facebook

facebookがなんかおかしい。
pcで使っている分にはまだいいんだが、アプリがときどきわけのわからんことをしてくれる。
まあ、仕様ころころ変わるし操作方法なんてあるようでないようなもんだし。
ともかくアプリでfacebookをいじるのは危険。
pcでも必要ない限り使うまい。

ていうかfacebooに小学生以来ほとんどあってないが、
たぶん知り合いだけどよくわからん人たちが最近多くて困る。
こういうものに家族の話題や写真を投稿したい気持ちもよくわかる。
だが、困る。

twitterはまだ好きだが、
酔った勢いで写真投稿するのだけはやめようと思う。

昔ベタのhtmlで日記書いたりして、
それからブログという便利なものができて、
さらにtwitterやfacebookなんかが出てきて誰もがネットに自分をさらすようになったが、
便利になればなるほど気分で書き込めるようになり、かなり危険だなと思う。
自分の書きたいことを制御できるのはブログくらいまでか。
しかしブログも酔った勢いで書き殴ることもあって必ずしも安全とはいえない。

auブックパス

auビデオパスとau歌パスは解約したが、ブックパスは電子書籍業界のお勉強にと思い、継続することにする。
auブックパスの読み放題はすごい。月額562円。
手塚治虫の作品がおそらくはすべて読み放題なので、いくら読んでも読み切れない。
あと土山しげるとか、Cat Shit Oneとか。
小説もものすごくいっぱいある。

それで思うに、電子書籍は売り切れも絶版もないから、
これから電子書籍は無限に増えていき、
キンドル直接出版みたいに誰でも書けるから、
なおのこと増えていき、
一度クラウドの海のなかに埋もれてしまえば、たとえ存在していても誰にも読まれない、ということになるだろう。
これだけコンテンツが洪水のようにあふれていては多少おもしろいものを書いたとしても見向きもされない。
ちょうどandroidアプリが世の中に氾濫しているようなものだ。
実に頭の痛い状況だなと思う。
電子出版はkdpだけで閉じているわけではない。
kdpでいくらがんばっても無駄な気がしてくる。

漫画喫茶も、あまり利用しないんで知らないがこんなもんなのだろう。
しかし漫画喫茶に比べれば便利さがまったく違う。
空き時間にどんどん読めるのがいい。

kdpの困るところは印税70%にするには250円以上の値段を付けなくてはならないとこで、
99円で印税35%だともうけは1/6になってしまう。
99円で印税70%ならとっくにやってると思う。

auブックパスの読み放題みたいなキャンペーンもない。
仮にアマゾンにauブックパス読み放題みたいなサービスがあって、
一つ読まれるたびにたとえば1円印税がもらえるとしたら、
たぶん私はそれをやってるだろうと思う。
今みたいに忘れたころに1冊売れるとかいうのよりはまだ良い気がする。
Kindle Countdown Deal ってのもあるが今は amazon.com か amazon.co.uk しかできない。
co.jp でできるんならもうやってると思う。

エウドキア ギリシャの女帝

「ギリシャ人の王国」のタイトルを「エウドキア ギリシャ人の女帝」に変更。
あまりセルジュークやノルマンのことは書かずに済ますつもりだったが、ある程度追記。

小説でもカラオケでも、誰も知らないやつは受けない、そんな気がする。逆に誰もが知っているネタはただそれだけで受ける。誰もが知っている人が書けば受ける。高城剛とか堀江貴文とか。それが消費者心理(笑)。

今回の「エウドキア」も売れない自信ならある。でももし売れちゃったら。マーケティング考え直さなきゃな。売れなかったら。当分こんなの書かない。

表紙の画像がなかなか入れ替わらないな。中身が変わるのもも少し時間がかかるだろう。

無料キャンペーンとかやめちゃおうかな。しばらく放置。

xperia

私としてはアップルとかジョブズとか嫌いなんでiphoneやipadを買うことはあり得ない。
サムスンも嫌いなんでgalaxyとか絶対買わない。
それ以外だったら、aquos でも kyosera でも asus でもかまわない、と思ってたが、
xperia には惚れた。
sony はやっぱこの手の製品作るのうまいわ。
今更だが、このクオリティは、sony以外に作れるはずがない。
vaioとかテレビを切り捨てたというが、まあ正解だろう。
世の中はまだ xperia の良さを知らない。
しばらく xperia 以外買わない。

