夫人

ベンジャミン・ヤン著『鄧小平 政治的伝記』など読む。
この人は、共産中国で、四人組に迫害・投獄された人らしい。で、
彼自身が、鄧小平の生まれ故郷で取材したが、誰一人として、鄧小平の家系が客家だとは証言していない、という。
これは驚くべきことである。
というのは、英語、中文、日本語、どの Wikipedia でも、鄧小平は「四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる」と書いているからである。
私もてっきり彼は客家だとばかり思っていた。
また、乾隆帝の血を引いているという伝説もあるらしい。

それはそうと、日本人も西洋人も夫婦は同姓であるから、特に問題ないのだが、
中国人は夫婦別姓であるから、
毛沢東の夫人、つまり江青は、江夫人ではなくて毛夫人と書くのだよなあ。
まさに「夫の人」だわな。
毛第四夫人とか。
江青女史とは言うが、江青夫人と書くのは間違いだよな。

なるほど、最近は「江青女士」と書くのか。ふーん。

ところで、「レナール夫人」の名前が『赤と黒』の中でたった一度だけ出てくるというのだが、
いくらググってもわからない。
レナール夫人というのは町長の名前がレナールだから、その奥さんというに過ぎない。

超ヒモ理論

[超ヒモ理論縦組みPDF版](/novels/superstringtheory110511.pdf)。
筆名を山崎菜摘と田中久三で使い分ける必然性もないので、田中久三にそろえる。
多少加筆してあるが、挿絵はいれてない。
原稿用紙換算で80枚ほど。まあ、短編だわな。
もっと短いかと思ったがけっこう分量があった。自分で書いたものの中では、割と改行が多い方ではあるのだが。

2001年宇宙の旅

『2001年宇宙の旅』は今見ればつまらない映画だが、
当時はすごかったのに今はなぜつまらなく感じるか、というところを鑑賞しなくては意味のない作品だ。
『マカロニほうれんそう』や『8時だよ全員集合』にも同じようなことがいえる。
あの頃面白かったものがなぜ今つまらないか。

『2001年宇宙の旅』は、テンポが遅い。あれは、クラシック音楽を聴きながら、宇宙船や宇宙ステーションがゆっくり動くのを眺めるためのもので、
いわばイージーリスニングや環境音楽などの走りだったといえる。
またそもそもSF映画にクラシックを最初に使ったのは『2001年』だっただろう。
『2001年』がなければ『スターウォーズ』も『宇宙戦艦ヤマト』も無い。

猿人の描写なども、着ぐるみを着たお笑い芸人が何度も何度も繰り返しているから、何の変哲もない、
ただのありきたりの退屈な映像に過ぎないが、封切当時、つまりアポロで人が月に行ったのと同じくらいに見た人には新鮮だったのに違いない。
なにしろ大阪万博よりも、7年も前なのだから。
同じ年に『猿の惑星』も出たのが興味深い。

HALが人間を殺す、というのも、Portal の GlaDOS などへの影響を思い起こさせる。

『2001年宇宙の旅』はあまりにも多くの人に影響を与えたから、
一度も見たことがなくても、後世の多くの映像を通じて既に見ているのと同じだ。
それを初めてみてつまらないと思うのでは古典を鑑賞したことにはならない。

なるほど。『2001年』は公開当初から、「退屈で眠気を誘う」と評されていたのか。
New York Timesも、筒井康隆も、星新一も。
また興行成績も悪かった。
ということは、いきなりこれを、1968年に、人類が月に到達する以前に見た人たちは、
一様につまらなく感じたということであり、
また、『2001年』を何の予備知識もなしに、いきなり見た現代の若者たちも、
やはり同じようにつまらなく感じるのだろう。
これはこれで実に興味深い事実だ。
逆になぜ私は『2001年』をそれほど退屈に感じなかったのだろうか。
いろいろな知識を得てから見たせいだろうか。
それとも『2001年』の中に、いろんなSF映画のプロトタイプを観察したからだろうか。
あるいは、映像から、無意識のうちに、原作の小説のプロットを補完していたからか?

