せとか言ってるのでやってみたら、
なんとか4.80をインストールできた。
6.xx というのは要するにオンラインインストールができるというだけで、
4.xx と大して違わないらしい、と思われる。

で、いろんなアプリケーションでためしてみたのだが、
ブラウザや表計算ソフトなどでは割とまともにこのユニバーサルスクロールってやつが機能するのだけど、
肝心のグラフィックソフトでは、スクロールして欲しいときに領域を移動してしまったり、
マウスホイールではズームしてくれるのにintuosのホイールではしてくれなかったり、
と、なかなかうまくいかない。
こういう操作の複雑なやつの場合きちんとチューニングできないと結局使えないということになってしまう。
でも、それなりに便利なのでトラックボールとペンタブの両刀遣いでこれからやっていこうとは思う。
ちゅうかね、ワコムがトラックボールごと開発して、統合的にチューニングできるようにしてくれんかね。

なるほどなあ。
ユニバーサルスクロールは矢印キーにバインドされているんだな。
だからexcelやfirefoxなどでは思ったように動作するが、
photoshop なんかだと、矢印キーは「移動」に割り当てられていて、
「スクロール」には割り当てられてないんだなあ。
なんかやっかいだな。

scroll lock キーを押してもだめ。

うーん、どうやら、ズームとパンは、
トラックボールを使うよりは、左手でショートカットキーを使う方がましな気がしてきた。
ズームは Ctrl + と Ctrl – で、
パンは H。
トラックボールは純粋に矢印キーの代わりに使うのが良さそうだ。
でもそれなら最初から矢印キー使ってればいいじゃん、という話になりそうだなあ。

しわい

あれ、「しわい」は方言ではなくて普通に「けち」と言う意味の古語だと思って調べてみると、
岩波古語辞典によれば『驢鞍橋』という、鈴木正三の言行を弟子が記録したものに出るらしい。ということは、江戸初期くらいからの言葉だろうか。

養子

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。
例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、
養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。

独身で子供がいない、ということは当時としては滅多になかったようだが、
実子がいない、
実子がいても娘しかいない、
実子はいたが早死したり病気だったりして嫡子にはなれない、
あるいはなんらかの理由で廃嫡した、
などということはしばしばあった。

息子はいないが、娘はいる場合には、婿養子を取る。
その場合も通常は親戚の男子を優先するのだろうが、
特に学問や芸能の家の場合には、有能な弟子を婿に取ることが多かったようだ。
娘もいない、親戚にも適当な子がない場合は、
まったく赤の他人を養子にすることもあったように思われる。
その際には、赤の他人が赤の他人の嫁をもらう、というのではなく、
親戚の娘を養子にしてその婿養子をとるとか、
あるいは養子に親戚の娘を嫁がせるとか、
そんな工夫をしたのではなかろうか。

ともかくそういう具合に養子で成り上がった人というのが少なくない。
家というのが重要かつ根本的な社会組織であり、
そこには家業とか所領とか財産とか株とか組合など、誰かに相続しないわけにはいかない資産が付随する。
一方では子沢山な家庭があり、
他方では子宝に恵まれない家があり、
かつ家業の優秀な後継者が欲しいという状況では、
さかんに養子縁組が行われてきたのだろう。
一度養子制度というものをきちんと調べる必要があると思う。

王家

天皇家を王家という言い方がどうかというので盛り上がっているようだが、
『日本外史』に限って言えば、

> 先王の必ず躬ら之を親らしたまふは、其の旨深し。

> 吾外史を作り、はじめに源・平二氏を敍するに、未だ嘗て王家の自ら其の権を失ひしを歎ぜずんばあらず。

> 吾は王族なれば、当に天子と為るべし。

> 我、平治年間より功を王室に建て、天下を專制し、位、人臣を極め、帝者の外祖と為る。

> 汝、王命を奉じて乱賊を討ち、兵を交へずして帰る。

などのように、天皇を「王」と呼ぶことは極めて普通。
漢文にはそういう風習がある。
また、

> 平氏は桓武天皇より出づ。

のように、「天皇」という呼称を使うこともある。
ただし、普通「王」といえばそれは「親王」のことを意味するから、天皇を単に王と呼ぶことはあり得ない。
「王命」とか「王室」のような熟語の中で使われるだけだ。
他には「上皇」「院」「法皇」なども普通に使われている。
天皇を「日本国王」と呼ぶことも忌避されるだろう。
というのは、これは慣習的には「中国皇帝」の臣下としての呼称であり、
足利義満もそう呼ばれていたからだ。

