新撰和歌 巻第二 夏・冬 荓四十首

> 121 我がやどの 池のふぢなみ さきにけり 山郭公 いまやきなかむ

> 122 たつた山 にしきおりかく 神なづき いぐれのあめを 立ぬきにして

> 123 時鳥 花たちばなに うちはぶき いまもなかなむ こぞのふるごゑ

異本歌、ほととぎす花橘に香をとめて鳴くはむかしの人や恋しき

> 124 神な月 しぐれはいまだ ふらなくに まだきうつろふ かみなびのもり

> 125 五月には なきもふりなむ 郭公 まだしきほどの こゑをきかばや

> 126 かみな月 しぐれの雨は はひなれや きぎのこのはを 色にそめたる

> 127 さ月まつ はな立花の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

> 128 みやまには あられふるらし とやまなる まさきのかづら 色付きにけり

> 129 卯のはなも いまだちらぬに 郭公 さほのかはらに きなきとよます

> 130 神無月 時雨とともに かみなびの もりの木の葉は ふりにこそふれ

> 131 いそのかみ ふるきみやこの 時鳥 こゑばかりこそ むかしなりけれ

> 132 故郷は ならのみやこの ちかければ ひとひもみゆき ふらぬひぞなき

> 133 おもひいづる ときはの山の 郭公 からくれなゐの ふりいでてぞなく

> 134 ふゆさむみ こほらぬ夜半は なけれども よし野のたきは たゆるよぞなき

> 135 足引の 山郭公 けふとてや あやめの草の ねにたててなく

> 136 梅のはな 雪にまじりて みえずとも かをだににほへ 人のしるべく

> 137 なつの夜は ふすかとすれば 郭公 なく一こゑに あくるしののめ

> 138 ゆきふれば 木ごとに花ぞ さきにける いづれをむめと わきてをらまし

> 139 めづらしき 声ならなくに 時鳥 そこらのとしを あかずもあるかな

> 140 ゆふされば さほの川瀬の かはぎりに ともまどはせる ちどりなくなり

> 141 なつ衣 たちきるものを あふ坂の せきのしみづの さむくも有るかな

> 142 浦ちかく ふりしく雪を しらなみの すゑのまつ山 こすかとぞ見る

> 143 ほととぎす まつに夜ふけぬ このくれの しぐれにおほみ 道や行くらむ

> 144 冬くれば あやしとのみぞ まどはるる かれたるえだに 花のさければ

> 145 つれもなき なつの草葉に おく露は 命とたのむ せみのはかなさ

異本歌、くれがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞかなしき

> 146 ふる雪は 枝にもしばし とまらなむ 花も紅葉も たえてなきまは

> 147 つれづれと ながめせしまに 夏草は あれたるやどに しげくおひにける

> 148 くらぶ山 こずゑも見えで ふる雪に 夜半にこえくる 人やだれぞも

> 149 なつの夜を あまぐもしばし かくさなむ 見るほどもなく あくる夜にせむ

> 150 しら雪の ふりてつもれる 故郷に すむ人さへや おもひきゆらむ

> 151 夏の夜に しもやふれると みるまでに あれたる宿を てらす月かげ

> 152 雪のうちに 見ゆるときはは みわの山 道のしるべの すぎにやあるらむ

> 153 せみのこゑ きけばかなしな なつごろも うすくや人の ならむと思へば

> 154 けぬがうへに またもふりしけ 春霞 たちなばみゆき まれにこそ見め

> 155 いまさらに みやまにかへる 郭公 こゑのかぎりは わがやどになけ

> 156 冬ごもり はるまだとほき 鴬の すのうちのねの きかまほしきを

> 157 とこなつの はなをしみれば うちはへて すぐす月日の ときもしられず

> 158 昨日といひ けふとくらして あすか河 ながれてはやき 月日なりけり

> 159 夏の夜は まだよひながら 明ぬるを くものいづくに 月かくるらむ

> 160 ゆくとしの をしくも有るかな ますかがみ 見るわれさへに くれぬと思へば

新撰和歌

紀貫之は割とアバウトな人だった。『土佐日記』に

> 世の中に 絶えて桜の 咲かざらば 春の心は のどけからまし

> 青海原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

などと記しているが『古今集』では「咲かざらば」は「なかりせば」だし、
「青海原」は「天の原」である。

「新撰和歌」でも勅撰集とはかなりの異同がある。
