源氏物語

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。桐壺帝は仁明天皇。桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。一院は嵯峨院。弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

ということを以前に書いた(ほかにもこれとかこれとか)。すると源氏物語に出てくる今上帝とは宇多天皇、今上帝の母、承香殿女御とは班子女王ということになる。ほかにも

光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ言ひ伝へたるとなむ

とか、

そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける

など、高麗人と幼い頃の光源氏が深い関係にあったことも注目すべきであろう。光源氏の母は百済人だった。それですべてがすんなりと説明できてしまう。百済王族は日本人、特に藤原氏に対抗して妃を入内させ天皇を立てることもできたはずだが、藤原氏は猛反発、おそらく実力行使に出ただろう。そうしてやがて百済人は歴史の表舞台から消えていった。

桓武天皇は百済人の子であった。妃にも百済人が多くいた。嵯峨天皇、仁明天皇のころまではそういう傾向が続いた。しかし時代が下り、文徳天皇のころになると百済人はやっと宮中でマイノリティになり、奈良時代のように藤原氏が実権を握り始めた。百済の王族の女が産んだ皇子は、親王になることはできない。親王の名は二文字、それ以外の王の名は一字をつける、というならわしがあった、ように見える。天皇の子であるのに源氏を賜り臣籍降下する、というのも源氏物語の記述と同じだ。

それでこの光の君の物語の原型が宇多天皇の時代、つまり、古今集が成立する直前くらいに成立したとしよう。それは西暦でいうとだいたい900年くらい。紫式部が生きたのがだいたい1000年くらい。源氏物語絵巻がつくられたり、最古の写本が出てくるのが平安末期、だいたい1150年くらいだろうか。藤原定家はほぼ現在と同じ形の源氏物語を読んでいたはずだ。菅原孝標女は紫式部より少しだけ後の人であるから、もし紫式部が源氏物語を書いたとすれば、紫式部が書いたそのままの源氏物語をほぼリアルタイムに読んだことになる。「更級日記」には「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」という形で出てくる。

紫式部が源氏物語を書いたことを疑う理由はないのでそうだとして、紫式部は嵯峨天皇 (800年頃)から宇多天皇 (900年頃) の時代に、日本人と渡来人の間で起きた皇位継承問題から成立した光の君伝説というものをもとにしてそれを膨らませて源氏物語を書き、それを菅原孝標女が読んだのだが、その後も100年以上の歳月をかけて、源氏物語はブラシアップされ、続編が書き足されていって、藤原定家の手に渡ったのであろうと思う。定家が書いた写本が最古の写本の一つとされているが、定家がいろんな写本を集めて今の源氏物語の形にした、つまり源氏物語の最終的な作者は定家である、ということもできるのではないか。

何度も書いているが「伊勢物語」は紀有常が漢文で書いた日記が元になり、それが拡散し、和文化することによって成立したのだと私は思っている。となると「伊勢物語」と「源氏物語」はどちらもほとんど同じ頃にその原型が成立したのだろうということになる。つまり、源氏物語の原型というものがあったとしたらそれは伊勢物語のように、一つの歌に少し長めの詞書きがついたようなものの集合体だったのではないか、そうしたものが村上天皇時代辺りに集積されつなぎ合わされた。その編集の主体は宮中に仕える女房らであった。

伊勢物語には惟喬親王や在原業平や紀有常らが藤原氏によって左遷されていくという政治的な要素も含まれている。源氏物語にはその要素は希薄ではあるが、というのは女房らにとってはそうした男たちの世界は直接興味がなかったからだろうが、しかしよくよく観察すると政治の世界のなまなましい駆け引きがみえかくれする。光源氏は浮世離れしたプレイボーイというだけではなかったのだろう。少なくともその原作においては。

さらに想像を膨らませると、百済王族が書いた漢文の日記があってそれがのちに伝説化、和文化して、全体のあらすじとして、源氏物語の冒頭に付加されたものが「桐壺」であったのかもしれない。

