京極為兼の歌

玉葉集や風雅集などは、なかなか図書館にもない。けっこう困る。
十三代集などはだいたいが入手困難。
しょうがないので21代集データベースから。

為兼の歌。すこし面白い。
玉葉から

> 冴ゆる日のしぐれののちのゆふ山にうすゆき降りて雲ぞ晴れゆく

> ねやの上は積もれる雪に音もせで横切るあられ窓たたくなり

ここらの冬の叙景がなかなか良い。
屋根に積もる雪は音も無いが窓を叩く霰の音がうるさいという。
雪と霰が同時に降るというのはどうかとも思うが。

> 泊まるべき宿をば月にあくがれて明日の道行く夜半の旅人

まるで敦煌の駱駝の旅のようだな。

> 旅の空あめの降る日は暮れぬかと思ひてのちも行くぞ久しき

雨の日の旅は空も暗く、もう暮れたかと思いながら久しく行くという意味か。面白い。

> さらにまた包みまさると聞くからに憂さ恋ひしさも言はずなるころ

> 人も包み我も重ねて問ひ難みたのめし夜半はただ更けぞゆく

相手がへそを曲げてふさぎ込んでいるのでとやかくものも言えない。

> 恨み慕ふ人いかなれやそれはなほ逢ひみてのちの憂へなるらむ

> 言の葉に出でし恨みは尽き果てて心にこむる憂さになりぬる

恨み言は言い尽くして今は内にこもっている。

> 辛きあまり憂しとも言はで過ぐす日を恨みぬにこそ思ひ果てぬれ

こちらはあまりにもつらいので、なんとも言わずに過ごしているのを、
恨まないというのはもう気持ちが離れてしまったからだろう、と。

> もの思ひにけなばけぬべき露の身をあらくな吹きそ秋の木枯らし

面白いじゃないか。
風雅集から

> 春のなごりながむる浦の夕凪に漕ぎ別れ行く舟も恨めし

春の叙景。

> 松を払ふ風はすそのの草に落ちて夕立つ雲に雨きほふなり

夏の叙景。「(峰の)松を払う風が裾野の草に落ちる」とか「夕立ち雲に雨が競う」とか、
映像に立体的な動きがある。なかなか良い。
本歌取りや縁語などの仕掛けがまるで見られないのも気持ちよい。
ただもう、情景を言葉で巧みに表現したというもの。

> 秋風に浮き雲高く空すみて夕日になびく岸の青柳

「秋風に浮き雲高く空すみて」辺りの叙情が現代的。
また秋の叙景に青柳というのが新鮮。
「夕日になびく岸の青柳」こういう言い回しは現代では当たり前だが、
中世では珍しかったに違いない。

> 庭の虫は鳴き止まりぬる雨の夜の壁に音するきりぎりすかな

「庭の虫」「壁のきりぎりす」の対比が面白い。

> 野分立つ夕べの雲のあしはやみしぐれに似たる秋のむらさめ

秋の台風による驟雨と冬の時雨が似ているという、おもしろい歌。
なかなか楽しそうだな。
「足が速い」という言い回しが、当時にもあったのだろうか。

> 朝嵐の峰より降ろす大井川浮きたる霧も流れてぞ行く

「あさあらし」とか「浮きたる霧も流れてぞ行く」とかなんか表現が独自で面白い。

> 降り晴るる庭のあられは片寄りて色なる雲に空ぞ暮れ行く

「ふりはるる」とか「あられ」が「かたよる」とか「色なる雲に空ぞ暮れ行く」とか実に技巧的。

> ふるさとに契りし人も寝覚めせば我が旅寝をも思ひやるらむ

ふつうに面白い。

> 結び捨てて夜な夜な変はる旅枕仮り寝の夢のあともはかなし

ふつうに面白いだろ。

> 初しぐれ思ひそめてもいたづらにまきの下葉の色ぞつれなき

まあ普通。

> 大井川はるかに見ゆる橋の上に行く人すごし雨の夕暮れ

いやあこれはまるで浮世絵の風景のようだ。
大雨の中、遠景に橋がかかりその上を人が渡っていく。
なるほど「異端」とされるのもわからんでもない。
叙景にしろ描写にしろ、なにか若々しい躍動感がある。
若い頃の定家や実朝にも通じる何か。
これの対極にあるのが二条派の「平坦」とか「わびさび」とか「伝統墨守」というものだと言われれば、
妙に納得がいく。

