美濃焼

スーパーなどで、ちょっとおしゃれな柄物の洋食器があって、持ってみると軽くて薄い。裏返すと銘が入っているものもあるが、英語かURLのようなものが書いてあったりして調べてみると岐阜県の多治見市あたりの会社で、つまり美濃焼であることがわかる。そういう会社はだいたいそんな古くはなくて、とはいえ1960年頃に創業したものが多いようだ。つまり、戦後日本の庶民生活が洋風化して行く中で、洋食器に活路を見いだして、美濃焼というブランドを表に出さない形で売ってきたということだろう。

そういうことは有田や波佐見ではあまりやってないと思う。名古屋、岐阜あたりには、ノリタケ、カネスズ、ナルミなどかなり古い洋食器メーカーがあるようだ。中京地区では明治維新以後すぐに洋食器の製造が始まったということだろう。そういう風土というか慣習の違い、あと大消費地に近いという利点もあったのだろう。

7&i

7&i はとにかく接客もウェブサイトのインターフェイスもすべてが嫌いだ。一度完全に退会したんだがそれでもなんかのメイルが勝手に届いてくる。

こないだイトーヨーカドーの自動レジを使いたいばっかりにうっかりアカウントを作り直してしまったんだが、これまたこの自動レジというものがさっぱり使い物にならない。マルエツとかイオンなら普通に出来ていることがなぜかイトーヨーカドーには出来ないらしい。わけがわからない。

ネット通販もまったく便利でない。何も使いようがない。そのうえまた意味不明のメイルが来るようになり、メイルニュースの購読もろくに管理するインターフェイスがない。とにかく7&iとはいっさいかかわらないのが良いらしいので、再び退会したのだが、もうこれでほんとにメイルが来なくなるだろうか?そういうところが嫌なんだよ。退会したらとりあえず一度完全に退会させてくれ。変な情報を残すなよ。

為朝

沖縄人は為朝の子孫だからうんたらかんたら。

そもそも為朝の存在自体が疑わしいし(いたことはいただろうが)、為朝が沖縄に渡ったというのもなんの根拠も無い。

まったく、ネトウヨはたまに良いことも言うが歴史がまるでわかってない、ろくに検証もしないからどうしようもない。新しくできた政党のアレとかも、まったく信用できない。

microsoft bing

かわいそうだからちょっとくらい使ってやろうかと思ってbingを使っていたら、

《当面の間、出演を自粛へ》『グッド!モーニング』佐々木一真アナと森千晴アナ、泥酔ハグ&尻キック動画にテレ朝が出した「回答」 若い2人を擁護する声も

とかいう謎の記事を送りつけてきた。だからダメなんだよmicrosoftは。

あと、word に「おはようございます」とかしゃべらせるのやめろよ。

イルカの頃から何も進歩してないんだなmicrosoftは。だからxboxも嫌われるんだよ。

feed reader

今時 rss feed reader 使ってブログ巡回している人ってどのくらいいるのだろうか。ずっと feedly を使っていたが、google chrome の拡張機能でrss feed reader というものを使い始めた。なぜかここのサイトの rss を見つけてくれない。/?feed=rss2 でみつかるはずなのだが見つけられないようだ。仕方ないのでアイコンをつけておいた。

推敲

文章は推敲すればするほど良くなるってことがわかってきて、それは良いことなのだが、例えば31字しかない和歌と同じてまひまをかけて10万字の小説を推敲するととんでもない時間がかかることになるし、『エウメネス』なんかは軽く50万字以上あるから、ちゃんと推敲するとたぶん死ぬまでやっても終わらない。私が本格的にものを書き始めたのは40代半ばくらいだが、どんなに少なく見積もっても100万字以上書いているから、それを全部推敲して死ぬことは不可能だ。それに60才を過ぎるとだんだん頭がぼけてくるからなまじ推敲しないでもとのままにしておいたほうがましだ、という限界点がいずれきてしまう。80才の爺さんが推敲なんかしたらかえって作品を悪くしてしまう。

今から見直すと20代に詠んだ和歌にも良いものはある。20代に思いついたアルゴリズムにも良いものはある。しかし文章は今見るとどれもダメだ。40代に投稿した小説なんかを今見ると全然ダメで直しようがない。

『虚構の歌人』はしかしまあ割とあの年にしてはよく書けたほうではないか。『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』は今見ると全然ダメだ。構成からやりなおさなきゃダメだ。宣長について全部一から書き直したくなるが、そんなことをしてたらあっという間に人生が終わってしまう。

『虚構の歌人』は結局そうとうに推敲したのがよかったのだと思う。一つの作品をどれくらいの時間をかけて書いて削って書き足してまた削って、推敲しててまひまをかけたかである程度良さは決まってくると思う。『宣長』は書いて書きっぱなしだから良くなかった。

もし私の本が読まれるようなことがあったら『エウメネス』と『関白戦記』くらいはちゃんと推敲しなおして出し直したいな。

『民葉和歌集』なんかは今見るとまったく出来損ないで、どうしようもない。手の付けようがない。

もちろんこういうブログなんかは書きっぱなしで良いんだよ。じゃなきゃ書けないよ。

ブログに戻る

最近ツイッター見たり書いたりしてるとすごくイライラするようになってきたので、もうやめようかと思っている。ツイートしたデータはダウンロードして取っておくとして、現状のまま放置しつつ、そのうちフェードアウトしようかなと。facebookとかカクヨムとかハテナとかいろいろSNSに手を出したもののどれも気に入らないので、サーバー再開したついでにここのブログにすべて集約しようかなと思っている。