もしかすると貫之が正しくて、勅撰集が間違っているのかもしれない。

「序」には『古今集』の中から良い歌を選抜せよと醍醐天皇の勅命があったことになっているが、歌はかならずしも『古今集』に限っていない。

新撰和歌 巻第一 春・秋 荓百二十首

> 1 袖ひちて むすびしみづの こほれるを 春たつけふの 風やとくらむ

古今2 「はるたちける日よめる」貫之

> 2 秋きぬと めにはさやかに みえねども かぜの音にぞ おどろかれぬる

古今169「秋立つ日よめる」敏行

> 3 春がすみ たたるやいづこ みよしのの よし野の山に 雪はふりつつ

古今3 題知らず、読み人知らず

> 4 わぎも子が ころものすそを ふきかへし うらめづらしき 秋の初かぜ

古今171 題知らず、読み人知らず。「わぎもこ」→「わがせこ」

> 5 春ごとに かずへこしまに ひとともに おいぞしにける みねの若松

素性集、春とのみかぞへこしまにひとともにおいぞしにけるきしのひめまつ

> 6 きのふこそ さなへとりしか いつのまに いなばもそよと 秋かぜのふく

古今172 「いなばもそよと」→「いなばそよぎて」

> 7 とふ人も なきやどなれど くる春は 八重むぐらにも さはらざりけり

新勅撰8、古今和歌六帖1306、貫之集207

> 8 萩の葉の そよぐおとこそ 秋かぜの 人に知らるる はじめなりけれ

拾遺集139「延喜御時御屏風に」、古今和歌六帖3716、また3717 凡河内躬恒 をぎのはにふきくるかぜぞ秋きぬと人にしらるるしるしなりけれ

> 9 梅の花 にほふはるべは くらぶ山 やみにこゆれど しるくぞ有りける

古今39「くらぶ山にてよめる」貫之

> 10 いづれとも 時はわかねど 秋の夜ぞ 物思ふことの かぎりなりける

古今189「これさだのみこの家の歌合のうた」読人不知、小町集、宗于集

> 11 ときはなる まつのみどりも 春くれば 今ひとしほの 色まさりけり

古今24「寛平御時きさいの宮の歌合によめる」源宗于

> 12 紅葉せぬ ときはの山は ふくかぜの おとにや秋を ききわたるらむ

古今251 「秋の歌合しける時によめる」紀淑望

> 13 春やとき 花やおそきと ききわかむ 鴬だにも なかずも有るかな

> 14 こひこひて あふ夜はこよひ あまの川 きり立ちわたり あけずもあらなむ

> 15 花の香を かぜのたよりに たぐへてぞ 鴬さそふ しるべにはやる

> 16 こよひこむ 人にはあはじ たなばたの ひさしきほどに あへもこそすれ

> 17 雪のうちに 春はきにけり 鴬の こほれるなみだ いまやとくらむ

> 18 あきかぜに 夜のふけゆけば 天の川 かはせになみの たちゐこそまて

> 19 梅がえに きゐる鴬 はるかけて なけどもいまだ 雪はふりつつ

> 20 ちぎりけむ 心ぞつらき 七夕の としにひとたび あふはあふかは

> 21 春の夜の やみはあやなし むめの花 色こそみえね 香やはかくるる

> 22 としごとに あふとはすれど 七夕の ぬる夜のかずぞ すくなかりける

> 23 春たてば わかなつまむと しめし野に きのふもけふも 雪はふりつつ

> 24 木のまより おちくる月の 影みれば 心づくしの 秋はきにけり

> 25 かすが野の とぶひののもり いでて見よ いまいくかありて わかなつみてむ

> 26 うつろはむ ことだにをしき 秋はぎに をれぬばかりも おける白露

> 27 あづさ弓 おしてはるさめ けふふりぬ あすさへふらば わかなつみてむ

> 28 夜をさむみ ころもかりがね なくなへに はぎの下葉も 色づきにけり

> 29 君がため 春の野にいでて わかなつむ 我が衣手に 雪はふりつつ

> 30 わがために くるあきにしも あらなくに 虫の音きけば まづぞかなしき

> 31 春日野の わかなつみにや しろたへの 袖ふりはへて 人の行くらむ

> 32 秋の野に みちもまどひぬ 松むしの こゑするかたに やどやからまし

> 33 わがせこが ころも春雨 ふるごとに 野辺のみどりや 色まさりける

> 34 日ぐらしの なくやまざとの 夕ぐれは かぜよりほかに とふ人もなし

> 35 春がすみ たつをみすてて 行くかりは はななきさとに すみやならへる

> 36 春がすみ かすみていにし かりがねは いまぞなくなる 秋ぎりのうへに

> 37 ことしより 春しりそむる さくら花 ちるといふことは ならはざらなむ

> 38 秋はぎの 下葉いろづく けふよりや ひとりある人の いねがてにする

