春の良き日に

ホワイトデーとて

> あな憂しやもらへどかへすものもなし家にこもりてけふは過ぐべき

なんとなく。

> 飲めや酒憂さを忘れむ浮かれ世の春は楽しきことのみならず

海鮮バーベキューの店で。

> かぶと焼きまぐろの目玉くじりつつ生ける我が身のはかなさを思ふ

> わたつみのいそのあはびのあぶり焼き魂は消えにき身もだえもせず

または

> 活きあはび身はこがれつつもだえして魂の緒絶えてバターを乗せつ

ひどい歌だなこりゃ。
春の晴れし日に客の来るとて家を出れば

> 雲もなき春のひよりにあてどなくひとり歩けどゐどころもなし

> 春されば出でて遊べどあてもなしさりとて家居すべきにもあらず

> あぢきなし春のやすみに昼間から酒を飲むとて店も少なし

> あてどなくしこのしづをのうろつけばそのふの母子あやしとや見む

述懐

> 夢に見てうれしと思ふはかなさよ今ひとたびの会ふこともなし

> 夢にだに見ばやと思ふ荒小田をかへすがへすも頼むこころは

> 今さらに思ひ出づるも憂かりけりおぼろに残る名もおもかげも

新葉和歌集

新葉和歌集は准勅撰とあるが、序を読んでみると、

> そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、
おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅撰になぞらふべきよしみことのりをかうむりて、老いのさいはひのぞみにこえ、
よろこびのなみだ、袂にあまれり。

とあるように、はじめは宗良親王の私撰集のようなものだったのが、
長慶天皇の意図によって「准勅撰」と位置づけられたことがわかる。

選者である宗良親王は後村上天皇の兄にあたるが、「後村上院」と追号で呼ばれているように、
宗良親王より先に死去している。
当時の天皇は長慶天皇で後村上天皇の子、総覧時1381年には38才でもちろん存命中。
後村上天皇の歌がちょうど100首で形式的には最多。
しかし、宗良親王の歌が99首と、詠み人知らず64首もまた実際は宗良親王の歌なので、
合わせると163首と圧倒的に多くなる。
選者自身の歌が多すぎるし、しかも一番多いというのは勅撰集としてははなはだ不都合であるし、
また採られた人の絶対数が少なく偏りすぎている。
南朝方の人材がどうしても少なかったからだろうし、
かと言って古歌を多く採用して勅撰集の体裁をなんとしてもとろうとはしなかった、
そこでみずから「准」と断ったということだろう。
また後村上天皇の歌の数がきりの良い百首なことから、
自選百首とか秀歌百首とかそんなようなものがあった可能性もあるわな。

編纂の勅命を出した長慶天皇の歌は52首であり、これもわりと多い。
後村上天皇の先代、南朝最初の後醍醐天皇は46首でやはり多い。
新田義貞と南朝軍として転戦した宗良親王の兄・尊良親王は44首、
後村上天皇の生母である新待賢門院は20首、
長慶天皇の生母である嘉喜門院は17首、
そのほか、北畠親房は中院入道一品として27首採られている。

岩波文庫版の岩佐正校注「新葉和歌集」の解題で、
後村上天皇も「(二条)為正に師事し給うた」とあるが、
二条為正が後醍醐天皇に近侍していたのは、隠岐に流される前までのことで、
となると1331年以前ということになり、
1328年生まれの後村上天皇が為正に師事したというのはほぼあり得ないのではないか。
1339年11才の時に譲位されるまで、宗良親王や北畠親房らと奥州などを転戦しており、
この時期までに和歌を学び詠んだとはとても思えない。
二条為忠(1136年没の藤原為忠という人がいて紛らわしい)という人が、
1351年から1359年まで南朝に出仕しており、新葉集にも42首採られている。
後村上天皇20代半ばの頃なので、もしかすると為忠から歌を学んだのかもしれない。
後村上天皇が盛んに歌を詠んだのもちょうどこの頃にあたるようだ。
[千人万首](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gomurakami.html)によれば、
後村上天皇が為正に歌を贈ったりしているので、
後村上天皇は為正に師事した、などと言われているのかもしれん。
しかし、それではかなり不自然だ。
定家と実朝の師弟関係のようなものも否定はできないが。