推理小説

なんか最近煮詰まるのでぐだぐだとブログに書くとだ。
私が小説を書くのに一番影響を受けたのは『日本外史』だろうと思う。
その他には『平家物語』とか三遊亭圓生の落語かと思う。
圓生はまあともかくとして、『日本外史』というのはとにかく登場人物が多くて、
いきなり出てきて消えていく。
ときどき義家とか頼朝とか清盛みたいなメインキャラが出てくるのだが、
よく読まないとこの人がこのへんの主人公ですってことがわからないから、
読んでいるうちにああ義家って割と重要?とかって気づく感じ。

『平家物語』もどうでもよい人たちが次から次に出てきてなかなか義経とか頼朝が出てこない。
古典がみんなそうではないが、いわゆる主人公がいないパターン。
現代では群像劇とかっていうのかな。

小説と違って現実世界には主人公はいない。
主人公はこの人で、ヒロインはこの人で、仇役がこの人で、というプロットは、現実世界には存在しない。
では現実世界をそのまんま切り取ったような小説は成立し得ないのか、読者を獲得し得ないのか、
と考えたとき、『平家物語』や『日本外史』なんかは、やっぱ主人公がいるとも、プロットがあるとも言いがたいのに、
かつては多くの読者がいた。
じゃ、そういう文学形態があってもいいはずではないか。

私が書いたものの中では『墨西綺譚』が典型的にそうで、もちろんこれにもプロットはあるのだが、
敢えて言えば、誰がヒロインか当てる推理小説みたいなものになっている。
ミステリーで真犯人当てるようなもの。
あれ、この子がヒロインかなと思わせといて実はやっぱりこっちでした、みたいな。

『安藤レイ』も推理仕立てになっているが、人は誰も死なない。
これもやっぱりヒロインはアンドロイドですねと思わせといて実は別の人でした、みたいな仕掛けになっている。
普通の推理小説ではない。
私はひねくれ者だから、
誰か人が殺されて真犯人を推理する、みたいな話は絶対書かないと思う。
歴史小説で軍人や武士が死ぬのはかまわないけど、
現代の民間人を殺すのは気が乗らない。
『墨西綺譚』ではやむなく一人殺したが、なんとか殺さずに済ますわけにはいかないかと悩んだあげく、
やはり彼には死んでもらわなくてはならないので死んでもらった。
そのくらい自分の話の中で人を殺すことに抵抗がある。

なんでかといえばたぶん私にはそういうのはテレビドラマのシナリオみたいな感じがするからだと思う。

『墨西綺譚』なんてのは、ある意味完全な失敗策で、最初に無駄にたくさんキャラが登場してくるので読者はあきれるだろうと思う。
でもあれはあれでもうほっとくしかない。主人公とヒロインがいて敵役がいるとか、
事件が発生してそれを解決するとか、
父が殺されたから仇をうつとか、
父に捨てられたから復讐するとか、
そういうのは書きたくないんだから仕方ない。
たぶん私は、敢えてそういう定番な王道な話を書こうとすると、ひねりをきかせられなくて窮すると思う。
つまり、誰もまだ使ったことのないプロットは簡単にひねれる。
みんなが使うプロットでひねるとみんなと同じようなひねり方にしかならないから、
そうではないひねり方をしようとがんばるがたいていもう誰かがすでにやっていたりして、疲れる。
だからできるだけ他人とネタのかぶらないことをやりたがる。
そういうことに違いない。

