実朝の真作かもしれない。

> ものゝふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

この歌は定家本系統には無いが、貞享本にはある。
なので実朝の真作かもしれない。

> 宮柱ふとしき立てて万世に今ぞさかえむ鎌倉の里

こちらも同様。

だが、未だにかなり疑問もある。

実朝歌拾遺というのはつまり、
定家本には無くて貞享本にある64首、という意味なんだなきっと。
ここには割と良い歌がそろってるんだよね。
どうしたもんかな。

実朝の謎は深まる

図書館から、いくつか本を借りてくる。

太宰治「[右大臣実朝](http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html)」。
1943年。
なんか異様に長い小説。
実際に長いというより長く感じる小説。
戦争中になぜこんなものを鬱々と書いていたのだろうか。

小林秀雄「実朝」。
いきなり吾妻鏡。
小説は真実より深く行くことがあるからとか、なんか予定調和説支持みたいなことを、
ぶつぶつ書いている。
「予定調和ありきでいいじゃん」みたいなオーラを感じるこの人は。
いいじゃん事実は事実で。

で、佐佐木信綱が昭和四年に金塊集の定家所伝本を発見してその奥書に建暦三年という日付がはいっていると言う。
建暦三年は1213年。
実朝が死ぬのは1219年。
小林秀雄はそれまでは、
同じ年の11月23日、定家から相伝の万葉集が届いて、それから万葉調の歌の習作を詠み始めて、
約5年間の間の歌を集めたものが金塊集であると考えられてきたのだが、
佐佐木信綱の発見によって、
それらの歌は1213年以前に詠まれたということがわかった、としている。

岩波書店日本文学大系「山家集・金槐和歌集」の中の小島吉雄校注「金槐和歌集」。
1961年初版。
書かれた順番で言えば先に挙げたものよりは後に書かれていて解説も詳しい。

佐佐木信綱氏は昭和四年五月に藤原定家所伝本を発見。
定家が一部自書し、他を側近が書き写し、663首の歌を載せている。
建暦三年十二月十八日の奥書がある。
佐佐木信綱氏によって岩波書店から復刻出版された。

実朝が死んでから編纂されたと考えられる貞享四年板本というのがあり、
こちらにはわずかに64首しか追加されていない。
つまり、実朝が1192年に生まれて1213年の22才までに663首を詠んだのに、
それから5年間ではわずか64首しか詠んでないことになる。
これはおかしい。
疑問点その1。

定家から万葉集をもらったのと、万葉調の習作をたくさん含む金塊集の原稿を定家に渡したのがほぼ同時期。
これがまたおかしい。
疑問点その2。
では定家から万葉集をもらう前から実朝はある程度まとまった数の万葉集の歌に接することができたのだろうか。
当時それほど万葉集というものは入手しやすかったのか。
しかも京都から離れた鎌倉で。
思うに万葉集というものは、当時は京都の一部の歌詠みの公家の家系にしか伝わってなくて、
実朝が所望したのでわざわざ定家が万葉集を送ったと見るべきだろう。
だから、実朝はもちろん万葉集の歌を断片的には知っていたかもしれないが、
膨大な習作を詠むほどにはそのサンプルとしての絶対数が足りなかったに違いない、と思う。
たとえば万のサンプルがあってやっと百の習作が作れる。
やはり定家から万葉集をもらってから詠んだ歌が金塊集の大部分を占めていると考えるのが自然なのだが。

たとえば実朝は「けけれ」のような古代の関東方言をわざと歌に使う人である。
実朝の時代にも「こころ」を「けけれ」と言っていたのではあるまい。
万葉時代の関東方言が万葉集に残っていてそれを見たから自分の作に使ってみただけのことである。
つまり実朝の

> 玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ

は万葉集の

> 甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり臥せる小夜の中山

を元にしたものである。
どちらも東海道を旅している歌なので、どんぴしゃですよね。
ついでに

> 東路の小夜の中山越えていなばいとど都や遠ざかりなむ (新千載)