> 大空にあまねく覆ふ雲の心国土(くにつち)潤(うる)ふ雨くだすなり

何か物狂おしいような。雨乞いの歌だろうか。
「大空をあまねく覆う雲の心」が「国土を潤す雨をくだす」とかすごいな、自然賛歌。
まあ、たぶん一種の天才肌だったんだろうな。他人は真似しにくいわ、これは。

京極派と二条派

いろいろと調べてみると面白い。
いままで何も知らなかったことがわかる。

定家の子孫に京極・二条・冷泉がある。
京極家は南北朝のごたごたで断絶。京極派の歌風も断絶。
二条家も南朝との血縁が強すぎてやはり南北朝期に衰微。
頓阿などの僧侶に実権が移ったり、武家に秘伝として残ったり。
今日まで二条派として歌風が残る。
冷泉家だけが和歌の家系として今日に伝わる。

[延慶両卿訴陳状](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%85%B6%E4%B8%A1%E5%8D%BF%E8%A8%B4%E9%99%B3%E7%8A%B6)とか。
言ってることは実にくだらない。
京極家当主・京極為兼と二条家当主・二条為世の論争。

為世の主張

> 自分は二条家の嫡流で代々の歌書を相伝し、父祖に親しく学び正系を伝えるが、為兼は庶流であってそうではなく、
庶子で選者になった先例は無く、かつて三代集の作者の源当純を常純に誤ったことがあり、
またさきに佐渡に配流された為兼を選者とするのは不吉である

為兼の主張

> 歌道は嫡庶の次第や官位の浅深にこだわるものではなく、為世は選歌が拙なく、誇称する相伝本は信ずべからず怪しく、
歌学は浅く、不才、非器、とうてい選者の資格は無い

歌風としては、二条派は、伝統墨守の傾向が強く、題詠主義、平坦。
京極派は伝統にこだわらない情緒的で、字余りなどが多い、となる。
しかし「伝統にこだわらない学派」「伝統を壊す学派」というのは「学派」としては残りにくいのであって、
その点、二条派は血筋によらずに、頓阿や正徹などの意固地な歌学者が理論武装したので、
後世まで残ったのだろう。
で、実際に京極派という歌人の歌を見るに、たしかにそんなふうに感じられなくもないが、
二条派と大差ないとしか言いようがない。

人生画力対決

久しぶりの漫画ネタ。
西原理恵子の「人生画力対決」1。
ていうか1なのか。2が出るのか。

藤子不二雄Aがふつうに笑えた。
どいつもこいつも絵が下手だな。
特に江口寿史。まあ、下書きなしにいきなり他人の漫画のキャラを色紙に記憶だけを頼りに描けばこうはなるか。

勅撰和歌集の謎

勅撰和歌集は、応仁の乱によって世の中が乱れて戦国時代に突入したので中絶し、
江戸期になっても長いブランクと、朝廷の力が衰えてしまったので復活しなかった、
というのが一般的な解釈だと思うのだが、
ほんとうにそうなのだろうか。
後水尾天皇は類題和歌集を勅撰している。
しかしそれは、古今和歌集から新続古今和歌集まで、
ほぼ同様の形態で続いてきた21代の勅撰集とはまったく違うやり方で編纂されている。
後水尾天皇は、勅撰和歌集を編纂しようと思ってできなかったわけではなく、
従来とは違う形で編纂したかっただけなのだと思う。
そもそも後水尾天皇や霊元天皇は、在位も長く、また当時の将軍の綱吉は朝廷に対してかなり甘かったという。
禁中並公家諸法度でも公家は和歌を学ぶことが奨励されている。
決して禁じられたり抑圧されたわけではない。
また、和歌を詠む人は、おそらく、新古今の時代よりも爆発的に増えており、その中には秀歌も少なくはなかった。

では、なぜ後水尾天皇は旧来のやり方で勅撰集を編纂するという方法をとらなかったか
(というかなぜこのような本質的な問いがこれまで国学や歌学でなされてこなかったのか、
の方が面白い問題かもしれんがな)。

一つのヒントは1310年ごろ、つまり鎌倉時代末期に作られ、後に明治時代まで続く類題和歌集群に大きな影響を与えた、
夫木和歌抄だろう。
新勅撰和歌集から続後拾遺和歌集までは鎌倉幕府の北条氏の影響下で、朝廷が細々と勅撰集を編んでいた時代。
玉葉和歌集の勅宣は1293年、当時在位中だった伏見天皇は奏覧時の1312年には上皇になっていて、
上皇による院宣による勅撰集ということに。
その間に業を煮やして(?)夫木和歌抄が成立しているものと思われる。
この玉葉集編纂期間の長さは、持明院・大覚寺両統の政争と連動した京極派と二条派の対立にある。
その後も、選者によっては二条派または京極派のどちらかが排除されるという傾向が続いた。

