> 思ひきや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたぎ いさりせむとは
倒置表現というのは、万葉時代にもあったわけである。
ただし、初句切れの倒置表現というのは、小野篁が最初かも知れない。
万葉時代のはだいたい二句切れで、
> こころゆも われはおもはずき またさらに わがふるさとに かへりこむとは
のようになる。
で、これは小野篁が漢文の語順を輸入したからだというのが、
丸谷才一の説だが、
その可能性はないとはいえないが、たぶん違う理由だと思う。
万葉時代は基本的に五七調なので、
初句切れということはまずあり得ない。
二句切れか四区切れになる。
ところが古今集の時代になると、七五調が主流になる。
短歌形式ではわかりにくいが長歌には如実にその傾向が現れている。
七五調になると、二句目と三句目のつながりが強くなる。
そこで初句が浮いた形になって初句切れというものができてくる。
二句三句が強く結びついたせいで、上三句(発句)と下二句(付句)に分かれる傾向が強くなり、
連歌となり、発句だけが残って俳句となる。
平安末期の今様とかそれからのちの歌舞伎の歌詞なんかも、
そして童謡や軍歌や、今の演歌なんかも、
ほとんどが七五・七五・・・となっている。
そんで、初句切れは七五調と相性がいいから、普及したのであり、
漢文語順で効果が斬新だからみんながまねして使われるようになったとは思えない。
特にほとんどの女はそんな漢文とか知らないんだから、漢文っぽい和歌なんて詠むはずがない。
初句切れの倒置表現というのは非常に多い。
「思ひきや」「知るらめや」「忘れめや」「ちぎりきな」「みせばやな」
こういうの使いこなせるようになると、なんか急に和歌がうまくなったように錯覚する。
発句がひとかたまりになってしまい、付句が弱いとものすごく弱いかんじになる。
いわゆる腰折れというやつで、それが昂じて俳句になってしまう。
もう下の句要らんよねということになる。
そこをまあ、枠構造というんですか。
ドイツ語にあるような枠構造というのは、
歌全体の統一感を高めてくれるんですよね。
伏線回収とも言うかも知れない。
初句と付句が七五の二句三句を挟み込む形になって、
非常に安定する。
初句が枕詞になったり、
枕詞ではないが何かのあまり深い意味の無いことばになったり。
或いは初句と付句が倒置表現になったりする。
特に初心者なんかはそれを意識して詠んだ方が、
割と簡単に良い歌が詠めたりするから便利なんじゃなかろうか、
などと思ってしまう。
万葉時代が五七調なのは、単に、もともと長歌というものは、
五七・五七・五七・・・と続けるものだったからだ。
見てみると、五七五七七ではなく五七五七七七というものけっこうある。
仏足石歌というのだな。
まあ、五七で来て、〆に七を重ねたのが長歌で、
さらに七を重ねたのが仏足石歌。
五七だと、五と七の間に間が空く。
声に出して詠めばすぐに気がつくこと。
これは、呼びかけ、語りかけの場合には、
相手が気づくのを待つ、
こちらの呼びかけの意味を理解する、
その間だという気がする。
相手が聞いた。それを理解した。それから続ける。
今の会話でもそういうことはある。
「いいかい、」とか「ほらね、」とかまず短く相手の注意を引くわけで、
注意を引いたところで言いたいことを継ぐ。
呼びかけだから、特に意味は無くて良い。だから枕詞のようなものが使われる。
枕詞だと次に来る語がだいたい予想つくから、余計に呼びかけには都合がよいわけだ。
「ひのもとの」とくれば「やまと」とくる。
冗長であるが、これもまた語りかけのプロトコルだと思えばリーズナブルだ。
今で言う、ヘッダーみたいなもの。
五七・五七・七ってのはだから、
ヘッダーとメイン、ヘッダーとメイン、フッターみたいなもんだと思えばいい。
政治家の街頭演説もだいたいそんな風にできている。
歌とは本来、訴えるひとから聴衆への語りかけだからだ。
「ねえ、みなさん」「なんとかかんとかでしょう。」
そこでいったん聴衆の反応を見て、
「ですから、」「これこれなわけなんですよねえ。」
それの繰り返し。
たぶんなんかの話術のテクニックとして学んだもんじゃない。
自然と語りかけとはそうなるもんだ。
五で相手の気をひいておいて七でつなぐ。
ふたたび五で気をひいて七でつなぐ。
それが五七調なんだが、
楽器の伴奏なんかが入ってくるとそういう相手とのやりとりというのかな。
プロトコルが必要なくなるじゃないですか。
むしろリズムの方が重要になる。
リズム、テンポという意味では七五調のほうがずっとなめらか。
あと、文字に書いた歌には、やはりそういう相手の気を引く、相手がこちらの語りかけに気づくための間がやはり要らない。
むしろ間があるとじゃまな感じがする。
だから、言葉だけの時代から、
奏楽と文字の時代に移って、
五七が七五に逆転したのだと思う。
おそらく外国の詩歌にも類例はあるはずだ。
探してみたいもんだ。