このように実朝はかなり多数の万葉集の歌を参照しており、その数が多ければ多いほど、
定家から万葉集の完全本をもらったあとに金塊集が成立したことの傍証にはなり得よう。

小島吉雄氏も
> この本に収載せられた歌が全部建暦三年十二月以前の作であるとする従来の通説も、
疑えば疑える余地があるわけであって、

と言っており、この通説とはつまり佐佐木信綱から小林秀雄に至る説という意味だろう。

> 厳密に言えば、この本の成立時期並びに成立事情は今のところ明確ではないということになるのであるが、
現段階では、建暦三年十二月にまとめられたという積極的な証拠もない代わりに、
これを否定すべき材料もなく、
内容的にもそれで矛盾が生じないので、
一応、建暦三年十二月までの歌をまとめたものだろうということにしているわけである。

と、かなり疑念を残した書き方をしているように思える。
他にも補注の中に

> 建保二年三月の晩、帰館してから酒杯を酌み交わして翌日実朝も二日酔いに悩んだ由の記事がある。
ただし、この歌は定家本に載っている歌である。もし定家本を建暦三年十二月以前の成立とみるならば、
この歌を建保二年の作とみることができない。
その点にいささか問題はあるが、
建保二年四月、二所詣より帰館した翌朝の趣を歌にしたのであろうというふうに考えることは、
わたくしは幾分執着するのである。

などと書いていて、小島氏も、この二所詣というのが吾妻鏡の中で日付がわかるので、
二所詣を詠んだ歌が金塊集成立年の証拠になるのではないかと、
いろいろ調べてみた形跡があるわけですよ。
なんか悔しさにじませてるよなあ。
ちなみにその補注の元の歌とは

> 旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

のこと。

金塊とは「金」が「鎌倉」を意味し、「塊」が大臣を意味する。
金塊で鎌倉の大臣を意味する漢語表現だという。
なるほど、「まづ塊より始めよ」の「塊」ね。
これも佐佐木信綱説。

歌よみに与ふる書

歌よみに与ふる書

> おほせの如く、近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば万葉以来、実朝以来、一向に振ひ申さず候。

わろす。

> 実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。
あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ申さず候。
とにかくに第一流の歌人と存じ候。

実朝はすごいとは思うが、そこまですごいかな。

> 古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤りなるべく、
北条氏を憚りて韜晦せし人か、
さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。

北条氏を憚るというのもあるか知らんが、実朝は奇抜すぎるよな。
あと、万葉調を露骨に模倣したりとか。

> 実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、
例のものずき連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、

わろす。
ものずき連中とは古今、死に歌よみとは新古今以後、ということだろう。

> 真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。
真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に之有るべく候。

ふーん。

再び歌よみに与ふる書

> 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれ有り候。

わろす。

> 三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしくあいなり候。

わろす。

> それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入り候。
何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりにござ候。

正岡子規面白いな。

>『古今集』以後にては新古今ややすぐれたりと相見え候。
古今よりも善き歌を見かけ申し候。
しかしその善き歌と申すも指折りて数へるほどの事に之あり候。

ふーん。

> 定家といふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、

わろす。

> 新古今の撰定を見れば少しは訳の分つてゐるのかと思へば、自分の歌にはろくな者これ無く

わろす。
確かにそうだ。
定家の歌で面白いものはほとんど全くない。

> 門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致し候。
いつの代如何なる技芸にても歌の格、画の格などといふやうな格がきまつたら最早進歩致すまじく候。

そうだそうだ。

三たび歌よみに与ふる書

> 歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またとこれ無く候。

わろす。

> 歌よみのいふ事を聞き候へば和歌ほど善き者は他になき由いつでも誇り申し候へども、
歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に、

わろす。

> 歌が一番善きやうにうぬぼれ候次第にこれ有り候。
彼らは歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれば川柳も俳句も同じと思ふほどの、
のんきさ加減なれば、まして支那の詩を研究するでもなく、
西洋には詩といふものがあるやらないやらそれも分らぬ文盲浅学
まして小説や院本も、和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば、定めて目を剥いて驚き申すべく候。