> 39 さくらばな さきにけらしな 足引の 山のかひより 見ゆる白雲

> 40 あきの露 うつしなればや みづ鳥の あをばのやまの うつろひぬらむ

> 41 みよし野の やまべにたてる さくら花 白雲とのみ あやまたれつつ

> 42 白雲の なかにまぎれて 行く雁の こゑはとほくも かくれざりけり

> 43 山たかみ くもゐに見ゆる さくら花 こころのゆきて をらぬ日ぞなき

> 44 白雲に はねうちかはし とぶかりの かげさへ見ゆる 秋の夜の月

> 45 山ざくら わが見にくれば はるがすみ みねにも尾にも たちかくしつつ

> 46 たがために にしきなればか 秋ぎりの さほの山辺を たちかくすらむ

> 47 見てのみや 人にかたらむ 山ざくら 手ごとにをりて いへづとにせむ

> 48 やまのはに おれるにしきを たちながら 見てゆきすぎむ ことぞくやしき

> 49 見る人も なき山里の さくら花 ほかのちりなむ のちぞさかまし

> 50 玉かづら かづらき山の もみぢ葉は おもかげにこそ みえわたりけれ

> 51 見わたせば やなぎさくらを こきまぜて みやこぞ春の にしきなりける

> 52 おなじえに わきてこの葉の うつろふは にしこそ秋の はじめなりけれ

> 53 さくら花 しづくにわが身 いざぬれむ かごめにさそふ かぜのこぬまに

> 54 ちはやぶる かみなび山の もみぢ葉は 思ひはかけじ うつろふものを

> 55 花の色は かすみにこめて 見せずとも 香をだにぬすめ 春の山かぜ

> 56 こひしくは 見てもしのばむ もみぢ葉を ふきなちらしそ 山おろしのかぜ

> 57 いざけふは はるの山辺に まじりなむ くれなばなげの 花のかげかは

> 58 かみなびの みむろの山を 秋ゆけば にしきたちきる ここちこそすれ

> 59 あさみどり いとよりかけて しら露を たまにもぬける 春のやなぎか

> 60 さをしかの あさたつをのの 秋はぎに たまと見るまで おける白露

> 61 青柳の いとよりかくる はるしもぞ みだれてはなの ほころびにける

> 62 いもがひも とくとむすぶと たつた山 いまぞもみぢの 色まさりける

> 63 古郷と なりにしならの みやこにも いろはかはらで 花ぞさきける

> 64 久かたの 月のかつらも あきはなほ もみぢすればや てりまさるらむ

> 65 さくら色に ころもはふかく そめてきむ はなのちりなむ のちのかたみに

> 66 あめふれば かさとり山の もみぢ葉は ゆきかふ人の そでさへぞてる

> 67 桜いろに まさるいろなき 花なれば あたらくさ木も ものならなくに

> 68 しら露の 色はひとつを いかなれば あきの木の葉を ちぢにそむらむ

> 69 世の中に たえてさくらの なかりせば 春のこころは のどけからまし

> 70 さほやまの ははそのもみぢ ちりぬべみ 夜さへ見よと てらす月かげ

> 71 さくら花 ちらばちらなむ ちらずとて 古郷人の きても見なくに

> 72 をみなへし おほかる野辺に やどりせば あやなくあだの 名をやたちなむ

> 73 春のきる かすみのころも ぬきをうすみ やまかぜにこそ みだるべらなれ

> 74 しものたて 露のぬきこそ もろからし やまのにしきの おればかつちる

> 75 をしと思ふ 心はいとに よられなむ ちるはなごとに ぬきてとどめむ

> 76 秋の野に おくしら露は たまなれや つらぬきかくる 雲の糸すぢ

> 77 ちる花の なくにしとまる ものならば われ鴬に おとらざらまし

> 78 たつた川 もみぢ葉ながす かみなびの みむろの山に あられふるなり

> 79 こまなめて いざ見にゆかむ 古郷は ゆきとのみこそ 花はちるらめ

> 80 秋ならで あふことかたき 女郎花 あまのかはらに たたぬものゆゑ

> 81 さくらちる 木のしたかぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける

> 82 見る人も なくてちりぬる おく山の もみぢは夜の にしきなりけり

> 83 ゆく水に みだれてちれる さくら花 きえずながるる 雪とみえつつ

> 84 浪かけて 見るよしもがな わたつうみの 沖のたまもも 紅葉ちるやと

> 85 桜花 ちりぬるかぜの なごりには みづなきそらに なみぞたちける

> 86 我がきつる かたもしられず くらぶ山 きぎの木のはの 散るとまがふに

> 87 さくら花 みかさの山の かげしあらば ゆきとふるとも いかにぬれめや

