村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)

少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある

少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。何も難しいことは書いてなく、書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。

そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。

居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店

グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家

人さらいのいるサーカス小屋

着飾った女性たちのいる遊郭

そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。

この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?

何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。

作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!

そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。

いきなりファンタジー

思うに、エヴァはいきなり使徒が襲来して、進撃の巨人ではある日いきなり巨人が人間を食べ始める。あるいは、目が覚めたら見ず知らずの他人と密室の中にいたとか。

ゼビウスも、あれは売れたからあとからノベライズしただけで最初からプロットがあったわけではあるまい。最初からあったか後付けかはともかくそういうものを世界観と言うらしい。ゲームという分野の中でそれをやったのはゼビウスが最初だろう。だから、ゲーム以外の分野にも適用範囲を拡げて、ゼビウス方式とでも名付けると良いかもしれない。とりあえずなんか食いつきの良い作品を作ってヒットさせる。ヒットしてからディテイルや続編や関連グッズや世界観なんかを作る。

初代のガンダムは最初からきちんとプロットが出来ていた。人類の歴史の必然の上で戦争が起きて中立国のサイド7にも飛び火したという設定になっている。しかし主人公のアムロは第一話でいきなり戦闘が始まりいきなりモビルスーツに乗ることになる。周りの状況はともかくとして、主人公はいきなり未知の世界に投げ込まれるのである。

やはりプロローグというものはある程度、いきなり読者を、視聴者を作品の世界の中に投げ込まなくてはならないから、突然イベントが発生して、そのイベントがどうなるか、なぜ起きたのか、興味を持たせるためにある程度未知のままにしておかねばならない。

だが凡百の作品はそこまでお膳立てをしているのではない。めんどくさいからいきなり架空の世界に転生したことにする。つまりはご都合主義で済ませる。

或いはストーリーを考えたり記述するのがめんどくさいので、世界観だけ一生懸命に凝る。世界観という言葉が生まれたのはストーリーと世界観が分離した証拠であり、それは作者や読者がストーリーか世界観のどちらかにより関心を持つようになり、もういっぽうをめんどくさがるようになった、ないがしろにするようになったからである。

カフカの変身などがいきなり転生ものの古典と言っても良いかもしれないが、あれはまあ、当時いきなり転生するってことがすごく珍しいストーリーとして成立し得たってことと、世の中がいきなり様変わりすることが現実世界でも起きてたからそのメタファーでもあったのだろう。今の世の中はどちらかといえば現実がいきなり変わることなど期待できず、現実から逃避したいから転生するわけである。現実というややこしくめんどくさいものと格闘するのがいやだからファンタジーに逃げる。その「現実めんどくせえな」という匂いがしただけで私はそれを読むのがいやになる。いやになるというか、作者の勝手な妄想世界に付き合わされるのは時間の無駄だという気になる。

実際ストーリーと世界観にまるごとくいついて全体を咀嚼し消化するのはけっこうな労力だ。だからパーツに切り分けて鑑賞する。そういう流れが生まれてもしかたない。例えば太田道灌というたった一人の人を知るにも南北朝を知り、室町、戦国を知り、鎌倉や川越や江戸城を知らなくてはならない。道灌が落とした数十の関東の古城と敵将を知らねばならない。その上、和歌も知らねばならない。たぶんほとんどの人は疲労困憊すると思う。だからこそ私には太田道灌が書くに値する魅力的なキャラに見えるが、読者にわからせるのはほぼ諦めている、と言っても良い。

私の場合、実在の世界に完全に埋没したストーリーを書くから世界観というのは現実そのもの、歴史そのものであるけれど、しかし私が書く歴史小説は私が発見した、あるいは再発見した歴史を書くのだから、私の考えた世界観と言えなくもない。ハルパロスやアルトニスやエウドキアなどは実在のキャラではあるが、まだ誰も書いてないから手垢がついてない、私が創ったキャラだということになる。ほんとはエウメネスもそのはずだったのだが、漫画がすでにあったし、そもそもプルタルコスでは英雄として描かれていたのだった。