次の風雅和歌集は、花園院の監修のもとに光厳院が親撰。
北朝は京極派、南朝は二条派だった。
南北朝が統一するとなぜか次第に二条派が優勢になっていく。

続く新千載和歌集から新続古今和歌集までは、足利将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという、
三段階の役割分担が確立している。
すでに新勅撰和歌集の時代から、幕府の武家が勅撰集に口出しするようになってきたのだが、
足利幕府は高氏以来和歌が大好きで、とにかく勅撰集に自分の和歌をいれたくてたまらない武士がたくさんいたということだ。
このように足利幕府との依存関係が強くなりすぎた状態で、
応仁の乱が起きて足利幕府が事実上溶解してしまったので、
中断はやむをえなかっただろう。

では江戸時代になってなぜ後水尾天皇は従来の形での勅撰を復活させなかったかだが、
まず第一の理由は、和歌人口が爆発的に増えつつ、
古典文法が完成した時代からあまりにも離れてしまい、
また伝統芸能としてきちんと題詠を学ばないと歌が詠めなくなったので、
千首程度を集める従来の和歌集よりは、類題和歌集のような網羅的な和歌集の方が実際的になったということだろう。
実用性としては類題和歌集の方がずっと便利なのだ。
くどいが、明治になって和歌が大衆化して短歌となったから和歌人口が増えたのではないのだ。
すでに江戸時代にそうとうの人たちが和歌や狂歌を詠んでいた。
状況証拠的にはそういうことになる。

また、第二の理由としては、朝廷の中にも京極派や二条派などの派閥があり、
京都や江戸などの堂上の間にもやはり派閥があり、
それとは別に契沖や真淵などの国学系統の派閥があり、
さらには足利幕府時代に確立した幕府の干渉というものがあっただろう。
徳川幕府としても、将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという、
従来型の勅撰集を出せれば天皇家を利用した権威の箔付けが出来て大喜びだったはずだ。
そのことで幕府が援助を惜しまぬはずがない。
しかるに、後水尾天皇は徳川氏との姻戚関係を拒み、そのために徳川氏を外戚とする天皇は女帝一人にとどまった。
堂上和歌の世界に徳川氏の影響を排除したいという意図はあったに違いない。
ま、ともかく、従来型の勅撰集を出そうとすれば必ず幕府の介入を招く。
仮に幕府の介入という形の援助の下に勅撰集を編纂したらどんなことになるやら想像もできないわな。
田安宗武の歌も入れろと言われるだろう。さらに宗武の師匠の真淵の歌も入れろとか、
真淵の師匠や弟子たちの歌も入れろとか言われるだろうな。
すっげえ嫌だろうな、きっと。
そんなくらいならやめてしまえ、
と後水尾天皇ならば思ったかもしれないし、
徳川家の女御の入内禁止とともにのちの天皇家の家訓となったかもしれない。
まあ宗武・真淵は後水尾天皇よりはずっと後の人だが、状況としてはだいたいそんなところだろう。
要するに、時代が近世まで下ってくると、さまざまな派閥や公家と幕府の力関係などが複雑になりすぎて、
新古今の頃までのように天皇と朝廷主導で秀歌を選抜するという形で勅撰集を編纂することが事実上不可能になり、
そのために勅撰でも無難な類題集の形式となり、
その他無数の私撰集や私家集がそれぞれの派閥ごとに出版されるようになったのだろう。

このように、時代が移るにつれて選抜勅撰集は類題勅撰集と移り、さらに私撰集や私家集にシフトしていったのだ。
和歌の世界が衰えたから勅撰集が途絶えたのではない。
むしろその逆なのだ。

