エウメネス2 ― イッソスの戦い ―

最初は「エウメネス2」か「イッソスの戦い」かどちらにしようか迷ったが、結局間をとって「エウメネス2 ― イッソスの戦い ―」とした。

図版無し90枚くらいのはずが、図版あり225枚くらいになった。かなりの大作だ。最終的には250枚くらいになるだろうと思う。

「イッソスの戦い」がメインなのだが、だんだん書いていて「テュロスの戦い」もけっこういけるんじゃないかなと思えてきた。この「テュロスの戦い」だが、あまり深く掘り下げて書いたものはなさそうだ。むろん、イッソスにしろ、テュロスにしろ、アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」を下敷きにしているわけで、こちらのほうが細かいといえば細かい。しかしほかの文献で補完したりしてかつ私なりの脚色と考察を加えているわけだから、私のほうが詳しいといえば詳しい。割と良い出来だと思う。

先に書いた『エウメネス』だがだいぶ整合性がなくなってきたので、少し書き換えた。少しだけだけど。最新版ダウンロードはアマゾンに個別にリクエストしてください。すみませんが、よろしくお願いします。変えたところというのは、まず、カルディアというポリスのことを誤解していた。カルディア == トラキアのケルソネソス半島だと思っていた。実際にはケルソネソス半島のごく一部。また、エウメネスの母をトラキア人としていたのだが、フリュギア人に統一。

しかし、『ヒストリエ』ではなぜエウメネスをスキュタイ人としたのだろうか。たぶんプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』の記述に引っ張られたんだと思うが、『対比列伝』は、ローマ人についてはともかくとして、ギリシャ人の記述は民間伝承レベルで、決してよろしくない。と思う。ヨーロッパからみたスキュティアは今のウクライナ辺りになるのだが、北方のトラキア人を広い意味でスキュタイ人と言ったのだろうか。そうかもしれんね。

もうほとんど完成したと思うんだが、出版予定日は繰り上げずに予定どおりやると思う。
こまごましたところはゆっくり直していけば良いと思うんだけどねえ。KDPなんだし。

ちょっとだけネタばらしすると、テュロスの戦いですごいのは、おそらくアレクサンドロスが世界で初めて「投石器を搭載した軍艦」を建造し、実戦に投入し、これによって勝利した、ということだと思う。誰か前例を知ってたら教えてください。無いと思うけど。
それまでの海戦はだいたい軍船どうしの戦いだったはずだ。一日で決着がついた。しかしテュロスの戦いは軍船による島の上に建てられた城の包囲戦だった。こんな戦いがテュロス以前にあったはずがない。これがゆくゆくは米海軍による黒船襲来、マニラ艦砲射撃へとつながっていくわけですよね。もちろん軍船の上で弩を使って撃ち合った、というようなことはあったかもしれんが。

でまあ、私としては、テュロスの戦いはもっと注目されて良いと思った。と言っても、イッソスの戦いですら、日本ではあまり話題になることがないのだよね。

あと一気に読むのは長さもあって辛いと思います。私も校正してて気絶しました。地名や人名がたくさん出てくるのは勘弁してください。そういうところは流し読みしていただけると助かります。

これを当てて、ゆくゆくは総集編を出したいよねえ(笑)

あ、あと、アマゾンが 50pt 付けてくれてるのはありがたい。

源満仲

源満仲にも一つだけ和歌が残っている。『拾遺集』

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲朝臣
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

清原元輔を源満仲が送った歌。

どうも、清和源氏初代、源経基は一応平将門の乱に関わり鎮守府将軍となったが、大したことはしていない。同じく将門の乱で征東大将軍となった藤原忠文のような役回りだろう。

経基の子・満仲も摂津に武士団を形成し鎮守府将軍となったというが、ほんとに武将と言える人か不明。

満仲の子・頼光も、どうも武士らしくない。しかし同じ満仲の子・頼信、頼信の子・頼義、頼義の子・義家は明らかに武士(武将、武人)である。だが、頼信、頼義、義家には和歌が残ってない。こうして見たとき、頼光の末裔である頼政も、どちらかといえば、武士らしからぬ武士だったということになる。

血圧

血圧がすごく下がることがある。もともとそういう体質でもなければ、そういう病気に罹ったわけでもなく、これは飲んでいるアーチストという薬が血管を拡げているせいなのだ。そうすると、立ちくらみすることがある。歩いてたり、座って安静にしていても、
急に血の気が下がったような状態になる。ところがまあ、日本では(世界的にも?)、血圧は低ければ低いほど正常なことになっていて、私の場合低いと言っても上が 100 とか 105 とかなんで、医者に言っても「正常値です」「大丈夫です」としか言われない。しかし血圧が低い状態で気分悪いから寝てしまうと寝たまま死んでしまうんじゃないかと不安で仕方ない。