富野由悠季は現実から逃避したいからではなくて現実そのものを、自分の歴史観と世界観で描きたいのだが、現実そのものを子供向けロボットアニメで描いてはシャレにならないので仕方なく虚構を使ったのである。だからああいう作品になった。

百済人と冬嗣

おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、多くの氏族が桓武に女御を入内させた。同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、桓武天皇から始まる可能性があった。しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、良房以後道長までで摂関政治が完成する。

それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、摂家というものを作り出したのではなかろうか。百済人は歴史から姿を消したように見えて、実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、日本の上流社会に生き延びたのである。高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。

摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。

桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。遍昭も良岑氏なので百済系。源光(光る源氏?)も百済系。

冬嗣の父は藤原内麻呂、母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。

永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。

桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、かつその仲介役として百済人がいた。

紀名虎という人がいた。彼は仁明天皇に娘種子を、文徳天皇に静子を入内させた。名虎は紀氏中興の祖であったが、結局冬嗣・良房親子に負けた。名虎の子・有常は急速に没落していき、貫之や友則の時代の紀氏は、藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。

紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。

伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。

50ccのバイクを2速で走る感じ

若い頃は、ていうか、30歳くらいだと、まだ自分が何者かわかってないしこれからどうなるか予測がつかない。50過ぎた今からみると、30のときにすべてがもう決まってた気もする。

ホルモンか何かのせいだと思うが30歳くらいまではとにかく何かになろうってのめりこめる。自分がアクション映画の中にいるひとみたいに思える。

しかし50過ぎると、持病は抱え込むし、体力は落ちるし、酒を飲めば疲れるし、いろんなしがらみで身動きとれないし、どうやれば失敗するかわかってるから、行動範囲も狭くなるし、どっか転居したり転勤したりもできなくなるからだいたいもう日常がわかりきってしまうし、少し食べ過ぎるとすぐ太るし。

とにかく自分という体が動かない。思うように動かせない。30歳の頃は400ccのバイクを5速で飛ばしてたようなもんで、今は50ccのバイクを2速くらいでちんたらはしってる感じ。

定年まであと15年もあるかと思うと絶望する。

ファウスト

ファウストは私も一部訳したのだった。

> 太陽は懐かしいメロディーで

Die Sonne tönt, nach alter Weise, 太陽は鳴り響く、太古からのやり方で、

> 兄弟の星々と歌を奏で合い、

In Brudersphären Wettgesang, 兄弟星らと歌を競いながら、

> 規定の道を

Und ihre vorgeschriebne Reise あらかじめ定められた旅路を

> 雷鳴の轟きで染め上げる

Vollendet sie mit Donnergang. 雷鳴をとどろかせながら邁進する。

> 理由はわからないが

Ihr Anblick gibt den Engeln Stärke, その眺望は天使に力を与える。

> その景色は天使を力強くする。

Wenn keiner sie ergründen mag; 誰も彼を究明できないとしても、

> 不可知の気高い営みは

die unbegreiflich hohen Werke その認識しがたい高尚な作品は

> 天地創造の日と同様に素晴らしい

Sind herrlich wie am ersten Tag. その原初の日から素晴らしい。

すごい韻文だよなあ。
Wettgesang、Donnergang、ergründen mag、am ersten Tag
が韻を踏んでおり、
Weise、Reise、Stärke、Werkeが韻を踏んでいる。

nach alter Weise は「懐かしいメロディーで」と「太古からのやり方で」。
うーむ。Weise は普通「やり方」「方法」だが、
確かに音楽用語として「メロディー」という意味もある。
alt を「懐かしい」と訳してしまうのはどうだろうか。
おそらくこれは後から出てくる am ersten Tag と関連して、
単に古いとか昔のという意味ではないか。
tönen は「鳴る」だが、次の行を見れば歌を歌うことを言うのは明らかだ。

Wette はお金を賭けて競うこと、英語の bet に同じ。
Wettgesang は歌のうまさをお金を賭けて競う、という意味。

「歌を奏で合い」うーむ。どうだろう。歌は奏でるものだろうか?

vollenden は完成させる、である。
「邁進する」は意訳。
「染め上げる」はどうだろうか。
直訳すれば「雷鳴によって完成させる」
少し意訳すると「雷鳴で敷き詰める」かなあ。
もとのままでいいかな。