ふーん。
まあ、子規の立場からしたらそうだよな。
だが子規のおかげで和歌も俳句も何もかも混同する輩が出てきて収集つかなくなったのも事実だ罠。

四~七たび歌よみに与ふる書

略。

八たび歌よみに与ふる書

> 悪き歌といひ善き歌といふも、四つや五つばかりを挙げたりとて、愚意を尽すべくも候はねど、なきにはまさりてんといささかつらね申し候。
先づ『金槐和歌集』などより始め申さんか。

>> もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

> この歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、またかくの如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なる事も分りをり候へども、この種の句法がほとんどこの歌に限るほどの特色をなしをるとは知らぬ人ぞ多く候べき。
普通に歌は「なり」「けり」「らん」「かな」「けれ」などの如き助辞を以て斡旋せらるるにて名詞の少きが常なるに、
この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最(もっとも)短き形)をり候。
かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

> 実朝一方にはこの万葉を擬し、一方にはかくの如く破天荒の歌をなす、その力量実に測るべからざる者これ有り候。

ふーむ。
これは困ったな・・・。
実朝の真作じゃないよね、これは。
せめて例えは金塊集から出そうよ。
金塊集から始めようかなんて言ってるわけだから。
[追記](/?p=2082)参照。

> また晴を祈る歌に

>> 時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ

> といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生(わたし)の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。

えぇぇぇ。
これは別にどうでも良いと思うのだが。
いやマジでどうでも良い歌。

> また

>> 物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

> の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処かへつて真心を現して余りあり候。

まあ、これは賛成する。

九たび歌よみに与ふる書

> 一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に移り候べく候。

>> 山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

>> 箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

>> 世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも

>> 大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

> 箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。

ああ、そうですか。

以下略。

ううーん。

ふと思ったのだが、

和歌は雄略天皇の頃から今上天皇まで、百代以上にわたって続いている。
人麻呂や貫之や定家などのそのときどきの代表的な歌人は居るが、
千数百年もの時間軸の上での変遷を考えたときには、歴代天皇の御製というものが良い指標になる。
そこには明らかにある一つの連続性があると思う。
もちろん、
歴代天皇のすべての御製をひとつひとつ調べ上げるというのは、
たとえば万葉集だけとか、
あるいは三代集だけとか、
そういうふうにやっていくよりも難しいんではないかなと思う。
とっかかりとしては私の場合は明治天皇御製を学生の頃に学んだということがあって、
それを時間軸上で延長していけば、
時代が下れば昭和天皇の御製となるし、時代をさかのぼれば南北朝や鎌倉、平安時代の御製へと連なる。

そうするとどうしても古語文法の知識も必要になるし単語も知らなくてはならず、
万人向けとは言い難い。
それに比べれば明治の正岡子規らのいわゆる短歌というものは、
せいぜい江戸期の俳句や川柳や都々逸、あるいは小倉百人一首程度の大衆にすでになじんだ素材を活かして、
あるいは西洋詩の作風も導入するなどして、
だれでも真似できるかと錯覚させた。
そうして短歌を愛好する人口を爆発的に増やしたのだろう。
いわば難行に対する易行であって、
仏陀も親鸞もあるいは俵万智もそうやって大衆に受け入れられた。
その時代精神のアイコンが正岡子規だったということだろう。

正岡子規の歌は平均して言えば格別面白くもないが、

> 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 (明治28年)

に対して

> 柿食ふも今年かぎりと思ひけり (明治35年)

という句があって、前の句だけであれば単なるのんびりした情景を詠んだものだが、
後の句と合わせると、たちまちに結核で死を覚悟した句となる。
正岡子規にあるのは常にそういう死の運命を担った悲壮感であり、
それが彼の作品に命を与えているのではないか。
もし彼が早死にしなかったらここまで後世に影響を与える歌人たりえたか。
そのへんが中島敦とはかなり事情が違うと思う。