ファウスト

ファウスト第2部冒頭、アリエル(シェイクスピアのテンペストに出てくる空気の妖精らしい)が草地に寝そべっているファウストに歌う歌

Wenn der Blüthen Frühlings-Regen
Ueber Alle schwebend sinkt,
Wenn der Felder grüner Segen
Allen Erdgebornen blinkt,
Kleiner Elfen Geistergröße
Eilet wo sie helfen kann,
Ob er heilig? ob er böse?
Jammert sie der Unglücksmann.

der Blüthen は複数2格、der Felderは複数2格、Kleiner Elfen は単数2格強変化、に思えてならないのである。2格やばいよ2格。2格(所有格)は口語ではほぼ使われなくなった古い雅文的な言い方という。英語では ‘s で表されるアレ。

Kleiner Elfen Geistergröße Eilet wo sie helfen kann、これは、小さな妖精の魂の大きさは、が主語で、Größeは女性名詞だから人称代名詞はsieだけれども彼女ではなく、それ、と訳すべきではないかと思うんだ。だから直訳すれば「小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る(者がいる)場所へ急ぐ」となるはずだ。

普通は Kleiner Elfen が1格で主語、Geistergröße はその形容的な言い換えのようなものと思えるはずだ。しかしもしElfenがElf (もしくは Elfe) の複数1格だとしよう。もしそうだとすれば Kleine Elfen になるはずではなかろうか。

いろんな訳を見てみたが(英訳を含めて)妖精たちとか妖精の群れとか little elves などと訳しているものが多いのだが、私にはどうもこれが複数には見えないのだ。sie eilet, sie jammert どちらも単数にしか見えないではないか。3人称複数(あるいは2人称複数)なら sie eilen, sie jammern となるんじゃないの?

となると、「小さな妖精の魂の大きさ」とはアリエルが操る妖精の群れ、ではなく、アリエル自身のことにならんか。アリエルが自分でファウストを助ける、という意味なのではないのか。私は体は小さいが心は大きいからあなたを助けてあげましょう、と言っているようにみえる。

Segen blinkt は他動詞とみるしかあるまいと思う。

というわけでできるだけ直訳してみると、

花の春雨があらゆるものの上に漂い落ちる時、野の緑の恵みが地に生まれ出たあらゆるものをきらめかす時、小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る所へ急ぐ。彼が善良であろうと、彼が邪悪であろうと、それは不運な者を憐れむ。

となるのではないか。ちなみに英訳すると、

when spring rain of the flower falls floating on all, when green blessing of the fields sparkles all birth on earth, spiritual greatness of the little elf harries where it can help, whether he is holy or he is evil, it pities the unlucky man.

とでもなるか。

難しいなゲーテ。特に2格!人称代名詞を略したり、適当に意訳したりしてごまかすことはできるんだがなー。

ちなみに森鴎外はこう訳している。

雨のごと散る春の花
人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
かがやきて見ゆる時、
身は細けれど胸広きエルフ(Elf)の群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。

桜井政隆という人はおそらく鴎外訳を参考にして、次のように訳している。

咲匂ふ花、春雨のごと、
なべての上に漂ひ散れば、
野も狭に満つる緑の恵み、
天が下もろ人の眼に輝けば、
細身のエルフの群は強き霊もて、
救ひ得る方へと急ぎゆく、
聖なりとも、悪しき人なりとも、
幸なき者をあはれと見つつ、

中島清という人はこう訳す。

樹々の花、春の雨にもまがひつつ、
すべての者の上にひらひら降りかかり、
みどり色なす野の恵み、輝き匂ひ、
地に生まれたる者皆に笑みかくる時、
小さきエルフェの大いなる霊のつとめと、
群れて急ぐは、救はれむ人あるところ。
よし其の人に罪はありとも、あらずとも、
その幸なきぞエルフェの身には傷ましき。

秦豊吉という人はこう訳す。

花は春の雨のごとく
すべての上にひらめき落ち
野の緑なる恵みは
すべての地に生ふる者に輝けば
心大きく身は小さきエルフは
人を救はんと急ぎゆくなり。
尊き人をも悪しき人をも
幸なき者を哀れと思ふなり。

