空気読む客。

[よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 – 活字中毒R。](http://b.hatena.ne.jp/entry/www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808)

ふーむ。
私なら、持ち込みしても怒られないなじみの店に行って、こういうことはやると思うな。
そういう店はふつう店長がオーナーで、融通がある程度効く店だよな。
初めての店で、しかもチェーンの居酒屋で、こっそり持ち込みの酒を飲むなんてことは、
まあやらんわな。
てかそういうこと、武勇談ぽくブログに書くとかどうよ。

私も、この年まで、いろんな店でいろんなことやってきたわ。
もしかしたらすげー経験値かもしれん。

[客の空気を読むのが、店の仕事じゃないの?](http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51271236.html)

いや、なんつーか、そうじゃないと思う。
私は居酒屋の経営なんて、やったことないから、店の人間がどう思うかなんてわからんのだが、
個人経営の店であれば、
もうけがある範囲で好き勝手やればいいんじゃないの。
客を友達扱いしようが、慇懃無礼に客扱いしようが、なんでもいいんじゃないの。

つーかね。
私もよくやるほうなんでね、持ち込みって。
でもそれは、
長いこと通って通い慣れて、ついわがまま言ってしまったとかそういう後ろめたさはあるんだよね。
金はらって接待されてます、みたいな飲み方じゃ酔えないんだよね。
そういう飲み方する人たちもいるかもしれないし、
したけりゃすればいいんじゃねえの。
しかし、だからと言って、お使い頼まれたり皿洗ったりしてあげるような飲み方もしたくないしな。

居酒屋ってさ、
知り合いと一緒に行って楽しむ場、じゃないんだよな。
家族でもなく仕事の同僚でもない、なんの利害関係もない人たちと、
いっしょに酒を飲む場、なんだよな。
仕事仲間や家族と酒飲んでもストレス発散にはならんのよ。
だから、見ず知らずの他人と一緒に酒を飲みたくなるんじゃねーかな。
家飲みと外飲みの本質的違いはそこだと思うんだがね。

ていうか、よしもとばななの父親って吉本隆明だよな。
理解不能だよな。
よしもとばななの小説も読んだことないしよくわからん。

> 居酒屋の売りって、「居」だろ?「居ること」だろ?「客としてもてなされること」だろ?

> 空気の読み疲れから、開放されることだろ?

> なんで、客が店の空気読まなきゃいけないの?

いや、違うよ。
それは断じて違う。
客が空気よまなきゃならない居酒屋の方が多いと思うよ。
居酒屋あんまわかってないんじゃないのかと思うのだが。
まあ、趣味の違いかもしれんが。
SとMの違いというか。
でもある種の一部のラーメン屋に比べればMの度合いはまだ少ないと思うんだ、居酒屋の場合。
友達感覚なのが楽しいんだよ、居酒屋って。
一方的な奉仕を求めるのなら、いわゆるレストランってとこに行けばいいんじゃないのか。

ありがちなのは、メニューに無い料理作らせて喜んだりとか値切って喜んだりする客。
肉体労働者がいない店で生牡蠣に白ワイン飲んで喜ぶ客。
いやな店だな。
まあ、そういう店はそういうふうにして稼げば良いんじゃないの。
私は行かんが。

それはそうと、
店長がいつも店員を叱ってる店があって、
確かに酒がまずくなる。
が、しかし、別にだんだん気にならなくなる。
酒がまずくなる一番の理由はたばこの煙の方がだんぜん大きい。
そのほかにもいろいろあるが、
店長が店員を怒っているというのはさほど大きな問題ではない。

富士川と倶利伽羅峠

平家物語を相変わらず読んでいるが、源平合戦というが、
富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いでほぼ決着が付いているんだなあと思う。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦いの方が有名だが、これらはもう平家が都落ちした後の掃討戦にすぎず、
重要性という意味では富士川と倶利伽羅峠にははるかに及ばない。
この二つの戦いによって、
保元・平治の乱であれほど優勢になった平氏の権力はまったく逆転され、
源氏に有利になった。

富士川の方は、甲斐源氏が主力であると言われているし、
倶利伽羅峠は明らかに木曽義仲の功績であって、
となると、頼朝や義経などは、大したことはやってない、という結論に達する罠。
宇治川の戦いは単に頼朝の名代というに過ぎず、
一ノ谷の義経の功績も疑問が多い。
となると実は義経は別に大したことはやってないんじゃないか、
実は虚構なのでは、という気になってくる。
源平合戦というものが、
民間に広まるにあたって、
一人の英雄を必要として、
そのために仕立てられた役者、という気もしてくる。