私はひねくれもので暇人なので敢えて難行苦行を選ぶ。
歴代天皇の歌は応仁の乱以後急に入手困難になる。
江戸期の御製というのはどうなっているのか。
まあ、ゆっくり調べてみよう。

ポセイドン

海のトリトン(TV版)に出てくるボスキャラ、ポセイドンはポセイドンというよりは不動明王にしか見えない。
ポセイドンはギリシャ神話では三つ叉の銛を持っているものだが、これがまた不動明王が持ってる剣にしか見えない。
ていうか、銅像みたいにびくとも動かないし。
極めてセルアニメ的。

たしか手塚治虫の原作では、ポセイドン族というのは先祖代々たくさん居て、形態もさまざま。
少なくとも、不動明王っぽいのはいなかった。

ていうか、ホラ貝を吹くってあたりがいかにも山伏的だよな。

そうか、監督は富野喜幸なんだ。
初監督作品。
プロデューサーは西崎義展。宇宙戦艦ヤマトコンビ。
そういやぁそうだったっけ。

つか、エンディングがかぐや姫。
後ろで南こうせつがギター弾いてる。
前半アニメ+実写合成、最後は実写。かなり異様。
もともと最初はこちらがオープニングだったそうで。
へぇ。

本歌取り

[追記](/?p=2091)参照。
模倣歌だから贋作とは言えないようだ。

> 出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな (源実朝(吾妻鏡による))

> ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな (式子内親王)

似てる(笑)。似すぎ。参考:

> 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな (菅原道真)

式子内親王は1201年没。
源実朝は1219年没。
怪しすぎだろwww。
まあ、式子内親王の歌を実朝が知ってて本歌取りしたかもしれんがな。
本歌取りにしてはでき悪すぎるし、
実朝が本歌取りするとしたら万葉集とかそういうずっと古典ばかりだと思うのだよね。

吾妻鏡該当部分、建保七年・正月二十七日:

> 次覽庭梅、詠禁忌和歌給。

> 出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ、軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

初出は「六代勝事記」というものらしく、成立は1220年代だと言う。
まあ、実朝暗殺の直後ではあるな。
式子と道真の歌を足して二で割る的に適当に作ったんじゃねーのか。
実朝ほどの天才歌人がこんな無様な合成作品を作るとは思えん。
だいたい本歌取りとしても一句か二句を引用するので三句ほとんどまるまる採ってしかも道真の歌からもとっている。
まともな歌人ならこんな取り方はしない。
絶対しない。
しないと思う。
だからやっぱり偽作だな。

鶴岡八幡宮のウェブサイトにも載っているのだが・・・。

> 自らの行く末を予感しながらも悲劇の路を歩まねばならなかった実朝公の孤独な想いをこの一首に認めています。

うーむ。
まあ、わかりやすいんだよな、予定調和ってやつは。
でも予定調和はたいてい後世の作り話。
そういう意味でもわかりやすい。

cf. [千人百首 源実朝](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanetomo.html)。

定家「近代秀歌」:
> 彼の本哥を思ふに、
たとへば五七五の七五の字をさながらをき、
七ゝの字をおなじくつゞけつれば、新しき哥に聞なれぬ所ぞ侍る。
五七の句は、やうによりてさるべきにや侍らん。
たとへば、「礒のかみふるき都」「時鳥鳴やさ月」「久かたのあまのかぐ山」「玉ほこの道ゆき人」など申すことは、
いくたびもこれをよまでは、哥いでくべからず。
「年の内に春はきにけり」「袖ひぢてむすびし水」「月やあらぬ春や昔の」「さくらちる木の下かぜ」などは、
よむべからずとぞをしへ侍し。

> 次に、今の世に哥をならふ輩、たとへば、世になくとも、昨日けふといふばかりいできたる哥は、
一句も其人のよみたりしとみえん事をかならずさらまほしくおもひたまひ侍なり。