為定と為忠は同じく為世の孫で、いとこどうしにあたる。
為正によって為忠は南朝に一時的に派遣されたのかもしれないし、
もしかすると北朝と南朝の間の交渉役だったのかもしれんが、ほんとのことはわからない。

新葉集には「後村上院」とあるが、後村上天皇が長慶天皇に譲位して上皇になったという記録はないようだ。
そもそも明治になっても長慶天皇が即位したかどうかというのは謎だったようである。
ともかくもよくわからないことが多いのだが、
しかし新葉集で「後村上院」と呼ばれていることを尊重するとして、
後村上天皇は1368年に死去しており、
その当時長慶天皇は25才だったから、
それよりもう少々前に譲位されてたということもあり得るだろう。
しかしそんな記録もまったく残ってないようだ。

尊良親王:

> 鳥のねのおどろかさずば夜とともに思ふさまなる夢もみてまし

後村上天皇:

> とりのねにおどろかされて暁の寝覚めしづかに世を思ふかな

> 忘ればや忍ぶも苦しかずかずに思ひ出でてもかへりこぬ世を

> 聞くたびにおどろかされてねぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな

> 山人の跡さへ見えずなりにけり木の葉ふりしく谷の下道

> 花に見し野辺の千種は霜おきておなじ枯れ葉となりにけらしも

長慶天皇:

> いかにせむ時雨てわたる冬の日のみじかきこころくもりやすさを

> なにとかく濁り行く世ぞ石清水人の国とは神も思はじ

後村上天皇、おなじ心を:

> 神もまたあはれと思へ石清水木がくれてわがすめる心を

後醍醐天皇:

> かきながすわがたまづさの言の葉にあらそふものは涙なりけり

言葉を書き流しつつ涙も流している、という意味だわな。

北畠親房:

> いかにせむさらでもかすむ月かげの老いの涙の袖にくもらば

> 咲きそむる花に知らせじ世の中の人の心のうつりやすさを

良い歌だな。

> を山田の苗代水のひきひきに人の心のにごる世ぞ憂し

> 忘れずばいざ語らはむほととぎす雲井になれし代々のむかしを

> 山深く結ぶ庵も荒れぬべし身のうきよりは世を嘆くまに

右近大将長親母(誰?):

> 数ならぬ身をおく山の埋もれ水すむもすまぬも知る人ぞなき

よみひとしらず

> かひなしな人にしられぬ塵の身の山としたかくつもるよはひは

宗良親王:

> あづまのかたに、ひさしく侍りて、ひたすらもののふの道にのみたづさはりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、
おもひのほかなるやうにおぼえて、よみ侍りし

> 思ひきや手もふれざりし梓弓起き伏しわが身慣れむものとは

> おなじ頃、武蔵国へうちこえて、小手指原といふ所におりゐて、手分などし侍りし時、いさみあるべきよしつはものどもに、
めし仰せ侍りしついでに、思ひつづけ侍りし

> 君のため世のためなにか惜しからむ捨ててかひある命なりせば

新宣陽門院:

> あらましのこころのままにみる夢の覚めてかはらぬうつつともがな

これは良い歌。

新待賢門院:

> みよし野は見しにもあらず荒れにけりあだなる花はなほ残れども

定家ジェネレータ

五つの句のうち、初句と二句は華やかな描写、三句は否定(かげもなし、色もなし、なかりけり、etc)、四句五句は侘びしい描写。
特に五句目は「秋の夕暮れ」「雪の夕暮れ」「横雲の空」などとすれば良い。
これ名付けて「定家ジェネレータ」。
自動的にぽこぽこ定家風の歌が詠める。
たとえば

