多重意識

vivantの主人公乃木は多重人格、という設定。シャイニングに出てくる子供ダニーにトニーというイマジナリーフレンドがいるが、乃木の場合はそのイマジナリーフレンドが大人になったあとも残っているというような設定か。ジキルとハイドもそうだし、ある特殊能力、特に超能力をもったキャラクターが多重人格だという設定はそんな珍しくもないかも。

右脳と左脳をつなぐ脳梁に障害があると右脳と左脳に別々の意識ができるという話もある。いやそもそも脳の中には常に複数の意識が生まれては消え、あるいは統合されているという考え方もある。複数の無意識が同時に存在していて、言語や理性を司る意識がそれらをなんとか一つにまとめているともいうが、実際にはそうした複数の意識を特定の意識がスーパーバイズしている、かどうかは疑わしい。

酒を飲み過ぎたときとか寝ていて夢を見ているときにも、別の人格、別の意識が働いているようにも思える。酒の場合は明らかに脳の機能が低下していて、普段働いている意識統合の機能が低下し、さまざまな煩悩が勝手に動いているように思えるし、寝ているときは外界からの刺激や情報がまったく入らない状態になっているので意識が暴走しているようにも思える。

おそらくそれぞれの意識は条件反射的なもので、非常に速く動いていて、それら複数の意識を統合するのはもっと遅い。人間もまた緊急避難的に素早く行動しなくてはならないことがあるから、それぞれの意識が瞬間的に状況に対処していて、でも普通の人間が正気を保っているのは後からそれらの行動に一貫性を持たせるような、なんらかの統合的な機能ももっているのであろうと思う。

ノイズ

sony の blu-ray プレイヤーから hdmi で eizo のモニターに接続、アナログ音声を出力して yamaha ag03 mk2 に入れるとノイズが入る。

おそらく PC用モニターとオーディオインターフェイスの相性が悪いんだろうけど、どうにかしてくれんかねー。

イスラム教がなぜこれほど世界で普及しているのかについて、よく考えるのだけど、思うに、宗教というものはもともと王が主宰者となって、王族や支配階級だけを縛るものだったと思う。祭政一致とはつまり、国というかソサエティというかあるいはコミュニティというか、もっと原始的に言えば人間がシノイキスモス(集住)というシステムを採用するに当たって、作られたものだと思う。

古い素朴な宗教は王とその周辺しか束縛しなかったから、人の集団が持つ力も弱かった。しかしバラバラに暮らす人たちに対して、多数の人の気持ちを一つの方向に向かわせる集団の方が明らかに生存に有利だった。

単純素朴な自然宗教はだんだんと教義を持ち、聖典を持ち、聖職者や教会などの組織を持つようになった。それでも人々を束ねる拘束力はまだ未発達だった。

フランス革命が成功したのは、王族や領主だけではなく、一般民衆、無産階級までも軍事力に編入したからだ。どんなに王軍が強くとも、徴兵制によって集められ組織化された圧倒的多数の国民軍のほうが強いということが証明された。

アリのコロニーにしても、良く働くアリと、普通に働くアリと、サボるアリがいる。古い宗教は良く働くアリだけを国家権力に動員できた。中世の宗教は普通に働くアリまで動員できるようになった。そして一神教は国王の権力から切り離されて民衆の宗教として成立した。社会の少数派の王族ではなく多数派の民衆がコントロールできる宗教が成立した。そうすると軍隊の規模が違うから新しい宗教が古い宗教を駆逐してしまう。民衆が王を排除して、もしくは王を取り込んで国を乗っ取ってしまう。ギリシャやローマの多神教がキリスト教に駆逐されてしまったのはそうしたわけだった。カール大帝がローマ教皇に戴冠されることによって民衆の支持を集めたようなものだ。王は宗教の権威を借りるようになった。

さらにイスラム教はキリスト教をさらに発展させて、日常生活も、心の内なる良心も、金持ちから貧乏人まですべて、民衆を支配することに成功した。宗教が普及するのに重要なことは、一部の力あるもの、一部の頭の良い者たちに支持されることではない。社会を構成するありとあらゆる人種、階層の人間をまんべんなく、その生活から精神までも支配することだ。それまで見捨てられていた、かえりみられなかった人々まですくい上げてメンバーに加えることだ。ホメイニ革命を見てもわかるように王や一部の富裕階級に支配されるよりは、民衆は自分が少しでも参画できる、民衆から出てきた指導者に従いたがる。民衆は王をとりこめなかったから追放してイスラム共和国を作ってしまった。