> 88 なきわたる かりのなみだや おちつらむ ものおもふやどの うへの白雲

> 89 春ごとに ながるる川を 花とみて をられぬ水に 袖やぬれけむ

> 90 山川に 風のかけたる しがらみは ながれもやらぬ もみぢなりけり

> 91 としふれば よはひはおひぬ しかはあれど 花をしみれば もの思ひなし

> 92 をり人の こすのまにまふ 藤ばかま むべもいろこく ほころびにけり

> 93 かはづなく かみなび山に かげみえて いまやさくらむ やまぶきの花

> 94 ぬれてほす 山路の菊の 露のまに いつかちとせを 我はきにけむ

> 95 はるさめに にほへるいろも あかなくに 香さへなつかし 山吹の花

> 96 露ながら をりてかざさむ 菊の花 おいせぬ秋の ひさしかるべく

> 97 をりても見 をらずてもみむ みなせ河 みなそこかけて さける山吹

> 98 あきかぜの ふきあげにたてる 白菊は 花かなみだか 色こそわかね

> 99 かはづなく 井手の山ぶき さきにけり あはましものを 花のさかりに

> 100 心あてに をらばやをらむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

> 101 よし野がは きしの山ぶき 吹くかぜに そこのかげさへ うつろひにけり

> 102 秋をおきて ときこそ有りけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされる

> 103 わがやどに さけるふぢなみ たちかへり すぎがてにのみ 人の見るらむ

> 104 さきそめし やどしわかねば 菊の花 たびながらこそ にほふべらなれ

異本歌、咲きそめし時より後はうちはへて世は春なれや色の常なる

> 105 よそに見て かへらむ人に ふぢのはな はひまとはれよ えだをはるとも

> 106 きても見む 人のためにと おもはずは たれかからまし 我が宿のくさ

> 107 みどりなる まつにかけたる 藤なれど おのがこころと 花はさきける

> 108 一もとと おもひしものを ひろ沢の 池のそこにも たれかうゑけむ

> 109 花のちる ことやかなしき 春がすみ 立田の山の うぐひすのこゑ

> 110 色かはる 秋のくるをば ひととせに ふたたびにほふ 花かとぞ見る

> 111 さくがうへに ちりもまがふか 桜花 かくてぞこぞも 春は暮れにし

> 112 もみぢ葉を そでにこきいれて もてでなむ 秋をかぎりと 見む人のため

> 113 さくらちる はるの心は はるながら 雪ぞふりつつ きえがてにする

> 114 紅葉ばの ながれてとまる みなとには くれなゐふかき 浪やたつらむ

> 115 花もみな ちりぬるのちは ゆくはるの 古郷とこそ なりぬべらなれ

> 116 みちしらば たづねもいなむ 紅葉ばを ぬさとたむけて 秋はいにけり

> 117 年ごとに なきてもなにぞ よぶこ鳥 よぶにとまれる 花ならなくに

> 118 立田川 もみぢながれて ながるめり わたらばにしき なかやたえなむ

> 119 声たえで なけや鴬 ひととせに ふたたびとだに くべき春かは

> 120 ゆふづく夜 をぐらの山に なくしかの こゑのうちにや 秋はくるらむ

源満仲

源満仲にも一つだけ和歌が残っている。『拾遺集』

> 清原元輔
> いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

> 返し 源満仲朝臣
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

清原元輔を源満仲が送った歌。

どうも、清和源氏初代、源経基は一応平将門の乱に関わり鎮守府将軍となったが、
大したことはしていない。
同じく将門の乱で征東大将軍となった藤原忠文のような役回りだろう。

経基の子・満仲も摂津に武士団を形成し鎮守府将軍となったというが、
ほんとに武将と言える人か不明。

満仲の子・頼光も、どうも武士らしくない。
しかし同じ満仲の子・頼信、
頼信の子・頼義、
頼義の子・義家は明らかに武士である。
だが、頼信、頼義、義家には和歌が残ってない。
こうして見たとき、頼光の末裔である頼政も、
どちらかといえば、武士らしからぬ武士だったということになる。

源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

後三条院御製