うーん。結論めいたことを言えば、『2001年』は「おもしろい」と「つまらない」の両極端の評価があって、
そのどちらを自分が感じるかということは、あまり自明ではない。
だから、やはり、用心して観たほうがよいということか。
評価が分かれない作品というのは要するに凡作なのだろう。

源氏の長者2

調べてみると、いろいろ面白い。
賜姓というと、「源」「平」「橘」。
このうち橘氏は、特に古い時代に、正一位までなった人がたくさんいる。
平氏も皇族の末裔のはずだが、清盛まではほとんど高い官位をもらえてない。
正一位をもらっている源氏は、
854年、源常。
858年、源潔姫。
869年、源信。
895年、源融。ここまではみな嵯峨天皇の皇子・皇女。
897年、源能有、文徳天皇の皇子。
913年、源光、仁明天皇の皇子。
993年、源雅信、
995年、源重信、いずれも宇多天皇の皇子。
1094年、源顕房、村上天皇の皇子、などとなっている。
この頃までは、天皇の皇子が、直接臣籍降下して、源氏を賜って、
正一位になっている例ばかりだ。
従一位以下は枚挙にいとまない。

正一位というのは、太政大臣相当とみてよい。

思うに、村上源氏が公家として生き残ったというのは、たまたま藤原道長の時代に源氏となって、
その庇護を受けたからではなかろうか。
他の源氏は、武士になるなどして、在地に土着して、自力で生き延びたのであろう。

なお、頼朝は六位蔵人であったから、昇殿を許されていた。
つまり清和源氏であって、殿上人だった。
もし、平治の乱に巻き込まれなかったら、そのまま公卿になっていたに違いない。
また、従三位の、清和源氏の源頼政も、むろん殿上人だった。
清盛全盛の当時、頼朝や頼政の任官や叙位、官職にまで、源氏の長者として、村上源氏の誰かが口出しをしていたとは、
ちょっと信じがたいのだけど。

土御門通親

[なぜ村上源氏が源氏の中で家格が高いとされるのですか?](http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1029009210)
などを読んでいると、なるほどそうなのか、と、つい納得してしまいそうになるのだが、
たまたま源氏の中で太政大臣や内大臣になったものがいたからといって、
連綿として、公家としての源氏の長者というものがあったという考え方には無理がないか。
源氏とはつまり皇族の子孫であり、藤原氏と姻戚関係があれば、
中にはたまたま大臣にまでなるものがいても全然不思議ではない。
源雅実が太政大臣になったのは、母親が道長の娘だったから、ただそれだけだろう。

頼朝にしても元々は文官(蔵人。二条天皇の学友)だったが、
平治の乱以後、武官(右兵衛権佐。平治物語などに「前右兵衛佐頼朝」などとある)になった。
北畠親房の子も鎮守府将軍になったりした。
公家と武家を分けて考えることは、少なくとも源氏に関して言えば、あまり意味はなかろう。

土御門通親にしても、頼朝の死後、後鳥羽上皇の院政までの間、
たまたま権勢をふるったというだけだろう。
頼家、実朝の時代だから、幕府の中で内ゲバの嵐が吹き荒れており、
承久の乱以前であれば、未だ朝廷に対する幕府の優位性も確立してはいないのである。
そのような過渡期において、黒幕となって、
「朝廷、院、鎌倉幕府の全てが彼の影響下に置かれていた」と言うのは、
過大評価というより、誤解を与える表現というしかない。

つまり、結論として言えば、久我家や土御門家などのように、平安朝以後も、
公家に特化して生き延びた源氏が居た、というに過ぎないのではないか。
公家はだいたい元をたどれば藤原氏だから、王族の子孫が公家というのは、
確かに珍しく、面白い目の付け所かもしれんが。