思うに、「王家」という言い方は少し漢文的・儒学的であり、口語で使われることはまずなかっただろう。
公家の日記も漢文だから、使われていた可能性は高い。
公式文書では「王家」や「王族」などが簡潔で好まれたのではなかろうか。
「皇室」や「皇族」などという用語はあまり使われなかったのではなかろうか。

大和言葉なら、天皇家の血統という意味なら「あまつひつぎ」だろうか。かなり堅苦しいが、他にあまり思いつかない。
じゃあ普段の話し言葉ではなんと言っていたか。
さあ、わからない。
だが、現代語で話すドラマなのだから、現代人の口語に準じればよいだけではなかろうか。

ガエータ

[google earth 画像の使用](http://support.google.com/earth/bin/answer.py?hl=ja&answer=21422)
によれば、

> Google のロゴの帰属を含む、著作権および帰属を保護するという条件で、このアプリケーションからのイメージを個人的に (ご自身のウェブサイト、ブログ、またはワード文書などで) 使用することができます。

ということなので、どんどん使わせてもらう。

ガエータなんだけど、google の航空写真では、城塞の部分がちょうどつなぎめになっていて、
二重にぶれたようになってしまっている。

それで適当に重ねてみると次のようになる。

複雑な形をしているのだが、
おおまかには、
中庭をもつ二つの矩形の砦がくっついたような構造になっていることがわかる。


ガエータは全体としては函館のような地形をしていることがわかる。
その突端に砦があった。
また港は軍港であって、アメリカ海軍の母港にもなっている。
米軍にとってはイタリアの首都ローマ最寄りの便利な港だろう。
日本の横須賀みたいなものか。



で、それを適当に加工してトレスして絵を描こうかと思ったがなかなか難しく断念した。

マラズギルト

[Battle of Manzikert](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manzikert)や
[Alp Arslan](http://en.wikipedia.org/wiki/Alp_Arslan)、
[Roussel de Bailleul](http://en.wikipedia.org/wiki/Roussel_de_Bailleul)
などを丹念に読んでわかることは、マラズギルトの戦いというのは、
残された記述には矛盾や不完全なことが多く錯綜しているということと、
史実のまま小説にしてもごちゃごちゃしすぎてあまり面白そうではない、ということだ。
だから適当に脚色するしかないと思うが、一応史実は史実としてきちんと把握しておかねばなるまい。

> In 1071 Romanos again took the field and advanced with possibly 30,000 men, including a contingent of the Cuman Turks as well as contingents of Franks and Normans, under Ursel de Baieul, into Armenia.

> Ursel de Baieul was a Norman adventurer (or exile) who travelled to Byzantium and there received employ as a soldier and leader of men from the Emperor Romanus IV.

> he was was sent into Asia Minor again with a force of 3,000 Franco-Norman heavy cavalry.

クマン・トルコとはキプチャク平原にいたトルコ人。
後は、フランク人とノルマン人の傭兵。
ウルゼルはノルマン人の隊長。ノルマンディから逃げてきたか旅してきた。
おそらくライン川とドナウ川をたどってコンスタンティノープルまで来たのだろう。
ロマノス軍は、東ローマ人、トルコ人、フランク人、ノルマン人などで構成されていた。

> At Manzikert, on the Murat River, north of Lake Van, Diogenes was met by Alp Arslan. The sultan proposed terms of peace, which were rejected by the emperor, and the two forces met in the Battle of Manzikert. The Cuman mercenaries among the Byzantine forces immediately defected to the Turkish side; and, seeing this, “the Western mercenaries rode off and took no part in the battle.” The Byzantines were totally routed.