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

> 皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
> 後三条院御製
> まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。
まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。
賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。
いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。
だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。
馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。
それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。
その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。
菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

> 延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
> 後三条院御製
> すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、
その帰りに船上で詠んだ歌であるという。
譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、
その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。
「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、
神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

> 七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
> 後三条院御製
> あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。
七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、
藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、
秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、
とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、
それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

[後三条天皇](/?p=11431)。

血圧

血圧がすごく下がることがある。もともとそういう体質でもなければ、そういう病気に罹ったわけでもなく、これは飲んでいるアーチストという薬が血管を拡げているせいなのだ。そうすると、立ちくらみすることがある。歩いてたり、座って安静にしていても、
急に血の気が下がったような状態になる。ところがまあ、日本では(世界的にも?)、血圧は低ければ低いほど正常なことになっていて、私の場合低いと言っても上が 100 とか 105 とかなんで、医者に言っても「正常値です」「大丈夫です」としか言われない。しかし血圧が低い状態で気分悪いから寝てしまうと寝たまま死んでしまうんじゃないかと不安で仕方ない。

私の場合もともと血圧は高いほうで、130 とか 140 くらいが普通で、そういうときは目も覚めるしやる気も出る。しかし血圧が低いとなんか生きる気力まで失われてしまう。電車に乗ると、いつ気分が悪くなるかと気が気でない。田舎で、仕事もせず、車にも電車にも乗らない生活をしてればいいんだろうが、それもできない。なんかもうすごい年寄りになった気分になる。ここまでしてこの薬を飲まねばならないのかと思う。何度か医者に文句を言ったこともあるんだが「我慢して飲んでください」としか言われない。血圧が低すぎて死ぬ人は、高すぎて死ぬ人に比べて皆無に近いのだろう。