さりゆく春は惜しむのみかは

> 花は散りかつはかへでの葉ぞ生ふるさりゆく春は惜しむのみかは

> ひかりみちなべて木の葉はあをみゆく散る花惜しむこころはあれど

さて、「惜しむのみかは」で検索してみると、あるある。
俊恵

> 花の色を惜しむのみかは山里はいつかはひと目またも見るべき

花だけでなく山里全体が惜しいという意味だろう。

寂蓮法師

> 散らぬまぞ人も泊まらむ春風をいとふは花を惜しむのみかは

花だけでなく人も惜しいという意味。
ふーむ。

花見して、寒き雨がちなるを

> 花を見て浮かるる民を諫むるかみそぎせよとや春雨の降る

ソメイヨシノを

> 浮かれ世はあだなる花に染まりけり国つみおやのとがめやはせむ

ヤマザクラを

> おほかたの山の木立ちに色そへてほのかににほふ山ざくら花

> 尾根道をたどれば生ふる山ざくら昔は花もかくや見にけむ

畑に居る鳩を

> 春さりてうちかへされし山畑に鳩は群れゐて土あさるらし

ふと

> もろもろの花は土より咲き出でて散ればふたたび土となるらし

近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし

加納諸平

万葉調の雄大な自然を歌う叙景歌が多いようだが、あまり感心しない。
たぶん私はもともとこのジャンルが好きではないのだと思う。
佐佐木信綱辺りを連想してしまうからだろう。
「柿園」というのは景樹の「桂園」に対抗するつもりか。
幕末における真淵派の正統という位置づけか。

> 世の中はかなしかりけり世の中の何かかなしきしづのをにして

この「かなし」は「悲し」ではなく「愛し」と解すべきだと思うが、
まあ両方なのかもしれない。ただ悲しいと言いたいのではあるまい。
実朝の

> 世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐあまのをぶねの綱手かなし

の本歌取りと考えるべきだろう。
何しろ百人一首の歌だからまずこれが思い浮かぶのではないかと思うのだが。
「世の中ってとてもいとしいものだよなあ。しかし、取るに足らぬ卑しい身分の男のくせに、
世の中がたまらなくいとしいなどと詩人のようなことを考えている、のはいかがなものか」、
という近現代の文学青年にありがちな心情ではなかろうか。
しかし小野篁

> かずならばかからましやは世の中にいとかなしきしづのをだまき

のようなもっと似た歌もあり、なんともいえんね。
たださらっと読んで見るに、「しづのをだからかなしい」と言っているのではなく、
「よのなかはかなしい」という自分の世界認識に対して、
しかし「この私は取るに足らない者のくせになぜかなしいとおもうのか」と反問、自問自答しているのであるし、
実朝の本歌取りとすれば
「この私は実朝のようなりっぱな貴人・歌人でもないのになぜ世の中はかなしいなどと偉そうなことをいうのか」
というふうに解釈できる。
世では自分のことをわざへりくだって、
つまり権門や堂上家に対抗意識をもって自らを「しづのを」という例が多いのであり、
本当の貧乏人が自らを「しづのを」と言って歎くケースは極めてまれだと思う。

> ますらをが打ちもかへさぬ山陰のはたとせ何に過ぐし来つらん

面白い序詞。
念のため説明すると、「ますらをが打ちもかへさぬ山陰の」までは「はた(畑)」を導くための序詞で、
しかも「はた(畑)」は「はたとせ(二十年)」をかけている。
21才のときにこれを詠んだとすれば正岡子規よりははるかに歌の才能はあったというべきだろう。
ますらを(農夫)が畑を打ち返す、というのは新古今的な叙景といえる。

はりあうつもりはないが、私が同じ年頃に同じ心境を詠んだ歌

> とりがなくあづまの国にくれたけの世に出でむとてふたとせ経たり

「とりがなく」「くれたけの」はいずれも枕詞、「あづまの国」とは東京のこと、
出世しようと上京して二年が経った、という意味。
東京に出て二年というのだから、21才か22才頃、学部三年生の時に詠んだと思う。

江戸時代の歌集

江戸時代の歌集にはたとえば後水尾院歌集、契沖の「漫吟集」、
宣長の「鈴屋集」、蘆庵の「六帖詠草」、秋成の「藤簍冊子」、景樹の「桂園一枝」、
良寛の「布留散東」、加納諸平の「柿園詠草」、
橘曙覧の「志濃夫廼舎」などの私家集(個人歌集)がある。
また、真淵などは自選集はないが弟子や後世の人による個人歌集「あがた居の歌集」などがあり、
田安宗武にも同様に「悠然院様御詠草」が、荷田春満には「春葉集」があるが、
比較的最近平安神宮から出版された「孝明天皇御製集」も江戸時代の歌人の後世の人による個人歌集の一種といえる。

また、歌合の記録も残るが、
あとは私撰集がかなりたくさんある。
幕末だと、蜂屋光世という幕臣が出版した「大江戸倭歌集」「江戸名所和歌集」なるものが出ている。
国歌大観に「大江戸倭歌集」は収録されている。
どういう基準で集めたかわからんが、とにやく商業目的に良さそうなものを適当にむやみと集めたのか。
また、真淵や契沖などの国学者やその門人の歌を集めた「八十浦之玉」というものもある。
これも国歌大観に収録されている。
また、江戸の堂上派武家歌集である「霞関集」「若むらさき」などもある。
他にも「麓のちり」「林葉累塵集」「鳥の迹」などというものも国歌大観に収録されている。