奥湯河原

湯河原はぎりぎり神奈川県なのだがあんなにさびれた温泉街がまさか神奈川にあるとは思わなかった。こんなに交通の便が良いところがオーバーツーリズムにまったく飲み込まれていないのは、千と千尋的な木造旅館が立ち並んでいるわけでもなく、今どきの鉄筋コンクリート造りのホテルか、さもなくば朽ちかけたバブル遺産みたいな廃屋しかなくて、都心に近いということが慢心となって、もっと媚びている温泉地に人の関心が向いているからだろうと思う。またやはりあまりにも東京に近い近すぎるというのが盲点になっているんだろう。まさかこんな温泉街が神奈川県にあろうとは。みんなそう思っているに違いない。

以前も一度湯河原には行ったことがあったが駅より東側、海のほうの、どこにでもある普通の街並みと変わりないあたりしかうろつかなかったので、ああいうものが湯河原だと思っていた。しかしずっと山の中、奥湯河原とか理想郷とか源泉郷とかいうあたりまでいくと、温泉の井戸のやぐらというか骨組みがあちこちに建っていて、お湯を通すパイプが乱雑に河原などに敷かれていて、修善寺と鬼怒川を足して二で割ったような雰囲気のところで、温泉街にはまったくコンビニやスーパーなどはなく、旅館の売店にしか酒が売ってなくて、しまった、駅前でビールとつまみを買っておくのだったと思ったときにはもう遅かったが、こうなってはもはや浮世とは隔絶した世界を堪能するしかないのだった。

そのあと浅草に戻ってきたのだが、やはり安心感がある。外国人もそうなのだろう。初めて日本に来る人はまったく土地勘がないわけだから、いきなり難易度の高い田舎にいくのはリスク高すぎる。とりあえず一通りなんでもあって、スーパーもコンビニもまいばすけっともある浅草とか京都とか鎌倉に来て、もう一度来ようかということになったら、もっと自分の好みにあった地方の観光地に行けば良いわけだ。

私だっていきなり東向島や曳舟や新御徒町なんかにいかない。まず浅草を一通りマスターしてから、その周辺にとりかかっている。

新御徒町の佐竹商店街なんかはもう少し流行ってもよさそうなものだ。合羽橋商店街から少し足を延ばして新御徒町、そこから上野あたりまで歩いても大したことはない。

そんでこのオーバーツーリズムが一息ついたら外国人もバカではないから、だんだんにもっと空いてて快適なところへ移っていくだろうと思う。浅草の公衆便所の女子トイレなんかは行列ができていてもうひどいありさまだ。エキミセやROXなんかにいけばトイレはあるんだけど、初めて来た人にはどこのトイレが比較的空いているかなんてわかるわけがない。

話は戻るが奥湯河原というところは都心から近いわりにさびれてて空いているから箱根や熱海に飽きたら行ってみると良い。奥湯河原は掛け値なしで源泉間近の源泉かけ流しの温泉宿がある。こういうのは箱根湯本にはない。あまり知られてないのが不思議だ。テレビでもめったに取り上げないよな。

私が泊まったところは夕食も朝食もいかにも昭和の旅館という感じで、夕食はまあまあとして朝食は塩分の多い漬物、梅干し、味噌汁、アジの開きも塩辛く、年寄り客ばかりなのにこんなに塩分摂らせていいのか、今風な献立にしたほうがいいんじゃないかと思った。たぶんごはんを何倍もお代わりしなくてはこれだけの漬物は食べきれないが今どきごはんお代わりなんてしないよな。若者はもちろん年寄りはなおさら。

ともかくも滝のそばに建っている茶屋なんかも昭和遺産とでもいうべき熟成された味のあるところで、行ってみる価値はある。

真鶴や湯河原には楠木の原生林があるというのがとても信じられない。楠木が群生しているのはずっと昔に人の手が入っているからだろう。もし気候的に楠木の自然林ができるのであれば、真鶴や湯河原に似た場所は伊豆や静岡、房総半島や三浦半島あたりにいくらでもあるのだからそういうところにもできなくてはおかしいではないか。