> キャバクラでシャンパンタワーのかげもなし場末酒場の雪の夕暮れ

あるいは

> ドンペリに葉巻くゆらす色もなし木賃宿の春の夜の月

あるいは

> 美しき秘書のすがたもなかりけり個人会社の横雲のそら

など。
ほらぁ。定家っぽい。
基本は、持ち上げて落とす、です。

思うに。
俳句というやつは、和歌より短い。
必ず季語を入れなくてはならない。
季語は名詞。
かつ、助動詞よりは助詞が使用されやすく、
結局は名詞と助詞、あとはちょこっと動詞だけでできてることが多い。
「荒海や佐渡によこたふ天の川」「古池やかはづ飛び込む水の音」など。
それにくらべると、和歌は長く、
助動詞などを複雑に組み合わせて完全な構造のある文章を作らなくてはならない。
名詞をぽこぽこ並べても和歌らしくならない。
助動詞と助詞を複雑に長く組み合わせる、しかも古典文法に則って、雅語だけをつかってそれをやるというのはやはり難しく、
逆に俳句は文法的にはかなり楽。
現代語や口語や俗語を入れてもあまり違和感無い。
だからこそ季語を入れるなどの定型を余計に必要とするのだろうと思う。

和歌は長い分、いろんな技巧、文芸的なありとあらゆる技巧を取り入れやすい。
枕詞や序詞もある意味そうだが、
本歌取りとか返歌というのはつまり原作へのオマージュなわけだが(笑)、
俳句ではそもそもオマージュなどかましているほどの文字数の余裕がない。
本歌取りとわかるほど本歌取りしたら元の句とほとんど同じになってしまう。
オマージュが作品に重層したイメージを与えてくれる。
また、五句あれば倒置・反語・リフレイン・押韻などの技巧を駆使できる。
否定を初句に入れるか最後に入れるかで雰囲気も変わってくる。
或いは二重否定とか。
定家のようなダダ風な不協和なコラージュとか。
ほぼなんでもできる。
構造も上の句下の句をほぼ分離させることもできるし、全体を囲むような構造にもできる。
ボレロのようにだんだん盛り上がるようにもできる。
「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」とか「くれなゐの二尺のびたるばらの芽の針やはらかに春雨の降る」とか、
徐々に視線を移しつつもりあげてるわな。ま、近代短歌なのであまり好きではないが。

そういう技巧を駆使できる最短の詩形が和歌であり、さらにそれらを一切捨ててより短くしたのが俳句。
俳句はだから文法的技巧的には極めてシンプル。
一瞬を切り取った写真的な作品になりがちだよな。

で、和歌というのは過去の作品へのオマージュでできているところが大きい。
だんだんそう思えてきた。
過去の遺産を引き継ぎ再利用し重層化していく形態なんだよな。
早くは貫之がそれをやり、後に定家が流行らせた。
新古今ってやつ。

ほら試験問題にも暗記物と考える問題がある。
オマージュってのは暗記物なんだよな。
ていうか単なる暗記物というか考える問題と組み合わせた応用問題というか。

和歌の定型は過去の作品を参照しやすいようにモジュール化されてる。
基本的に文字数そろってるから、本歌取りしやすい。
どんくらい切り出すかとかどのくらい改変するか、どこに配置するか、いくつ組み合わせるかなどの自由度も大きい。
しかしそれは俳句には無理。
短すぎるから。
和歌にはその長さがある。
となった場合に、過去の資産を完全に引き継ぐにはやはり古典文法に則った古語を使うのが便利なわけよ。
今の口語をベースに過去作品をオマージュしても簡単にはつながんないべ。
ぴったりシームレスにつなげるには平安王朝辺りの古典文法をベースにするのが一番しっくりくる。
そこに多少のアレンジはあって良い。
実朝の万葉調が決まったのも、そこにあると思う。