でも最近は割と主人公がわかりやすいように書くようにしているつもりだ。

アマゾンから振り込まれた印税

あんまこういうことは書かない方がよいと思うが、
2013年はkdpを始めた年なので、
少し具体的な数字を書いてみようと思う。
ええっと、それで新生銀行にアマゾンから振り込まれる用の口座を作ったのは4月だった。
売り上げは1月から発生していたのだが、最初に振り込まれたのは4月24日。1070円。
この金額が何を意味するのか、よくわからん。

で、4,5,6,7月の売り上げと6,7,8,9月の振り込み額がそれぞれ一致しているから、
2ヶ月後に振り込まれているらしい、ということはわかるんだが、
それ以降の金額は微妙に変動していて、どういう仕組みでこんな揺らぎができるのか、よくわからん。
でもまあ、例の手続きをやったから、アメリカ政府に源泉徴収されてないことは、ほぼ確かなようだ。

で、12月末日までに実際にアマゾンから振り込まれた額は19000円くらい。
1月にならすと1500円くらいか。
まあ体感的にもだいたいこのくらいだった。
微妙。
たぶん、確定申告するとしてもすべて必要経費で控除してもおかしくないレベルだと思う。
印税の必要経費ってどうやって計算するのかね。
も少し儲かれば税理士雇ってもいいくらいだけどね。

amazon.com とか amazon.co.uk でも割と売れたりする。
『古今和歌集の真相』みたいなお堅いのが売れたりして割とびっくりする。

そうだなあ。
年に100万円くらい印税が入ったら、どうどうとキンドル作家を名乗ってもよさそうだが、
まだ道は遙かに遠い。
ただ今後何もしなくてもずっと一定の振り込みがあると考えると(そんな保証は何もないわけだが)、
ちょっとした小遣いくらいにはなるわけだ。
100冊くらい書いてそのうち2、3冊がベストセラーになれば100万円にいきそうな気もするんだが(笑)。

ギリシャ人の王国

近々、『ギリシャ人の王国』という物語をキンドルで出版する。またまた旧作のリメイクである。
パブーで公開してたやつの焼き直し。
さほど手間はかかってない。
ただ数年前と比べれば多少テクニックは覚えた(笑)から、
少しは小説っぽくなってるかもしれない。

『エウメネス』が今もときどき売れていてアマゾン和書の中で、
古代ギリシャものの中では5位くらいにつけている。
わりと良い感じ。
印税で食っていくには程遠いが、今のところ突破口はほかに見いだせてない。

私としては『エウメネス』みたいなものをどんどん書いたほうがいいんだろうなと思う。
もとはといえば、『エウメネス』は『ギリシャ人の王国』から派生したものなのだけど、
世の中のギリシャ好きの人たちに受け入れてもらえるだろうか。
私はこの作品が一般受けするかどうか、まったく自信がない。
だけどまあ出さないでおく理由もないので出しておく。

私は、ギリシャと言っても古代ギリシャのことはあまり書きたくない。
『エウメネス』もギリシャものというよりは、ペルシャやインドの話である。
『ギリシャ人の王国』は十字軍が始まる直前の東ローマの話である。
たぶん私は誰もが知ってるわかりやすいネタで勝負するのが怖いのだ。
人気のないものをわざと取り上げるのが好きなのだ。
だから日本の歴史でも戦国時代とか幕末維新とか源平合戦はやらない。
わざとそういうところを外して書く。

歌と音楽

[アリストテレスの詩学](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E5%AD%A6_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9))
を読んで思うのだが、
散文というものは、文字によって言葉が記されるようになった後に現れた文芸形態であり、
それ以前の口承文学はすべて韻文によって表されていた、と考えて良いだろうと思う。
つまりかつては単なる意志を伝達するための(一時的な)会話と、記録を後世に遺すための(保存用の)韻文の二種類があった。
韻文とはつまり暗記しやすく唱えやすい形態の言語、ということになる
(韻文が会話、たとえば演説などに使われることはあったかもしれない)。