昔は(高校生の頃とか)マスコミって馬鹿だなって思っていたが、一般人もマスコミと同じことができるツールを与えられるとマスコミとまったく同じことをやり始めた。要するにマスコミが馬鹿なのではなく人間が馬鹿なのである、ということを再認識した。

土屋文明が、俳句や和歌は誰でも鑑賞しまた自分も作るが、映画はそうはいかないと『短歌入門』で言っているが、今や映画だろうとなんだろうと自分で作ってユーチューブで公開できる時代となり、いまさら俳句や短歌なんぞという辛気くさい媒体で自己表現しようとする者など昭和生まれの年寄りだけになってしまった。

青空文庫を最近非常に良く読むのだが、世の中はずいぶんいろんな文人がいて、中には面白いことを書く人もいるんだなとすごく感心したりもするが、一方で九割以上の文人はゴミだとしか思えない。共通一次やセンター試験の現国の問題がわけわからないし面白くもなんともないと思っていたが今もまったく同じ感想しか持たない。なんで世の中の人たちはあんなものを好き好んで読むのだろうか。

魯山人の書いた食べ物や骨董の蘊蓄とか、谷崎潤一郎の陰影礼賛なんかは面白いなと思ってはいたが、ああいうのよりも、夢野久作が書いた随筆などがすごく面白いと感じる。他にも専門の文筆家ではない人、例えば画家などが書いたものですごく面白いものがあったりして、それについては今はまだ書かずそのうち書こうと思うが、非常に不思議な気がする。中学とか高校生くらいまでは内村鑑三とか小室直樹などを面白がって読んでいたが彼らがものを書いていたのより自分が年を取ってしまって改めて読んでみると、内村鑑三なんかは科学者ではないから当たり前なのだが、科学的にかなりあやしげなことを書いている。小室直樹も当時としてはすごかったが、今読むとまあこんなものかなと思う。

現代の人だとたとえば山形浩生は面白いが、しかし私とは専門性がかなり離れているので、ある程度までしか共感できない。

誰が書いたものがつまらないかといえば、たとえば折口信夫とか、寺田寅彦なんかはまったく面白くない。昔は面白かったのかもしれないが、今改めて読むようなものではないと思う。海野十三とか中谷宇吉郎とか宮本百合子とか和辻哲郎とか。全然面白くない。小林秀雄の『本居宣長』はまあ面白いんだが、中根道幸の『宣長さん』などと比べてしまうとかなり落ちる。八時だよ全員集合を今見るとつまらないと同じで、そういう見方をすると昔のものはだいたいにおいてつまらない。まだ宣長の『玉勝間』や白石の『折り焚く柴の記』など読んだ方が楽しい。

コロナ

コロナだけど、社会生活に制約かけられたりとか、社内アナウンスがうるさいとか、仕事増やされたりとか、そういうのがなけりゃ別に好きなやつは好きなだけ騒げばいいし、好きなだけワクチン打てば良い。私に関係なきゃ知ったこっちゃない。

SNSやメディアで騒いでるの、はまた以前のような状態に戻らないかなと不安になるだけで、無視することにしてる。でも天下の公共放送がいつまでも不安を煽ってるのはいつかきっちり責任取らせたいと強く願う。騒げば騒ぐほど墓穴を掘ってるだけだが、あとでどうせ知らん顔するに違いない。

風邪引いたら家で寝てろよ。

いまだに風邪引いてるだけなのにコロナだとか騒いで、まあ風邪なんだから自宅療養したきゃすりゃいいけどさ。無症状なのにコロナ陽性とか濃厚接触者とかいまさらなんなんだよ。そうやって騒ぐやつがいるから医療逼迫するんだよ。おまえらが大騒ぎするから外来受付の電話全然つながらないじゃん。迷惑なんだよ。学級閉鎖とかなんなんだよそれ必要なの?老人ホームもいまだに親族なのに会えないとかアホじゃないの。家族が面会しようとしまいと肺炎にかかるひとはかかるし肺炎で死ぬときには死ぬんだよ。それまで家族に会えないほうがおかしいだろ。

現代短歌

今、現代短歌と言っているものは、現代口語で五七五七七になっているだけで、別に都々逸でも良いわけだ。七七七五で作っても五七五七七で作っても大差あるまい。

今様みたいに七五七五七五・・・で作っても同じだろう。

現代口語だけどたまたま五七五七七にあてはまっているものを短歌と言ってありがたがっているわけだが、そんなものにいったいどんな意味があるんだろうか。

都々逸は別に口語でも文語でも古語でも現代語でも好きなように混ぜて詠めば良いだけだから、わざわざ現代短歌なんか詠む必要ないじゃないか、みんな都々逸詠めばいいじゃないかと思う。

私はときどき都々逸も詠むが、まあふつうで、別に面白くもなんともない。ただの短い定型詩だ。

だれか、都々逸ではなくあえて短歌で詠まなきゃならない理由を説明できる人なんているんだろうか。あきらかに都々逸のほうが短歌より詠みやすいし、現代語にあっているし、便利だと思う。