これを解読してみると、「五七五七七」のうち「五(七五)七七」の括弧の部分(七五)だけを本歌から取り、
あとは自分で作るというのは良い。

「(五七)五七七」の括弧の部分(五七)を本歌取りするのは、場合によっては良いが悪いこともある。
たとえば「礒のかみふるき都」「時鳥鳴やさ月」「久かたのあまのかぐ山」「玉ほこの道ゆき人」
などは(一種の定型句、序詞なので)これを何度も利用しないと歌などできはしない。
しかし、
「年の内に春はきにけり」「袖ひぢてむすびし水」「月やあらぬ春や昔の」「さくらちる木の下かぜ」
などは(特定の歌に固有の言い回しなので)詠んではならない。

今存命中の人とか最近亡くなったけどつい最近詠まれた歌などは一句でも本歌取りしたように見えてはならない、となるか。

しかしまあ、自分で歌を詠んでみると笑点の都々逸か川柳みたいで、
なんとも格好がつかないね。

拾遺集

誰の勅撰かわからないそうだ。

で、拾遺集に御製と出てくるのは詞書きから「天暦」とわかる。
つまり村上天皇。
「天暦御製」と明記されたものもある。

で、思うに、前の後撰集が村上天皇の勅撰なので、それの拾遺という意味で、形式的には拾遺集も村上天皇が勅撰したことになっているのではなかろうか。

ていうか、
今更勅撰者がいないというわけにはいかないんだろうが(笑)、
編纂者もよくわかってないようだ。
しかしまあ、新勅撰集も定家一人で編纂したわけだから、
やってやれないわけじゃないのだろう。

後撰集も実は未完で奏覧本(正式本)は火災で失われたらしいが、
そもそも勅撰者がすでに崩御しているので奏覧もできないだろう。
後撰集と拾遺集合わせて古今集みたいな形で出したかったのかもしれん。

で、実際には村上天皇から二代後の円融院の御製も出てくる。
かなり混乱してる感じではある。
花山院が中心となった可能性が大だわな。
退位して40才で死ぬまでずいぶん自由な時間があったはずだしな。
で、完成間近に花山院も体調を崩し、とそんなふうにして成立してるような気がする。