それで韻文、詩、或いは呪文とか祝詞とかお経とか歌と言っても良いのだが、
これらがいわゆる音楽と不可分なものなのか、そうではないのかということを、
ずいぶん考えてきたのだが、日本の和歌の歴史を見る限り、歌は独立した文芸の形であって、
音楽と不可分であるとか、或いは音楽に従属するものであるとは思えない。
万葉集の時代でもそうだし、それ以前の歴史に残ってない時代にさかのぼってもそうだと思う。

あくまでも想像だが、イリアスやオデッセイなども、古事記などの成立とどうように、
最初はごく短いばらばらに伝承されてきた詩だったのだが、
文字を獲得した時期に、誰かが、或いは大勢の人たちによって、集められ、つながれて、整えられて、
韻文としての形式も同時進行的に発達してきて、あのような形になったのだろう。

延喜式の祝詞などはだいぶ散文的だが、反復や対句などが使われていて、やはり一種の韻文であろう。
勅撰集の仮名序も祝詞によく似ている。掛詞や枕詞などが多用され煩雑だが、口承文学時代の名残なのに違いない。

たとえば中国で完全な韻文が成立したのは唐代である。
詩経の詩は韻文としては未発達である。
万葉時代より以前の記紀歌謡もあまり韻文的ではない。
そうすると昔には会話と韻文の区別さえ定かではない時代があった、と考えるべきだろう。

漢詩は非常にわかりやすい例だが、リズム(句の長さ)とメロディー(平仄と韻)がある。これらはどちらかと言えば音楽的要素だが、
さらに対句があり、起承転結がある。これらの文書構造は必ずしも歌曲には必要ではない。
しばしば邪魔ですらある。
唐詩では短い詩形に情報を凝縮するために同じ字の反復を嫌うがこれも歌曲にするにはかなり大きな制約である。
さらに暗喩や省略、倒置などと言った修辞があるが、これらは音楽的な要素とは言いがたい。
おそらく今日的な自由詩の方が曲に合わせやすい(というより曲に合わせて手直しされる)のであろう。
詩は自己完結しているので、必ずしも曲との相性が良いとは言えない。

また和歌の場合には、本歌取りというオマージュを盛り込む手法や、
返歌という気の利いたやりとり、題詠で即興で詠むなどという遊び方がある。
それを書としても楽しむ。これらも音楽的とは言いがたい。
ただしこれらの趣向は今日ではほとんど忘れられてしまったが。
カルタ取り以外は。

今の歌詞は字数や押韻などが割と自由で、曲を合わせることで初めて完成する。
むしろ曲のないただの歌詞は不完全であって曲と合わせることで命を与えられるように見える。
それからの類推で、
韻文が未発達だった太古には、詩を音楽で補完していたのではなかろうか、と考えるかもしれん。
そこから詩と音楽は不可分という発想も出てくるのかもしれない。
しかし詩が未完成な時代には音楽もまたそうだったはずで、詩を補えるほどのものですらなかったと思う。

たとえば画賛とか歌合わせというのは、歌を絵画に結びつける。
歌は音楽にも絵画にも舞踏にも結びつけられる。
もちろん物語や軍記にも使われる。しかし、それらのどれにも従属していないし、
それらのどれも歌に不可分な要素ではない。
たとえば墓碑銘は詩である。
しかし墓碑銘に何か曲が付いていると考える人はいるまい。
念仏も俳句も詩である。
しかしそれらのごく短い詩に曲をつける必然性はほとんどない。
南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、私を誘惑から遠ざけてください、一夜一夜に人見頃、良い国作ろう鎌倉幕府、
いずれもフシ回しは特に必要ない。

語源的に言えば歌は訴えること、唱うこと、謳うことであって、そこにはまず音声があり、リズムや調べも付随しただろうが、
音楽的要素はむしろ、そこから派生していったというべきであって、
歌の本質とはやはり言葉そのものである。
読経を音楽ということも不可能ではない。
だがお経はお経であって、ドラや木魚と不可分ではない。