まあ、ファウストはいろんな人が訳しているからなあ。

1984

1984を書き遺したジョージ・オーウェルという人は、大英帝国の末期に生きたイギリス人なわけだ。「ビルマの日々」「動物農園」などをあわせよんでみると彼の輪郭がだんだんはっきりしてくる。

殉教者を作ってはならない(one must not make martyrs.)。

これこそまさに大英帝国がその数百年にわたる帝国支配において、というより、キリスト教社会において、長い年月をかけて学んできたことだ。

キリスト教は「殉教者ビジネス」の先駆だ。教祖のイエスが殉教者の典型であったが、しかし、ユダヤ教の預言者にその前例がなかったわけではない。イエスがその殉教という演出方法を完成した。ほかの、例えばバラモン僧が自分で火あぶりになって死ぬみたいに、悟りや救済のために自発的に死を選ぶ「殉教」ではなくて、キリスト教の「殉教」は権力者による宗教弾圧とセットになっている。

宗教的弾圧を受けることによってより強固な共同体を作り出し、民衆、特に貧民を組織し、国家を侵食していって、やがて国教におさまって国家を乗っ取る。キリスト教とはそのような宗教である。

かつて日本にやってきた宣教師も弾圧され殉教した。ローマ法王は日本で殉教した宣教師を列聖することによって、日本にキリスト教の種を植え付けようとした(日本も爆心地の浦上天主堂をそのまま遺しておけば殉教のシンボルとすることができたのだが、建て替えてしまい、惜しいことをした)。殉教によって信仰がより強固になることを知った徳川幕府は、彼らを殺してしまってはいけないということに気付いた。改宗させるか、改宗しないまでも、生かして閉じ込めておくことにした。死ぬと殉教者になってしまい、信者たちの心の拠り所にされてしまうからだ。

20世紀には独裁国家が多数生まれ、殉教者もまた大量生産された。欧米の独裁者たちもまた、殉教者を自ら作り出さないように腐心した。独裁者たちは死に至らしめない肉体的拷問方法をたくさん編み出した。そしてもっとも巧妙なのは、反逆者らを精神的敗北者にしてしまうことだった。そのために一番効果的なのは、同志を告発させ、裏切らせ、転向させることだった。日本の「踏み絵」と良く似ている。「異端者」を「自由意志にもとづいて」「屈服させる」。「消極的な服従」にも、「至高の服従」にも満足しない。自分の最も愛する人を裏切り告発することで人は心が折れてしまい、反逆者として存在しなくなってしまう。これは反逆者を死刑に処すよりもずっと効果的なのだ。ということが 1984 に描かれている主題だ。

しかしながら、そうやって反逆者を消し去ったようにみえて、結局は、スターリンや毛沢東も、殉教者を完全に抹殺することはできなかった。無数の、無名の殉教者がいることを私たちは知っている。

殉教者を実数より少なくみせることも、逆に多くみせることも、殉教者ビジネスの一種だ。この「殉教者ビジネス」は今日でも「被害者ビジネス」「社会的弱者ビジネス」として健在なのは驚くべきことだ。イエスが自分で意図してこのビジネスモデルを発明したとすればおそるべき慧眼といえる。

アンプルフォースという詩人がキップリングの詩集を編纂していた。その詩の一つに、rod と韻を踏むために god という単語が出て来た。脚韻のために god を詩から削除することができず残した、それで思想警察に捕まってしまう、という話が出てくる。

君は考えたことがあるかね、イギリス詩の歴史は、全般的にいえば、英語が脚韻に乏しいという事実によって決定づけられていることを?(‘Has it ever occurred to you,’ he said, ‘that the whole history of English poetry has been determined by the fact that the English language lacks rhymes?’ )

「英語が脚韻に乏しい」よく見かける文句だが、これは 1984 が初出なのだろうか。どうもそうらしいのだが、だとするとずいぶん新しい。

ところで 1Q84 は 1984 に触発されて書かれたものであって、それゆえに 1984 を読み返す人が多いというのだが、それはどうだろうか。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

シドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。

いや、それはどうだろう。新井白石の著書から、そんなことが読み取れるだろうか。彼の認識は「我国厳に其教を禁ぜられし事、過防にはあらず」であろう。

白石は、問題をこじらせないためには、宣教師を本国に送り返すのが上策だし、でなきゃめんどうだが幽閉してしまえ。処刑するのは下策だ。転向させたり拷問することは無意味だ、と提言しているだけだ。国内的には一般人から隔離して「存在しない」ことにしてしまえばそれで足りる。対外的には迫害や殉教という事実がそもそも「存在しない」ことを示せば足りる。

wordpress

tanaka0903.net が固まっていた。JetPack とか All in One SEO などのプラグインのせいであるのは明らかだ。いまどきアフィリエイトもやらずに、非力なレンタルサーバーで、プラグインも使わずに、wordpress を使い続けることにどんな意味があるのだろう。だがまあ、ともかくこのまま使い続けてみようと思う。もしかするともう少しうまい方法がみつかるかもしれない。facebook と連携なんてアホなことをやるのはやめた。

廃仏毀釈

明治政府が発令した神仏習合の禁止は、廃仏毀釈運動にまでエスカレートした。

神道にもある程度の多様性があり、仏教との相性もさまざまだった。神道の中でも例えば伊勢神宮のようなご神体とか神域、物忌みをしなくてはならない斎宮などと関係が深いところは仏教と相容れない。同じように斎宮がいる上賀茂神社もそうである。

神道がその純粋性、純潔性を保ち得たのはこの「物忌み」「穢れ」という神道固有のタブーのおかげだった。タブーを否定することで世界宗教となった仏教と、タブーを中核とする土着宗教である神道は、最終的に決裂した。皇室行事の中核にもこの「物忌み」「穢れ」があって、故に、その中心部まで仏教の影響が及ぶことはなかったのである。神道から見れば仏教は「穢れ」そのものであるからだ。神道の本質は「穢れを忌む」ことであるという原点に立ち戻れば、神仏分離という原則が当然発動する。この信仰は千年を経ても風化しなかった。

天皇は神官であって仏弟子になることは許されないが、上皇になってしまえば出家することができる。同じように、伊勢神宮には仏教は侵入できないが、神宮寺というものが伊勢神宮を取り巻くことなった。ここまでは仏教が入ってきてもよい。ここから先はダメという線引きがなされるようになった。天皇がいなければこのようなぎりぎりの基準が模索され、議論されることもなかったに違いない。平安時代にはすでにこの慣例が確立していた。

しかしそういう明確な線引きができない神社では、神道は仏教によって際限なく侵食されていく。出雲大社や熱田神宮ですらそうだった。

八幡宮は、おそらくは渡来人が建てた神社であって、もともと仏教の禁忌が弱かったと思われる。宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴丘八幡宮などは速やかに習合が進んだ。

明治の神仏分離で一番に影響をうけたのは、当然、神宮寺、そして権現社であった。八幡宮は、武家の守護神ということで、国学の影響をもろにうけて、仏教的色彩を意図的にぬぐい去ろうとした。奈良の興福寺は春日大社との癒着が強すぎ、また内山永久寺は石上神宮の神宮寺であり、それがために攻撃された。

それ以外の仏教宗派では、比較的影響は少なかったはずであるが、一部の狂信的な神道家が、明治政府の権威を笠に着て、たとえば県令という立場を利用して、無茶な命令を出すこともあった。しかし、神仏習合と同様に廃仏毀釈の主体は民間であったことはもう少し指摘され、平田篤胤が提唱した国家神道理論にかぶれた明治政府のせいという見方は矯正されて良い。

神仏習合は長い時間をかけて、民間主導で、しばしば由緒正しい神社の権威に寄生して肥え太ってきた文化的侵略である(家康の宗教音痴と仏教優遇はそれに拍車をかけた)。上田秋成も国学者ではあるが神仏習合自体が悪いとは考えていない(というか、神仏習合にかなり同情的だった、と言うべきか)。明治の廃仏毀釈に相当するのはかつての物部氏の反発であったり、清盛の南都焼き討ち、信長の比叡山焼き討ちも一種の揺り戻し、仏教勢力が力を持ちすぎると自然に起きてきた反発である。特に江戸時代になって、檀家制度によって肥大華美となり、神道の権威にすりよった仏教は、江戸時代の古文辞学、国学の発達によって、ある程度まで見直される必要があった。