フランク・ノルマンの傭兵は参加しないだろうと見たトルコ傭兵はセルジュークに寝返ったとある。

Manzikert はギリシャ語であり、トルコ語では Malazgirt、イラン語では Malāzgird または Manāzgird、
アラビア語では Manāzjird などとも言うらしい。
いずれにしても、このアナトリアともアルメニアとも言うべき土地は、古代ギリシャ人が住んでいた場所からはかなり外れており、
地名をギリシャ語読みにしなくてはならない義理はない。
よくわからんのでマラズギルトで良いのではなかろうか。マラズギルドと書いても間違いではない。

気になったのは、マラズギルトからアララト山は見えるかということだった。
近頃は現地に行かなくても google earth でだいたいの眺望は把握できる。
マラズギルトはヴァン湖の北、ムラト川のほとりにあるというが、
google map で見ると、山から幾つかの川が流れでて、平原で合流する辺りにマラズギルトの町はある。
アナトリア高原の中の扇状地のような場所だろう。
で、おそらくアララト山は見えるのだが、160km は離れている。標高5000m あっても、少し遠すぎる。
たぶん東京から富士山を見るくらいの大きさである。


マラズギルト要塞の場所には、当時の城塞跡かは知らないが、記念公園があるようだ。
アララト山は見えないが、東の、ヴァン湖の近くに大きな[Mount Süphan](http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_S%C3%BCphan)
という山が見える。
これはアナトリアでアララト山の次に高い山だそうだ。


アフラートは、ヴァン湖畔にあり、マラズギルトはそこから北へ、そうとう険しい山岳地帯を越えて 50km くらいのところにある。
アフラートからマラズギルトへ救援に向かうには、二日か三日はかかるだろう。
左図の一つ目は、google earth で、正面に東のシューファン山、右手にヴァン湖があって、
マラズギルト(左)とアフラート(右)を線で結んだものである。

二つ目はヴァン湖畔のアフラートから山を越えてマラズギルトを見たものであり、山がそうとう険しいことがわかる。

[Ahlat](http://en.wikipedia.org/wiki/Ahlat)

> Ahlat and its surroundings are known for the large number of historic tombstones left by the Ahlatshah dynasty.

アフラートにはマラズギルト戦後にセルジューク朝による大規模な入植があった拠点の一つ、
少なくともセルジューク王族の都の一つのように思われる。
ロマノスはアフラートへ[Joseph Tarchaneiotes](http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Tarchaneiotes)を派遣した。
彼の軍勢がどうなったかはわからない。
アフラートを取ることもなければ、マラズギルトに向かいもしなかった、
ともかく行方不明になってしまったようだ。

> Romanos was unaware of the loss of Tarchaneiotes and continued to Manzikert, which he easily captured on August 23

1071年8月23日、ロマノスはタルカネイオテスが行方不明になってしまったことを知らぬままマラズギルトを簡単に落とした。

> The next day some foraging parties under Bryennios discovered the Seljuk army and were forced to retreat back to Manzikert.

翌24日、先遣隊がセルジュークを発見し、マラズギルト要塞に撤退した。

> The Armenian general Basilakes was sent out with some cavalry, as Romanos did not believe this was Arslan’s full army; the cavalry was destroyed and Basilakes taken prisoner. Romanos drew up his troops into formation and sent the left wing out under Bryennios, who was almost surrounded by the quickly approaching Turks and was forced to retreat once more. The Seljuk forces hid among the nearby hills for the night, making it nearly impossible for Romanos to send a counterattack.

アルメニア人の将軍というのは現地テマのローマ人ということだろう。
ロマノスに命じられて出撃した彼はセルジュークに捕らえられてしまい、
ロマノスもマラズギルトまで撤退した。
セルジュークは丘のかげに隠れて反撃を防いだ。

> On August 25, some of Romanos’ Turkic mercenaries came into contact with their Seljuk relatives and deserted.