歌を音楽や絵画や演劇と合わせるのはメディアミックスであり、
それはそれでけっこうなことなんだが、
私は歌はあくまでも歌だと言いたい。

ギリシャ哲学は忽然とギリシャに生まれたものではない。
オリエント世界でたまたまアレクサンドロス大王がヘレニズム世界を作り、
その文化をローマが継承した。
その他の伝承はすべて失われた。
近代、ヨーロッパが世界を征服した。
だから、ギリシャにだけ哲学者がいたように見えるが、
そういう見方はたぶん間違いだ。
エジプトにもシリアにもペルシャにも哲学者はいた。自由な精神を持ち、自由な思索を楽しむ人たちがいた。
ただ彼らはディオゲネスと違ってアレクサンドロスと出会わなかった。
ただそれだけだ。

不良債権としての『文学』

j:com の smart tv boxちゃんが来たのでさっそくimagica bsで録画したブラックホークダウンやら、
au video passで見放題の吉田類居酒屋放浪記などを見ている。
book passでスマホにたくさんマンガを落としたから通勤途中に見るだろう。

それはそうと、
[不良債権としての『文学』](http://www.bungaku.net/furima/fremafryou.htm)
というのを読んだのだが、読んでみるとごく当たり前の主張だ。
大塚英志氏の書いた本は、たぶん私が読むといらいらして読めないと思うのだが、
要するに専門学校生や大学生にプロットの組み立て方を教える本であって、
誰が書いても同じようなことは書くだろう。

> 戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。

文芸というものをビジネスモデルで見た、
実に面白い指摘であり、たとえば永井荷風が大学教授を辞めて文筆業で食って行けたのはたしかに文学全集が売れたからであり、
今日我々が「文豪」というイメージを抱いているのもそうした作家である。
今や「紙」の文学全集や百科事典ほどばかげたものはない。
ああいうものはようは、昔家を建てたときの家具や調度品の一種として買われていたものであり、
神棚の一種で、
別に実際に読んだりするものではない。
本当に読もうという人には不便きわまりない。
今ならウィキペディアやキンドルを読むだろう。
多くの愛書家というのは結局は自宅に自分だけの文学全集を作ることが好きなだけであり、
蒐集家の一種であり、だから紙の本が好きなのにすぎない。
逆の言い方をすればキンドルではそういった蒐集癖を満足させることはできない。
こどもが切手や昆虫やカードを蒐集するのが好きなようなものでこれはどうにもならない。

大塚氏はコストがかかりすぎる現在の出版業そのものを疑問視し、コミケを参考にした「文学フリマ」などというものを提唱しているが、
これは今kdpの世界でまさに進行していることだろう。
「文学」と同様、出版業界もまた既得権化しているからで、それは出版にコストとリスクがかかるからであり、
よって元の取れる本ばかりが本屋に並ぶことになる。
彼の言うことはいちいちもっともだと思う。

小谷野敦氏が「大塚の文章は非論理的で、下手というより平然と論理をすりかえる詭弁と直観だけで書いていて、それを実証的に検証しようという姿勢がない」と批判しているそうだが、確かにこの「不良債権としての『文学』」という一文を読むだけでも、そういう印象を受ける。
威勢は良いが実がない気がする。

でまあプロットを作る技術を教えれば多くの人が小説を書けるようになるだろう。
しかしこれはハリウッド的娯楽のプロットですとか、これはミステリー、これは恋愛のプロットで、
起承転結があってここが盛り上がりで、ここで落とすとか、
そういう文書技術の部分をどんどん取り除いていってあとに何も残らないのは、
種のない果実のようなもので、それは天然自然のものではない。
世の中は種なしブドウや種のないミカン、バナナ、無精卵のほうが好まれる。
種があればそれをよけて食べる。パパイヤに種ごとかぶりつく人はいない。そんなゴリラかオランウータンみたいな食べ方はしない。