伊豆山温泉の伊豆山神社や走り湯にも行ったのだが、ここはすごいところだった。湯河原からバス路線はなく、熱海からならばある。私は実朝の和歌で知っていたから一度行ってみたいと思っていたのだが、昭和39年に掘りすぎて一度枯渇してしまい、掘りなおしたとはしらなかった。

動画をyoutubeにあげておいた。

JRのえきねっとで湯河原から東京まで踊り子を予約していたのだが、熱海からに変更しようとしたらアプリからWebサイトに飛ばされてなんかうまくいかないので、もいっかいアプリに戻って払い戻ししようとしたらバグって、Webサイトで変更しようとしてもなんかうまくいかないのでしかたなく熱海駅の激混みの緑の窓口にならばされて、結論としてはたぶん、湯河原は神奈川県で熱海は静岡県で区間が違うせいか、チケットレスのせいかしらんが、ともかく Webサイトでいったん払い戻ししなくてはならないらしかった。

今から思えばすぐさま対応窓口に電話すればやり方を教えてくれたのだろうけど、JRはチケットレスしたけりゃもう少しなんとかしてくれと思った。得られた知見としては、JRは変更しようとしてはいけない、手数料はかからんからいったん払い戻ししろってことのようだ。知らんがな。

ヰタ・セクスアリス

ちと気になって「ヰタ・セクスアリス」を読んでみようと思ったらなんと冒頭に夏目漱石の話が出てくるではないか。

 金井しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。ことに縁の遠い物、何の関係もないような物をりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳にめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかしし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。
 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。
 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢ぎようを感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついついいやになってなんにも書かずにしまった。
 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

森鴎外は小説でも翻訳でも何でも書く人だが、小説は1897年から1906年までちょっとした休止期があった。その後また小説を書くようになって1909年にはついに「ヰタ・セクスアリス」を書いて懲戒されてしまう。私はなんとなくこれは、夏目漱石が新聞小説を書くようになって、鴎外もそれに刺激されて、さらに自然主義というものが流行るようになって、鴎外も何か使命感のようなものを感じて「ヰタ・セクスアリス」を書いたんじゃないかなと思っていたのだが、その「ヰタ・セクスアリス」にそのへんの事情がそのまんま書いてあるではないか。

この金井君というのは半分くらいまでは鴎外自身のことだろう。鴎外が濫筆家であるのに対して金井君は何も書かない。そこだけが違っている。そりゃまあそうで、小説というものは虚構でなければならず、金井=作者ではまずすぎる。他人だということにしておかなきゃならないからねそこは。ましかし、田山花袋あたりの私小説というか自然主義小説っていうのかな。そういうのにも明らかに影響受けているよね。あー。蒲団は1907年かー。蒲団が許されるんなら俺も書いちゃおうかなーとでも思ったのかな。

鴎外はもともと漱石という人を知っていたのだろう。子規のことも知っていたのだろう。そりゃそうで鴎外はアララギ派に加わったのだから、1903年の時点で子規を知っていたし、子規の古くからの友人である漱石のことも知っていたに違いない。それで漱石が「吾輩は猫である」を新聞に連載し始めて、それが世間で大いに評判になったから、自分も何か書かずにはおれない気持ちになったんだと思う。

ていうかウィキペディアを読んでもそんなこと何にも書かれてないのだが、今まで誰もこのことに気付かなかったのだろうか?誰も指摘してないの?いやそんなはずはない。「ヰタ・セクスアリス」と「吾輩は猫である」の関係について研究した論文はあるはずだが、誰もそんなことには興味がないのだろう。

たとえば「作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。」「作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。」というのは鴎外自身のことであろうし、「芸術品として見るのではない。」「芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。」と思っているのも鴎外であろう。鴎外は芸術品としての小説を書こうとして世間の評判がよろしくなかったから、しばらくやめていた。鴎外がどんな作品を書こうと思っていたかは初期の作品や日記をみれば明らかだろう。また芸術品と言うに足る小説とはたとえば彼が激賞した樋口一葉の小説のようなものをいうのだろう。