廃仏毀釈、或いは廃寺によって行き場をうしなった檀家は、神道に改宗したり、寺を神社に改組したり、神道系の新興宗教を立ち上げたりしたであろう。あまり意味のあることとは思えない。また工芸品としての仏教美術をうしなうことにもなった。ただ「廃仏毀釈」の是非を問う人たちのほとんどがこれを単なる愚挙と見做しているのは愚挙である。仏教勢力は結局、GHPの農地解放によって、領主、地主としての地位を失って大きく衰退した。その後、仏教そのものの衰退によって、「無駄に多い」寺は存続の危機に立っている。

日本には寺が多すぎる。江戸期にどれほど仏教が無秩序に肥大化していったか。特に関東の人間にはそれがわからない。平気で寺の隣に神社を建てたりする。京都市街など見れば、寺と神社は明らかに区別されている。神道と仏教は本来別物なのだから区別しなければならない、という感覚に鈍感すぎる連中が関東には多すぎる。神道も仏教もキリスト教も、冠婚葬祭は全部同じところでやれば良いという発想はわからぬでもない。しかしそれではダメだと思う人も関東以外にはたくさんいる。

鎌倉仏教の基礎を築いた北条氏は、南宋の文化と文明を輸入するための方便として臨済宗を取り入れた。しかし、民衆たちが、仏教を念仏と偶像崇拝の宗教にしてしまった。

もしキリスト教が神道と無秩序に混淆してしまったとしたら、キリストと天照大神は同じだなどと神道の教義が説くようになったとしたら、反発する日本人は少なくないだろう。しかし仏教に関しては長らくこのような説が主流だったのである。

神道が念仏にも偶像崇拝にも、大伽藍建築の悪弊にも、かろうじて染まらなかったのは幸いだった。

アメリカ映画

ハリウッド映画やアメリカドラマでは、よく夫婦が離婚する。離婚した状態で物語が始まる。或いは別居中である。仕事はできるが夫としては頼りない男が主人公で、ヒロインは別れた妻で、子供は妻に取られてて、困難を克服して夫婦はふたたび仲直りする。というストーリーになっているのがすごく多い。ナンデヤネン。

一方で、主人公が軍人の場合には(退役軍人をのぞく)、彼は理想的な男であり、良き夫であり、妻とも子とも仲が良い。しかし軍人なので家を離れがちであり、しばしば愛する妻に電話した後に死んだりする。

この扱われようの違いはなんだとおかしくなる。

アメリカでは、軍人は頼りない夫であってはならない。そんなストーリーはタブーなのだ。

ソラリス

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、
意味深な前振りをざっくり省略したりしている。この前振りはラストと呼応しているわけだが、前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。最初から最後まで完全純粋なSFである。SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。狂気の中に身を置かねばならない。いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。家族が好きかどうかということはあまり関係ない。それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。映画監督の気持ちなんて。

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。ところが彼はレムの小説ではなく彼が書いたSF評論を先に読んでしまったようだ。山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、レムの評論に何か意味があるとは思えない。レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、
「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。
しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、文明人が野蛮人を征服するように、火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、という「あまりにも人間的」な発想だ。19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。人間の都合で宇宙人を作るな。それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。人間固有の発想に囚われている。先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。それはどういうものであり得るか、ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、そここそがレムのオリジナリティーなのである。作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。まさにポーランドの原野だ。『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。第一章の終わりで、スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。うまいひっかけだと思う。読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。そこがまあこの作品のおもしろさだろう。第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。これがだめ押し。ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、『ソラリス』が真に理解されたからではないし、『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。恋愛なんて一言も語られない。ここはレム自身による作品解説になっている。タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。『ソラリス』という話の核とも言える。もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。100%ピュアな科学小説だ。レムにしてみれば、この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。前半部分は読者サービス。中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。