頼朝に至っては、単に北条氏に担がれて、
源氏の嫡子だ棟梁だと言い張ってたらみんな遠慮してくれただけなんじゃないのか。
源氏にも危機感はあっただろうから頼朝一本で団結しただけなんじゃないか。
実際頼朝の子孫なんてあっというまに使いつぶされてしまうし。

いや、義経や頼朝をおとしめたいのではなく、
富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いをもっと評価すべきなんじゃないかってこと。
歴史の骨格として、保元・平治の乱と同じ重みで押さえておくべきではないか。

ていうかね、
富士川でも倶利伽羅峠でも一ノ谷でも、平氏はそうとうな大軍であったくせに戦略が何もないよな。
どうしてこんなにもろかったのか。
たぶんだけど、集団で戦うということができなかったんだな。
保元・平治の乱といっても別に大軍どうしの戦いではなく、
小競り合いと政略で平氏がたまたま勝っただけだもんな。
源氏は関東北陸東北中部地方に渡る広い範囲に一族がちらばっていて、
その首領たちがそれぞれ戦がうまく、
それぞれ独立して戦えたのだろう。
そういった戦力が、一気に集中して平氏打倒という目標に向いたから強かったのではないか。

保元の乱といってもこれは皇族どうしの戦いで、源平はきれいに分かれて戦ったのではなかった。
しかも単に皇居周辺の局地戦にすぎない。
平治の乱は反清盛、反平氏だったから、
平氏と源氏はきれいに分かれた。
で義朝が敗れて、義朝の子供がほぼ絶滅したのだが、
しかし、頼朝と義経は残ったし、
義朝以外の源氏はほぼ無傷で全国に残っていた。
やはりこれも京都周辺だけの局地戦だし、
その後の鎌倉対京都という、全国規模の、数万数十万単位の軍勢の、何ヶ月にもわたる戦争とは、
明らかな違いがある罠。

蛭が島

源頼朝が流されたのが伊豆の狩野川の中州の蛭が島で当時は湿地帯だったというが、
うわー。
蛭がうじゃうじゃいそうで怖いよー。

丹沢には蛭が岳って山もあるしな。
よっぽど蛭だらけだったんだな。
怖すぎる。

卒塔婆流

鬼界ヶ島から和歌を詠み書き付けた卒塔婆を流し、
それが厳島神社まで流れ着いて、清盛にまで達し、
それで恩赦につながったという。
まあ、あり得ん罠。

島に熊野権現をまつったとき俊寛だけは関わらなかった、
というのも伏線というやつか。

それはそうと長野の善光寺が焼けたというのと、平家の滅亡となんの関係があるのかと。
なんかそういうのがやたら多い。

腹の皮

ダイエットは行きつ戻りつ。
体重の振れ幅が5kgくらいはある。
内臓脂肪はだいぶ落ちたのだろう。
皮がものすごく余る。
腹とあと、背中。
へそ周りに最後の最後まで肉が余る。
これを落とすにはやはりあと5kgほど減らして標準体重にしなくては。

新田次郎

新田次郎著「新田義貞」上下巻を図書館から借りてくる。
いちいち取材旅行しているのがなんとなく、経費で旅費落としているんだろうなあと思わせる。

稲村ヶ崎の解釈はずいぶんくどい、しかし、それが正解だとも思えない。
できるだけ科学的に史実に忠実に記述しようとしたあとがあるが、
そんなことをしてどれほどの意味があるのだろうか。
太平記は確かに作り話臭い。
作り話臭さを解消するために天文学的に分析をしてみる。
しかしそれだけでは単に新解釈を加えたにすぎないだろう。

新田次郎としては、
一ノ谷の断崖を馬で駆け下りた義経のように、あるいは平忠常の乱のとき源頼信が浅瀬を馬で渡ったときのように、
稲村ヶ崎も奇襲であったと解釈したいようだ。
私も最初はそうかと思ったが、
実際には、
六波羅が落ちて関東の武士がこぞって倒幕軍に合流した結果、
鎌倉側がとうとう支えきれなくなって、
たまたま稲村ヶ崎が突破された、
と考えるのが自然ではなかろうかと思う。
幕府に反抗したのはもはや足利尊氏や新田義貞だけではなかったということだろう。
新田義貞が挙兵してわずか15日で鎌倉幕府が滅んだのは、それだけ、
倒幕の機運が満ちていたからだと言える。

また新田次郎は、金剛山が落ちなかったのは、楠木正成が特に有能だったからではなく、
寄せ手にやる気がなかったからだという。
果たしてこの解釈もどうだろうか。

ところで、wikipediaなど読んでいると、
一ノ谷にはひよどり越えのような絶壁はなかったと書いてあり、
また一ノ谷の別働隊は義経ではなくて多田行綱だったという説もあるようだ。
多田行綱は、平家物語では清盛に鹿ヶ谷の陰謀を密告した人物となっているがそのような事実は疑わしいなどとも書いてあり、
どうも摂津源氏の子孫らが行綱に同情的な記述をしているようにも思える。