ところで岩波文庫の新葉和歌集の解題を読んでいたら、後村上天皇を評して

> 情緒の世界に生き、時代の実相に対してともすれば目を閉ぢた二条派の歌人と䡄を同じうする平坦な格調の低い一般的な歌も多い。

などと書いてあり、ひどい言われよう。戦前も二条派の評価がめちゃくちゃ低いらしいことがわかる。
後村上天皇の歌は面白いのが多いのになあ。
まったく評価されてないんだな。
料理にもアピタイザーとメインディッシュがあるように、
二条派風にさらっと詠んだアピタイザーと、
こってり練りにねったメインディッシュがあって良い訳よ。
もしメインディッシュだらけだとくどいだろ。
そうは思わんのかなあ。
私はあの勅撰集に採られた圧倒的に退屈な歌群はそういう前菜的つなぎ的に使われているのだと思うよ。
なんちゅうか、時代の実相に目を見開いてどろどろの現実をそのままキャンバスに塗ったくったような歌が良いとでも言うのだろうか。
プロレタリア文学だな。

後村上天皇御製:

> かつ消えて庭には跡もなかりけり空にみだるる春のあは雪

ほらあ。なかなか良い雰囲気でしょ。
「かつ消え」という辺りが伊東静雄の「春の雪」の

> なく声のけさはきこえず / まなこ閉じ百ゐむ鳥の / しづかなるはねにかつ消え

を思わせる。
まさに「心象風景」だわな。
ここで「かつ」というのは「積もると同時に消えて」とか「地面に落ちるとすぐに消えて」という意味だな。

> おのづから長き日影もくれ竹のねぐらにうつるうぐひすの声

自然と長くなっていく春の日影もとうとう暮れて(「暮れ」と「呉竹」がかけてある)、鴬が竹藪に帰って行くと。
やはり鴬は竹藪に居るものだよな。
さらっと詠んだ良い歌だよな。

述懐

> ひととせか三とせばかりも世を捨てていづこともなくさすらはまほし

> はるあきは住みこそ憂けれなりはひのことしげきのみうれしくもなし

> もしわれに死ぬまで足れる金あらば明日よりつとめやめましものを

> わがつとめおこたらむとは思はねどしづのをだまき飽きもこそすれ

> のがればやしづのをだまきくりかへし昔も今も同じなりはひ

酒の次は仕事の愚痴か。
中年親父臭きつすぎではあるな。
しかし現代日本に中年親父の歌詠みが居ないのは不自然だし、
といって別に自分がなる必然性もないが、
積極的に先駆けとなるという道もあるわな。

しかし上のやつの最後のは「しづのをだまきくりかへし昔」までが本歌取り(笑)。取り過ぎ。
しかも結構決まってる。
鶴岡八幡宮で頼朝政子の前で、義経を慕って静御前が舞をまってるイメージがオーバーラップして良い感じだろ。
下の句は契沖の「難波がた霧間の小船こぎかへり今日も昨日も同じ夕暮」という本歌があってだな。
あまり本歌らしくないが。
真ん中のやつは「もし我に死ぬまで足れる富しあらば」でも良いか。
そっちの方がやや風流か。
「ましものを」を[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html/waka/waka_kigo_search.html)したら339件もあったすごい。
いやしかし便利だわこのサービス。

宣長に返す

> 花を見て憂き世忘るる人もあれど我はただ憂しこころせかれて

高杉晋作に返す

> おもしろきこともなき世はいかさまに暮らせどやはりおもしろからず

五月病の事を

> さつきには心わづらふ人もあれどわれはやよひの今こそ憂けれ

> 春を待つ浮かれをのことならまほしつとめの重荷みな片付けて

今日は冴えてるな。

> 春の日ものどけかるらむ年老いてうなゐ心に戻りてのちは

> いとけなきころは来る春来る夏も秋冬もみな楽しかりけり

草庵集玉箒

宣長による頓阿の歌の解説。

山深く わくればいとど 風さえて いづくも花の 遅き春かな

歌の意は、まず奥山ほど寒さの強き故に、花の咲くこといよいよ遅きが実の理なり。しかるを作者の心は、その道理を知らぬものになりて、里にこそまだ咲かずとも、山の奥には早く咲きそめたる花もあらむかと思ひて、山深くたづねつつ、分け入れば入るほど余寒強く、いよいよ風さえて、まだ花の咲くべきけしきも見えぬ故に、さては里のみならず、山の奥までいづくもいづくも花の遅き春とかなと思へるなり。「春かな」ととどまりたるところ、花を待ちかねたる心深し。