私の場合もともと血圧は高いほうで、130 とか 140 くらいが普通で、そういうときは目も覚めるしやる気も出る。しかし血圧が低いとなんか生きる気力まで失われてしまう。電車に乗ると、いつ気分が悪くなるかと気が気でない。田舎で、仕事もせず、車にも電車にも乗らない生活をしてればいいんだろうが、それもできない。なんかもうすごい年寄りになった気分になる。ここまでしてこの薬を飲まねばならないのかと思う。何度か医者に文句を言ったこともあるんだが「我慢して飲んでください」としか言われない。血圧が低すぎて死ぬ人は、高すぎて死ぬ人に比べて皆無に近いのだろう。

この低血圧というのは女性には多い症状なのかもしれない。生まれたときからずっとそうならば、人生とはそうしたものだと思うかもしれんね。

じんましんが出たり、おしりにおできができるのは、毎日きちんと石鹸で体を洗い、きちんと下着を着替えれば、ほぼ防げるようだ。しかしそれがなかなかめんどうだ。じんましんに関していえば、ほぼ原因は、食べ物によるアレルギーではなさそうだ。酒を飲むとめんどくさくてそのまま寝てしまう。それが2日続くとじんましんがでる。たぶんそんな感じ。

1日以上放置すると確実に体の表面の角質層に残った脂が古くなってダメだ。汗をかくたびにシャワーを浴び、古い角質と脂を洗い流し、新しい脂をワセリンなどで補充し、下着を替えると完璧なんだろうが、そこまでする必要もなさそうだ。というよりそんなことしたら別の皮膚の病気になるかもしれん。

おできは今まで気にしなかっただけで毎日できては消えているらしい。おしりを圧迫したりむれたりするのが良くないようだが、よくわからない。できるのはしかたないからそれがかぶれたり悪化しないようにやはり清潔にしておかねばならない。

昔は体のことなど何も考えずに暴飲暴食してたわけだが、そうもいかなくなったのはやはり加齢のせいだろう。皮膚の新陳代謝が衰えているのはまず間違いない。

神鹿、死刑

昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。常識的に考えて、あり得ないことだ。

信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。

だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。春日大社の宮司?そんなはずはない。東大寺か興福寺の僧兵?まさか。

江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。

鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。

アーチスト

最近体調が悪いのは、心臓の具合が悪いとか、年をとったからということもあるかもしれんが、たぶんアーチストという薬を飲んでいるせいだ。

服用を忘れたときに、2回分をいちどに服用すると血圧が下がりすぎて、めまい、転倒をおこすこともあります。飲み忘れたときは、その分は抜いて、次回から正しく飲んでください。

アーチストは血管を広げて血圧を下げ、これによって心臓の負担を軽くしている。しかしながら、よく立ちくらみするようになった。しばらくすると体が慣れたのか立ちくらみすることはほとんどなくなった。しかし電車に長く立っていると気分が悪くなってきて、冷や汗が出てくるようになった。たぶんアーチストのせいだと思う。

座っていれば特に問題ない。短い時間なら問題ない。歩いてるのは全然平気。しばらく山歩きしても、息が切れるとかそんなことはない。

でまあ、電車やバスではできるだけ座るようにしているのだが、本来は私のような人間が優先席に座ってよいはずだが、見た目は健常者なので、席を譲ってもらうのは難しい。アーチストの量を減らしてもらいたいとも思うが、それで心臓に問題が出ても困る。でも減らしても全然平気なのかもしれない。

血圧というのは多少高いくらいが体調は良いものだ。がんがん遊びたくもなる。しかしそれはもうできない。いつもなんか眠い感じもするが、無理せず寝るようにしている。私は日本が認めた重病人なのだからなー。

通勤というのがまあ問題なわけですよね。特に都心方向への。多少金がかかっても仕方ないので指定席でいくか、あるいは逆に各駅停車で行くようにしているが、ときどきどちらもできないことがあって、そんなときたまたま座れると良いが、座れないときは、ときどき途中下車して休憩しなくてはならないだろうと思う。実に面倒だ。

そんなふうで私はいつも生命の危険を感じて生きているわけだ。私のような人間は早く田舎に引っ越して店番かなんかして、毎朝墓参りなんかして生きていくのが体には良いのだろう。そうしてただ無為に、死ぬまでの間生きていく。もう、それで良いのではなかろうか。