「技癢」とは何かがしたくてむずむずうずうずすること。鴎外も『猫』や『蒲団』を読んで、技癢を感じていたのだ。秀才で、良いとこのボンボンで、好奇心旺盛で、何でも自分でやってみなくては済まない人だったんだと思うなあ。

それはそうと成島柳北も「航西日乗」という紀行文を書いていてしかもそれはすべて漢詩だけでできている。鴎外は柳北の「航西日乗」を見て自分も日記を書こうと思ったのに違いない。だからあんなにやたらと詩が多いのだ。こうしてみていくと鴎外という人はけっこう人に影響されることが多いような気がする。

成島柳北「航西日乗」から少々詩を引用してみよう。かなりひどい詩が多い。

回頭故国在何辺 休唱頼翁天草篇 一髪青山看不見 半輪明月大於船

見渡す限り青海原で陸地は見えない。頼山陽が天草あたりで大海原の詩を作ったが、俺様はもっと遠くまできたんだぞ。海に浮かぶ半月は船よりも大きく見える。

幾個蛮奴聚港頭 排陳土産語啾啾 巻毛黒面脚皆赤 笑殺売猴人似猴

現地人がたくさん港に集まり土産物を並べてぺちゃくちゃしゃべっている。巻き毛、黒い顔、赤い足。サルを売っている人間がサルに似ていて思い切り笑った。

成島柳北やっぱ面白い人だわ。永井荷風に好かれてたのもわかる。

ついでに頼山陽の詩「泊天草洋」も引用しておく。

雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮 萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒 瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月

雲か山か呉か越か 海と空の境が一筋の青い髪のように見分けがたい 万里の旅をしてきて天草灘に船宿りする 窓の外にはもやがかかり日はようやく沈もうとしている 大魚が波間に跳ねるのが見えた 宵の明星が船の上に出て月のように明るい

航西日記8

6日、波風は昨日と同じ。午後4時、サルディーニャ山脈を望む。10時、コルシカとサルディーニャの間を過ぎる。コルシカはナポレオン一世が生まれた地であり、サルディーニャの一島にはガリバルディの旧宅がある。今その境を過ぎて心を打たれずにはおれない。詩を二つ作る。曰く、

昔の事は雲のように過ぎ去り追うことはできない
水辺の英雄の故郷
かつて欧州を席巻しようと志した者も
今は小さな園に永眠している
赫々たる兵威はアメリカにも及んだ
平生の戦闘では私讐を捨てた
自由の一語は鉄よりも固い
英雄が危謀を多く用いたとは必ずしも言えない

7日、雨。午後2時、フランス国マルセイユに着く。一時的に停船を命じられて上陸が許されない。そこで黄色い旗を掲げて船を退かせて、港の入り口にある一島に停泊する。4時になってやっと入港することができた。ポートサイドからここに至るまで2017里、船の中で詩をいくつか作った。雑詩に言う、

果てしない風と潮に一隻の船を浮かべてから
目に入る山の姿も絶えてない
闇夜にかかる一輪の月だけが
万里相伴って客の愁いを照らし慰めてくれた
透き通るような肌 金髪 青い瞳
髪飾りがちらりとみえれば心はさらに勇み立つ
浮き草が漂いヨモギが転ぶような危険があろうと恐れない
月明かりと歌舞が船の中にある

同行の諸氏に言うようなつもりで

みんなで同じように海外の雲に翼を広げて
兵事を談じたと思えばまた文事を論じ合う
こんな奇縁をいつの間に結んだのだろうか
こんな人間関係はただの雀やツバメの群れでは無い

某フランス人に贈って言う、

聞くところによればあなたは何年も税関に勤務したそうだ
異境の地にいるうちに容貌も変わってしまったあなたを憐れむ
あなたは再び颯爽として一家とともに
妻子を連れ立って故郷に帰っていく