結局民衆は支配されることを欲しているし、王のような独裁者ではなく、万民に通用する普遍的な慣習に支配されたがる。日本が今や法治国家になったのもそれと似ている。24時間365日完全に支配されることを欲している。そしておおぜいがわーっと暴れればどんな政府も転覆してしまう。暴動にしろ革命にしろ戦争にしろ結局数で世の中は決まってしまうのだ。イスラムは数に強い。清濁併せ飲み、老若男女、異なる民族(特に宗教的にナイーブな、人口も多い民族)をみんな巻き込んでしまう普遍性をもっている。だから普及しているのだ。

キリスト教が2000年経ってもまだまだ平気なように、それよりか600年遅れて成立したイスラム教はまだ何百年も先まで人間社会を縛るだろう。それになによりイスラムは新興宗教の先進地域である西アジアで生まれた。ありとあらゆる宗教が生まれてはとってかわられる激戦地で生き残り繁栄した。強いに決まってる。

役職選挙

役職選挙があり、来年度は六年ぶりに役職から外れることになった。これから定年までのんびりと仕事をさせてもらおうと思う。コロナ馬鹿騒ぎの三年間は周りの連中は在宅勤務で楽していたかしれんが、私は役職のせいで毎週馬鹿げたコロナ対策会議とやらに付き合わされて最悪だった。あんなものにはまったく何の意味もないただの時間と労力の空費だった。今はみんなそれに気づき始めたが私は最初からわかっていた。ずっと腹の立ち通しだった。非常に不愉快な三年間だった。

ラウンジ嬢だのパパ活女子だのと世間では騒いでいるようだが、飲み屋ではこれまでさんざん苦労してきたので、ただもう関わり合いになりたくないばかりだ。懐石料理だとかフランス料理だとか高級寿司屋とか、そういう密閉された空間で逃げ場がなくて、ちまちまともったいぶって出されて来る料理を食ってもうまくもなんともない。そういうものに金を使うなんて馬鹿げていると思う。冬の吹きっさらしの風の中、勘定は注文してその都度払いで、その場からいつ逃げ出しても良い、野天の立ち飲みのほうがずっと気楽だ。縄文人だってそういう食事をしていたのにちがいない。

追記。役職選挙をやり直すことになったそうだ。やれやれ。

追記の追記。役職再選挙の結果、また別の役職に選ばれてしまった。これで定年までずっと役職につくことになるだろう。割とプレッシャーを感じている。

中国海外投資

しばらく bing image creator で作った画像をアイキャッチ画像にして遊んでみようと思う。

中国は国内不動産開発をやり過ぎてしまい、深圳や北京、上海などではテナントの入っていないビルや町などができてきているようだ。調整局面に入っているというだけのことだろう。日本だって過疎の村、限界集落、ゴーストタウンやシャッター街、廃墟となった遊園地や温泉郷など、別に珍しくもない。

最近は中国の金持ちは国内不動産を売り払い、その金で海外の資産に投資しているから国内不動産が冷え込んでいる。ずいぶん薄情な連中だが、それだけのことだ。

海外に投資するには人民元をいくら持っててもダメで外貨が必要で、外貨は一般市民はなかなか手に入らないそうだが、中国はまだどんどん輸出しているから国自体は外貨をまだいくらでも手に入れられる状態だ。その外貨で海外に投資しているのは一部の特権階級なのだろう。そうした人たちにとって日本は何かと便利な投資先なのだと思う。

中国共産党としては外貨は国が管理して国内で稼いだ金を人民が海外に移転させたり、海外の資産を買ったりすることを制限したいのだろうが、経済活動としては非常に不自然な話であって、国内にいくらでも投資先があるうちはともかく、すでにある程度飽和してしまうと、より儲けが大きい国外投資が好まれて、国内開発を嫌って人民はこぞって海外に出て行こうとしている。

人民元の価値もまだまだ高く、何かのきっかけで人民元安になり、しかも中国の製造業が割高だということになれば、中国は外貨を獲得できなくなる。そうなると中国は一気に破綻するしかないが、そういう状況にもなかなかなりそうはない。

いずれにしても中国国内の開発は今後消極的になり、経済発展に取り残される人民が増加していく。自己資本を持たない貧乏人、若者、地方などの格差がどんどん広がっていっていくだろう。ただ貧富の格差なんてものは、中国では今に始まったことではなく、中国だけではなくアメリカも同じ状況で、アメリカもなんだかんだ言って全然暴動や革命が起こる気配は無いのだから、中国も、中国人全体が繁栄しているうちはなんとかもつのではなかろうか。貧乏人がいたら革命になるのであれば中国の王朝なんてどれも五十年とはもつまい。