皮膚が弱くなってきている気がする。これも薬の副作用かと思ったがなんともいえない。私は汗かきなのだが多少汗をかいてほっといてもたいしたことにはならなかった。しかし今はこまめに下着を替え、体を洗ったり拭いたりするようにしている。まあ、普通の人がふつうにやってることをやるようになっただけなのだが。

源光

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。

桐壺帝は仁明天皇。

桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。

一院は嵯峨院。

弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。

弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。

藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

某哲学者との対話

最近どうも歌がうまく詠めない。昔詠んだ歌をながめてみても、良いと思えなくなっていた。自分が詠んだ歌とか自分が書いた文章が嫌いになることはこれまでもよくあったことだ、自分としてはもっとうまい歌を詠みたいとかもっとうまい文章を書きたいとか、詠めるはずだ書けるはずだいう気持ちがでてきてそのレベルに達してないわけだから、これはもう仕方ない。

それでこないだ「セックス哲学懇話会」という怪しげな集会に飲み会だけ参加したのだが、そこで某哲学者に「本が売れたいのか?有名になりたいのか?」と聞かれたので、なんかもごもごとうまく説明できなかったのだが、商業的に売れてくれれば好きな仕事で金がもうかって嫌いな仕事をしなくて済むわけで、それはそれでもちろんありがたいのだけど、本が売れて、いろんな人から正当な評価を受けて初めて本というのは「自分の業績」になるのである。論文ならば査読がある。それなりの権威ある学会の査読に通りさえすれば、別に一般読者はいなくても、自分の仕事が認められたことになる。その学会とか査読システムというものも、必ずしも万能ではない。分野から少しでも外れるとなかなか読んでもらえず評価もしてもらえない。学生の頃からずっと同じ研究をして同じ学会にいれば良いのかもしれんが、私のように、せっかちで落ち着きの無い性格だと、どんどん関心がずれていってまったく違うことをやりだしてしまう。そういうタイプの人間にとって、基本縦割りのたこつぼ構造になってる学会というのは不便である。

そんでまあ、自分に合った「学際的」な学会を作ろうとかそういう「学際的」な大学に移ろうとかいろいろ画策した(実際にはふらふらと転職を繰り返したり、学会の立ち上げに関わったりした)のが、私の場合は30代だった。もっと細かくいえば、30歳から43歳くらいまで。まじめに論文を書いたのは30歳までだった、とも言える。

私の田中久三という名前は先に tanaka0903 というユーザー名があって、これは 2009年3月という意味。43歳の終わりだ。この頃から完全にもう学会とか論文とか大学での研究というものから外れだした。だったらそこで教員を辞めるかと言えば、メシが食えなくなるので辞められないし、もともと研究すること自体は嫌いじゃないから、大学の仕事はそれとして、趣味みたいなことを研究しだした。それで知り合いの出版社を頼って単著で本を書かせてもらうことはできるかもしれないが、ただ書いただけじゃ、誰も査読してない勝手に書いた論文と同じで、出版しても何の意味もない。本は、査読の代わりの何か、第三者による評価が必要なわけで、それはある程度商業的に成功することだったり、社会的な影響を与えることだと思うのだ。そうなれば私も、今までとは全然違う分野だけど、「研究業績」のリストの中に加えることもできるだろう。そうでないのに(そうしている人はたくさんいるかもしれないが)これが私の研究ですよなんて自慢する気にはなれない。

それで、出版社に損をさせない程度に売れたらまた本を書かせてもらう。書きたい本を書けてたまに売れてくれればうれしい。売れなきゃもうそれっきりだ。

天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。

主有る詞(ぬしあることば)

特定の個人が創始した秀句で、歌に詠み込むのを禁じられた句。

幽斎『聞書全集』

主有る詞とは

### 春

かすみかねたる(藤原家隆)

> 今日見れば 雲も桜に うづもれて かすみかねたる みよしのの山

うつるもくもる(源具親)

> なにはがた かすまぬ浪も かすむなり うつるもくもる おぼろ月夜に

はなのやどかせ(藤原家隆)

> 思ふどち そことも知らず 行きくれぬ 花の宿貸せ 野辺のうぐひす

月にあまぎる(二条院讃岐)

> 山高み 峰のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空

あらしぞかすむ(後鳥羽院宮内卿)

> 逢坂や こずゑの花を 吹くからに あらしぞかすむ 関の杉むら

かすみにおつる(寂蓮)

> 暮れて行く 春のみなとは 知らねども かすみに落つる 宇治の芝舟

むなしき枝に(九条良経)