天暦御時、少弐命婦豊前にまかりはべりける時、大盤所にて餞せさせたまふに、かづけ物たまふとて

> 御製 夏衣たち別るべき今宵こそひとへに惜しき思ひ添ひぬれ

天暦御時、九月十五日斎宮下りはべりけるに

> 御製 君が世を長月とだに思はずはいかに別れの悲しからまし

共政朝臣肥後守にて下りはべりけるに、妻の肥前が下りはべりければ筑紫櫛御衣など賜ふとて

> 天暦御製 別るれば心をのみぞ尽くし櫛挿して逢ふべきほどを知らねば

天暦十一年九月十五日、斎宮下りはべりけるに内裏より硯調じて賜はすとて

> 御製 思ふ事成るといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞ聞く

天暦御時、一条摂政蔵人頭にてはべりけるに、帯をかけて御碁あそばしける、負け奉りて御数多くなりはべりければ、帯を返したまふとて

> 御製 白波のうちや返すと待つほどに浜の真砂の数ぞ積もれる

富士の山の形を作らせたまひて藤壺の御方へ遣はす

> 天暦御製 世の人の及ばぬ物は富士の嶺の雲居に高き思ひなりけり

左大臣女御亡せはべりにければ、父大臣のもとに遣はしける

> 天暦御製 いにしへをさらにかけじと思へどもあやしく目にも満つ涙かな

七夕祭描ける御扇に書かせたまひける

> 天暦御製 織女のうらやましきに天の川今宵ばかりは下りや立たまし

天暦御時、伊勢が家の集召したりければ、まゐらすとて

> 中務 時雨れつつ降りにし宿の言の葉はかき集むれど止まらざりけり

御返し

> 天暦御製 昔より名高き宿の言の葉はこのもとにこそ落ち積もるてへ

> 宵に久しう大殿籠もらで、仰せられける

> 天暦御製 小夜更けて今はねぶたくなりにけり

御前にさふらひてそうしける

滋野内侍 夢に逢ふべき人や待つらむ

> 小夜更けて今はねぶたくなりにけり夢に逢ふべき人や待つらむ

ずいぶんのんきな歌だな(笑)。

天暦御時、広幡の御息所久しく参らざりければ、御文遣はしけるに

> 御製 山がつの垣ほに生ふる撫子に思ひよそへぬ時の間ぞなき

天暦御時、一条摂政蔵人頭にてはべりけるに、帯をかけて御碁あそばしける、負け奉りて御数多くなりはべりければ、帯を返したまふとて

> 御製 白波のうちや返すと待つほどに浜の真砂の数ぞ積もれる

神いたく鳴りはべりける朝に宣耀殿の女御のもとに遣はしける

> 天暦御製 君をのみ思ひやりつつ神よりも心の空になりし宵かな

夏、ははその紅葉の散り残りたりけるに付けて、女五の内親王のもとに

> 天暦御製 時ならでははその紅葉散りにけりいかに木のもと寂しかるらむ

中宮崩れたまひての年の秋、御前の前栽に露の置きたるを風の吹きなびかしけるを御覧じて

> 天暦御製 秋風になびく草葉の露よりも消えにし人を何に喩へむ

朱雀院失せさせたまひけるほど近くなりて、太皇太后宮の幼くおはしましけるを見奉らせたまひて

> 御製 呉竹のわが世はことになりぬとも音は絶えせずも泣かるべきかな

これは解釈が難しいがやはり村上天皇の御製か。

天暦御時、故后の宮の御賀せさせたまはむとてはべりけるを、宮失せたまひにければ、やがてそのまうけして、御諷誦行はせたまひける時

> 御製 いつしかと君にと思ひし若菜をば法の道にぞ今日は摘みつる

後撰集

朱雀院の兵部卿親王。
後撰集に一度だけ出てくるが誰のことだかさっぱりわからない。
朱雀天皇の皇子?
或いは醍醐天皇の皇子(朱雀天皇の兄弟)か。
朱雀天皇に男子はいない。女子も少ない。
醍醐天皇の皇子で兵部卿になったのは、
克明親王と有明親王があり存命期間から言えば有明親王か。
しかしはっきりしない。

> 梅の花今は盛りになりぬらん頼めし人の訪れもせぬ

法皇って誰。
後撰集の勅撰は村上天皇。今上も村上天皇。
村上天皇は在位中に崩御したので院でも法皇でもない(以後珍しいケース)。
後撰集は村上天皇崩御の十年近く後に成立した。
未刊との説もある。

> 白露の変るも何か惜しからむありての後もやや憂きものを

いろいろ調べてみると、後撰集の中で詞書きに法皇とあるのは、
妃が七条妃とあり、
宇多天皇しかあり得ないようだ。
こうしてみると、この時代には宇多天皇だけが固有名詞的に「法皇」
と呼ばれていたらしいことがわかる。

つまり、宇多天皇が「法皇御製」、次の醍醐天皇が「延喜御製」、
次の朱雀天皇は「朱雀院」(本人の歌は無い)、
次の村上天皇が「今上御製」。
村上天皇以後の歌は採録されていない、というか、
次の冷泉天皇や円融天皇や花山天皇が法皇あるいは院として出てくると今上より後になってまずいわな。

ああ、やっぱりそうだった。
確認とれた。

桂内親王。誰。
桂子内親王か。

> 唐衣着て帰りにし小夜すがらあはれと思ふを恨むらんはた

宇多天皇の皇子・敦慶親王の妃・均子内親王かとも思ったが、
こちらは別の歌で名前が出ている。

> 我も思ふ人も忘るな有磯海の浦吹く風の止む時もなく

わからん。