丁寧な解釈。

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

一首の心は、かつかづただ一木まず咲きそむれば、いまだなべての桜の梢は花にならざるさきに、はや世の人の心がまず花になりゆくといふ趣旨なり。「心ぞ」の「ぞ」をよく見るべし。「心の花になる」とは、花のことのみを思ふなり。

宣長の桜の歌によく似ている。

おのづから 散るはいづれの こずゑとも 知られぬ宿の 花ざかりかな

まだどのこずえも自然と散るようすも見えない、満開の宿の花盛り、という意味。

つれもなく けふまで人の とはぬかな 年にまれなる 花のさかりを

あしわけをぶね

相変わらず宣長を読んでいる。
排蘆小舟(あしわけおぶね)は宣長が医者の修行で京都に遊学していた28才くらいまでに書かれた歌論書で、
宣長の評論の中では比較的初期でかつまとまったものである。
現代語に全訳してやろかとも思うがそんな暇人でもない。

> 近代の先達の教えに、玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えられるなり。
その教えは良けれども、その人と歌をみれば正風にはあらずして、その嫌わるる所の玉葉・風雅に近き風なり。
これはもと、玉葉・風雅の悪風を改めて、頓阿という人、正風を詠み、かの悪風を大いに戒められたるより伝わる教えなり。
頓阿は名人なれば、実に風体の善し悪しをわきまえて言われし故に、自分の歌みな正風なり。
その後の近世の先達は、頓阿の説に従って、教えはさることなれども、歌の風体の善悪を知ること、頓阿に及ばず、
故に自分の歌、正風にあらず。
かの嫌われる所の悪風に近し。
これなにゆえとなれば、大概は風の善悪も分かるる人も、正風にのみ詠みては珍しきこと詠み難し。
それゆえに珍しき風情を詠まむ詠まむととするゆえに、おのづから異風になるなり。
これいにしえの人に及ばぬ所なり。
いにしえの人は正風にして、珍しい風情を詠めり。
いかほど珍しく優なる歌にても、正風を離れず、少しも悪きところなきなり。
近世の人は、珍しきことを詠めば、必ず正風を失うなり。

いにしえの(善悪を知る)人ならばどんなに近現代の珍しいことを歌に詠んでも正風を離れず詠むことはできる。
しかし近現代の人が今の風情を詠もうとすると必ず正風を失う、と主張している。
つまり今の歌詠みは、古いことを古いながらに歌に詠むことはできるが、
新しい、それまで和歌で試みられなかったような事物を詠もうとすると必ず古風を失う。
あるいは俗語や漢語などを使おうとする、と。
まるで明治以後の歌人たちを言っているようではないか。

また、次のようにも言っている。
近代の人の歌をまねるべきではない。
当時無双と言われる名人でも、いにしえの歌には及ばない。
そのうえ次第次第に言葉遣いの誤りも多くなる。
古代の歌をまねて詠めば古代の歌も近代風の歌も詠めるが、逆は成り立たない。
ただしいきなり昔の歌を詠むのは初心者には難しいので、
「題林愚抄」などで題詠のやり方を学ぶと良い。
古代の歌を学んだ後ならば近代の歌を善悪の見分けもつくのでそれほど害にはならない。