> よしの山 花のふるさと あと絶えて むなしき枝に 春風ぞ吹く

はなのつゆそふ(藤原俊成)

> 駒留めて なほ水かはむ 山吹の 花のつゆ添ふ 井出の玉川

はなの雪ちる(藤原俊成)

> またや見む 交野の御野の 桜がり 花の雪散る 春のあけぼの

みだれてなびく(藤原元真)

> あさみどり 乱れてなびく 青柳の 色にぞ春の 風も見えける

そらさへにほふ(藤原師通・後二条関白内大臣)

> 花盛り 春の山辺を 見渡せば 空さへにほふ 心ちこそすれ

なみにはなるる(藤原家隆)

> かすみたつ 末の松山 ほのぼのと 浪に離るる 横雲の空

### 夏

あやめぞかをる(九条良経)

> うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

すずしくくもる(西行)

> よられつる のもせの草の かげろひて 涼しくくもる 夕立の空

雨のゆふぐれ(九条良経)

> うちしめり あやめぞかをる ほととぎす 夏やさつきの 雨の夕暮れ

### 秋

きのふはうすき(藤原定家)

> 小倉山 しぐるる頃の 朝なあさな きのふはうすき 四方のもみぢば

ぬるともをらむ(藤原家隆)

> つゆしぐれ もる山かげの したもみぢ 濡るとも折らむ 秋のかたみに

ぬれてやひとり(藤原家隆)

> したもみぢ かつ散る山の ゆふしぐれ 濡れてやひとり 鹿の鳴くらむ

かれなでしかの(六条知家)

> あさぢ山 色変はり行く 秋風に 枯れなで鹿の 妻をこふらむ

をばななみよる(源俊頼)

> うづら鳴く まのの入り江の 浜風に 尾花なみよる 秋の夕暮れ

露のそこなる(式子内親王)

> あともなき 庭の浅茅に むすぼほれ 露の底なる 松虫の声

月やをじまの(藤原家隆)

> 秋の夜の 月やをじまの 天の原 明け方近き 沖の釣り舟

色なるなみに(源俊頼)

> 明日も来む 野路の玉川 萩越えて 色なる浪に 月宿りけり

霧たちのぼる(寂蓮)

> むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

わたればにごる(二条院讃岐)

> 散りかかる もみぢの色は 深けれど 渡ればにごる 山河の水

月にうつろふ(藤原家隆)

> さえわたる 光を霜に まがへてや 月にうつろふ 白菊の花

### 冬

わたらぬみづも(後鳥羽院宮内卿)

> 竜田山 嵐や峰に 弱るらむ 渡らぬ水も 錦絶えたり

こほりていづる

あらしにくもる

やよしぐれ

雪のゆふぐれ

月のかつらに

木がらしのかぜ

### 恋

くもゐるみねの

われてもすゑに

みをこがらしの

袖さへなみの

ぬるとも袖の

われのみしりて

むすばぬ水に

ただあらましの

われのみたけぬ

きのふのくもの

### 雑

すゑのしらくも

月もたびねの

なみにあらすな

右何れも主有る詞なれば、詠ずべからずと云々。

察然和尚

宣長年譜 元文4年(1739)

> 同四年【己未】血脈受入蓮社走誉上人。【伝通院中興ヨリ二十七世之主矣】法名英笑号也

宣長年譜 寛延元年 (1748)

> 樹敬寺宝延院方丈にて観蓮社諦誉上人蓮阿◎(口編に爾)風義達和尚に五重を授伝し、血脈を授かり、伝誉英笑道与居士の道号を受く。

察然和尚

宣長が10歳で法名を授かった入蓮社走誉上人と19歳で道号を授かった察然和尚とは別人。
察然は宣長の母の兄というから実の叔父にあたるわけである。

厳密には「英笑」の部分が戒名、法名であって、
「道与居士」は位号、
「伝誉」が道号(浄土宗で言う「誉号」)。
「英笑道与」までが戒名であるかもしれんが。
院号は(まだ)無い。

しかしながら宣長は晩年自ら「高岳院石上道啓居士」という号を付けている。
「石上」という法名は彼の私家集の名でもあり、宣長の雅号でもあるのだろう。
で、「高岳院」が道号、この場合は院号である。
「道啓居士」が位号。「道を啓く」とはずいぶん立派な名だ。

伝通院は小石川にある徳川将軍家の菩提寺。浄土宗。増上寺の末寺。
樹敬寺は松坂にある浄土宗の寺。
父方の小津家と母方の村田家の菩提寺。京都知恩院の末寺。