プロデューサーならば売れればそれで良いかも知れないが、
原作者は実は自分の作品の中に種を仕込みたいのではないか。
私なんかはそうだ。
いや、作家になるのが最終目的であって何を書くのかというのはあまり関係ない、とにかく売れるものが書きたい、
というのであればそれでもいい(逆に自己表現したい何かか自分の中に何もないと作家になれないから、わざと異常な体験をして特別な自分になろうとする人もいるわな)。
「自己」より「人と人とのつながり」のほうが大事という人はいくらでもいる。
どちらかといえば劇場でパフォーマンスしたい人や営業の人、プロデューサーなどがそうだ。

私は違う。
私にとって文章というのは所詮は手段だ。
私が死んだあとにもこの世に自分という種を残したい。
種だけ残しても誰も見向きもしないから、
そこにストーリーという果肉をまとう。
みんな果実は好きだから食べる。種ごと食べる。せっせと食べてもらえるようなおいしい果実を作ろうと努力する。
種ごとたべない人が多いかもしれないが、
たくさん出回ることによって種の存在に気付いてくれる可能性は高まる。
それが原作者のわがままだと思う。

トイストーリーやボルトなんか見ていると、
原作者や原画のわがままなどという要素は注意深く、完全に取り除かれている。
完全に種なしにされている。
確かに繰り返し見ればみるほどにさすがディズニーだな、さすがハリウッドだなと感心されられるが、
そこからディズニー的、ハリウッド的な要素を取り除くと何も残らない。
完全に去勢されている。

ハリーポッターはさすがに原作がきっちりしているのと、原作も合わせて読むことができるから、
原作者の鬱屈した自我というかどろどろとしたこだわりが伝わってくる。
ハリウッドがそれをいかに子供にもわかるエンターテインメント作品に仕立てて、3DCGで飾っても、ある程度は残っていて、
だからハリーポッターの作者は作品に種を残すのに成功しているといえる。

スピルバーグとルーカスを比べると、
スピルバーグはユダヤ人、ルーカスはイングランド系だからかもしれんが、
どちらもハリウッドの娯楽映画を作る人ではあるが、
スピルバーグのほうがはるかに屈折したものを作り、ルーカスのほうがよりハリウッドに向いているといえる。
私はどちらかと言えばスピルバーグのほうが好きだ。
そういう苦さや雑味に味わいを感じるからだ。

スピルバーグやコッポラなんかの作品を除けばハリウッド映画は総じて予定調和であって、
だいたい展開が読めるからつまらない。
逆に老若男女だれでも安心して楽しめる。いくら激しいアクションがあっても箱庭の中で暴れているようなもの。
いきなり主人公が死んだりしてパニックに陥ることがないようにできている。
水戸黄門やさざえさんや笑っていいともがいつも同じなようなものだ。
私なんかはよくまあああいうものを飽きずに見ていられるなと思うが。
それだけ予定調和に需要があるからだろう。

そういう意味ではパーフェクトストームはほとんど唯一の例外で、私は最後に予想を裏切られてびっくりしたのだが、
おそらく海の波を3DCGで表現することが至上命題で、そのため実話をなぞる必要があったのだろうと思う。
そこには青の六号に対するハリウッドの激しい嫉妬・対抗心が感じられて面白いが、
そういうところを楽しむことじたいハリウッド映画には想定されていない。

ま、そういう意味ではブラックホークダウンも若干ハリウッド的テンプレからは外れてるかな。
でも今見るとやっぱりいたるところアメリカ臭がする。

留置まし

[反実仮想まとめ](/?p=4190)が良く読まれているのがおかしいのだが、
たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。
記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先に
[まし](/?p=4121)、
[とも・・・まし](/?p=4185)、
というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、
吉田松陰の

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

という歌の解釈が難しいからである。
それでまあ、今改めて考えてみるに、
幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、
なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。
そうするともしかして「大和魂」もまた、
源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、
この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、
この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。
で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。
「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。
そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。
「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。
「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。
「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

> 資長のアリア(I)

> おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に

> 謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ

> 願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき

> 憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。