翌25日、トルコ人傭兵はセルジュークの側に寝返っていなくなった。

> Romanos then rejected a Seljuk peace embassy

ロマノスはセルジュークの和平交渉を拒絶。

> The Emperor attempted to recall Tarchaneiotes, who was no longer in the area.

ロマノスはアフラートへ向かわせた軍勢を戻そうとした。

> on August 26 the Byzantine army gathered itself into a proper battle formation and began to march on the Turkish positions

翌26日、ロマノスは態勢を整えてセルジューク軍へ向けて進撃した。

> Andronikos Doukas led the reserve forces in the rear

アンドロニコスは予備の軍団とともにロマノスの後方にいた。

> The Byzantines held off the arrow attacks and captured Arslan’s camp by the end of the afternoon.

東ローマ軍は昼までにセルジューク陣営まで進んだ。
セルジュークは遊牧民族特有のヒットアンドアウェイ戦法でローマ軍を翻弄し、
ロマノスは日が暮れる前に撤収しようとしたが、
アンドロニコスはロマノスを援護せず、勝手に戦線離脱した。
セルジュークはこの機会を利用して反撃。
結局この日、ロマノスはセルジュークの捕虜になってしまった。

花札

『虹の深淵』というタイトルの小説を書こうかと思っている。
これは江戸時代の風俗を描いているが、実際には現代日本の二次創作の闇について書きたいのである。
しかし今の時代を描くのはあまりにどろどろしてしまうので、江戸時代ということにするわけだ。

それで花札など調べてみた。
江戸時代町奉行の管轄ではない、旗本屋敷や寺社や公家の家などで賭博が開かれていたという。
寺銭などというのがそれだ。
また公家は内職として花札やいろはかるた、百人一首の歌かるた、などを制作していたという。
二条派の歌というのは二次創作そのものであり、類題集を元ネタとして、
同工異曲の歌を無限に再生産する遊びだ。
そのへんの、公家の底辺社会の闇というのも、実に深くおどろおどろしいわな。
書かない方が良いかもしれん。
でもネタとして思いついたということはここに記しておこう。
この時代のそういう世界を描くにはどうしても、宣長や盧庵や景樹も書きたくなるに違いなく、
そういうくくりの中のエピソードして書くことにするかもしれん。

それで、
ネットで花札をぐぐってると天正カルタとか[うんすんカルタ](http://nippon-kichi.jp/article_list.do?p=5799)などが出てくるのだが、
これらは絵柄がおいちょかぶ用の花札、つまり[株札](http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%BB%E5%A4%A9%E5%A0%82-%E6%A0%AA%E6%9C%AD-%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98/dp/B000CNF0AK/ref=sr_1_10?s=toys&ie=UTF8&qid=1325983331&sr=1-10)に似ている。
株札は花が描かれてないから花札ですらない。
私らが子供の頃は『じゃりん子チエ』の真似をして花札でカブをやったりしたのだが、
あれは数字が書いてないから覚えにくい。
花札というのはたぶんだが、幕府の禁制から逃れるために、
トランプやうんすんカルタなどに特徴的な数字や記号を消し去ったのだろう。
ただし何月がどの絵柄かを知っている人にはトランプとして使用することもできる。

日本人がトランプを和風におくゆかしくアレンジした、のではなくて、
単なる賭博逃れだったと見た方が当たっているだろう。

おいちょかぶは数字がわからんと面倒なんで、それ専用の、つまり賭博専用の札として、
アングラな世界で生き残ったのだとすれば話が通る。
うんすんカルタだと、縦や斜めに交差する剣や杖、あるいは棍棒が描かれているが、
かぶ札だとそれが真っ黒な帯で描かれている。
また株札には南蛮人の絵も描かれているが、これなどもトランプの絵札の名残なのだろう。
関西では割に一般的に使われてるというが、やはり、
江戸よりは禁制が緩かったためだろうか。