薬物蔓延

※ bing image creator でアイキャッチ画像を生成してみた。

医者のユーチューバーが、砂糖や小麦や旨味調味料なんかは精製されていて純度が高いから体に吸収されるのが早く効き目がすぐに効きやすいから覚醒剤に近いなどと言っていて、あー医者の蘊蓄はうざいななどと思うのだけど、今のメディアとかSNSとか漫画とかみんな本質的にそうなわけで、小説だととにかく冒頭三行からシュッと効き目がなくちゃ読者は読み続けてくれないから、純粋なグルタミン酸ナトリウムみたいな書き出しにしなきゃならない。

動画投稿にしても、tiktok なんかの刺激が強いショート動画ばかり目立つ。

農産物、畜産物にしてもどんどん品種改良が進んで、食えばすぐに旨い、糖度が高くて甘いみたいな野菜や穀物ばかりになっていく。

ラーメンもあれは炭水化物と油と脂と塩だろ。あれを旨いというのは単に薬物中毒になってるだけだよな。

ニュースにしてもコロナや地震、みんなそう。メディアもSNSもひたすら脊髄反射的な配信しかしない。キモすぎる。

別に食い物の話がしたいわけではなく、小説の書き方の問題なんだよ。世の中にこんな薬物中毒みたいな漫画やアニメやラノベばかり氾濫しててどうやってまともな薬中じゃない作品を書いて認めてもらえっていうんだろうね。007にしても何にしても、最初はどぎつく、途中からやっとストーリーの説明が始まって、そこで一旦もう見るのやめようかなって気になる。だから昔から売る目的のコンテンツというのはそういう作りだったということだよね。

年をとったせいか左腕の筋肉が弱くなってきて、手桶でお湯を汲んだりするだけで筋肉が痛む。鍛えれば痛くなくなるのかと思ってできるだけ使うようにしているのだが、いっこう治らない。右腕は痛くないのだから、右腕程度に頻繁に左腕を使えば鍛えられるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

歯はどんどん弱くなっていく。世の中には柔らかくて水っぽい沢庵もあるが良く干されたものすごく難い沢庵もある。この固い沢庵を食うのにも用心しなきゃならない。一度奥歯が割れてからというもの、固いものを無理して噛むのが怖くなった。

年寄りはこのまま体力が衰えて柔らかいものばかり食べて適度な運動して体をいたわらなくてはならんのだろう。

カリオストロ、泥鰌庵

『カリオストロの城』の、フランス製のいかがわしいDVDを持っていて、リージョンフリーの sony のプレイヤーを買ったので観ているのだが、これは amazon.com などでは 88us$ くらいで売られているのに、amazon.co.jp だと並行輸入品で3万円くらいする。余りにもぼったくりである。リージョンフリーのプレイヤーがそのリージョンの数だけ割高になるならともかく、世界のどこかではリージョンフリーが単一リージョンのプレイヤーと同じ値段で売られているのだとするとそもそもリージョンとは何か、なんでそんなもの作るんだよという話になる。

それはまあ良いのだが、パチモンらしくて画質は全然よろしくない。かつ、タバコのふかすシーンやタバコの吸い殻が山盛りになったシーンなどがいたるところにでてきて、昔は別にこんなシーン見ても何も感じなかったのだけど、今ではもう見るに堪えない。まったく見る気が失せて止めてしまった。

また人から『泥鰌庵閑話傑作選』をもらったのだが、まあまあ面白いといえば面白いが、主人公が常にタバコを吸っててやはり読む気が失せる。

私の場合、姉がタバコを吸っていたので、私もはたちくらいから吸い始めたのだが、30才くらいで自然にやめてしまった。吸うにしても1日に3、4本程度だし、火の元の始末が面倒だし、煙草の吸い殻は汚いし、いちいちタバコやライターを買ってもしけらせてしまったり、長いこと使わずに溜めてしまい火が付かなくなったり、もらいタバコしたりして、いっそのことまったく吸わないほうがましだと思ってやめてそれきりになった。

亀戸は立ち飲み屋が多いと聞いて見にいったが、とにかく町のガラが悪い。いたるところに喫煙者がいて、町全体がタバコ臭い。北千住とよく似ている。健康増進法などできて、概ねどこの町もだんだんに清潔になりつつあるが、その皺寄せで、一部の町は逆にどんどんガラが悪くタバコ臭くなっていっているように思う。浅草にしろ、あの上野にしろ、また町田も、昔に比べてずいぶん喫煙者は減った。浅草はインバウンドの客が多いので禁煙に比較的理解があるのだろうと思う。

船橋は町全体がタバコ臭いというわけではないのだが、居酒屋で平気でみんなタバコを吸っている。海に近いので食べ物は安くてうまい。高円寺阿佐ヶ谷あたりと比べても町全体のレベルが違う。たぶん江戸時代からずっと船橋は食い物は旨いのだろうし、高円寺阿佐ヶ谷あたりは戦後になってやっと居酒屋のようなものが出てきたのに違いない。文化と歴史の違いだと思う。