そのように歴史的に正しいか正しくないかという観点で軍記物語を読んでもおもしろくないのであり、
太平記は太平記のままに読まなくてはつまらんのであって、
史実は脚注に書くなりしてもらえば良いのであり、
戦後民主主義作家の脚色の方がよほどうっとうしいと言う気もする。

俊寛

* [平家女護島 近松門左衛門](http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~itasaka/jugyou/heike001.html)
* [俊寛 倉田百三](http://www.aozora.gr.jp/cards/000256/files/43686_24405.html)
* [俊寛 菊池寛](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1101_19885.html)
* [俊寛 芥川龍之介](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/159_15201.html)

平家物語では、巻第二「大納言死去」「康頼祝詞」から巻第三「赦文」「足摺」「有王」「僧都死去」まで、延々と、
ずいぶんな分量を費やして、俊寛が流されて死ぬまでの話が記述されている。
また、有王が俊寛を訪ねたのは、清盛が死ぬより前、平家全盛の時代で、
流刑になった三人のうち二人だけが恩赦で帰ったすぐ後である。
俊寛の家族は妻と娘、さらに若君が京都に残されていたが、若君に続いて妻がなくなり、
娘の手紙を有王が髪の毛の中に隠して俊寛にもたらしたことなっている。
そして俊寛は食事をとらずに餓死する。

倉田百三の話はだいぶオリジナルに似ているが俊寛の家族はみな死に絶えたと有王から聞き、
俊寛自身は岩に頭をぶつけて自殺する。

菊池寛の話では、平家が滅んだ後に有王が訪ねてくると、俊寛は土地の女性と結婚し子供ももうけており、
釣りや農耕などして自給自足、楽しく暮らしている。
平家が滅んだと聞いても都に戻る気すらない。
有王には、「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。・・・俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」
と言って分かれる。

芥川龍之介の話では、有王が訪れる時期は清盛が生きている間なのだが、
俊寛はすでに現地で妻がおり、なんとなしに隠遁生活を送っており、四方山話をしたあと
「見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を」との歌を残して有王と分かれることになっている。
この辞世の歌は平家物語には見えないが源平盛衰記では俊寛が一人島に残されたときに詠んだことになっており、
有王に残したとはかかれてない。

ふと、芥川龍之介はなんでこんな退屈な内容の「俊寛」をわざわざもう一つ付け足さなくてはならなかったのか、
と思う。
わざわざ倉田や菊池の前作を参照してまで、何か新たな解釈がしたかったのだろうが、読んでみて、
いったいどこで何を言いたかったのか、よくわからんのである。

鬼界ヶ島

平家物語を、鬼界ヶ島に三人の男が流される、という辺りまで読んで、
なんかどこかで読んだことがあるなと思ったら、
菊池寛の「俊寛」だった。
三人のうち俊寛だけが許されず、鬼界ヶ島に住み続けるのだが
「自分で拓いた土地に、自分の手で蒔いた種の生えるのを見ることは、人間の喜びの中では、いちばん素晴らしいものであることを、俊寛は悟った。」
といった具合にいつの間にか原住民の暮らし最高みたいな話になっていく。

この話は実はけっこう有名で、
近松門左衛門が浄瑠璃にし、菊池寛に続いて芥川龍之介も小説にしたらしい。

ははあ、なるほど。
芥川龍之介の俊寛の冒頭で、
「ある琵琶法師が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂い死をなすってしまうし、わたしはその御死骸を肩に、身を投げて死んでしまった」といっているのは倉田百三の戯曲「俊寛」のことで、
「またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯を御送りになった」と言っているのが菊池寛の小説「俊寛」なのだなあ。

美少年

平家物語の中に保元・平治の乱の記述がないのはそれぞれ保元物語、平治物語というものがあるからだろうか。

神田神保町の某古本屋で吉川英治著新平家物語全16巻セットを1600円で購入。
異様に安い。
内容はまあまあ。

村上春樹著、平将門研究とかいう本があったので、wikipediaで調べてみたが、
1Q84の著者とは同姓同名の別人らしい。
実に紛らわしい。

神田駅西口の某居酒屋で美少年1合300円であったので、飲んでみる。
昔ながらの甘い酒。
美少年酒造は火の国酒造と社名変更したそうだ。
美少年ブランドの酒はおそらく在庫限りでもう飲めまい。