二次創作

今の世の中にあふれているのは、どれも一次創作のふりした二次創作だわな。
続編とかもある種の二次創作だしな。
著者が死んでもスタッフだけで制作は永遠に続くしなあ。
そんなんばっかだわな。
同人なんて二次三次は当たり前でひどいと十次二十次。
要するにマーケティングで消費者の方ばかり向いてりゃそうなりますわな。
消費者が自分で制作する場合も同じだな。
消費者にも、創作はできないけど、好きな作品の再生産はできるわけよね。

二次創作ばかりだと嘆く人もいるようだが、どうせ昔から同じだよ。どこの世界でもどこの国でもいつの時代でも。
今の日本に限ったことじゃない。

あとはオリジナルなものでも単発的な私小説みたいなやつ。
ネットでみかけるおもしろい話とか全部そう。
確かにね、事実は小説よりも奇なりですよ。
だが、そんな一発撃てばおしまいみたいなネタは創作とは言えんよね。
だから、私は私小説は好きじゃない。
自分をさらけ出すのも好きじゃない。
素人に私小説書くのを勧める人もいるようだが。

逆に二次創作のふりをして一次創作になってるのも割とある。
『キル・ビル』や『エヴァ』なんかはその典型かもしれん。
芥川龍之介も、今昔物語を素材にしていろいろ実験したわけだし。
いきなり一次創作するのは難しいし、また、他人に読ませようというときに読めない、読んでくれない。
だから、歴史とか古典文学を借りる。
しかしそこには一次的な実験が盛り込まれている。

まあ、私の書いたものもほとんど『平家物語』そのままだったり、為永春水『春色梅児誉美』や高崎正風『歌ものがたり』そのまんまだったりするんだけど。
だって同じことをあの芥川龍之介だってやってるじゃん。
それにほとんど忘れられた古典を掘り起こすのだって意義のあることだよ。
『平家物語』にしたって、私の場合義経とかは完全にスルーしてるしね。
有名過ぎてつまらんのよね。

古典のリメイクとかオマージュというものはね、二次創作とは違うものなんだよ。
しかし、普通に読んだ人には違いがわからんよな。
オリジナルの劣化版にすら見えるかもしれんね。

よくあるパターンとしては、イケメンとフツメンとブサメンがいて、ヒロインが何人かいて、
ああだこうだがあって、結局主人公(通常はフツメン)がヒロインとくっつくとかいう、そんな決まり切った、水戸黄門的サザエさん的な展開がありましてね。
そうすると読者も予定調和的に安心して読めると。
そういう需要が非常に大きい。
そして、そういう制作ならば素人にもまねできる。作者側に参加できる。
市場も結局そこらピンポイントにモノを出してきて、反応が未知の読者は最初から相手にしない。

今までないような、よくできた作り話を作りたいわけですよ。
ああよくできてるなこの作り話。って思ってもらいたいわけよ。
ありきたりな、ステレオタイプやキャラを使い回して、既存の客層にむけて書くのではなくてね。
そう、新たな客層、あらたな市場を作り出すのがほんとにオリジナルな作品でしょう。
それもできないんじゃ、わざわざ書いてる理由がないわ。
さっさと見切りつけてもっとほかのことやるだろう。

ところで、パブーに自分の書いたものを公開しだしたのは、
2011年の4月からなんだよね。
まだ一年たってない。
その中で一番PVが多いのが『棟梁三代記』で次が『スース』。
なんで?と思う。

『棟梁三代記』は、たぶんだが、公開した時期が早いのと、頼朝、清盛、実朝などといった有名人が多く出てくるので、検索にひっかかりやすいのだろう。

『スース』が多いのは、これも推測だが、ある人をモデルに使ってその了解を得たから、その関係者がたくさん見にきているのではなかろうか。
こちらはそんなに検索にひっかかるような内容ではないしな。
または、『スース』は七つに分かれているので、それぞれに検索でひっかかったやつが最初から読んでみようとか、ラストが気になって読んでみるとか、
そんなのかもしれんね。

ただ、『棟梁三代記』『スース』みたいのが、私の書いたもののなかで、ほんとに好まれてる傾向があるとすると、
これはどう解釈すればよかろうか。