これら江戸時代の私家集や私撰集の歌を全部合わせるとものすごい膨大な数になる。
また入手しにくいものが多い。
なんか気が遠くなるな。

類題和歌集

よくわからないことだらけで、しかも原典に直接当たるにも、蔵書がないので、明治書院「和歌大辞典」などの力を借りる。
そうすると類題和歌集とは、勅撰集にもれた歌を題別に分類して1310年頃に成立した「夫木和歌抄」を典型とする、
資料として編纂された和歌集の総称。
もひとつは後水尾天皇が勅撰した類題和歌集。
この二通りの意味に使われる。

総称としての類題和歌集は、次第に重複を気にせず単に歌を蒐集する目的で編集されるようになり、
今で言えば「国歌大観」みたいなものだが、
先に出たものに新たに歌を継ぎ足したり、
場合によっては丸ごと再利用したりしたものが多く、
ただ単に集めるだけでなく題によって分類し、題詠の教科書としても利用されていたらしい。
つまり word excel の使い方とかそういう実用書のような形で使われた。

後水尾天皇の類題和歌集は、もともと和歌題林愚抄というものをベースとして、
それ以降に出た歌集などからも採録してできたものだという。
この題林愚抄は室町時代に題詠の参考書として使われていたもので、
江戸に入ってやや古くなったので、室町末期までの歌を追加して便宜を図ったという程度のものなのだろう。
ただ、題林愚抄以降の差分の部分には、今日伝わらない歌集から取った新出歌が含まれており、
貴重だというが、その新出歌だけでもどこかに掲載されていれば良いのだが。

霊元天皇の新類題和歌集は、後水尾天皇の類題和歌集にない題の歌を補ったものだという。1733年成立。
つまり、後水尾天皇、霊元天皇の勅撰集ではあるが、
単なる和歌データベース的なものに近く、「21代集のようなオリジナリティ」には乏しいということだな。

才女の話

眠れないので、帚木。
文章博士のもとに勉強に行った男が博士の娘に手を出し、
娘の親にも気に入られ嫁にするよう勧められ、
娘は手紙も漢文で書き、仕事の作文なども手伝ってくれるのだが、
そういう才女に気後れして、しばらく立ち寄らなかった。
たまたま近くに立ちよってその女性を訪ねると、病気のためにニンニクを飲んでいて臭いのでという理由で、
居間には通さずものごしで話をする。
ニンニクのにおいがなくなったころにまた来いというので、逃げだそうとして

>ささがにの振舞ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき

と言うと返歌

> 逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩ゆからまし

ささがにというのは蜘蛛のことで、蜘蛛が盛んに活動するのは男がおとづれる前兆だという。
ひる(ニンニク)と昼間がかけてある。
そういう夕暮れなのにニンニク(昼間)を避けよというのは意味が通らないなと。
返しが、
夜でさえ隔てなく逢う仲なのだから昼間でもまぶしいことはないでしょう、と。
なんだかまあ変な話だ。
伊勢物語を読んでいるようだな。
ていうか、伊勢物語のような断片的なエピソードをたくさん集めてきて一つにつなげたのが源氏物語なんじゃあるまいか。
で、あとから桐壺のような前置きができたと。

ええと。
源氏の家来の一人に紀伊守というのがいて、
その父が伊予介で、伊予介の後妻が空蝉で、
紀伊守は伊予介の前妻の子で、
空蝉の弟が小君で、
空蝉と小君の親が衛門督、と。わかりにくいな。
wikipedia 読んだだけじゃわからん、たぶんどこかに攻略本かまとめサイトみたいなのがあるんじゃないのか。

方違えで源氏が紀伊守の家に行こうとしたが、紀伊守の家は親の伊予介の家が工事中かなにかで、
家族(つまり伊予介の妻の空蝉ら)がみな越してきていて手狭であると、
しかも急ぎだったので、家族らを別の部屋に動かすのが間に合わなかったので、
空蝉と源氏の接近遭遇が起きた、というシチュエーションなのだな。
いきなり中将というのが出てくるがこれはそれまで出てきた頭中将(男。左大臣の息子で右大臣の婿)ではなく、
空蝉に使えている女房の中将(女)なんだよな。
しかもこの当時、源氏自身も中将だった。
なんかもう、設定がややこしすぎる。