船橋あたりだと浅草や町田なんかと同じように次第に禁煙が進んでいくのではなかろうかという期待はある。タバコの無い船橋というのは住んでみたい気もする。

錦糸町は亀戸と正反対にどんどんきれいな町になっていっているというから、町の二極化が進んでいるということであろう。ならますます私は亀戸や北千住には寄りつけなくなるということになる。

鬼平

新しい鬼平のドラマを見てみたのだが、やたらと役者がでてきて覚えきれない。しかも一人二役ならぬ二人一役、若い頃と年取った頃で別の役者を使っており、それが主役と脇役だけじゃなく下っ端まで全部二人ずついる。

思うに鬼平は、年末の忠臣蔵みたいに、今まで何度もシリーズ化されていて、どれもそれなりに当たっているから、役者としては出たくて仕方ない。タレント事務所もタレントを売り込むために出したくて仕方ない。またファンとしては出たらみたいと思う。だからストーリーなんかそっちのけでとにかくたくさん役者が出てくる。鬼平をやるからには当てなくてはならないと気負っている。同じようなことはNHKの大河ドラマや紅白歌合戦にも言えると思う。

キャラ設定がちぐはぐな感じ。キャラ設定に役者を合わせているというより、役者に合わせてキャラをいじってる感じがする。特に違和感があるのは岸井左馬之助で、左馬之助はもっとこう、がさつでむさ苦しい中年の浪人のはずなのに、なぜか学問好きなかっこよく身ぎれいな武士になっている。久栄もなんか妙にチャラい。火野正平の彦十だけが個性的で、これはこれでさほど違和感はない。しかし他の役者はみんな没個性でみんな同じ顔に見える。

セットにはかなり金かけてて、CGにも凝ってる。

時代劇とか、特に歴史小説は登場人物が多くなりすぎて障りになるのに、逆に最初から全部役者を顔見せで出してストーリーをないがしろにしているように感じる。台詞も説明的なものが多い。これが毎週放映というのであれば最初は登場人物を小出しにしてだんだんに増やしていけば良いのだろうが、まず正月にテレビドラマで出し、五月に映画を出し、それが当たれば続編も出す、みたいな作りになっているようだ。何から何まで作りに無理がある、制作委員会の都合が強すぎるように思える。

ストーリーの方は割と原作に忠実にみえるんだけど、鬼平のストーリーはテレビドラマにはもともとすんなりなりにくい、ひねった込み入ったものが多い。もっとシンプルな、テレビドラマ用に徹した、オリジナルのストーリーを作ったほうがわかりよかっただろう。あんだけキャラ設定いじってるくせにストーリーだけ原作重視だとすれば破綻するしかなかろう。

ファッション

今の時代、ラノベもイラストもファッション化していると思う。私は行ったこともなく興味も無いので詳しくは知らないが、コミケなどでも、ひたすら自分の好きなことを同人誌に書いている人もいるが、そのときそのときの流行りを追いかけてジャンルをたびたび変える人もいて、そういう人はイナゴと呼ばれているらしい。

実際、フリーランスの作家で、生活費を稼ぐために創作活動をしている人はイナゴにならざるを得ないだろうと思う。逆に、ある程度社会的地位があるにも関わらず、イナゴのような創作活動や研究活動をしている人を見ると私は、そんな営業活動みたいなことがしたいんなら最初から民間企業で営業職でもやれば良いのに、と思う。ましかしそういう人たちはたぶん民間企業の営業職にはあまり向いてはおらず、創作研究の営業活動がなぜか得意で、承認欲求をこの上もなく満たせるからやっているのだろう。

毎年毎年、アパレルのファッションというものは意味も無く変わっていく。ズボンが太くなったり細くなったり。月の満ち欠けのように変動する。そういうものを追いかけるのは無意味だと私は思っていた。しかし文芸における流行りというものはきっと今SNSの流行などで急に顕著になったわけではなく、滝沢馬琴や上田秋成などが活躍した江戸時代頃にも既にそうだったのに違いない。

私もファッションを追いかけてみようと思って書いたことがあったのだがどれも書いても書いても全然そういうふうにならない。出版社から注文を受けて流行りそうな文章を書いているつもりが全然そうはならないので、ファッションに左右されるような作家になったらどうしようなどという心配だけはしなくて済んでいる。

私は今更新作を書こうとは思ってない。今までずいぶんたくさん書いてきたので、それを手直しするので精一杯だ。手直しするために人の書いたものを読んだり映画を参考にしたりしている。