また、俳諧・連歌について、
俳諧は「今日の常態言語」を使い、これほど人に近く便利なものはない。
なぜ和歌でなく俳諧をとらないのか、という問いに対して、
連歌・俳諧・謡・浄瑠璃・小唄・童謡・音曲のたぐいは、すべて和歌の一種であって支流である。
その中で雅びなものと俗なものがあるが、
風雅の道においてはどうして雅を捨てて俗をとることがあるか。
本をおいて末を求めることがあろうか。
しかしそれも個人の好みにまかせれば良い、
などと言っている。

実際、俳諧は、和歌に比べるとはるかに俗語を取り入れるのに、古くから熱心だった。
なので、明治に入ってからもわりあい人々に容易に受け入れられた。
しかし、和歌は逆に「正風」をやかましく言い、俗語や歌舞音曲を受けいけることを拒んだ。
明治に入って急激に俗語や漢語を取り入れたために悲惨なことになったが、
和歌は江戸時代にあまりにもその準備がなさすぎた。
和歌というものが、
宣長がやったように、歌道の家の言い伝えなどはひとまずおいて、
古文書に直接当たって文献批評のような科学的分析を加えないと、
もはや一般人にはとうてい善悪の見分けがつかない状況にあった。
伝授・附会といった歌道の「密教化」が進み、
あるいは堂上・地下の対立が起きたというのも、
ようするに「歌学」というきちんとした方法論なしには和歌が詠めなくなっていたからなのだ。
それに比べて俳諧などは「学問」という仰々しいものがなくてもある程度は直感的に作れたわけだ。

伝授・附会とか堂上・地下といった風潮はつまり、学問的な考察なしに、
歌をどうこうしようとしてどうにもならなくなっておこってきた現象であり、
これを宣長は京都遊学中に契沖の歌論書によって気づかされたのだろう。
つまり、聖書に textual critics が必要なように、
歌学にも文献批評が必要だ、という一つの真理に気づいたということだ。

ははあ。
古文辞学は荻生徂徠の学派に学んだということか。
うまくできてるな。
確かに Textkritik を「本文批評」と訳すよりは「古文辞学」と訳した方がしゃれてるわ。

宣長は京都遊学前から頓阿の草庵集や井蛙抄などを読んで手本としており、
ますますこれらを正風として手本にしたと思われる。

思うに、和歌は、公家も武家も詠むものだ。
公家の世界に限ればおそらくその最盛期は新古今集。
その次の新勅撰集からは武家の歌も多く混じるようになった。
頼朝、実朝、泰時、高氏らはみな歌を喜んで詠んだ。
もろびとこぞって和歌を詠んだ。
武家に和歌は不要だと言った武人はほとんどいない。家康が言ったか言わないかくらいのことだ。
公家は公家のように、武家は武家のように歌を詠めば良い。
特に勅撰集が編纂されなくなった応仁の乱以後は武家が和歌の伝統を支える大きな役割を担った。
中には田安宗武のような武家の思想・儒家の思想で和歌を解する人も出た。
武家が武家の思想で歌を詠んで何が悪かろうか。
それまで公家は公家の詠みたいように詠んできたし、
坊主は抹香臭い歌を詠んできたのだから、
ただお互い様というだけのことだ。
戦の歌もあり、商売の歌もあり、政教の歌もあり、四季や恋の歌があるだけのことだろう。

蓮生

新勅撰和歌集を読んでいるのだが。
北条泰時が蓮生法師とやりとりした歌というのが載っていて、

> 父みまかりてのち、月あかく侍りける夜、蓮生法師がもとにつかはしける (平 泰時)

> やまのはにかくれし人は見えもせでいりにし月はめぐりきにけり

> 返し (蓮生法師)