この低血圧というのは女性には多い症状なのかもしれない。生まれたときからずっとそうならば、人生とはそうしたものだと思うかもしれんね。

じんましんが出たり、おしりにおできができるのは、毎日きちんと石鹸で体を洗い、きちんと下着を着替えれば、ほぼ防げるようだ。しかしそれがなかなかめんどうだ。じんましんに関していえば、ほぼ原因は、食べ物によるアレルギーではなさそうだ。酒を飲むとめんどくさくてそのまま寝てしまう。それが2日続くとじんましんがでる。たぶんそんな感じ。

1日以上放置すると確実に体の表面の角質層に残った脂が古くなってダメだ。汗をかくたびにシャワーを浴び、古い角質と脂を洗い流し、新しい脂をワセリンなどで補充し、下着を替えると完璧なんだろうが、そこまでする必要もなさそうだ。というよりそんなことしたら別の皮膚の病気になるかもしれん。

おできは今まで気にしなかっただけで毎日できては消えているらしい。おしりを圧迫したりむれたりするのが良くないようだが、よくわからない。できるのはしかたないからそれがかぶれたり悪化しないようにやはり清潔にしておかねばならない。

昔は体のことなど何も考えずに暴飲暴食してたわけだが、そうもいかなくなったのはやはり加齢のせいだろう。皮膚の新陳代謝が衰えているのはまず間違いない。

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

* 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
* 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

「シュピリ」だが、アマゾンではまったく動きがないのに、図書館ではまだ徐々に所蔵が増えている。

東京都だと杉並区が4館で他よりも少し多く、ほほうなるほど、杉並はやっぱりアニメ好きですか、って感じがする。

埼玉はなぜか所蔵館が多く、なかでも川越が若干多い。
これまた宮崎駿の影響を感じさせなくもない。

思うに、アマゾンで中身を見ずにいきなりこの本を買う人はそんなにはいないだろう。
いるとしたら研究者かなにかだろう。
とりあえず読んで見るには立ち読みか、図書館で買ってもらうか。

反応はほとんど無いに等しいが、何となく今回は多くの人に読んでもらえてる気がする。
サイレントマジョリティの存在を感じる。

宮崎駿は確実に歴史に名を残す人で、彼を理解しようと思えば、
「アルプスの少女ハイジ」までさかのぼってみないわけにはいかない。
原著と比較したときにその多くの違いに人は気付くだろう。
そこからさらにヨハンナ・シュピリという作家について疑問がわいてくるに違いない。
私はますますシュピリという人は童話やメルヒェンを書きたくて書いたわけではなく、
編集者にそそのかされて書いたんじゃないかという気がしている。
シュピリのおもしろさは、メルヒェンから逸脱した、彼女の「地」の部分にあると思う。
その不純物を漉し取ってしまうと、まったく味けのない作品になってしまうのだ。
シュピリはほんとはもっとシリアスな話を書きたかったのだが、
そんな売れない本はとか出版社に言われて仕方なく童話を量産したのではなかったか。
シュピリが自伝を残さなかったのも、そういう、人には言えない事情がたくさんあったせいではないか。
私の直感では明らかにそうなのだが、
その証拠固めをするのは骨が折れる仕事だ。
今より100倍くらいドイツ語を読んで、ドイツ語と格闘しなきゃいけない。
今更ドイツ語にそこまでのめり込んでどうするという気がする。
ていうか本場のドイツ人が研究しろよと思う。

ともかく、
無名の新人(筆名では。まあ、実名でも全然名は知られてないが)が多くの人に読んでもらうには今回の狙いは割とあたったように思う。
私だって宮崎駿以外が「ハイジ」を作っていたらまったく興味を持たなかっただろうし、
宮崎駿学の文献の一つを提供したのだと思っている。