古今集は平城天皇から醍醐天皇までの歌集なんだが、
平城天皇の歌が残っているのは、たぶん、
平城天皇から在原氏が出て、在原行平が宇多天皇から歌を集めるように依頼されたからだろう。
次の嵯峨天皇は和歌には何のシンパシーもなかった。
嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和、陽成の六代は和歌の低迷期であった。
この時代のことはほとんど忘れられて、知られてない。
特に嵯峨天皇が即位してから崩御するまでの三十年間くらいは暗黒時代といってよく、
この時代に歌人だったといえるのは、小野篁と在原行平くらい。
仁明天皇から光孝天皇の代というのは藤原良房と基経の時代であった。
この時代に登場してくるのが、
僧正遍昭、文屋康秀、在原業平、小野小町であり、
(あまりにも情報が少なすぎてわけわからんが)喜撰と大伴黒主もこの時代であろうと考えられる。
つまり六歌仙の時代である。
六歌仙の時代とは良房・基経の時代であり、伊勢物語の時代である。
遍昭は桓武天皇の後胤、業平は平城天皇の後胤であるから、
比較的身分が高く、歌もよく残っているが、
あとはよくわからない。
ともかくこの時代は和歌の低迷期で、
六歌仙に関する情報も断片的にしか残ってない。
この時代の情報はノイズに埋もれかけており、間違っているものも多いと思う。
で、光孝天皇が和歌を復興させはじめる。
いよいよ本格的な古今集の時代が始まる。
宇多天皇はそれを加速させ、上皇時代にほぼ完成させる。
その成果が古今集となるのだが、
この時代の歌人というのが、いわゆる古今集の撰者たちであり、
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑。
あとは素性法師、菅原道真、伊勢、藤原敏行。
素性法師は僧正遍昭の息子だからまあいいとする。
菅原道真もまあ古くからの公卿の家柄。
あとがよくわからない。
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、伊勢。
これらは殿上人未満の下級役人だったが、
光孝天皇という人は苦労人で下積みが長かったし、
宇多天皇は臣籍降下までした人だったから、そういう地下にいて、
才能ある人によく気がついて、抜擢したということだろうと思う。
その時期はわりと遅く、おそらくは菅原道真が失脚し、
宇多天皇が上皇になった後だろう。
もともと宇多天皇は菅原道真、在原行平、是貞親王あたりに歌の蒐集・編纂をやらせようとした形跡があるからである。
業平の妻が紀名虎の孫(紀有常の娘)だった関係で、在原氏と紀氏は当時比較的近く、
おそらく有常が仲介となって業平と友則がつながり、
貫之、躬恒、忠岑、伊勢らはもともと下級役人仲間でつるんでいたか。
実際古今集の歌人で全然どんな人か知られてない人がたくさんいるのだが、
そういう連中もおそらくこの階層の人たちだ。
藤原敏行の妻も有常の娘である。
たぶんもともとは友則が選者の第一人者だった。
延喜五年というのがだいたいそのタイミング。
何らかの理由で、
友則をリスペクトするために、彼が生きていた時代に勅撰があった、
としたいのだと思う。
六歌仙時代の歌というのは、伊勢物語を中心にして、なんとなくもやっと、
伝説的に残っていた。
業平、二条后、惟喬親王、源融、良房、基経、遍昭、文屋康秀、小野小町。
政治的には非常にどろどろとした時代であり、
その雰囲気が古今集にも投影されている。
暗かった旧き悪しき時代というイメージ。
有常、貫之、友則の関係は少しわかりにくい。
ずっと祖先に紀勝長がいた。
勝長の子に名虎と興長がいた。
名虎の子が有常。
興長の子が本道。
本道の子が有友と望行。
有友の子が友則で、望行の子が貫之。
古今集の真名序を書いた人というのが、
紀淑望なのだが、彼と貫之らとの家系の関係はよくわからん。
同じ紀氏ではあろうが。
で、淑望はけっこう早死にしている。
宇多天皇や貫之より先に死んでいる。
てことはたまたま漢文が書けたというので、
おまえ古今集の序文書けとか言われて、
古今集ができた直後くらいに(つまり亭子院歌合の直後くらいに)、
いろいろ調べて書いた人なのだろう。
彼の時代までくると六歌仙の時代というのは伝聞であり、伝承であって、
よくわからなかったはずだ。
宇多天皇にも貫之にもよくはわからん。
伊勢物語の原型になったような、大鏡的な歴史書(日記?)があった可能性がある。
さらにもっと時代が下ってから、仮名序は書かれたはずであり、
ゆえにあのような支離滅裂な文章になってしまった。