> かくれにし人のかたみは月を見よこころのほかにすめるかげかは

北条泰時の歌というのがやや珍しいのだが、勅撰集に採られていてしかも選者は定家であるし、
また同世代の人なので正真正銘真作であろう。
父というのは義時のことだから、義時が死んだ1224年頃の歌と思われる。
泰時は定家の弟子になったというがそれは1221年承久の乱で泰時が六波羅にとどまってたときのことと考えて間違いあるまい。
当時定家は60才くらい。
泰時は40才くらい。
詳しくは「名月記」あたりを読めばわかるか。
ところで蓮生法師だが、熊谷直実が出家し、法然の弟子になって法力房蓮生と称したとあるのだが、
熊谷直実は1207年に死んでおり、時代があわない。
蓮生とは宇都宮頼綱とのことで、もとは鎌倉武士だが、1205年出家して実信房蓮生と称し、嵯峨野の辺りに隠遁したという。
だいたいつじつまがあう。
なんでも京都の小倉山の別荘で定家に98首の歌を選んでもらったものが百人一首のもとになったともいう。
まともかく定家とはつきあいがあったようだ。
結局は何らかの形で定家とつながりのある歌人が採られている、ということだろう。

宇都宮頼綱も熊谷直実も時代が近くどちらも浄土宗なので紛らわしい。
まあしかし、熊谷直実は口べたで怒りっぽかったそうだから、上記のような歌など詠めるはずもない。

ほかに新勅撰集で目についた歌など。

> 世の中はなどやまとなるみなれがはみなれそめずぞあるべかりける (よみひとしらず)

> わたつみの潮干に立てるみをつくし人の心ぞしるしだになき (藤原行能)

> あとたえて人もわけこぬなつくさのしげくもものをおもふころかな (相模)

> 身の憂さを花に忘るるこのもとは春よりのちのなぐさめぞなき (源光行)

> 君恋ふと夢のうちにもなくなみださめてののちもえこそ乾かね (源頼政)

> けふ見れば雲もさくらにうづもれてかすみかねたるみよしのの山 (藤原家隆)

> 老いぬれば今年ばかりと思ひこしまた秋の夜の月を見るかな (藤原家隆)

なんというか、わかりやすくて、しみじみした歌が多いな。

諫める

漢字の「諫」には、目上の人に直言して悪事をやめさせる、という意味しかないのだが、
やまとことばの「いさむ」には、たとえば

> たらちねの親のいさむるうたたねはもの思ふときのわざにぞありける (伊勢) または「おやのいさめし」

> たらちねのいさめしものをつれづれとながむるをだにとふひともなし (和泉式部)

> たらちねの親のいさめの絶えしより花にながめの春ぞ経にける (九条道家)

> 無き影の親のいさめは背きにき子を思ふ道の心弱さに (藤原定家)

> うたたねの夢にもうとくなりにけり親のいさめの昔語りは (? 続拾遺集)

> 別れをば一夜の夢と見しかども親のいさめぞ絶えて久しき (? 続拾遺集)

> 伝へおく言の葉にこそ残りけれ親のいさめし道柴の露 (? 新後撰集)

親が子をいさめたり、

> 恋ひしくは来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに (在原業平)

> 今ぞ知る神のいさむる道ならぬ世々の契りのふかきまことを (正徹)

神がいさめたり、

> もみぢ葉をおのがものとも見てしがな見るにいさむる人はなけれど (源重之)

> いかで世にあらじと思へどありぞふる誰かいさむるものならなくに (能因法師)

誰かにいさめられたり、

> 大空に照るひの色をいさめても天の下には誰か住むべき (女蔵人内匠)

小うるさい人にいさめられたり、

> 世の中を厭へと人のいさめしは吉野の里の花を見むみむため (宗良親王)

坊さんにいさめられたりも、

> 折る人をわきていさめむ九重のみ橋の花に風は吹くとも (二条為藤)

いさめたりする。
親が諫めるというのは、ぼーっとながめていたりうたたねしていたり、
つまり何もせず無為に過ごしていてはいけませんよとしかられるということだろう。
神が諫めるとはつまり神域の禁忌などのことだろう。
車から緋色の裾が垂れていると、はしたないと見とがめていさめる人もいるということか。

要するにやまとことばの用例では、
子が親を諫めるなどというよりは、
親が子をしつけたり戒めたり、他人にみとがめられたりする場合に言うことが多い、ということだわな。