海の光のことを記して言うには、

夜光るものは秋の蛍だけではないごくちいさな海棲生物にも魂があるのだ星もなくまた月も無い怪しげな海底に金色の波が広々とした青海原に湧いている

海の光は海中の微生物が放つものである。船の波に刺激されて暗い夜に発光する。

船が港に入ると厄涅華ホテルの主管が出迎えた。そこで荷物を託してともに税関を通った。税関の役人が問うて言うには、紳士か、そのとおり、また言う、タバコや茶を持っているか、無い。それ以上は調べなかった。

7時にホテルに投宿する。時に雨がそぼふって深秋のように寒い。詩を作る。

頭を巡らせば故郷の山は雲路に遙かである
四十日間船の中にいて無聊を嘆いていたが
今宵はマルセイユ港埠頭の雨に降られている
旅人の愁いをすっかり洗い流してくれるようだ

また、

人がひっきりなしに通行し肩を触れあわんばかりだ
道を照らすガスライトが幾万とある
驚くことに激しい雨や冷たい雨の夜にも
その光は空の月明かりのように明るく照らす

8日、午餐の後に設哩路速家に着いて記念撮影する。午後1時、田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與ら諸氏は先発する。ストラスブール方面へ行くためである。6時に汽車に乗りマルセイユを出発する。一等の車両は四区画に分かれており、一区画に二人が入る。ずっと座ってもいられないので、別に寝室を借りる人もいる。夜、リヨンを過ぎる。月や星がキラキラと輝いている。肌寒い。詩を作る。

秋の空に月が明るく輝いている
塔の先端にも木の梢にも
暑い町も冷たい村もあっという間に通り過ぎた
詩を作っても推敲しているひまがない

9日早朝、田野の間を過ぎる。綿の葉はすでに枯れ、菜の花は半ばしぼんでいる。木を植えて畝を耕すのは日本と変わりない。鳩が群れ飛ぶのを見ると、背は黒く腹が白い。農家はみな小さい。ただ、石畳を敷いているのが異なっている。午後10時、パリに至り、咩兒珀爾ホテルに泊まる。佐藤佐と出会う。佐は長い間ベルリンに留学していた。今はまさにマルセイユに行こうとしている。木戶正二郞が病気に罹ったので送るのである。夜「夜電」部劇場を見る。客は6000人、客席は4層になっている。俳優には男も女もいる。イタリア人が多い。演じられた戯曲の名称は「宮中愛」である。およそ四つの場面に分かれている、最初は名妹が王に謁見する。次は壮士が決闘する。次は英雄が凱旋する。最後は夜の宴。女優の名妹に扮する者は媚態をまきちらして人の魂を虜にする。別に一場面があった。「騒擾の夜」という。波瀾万丈で観客は絶倒した。劇場内の器具は精緻を極めている。あるものは鏡で影を映し、あるものは色とりどりの照明を使っている。明月が林を照らしたり、噴水がしぶきをあげたりするのは、ほとんどほんものそっくりである。この日、佐藤氏に詩を贈る。

あなたと別れて三年が経った
あなたはずっとドイツにいた
思いもしなかったパリ城外の月に照らされて
暫時手を取り合って別れのつらさを語り合うとは

10日、公使館に着く。午後8時、汽車はパリを出発する。車両の両壁に鉄道図が貼ってある。ブレーキがかかっていて、急な時にこれを引っ張ると車両を停めることができる。また窓の上に小さな穴を空けて換気することができる。はなはだ便利である。

11日午前7時、ドイツ国ケルンに達する。私はドイツ語を解する。ここに来てやっと人の言葉がわかるようになった。愉快だ。午後8時30分、ベルリンに至る。ドイツ皇帝がホテルに訪れる。田中、片山らを問うに、皆まだ到着していなかった。

本文

初六日。風波如昨。午後四時望泪第尼山脈。十時過哥塞牙、泪第尼之間。哥塞牙者拿破崙一世所生之地。而泪第尼一島有加里波第之故宅。今過此境。不能無感。賦詩二首。曰。往事如雲不可追。英雄故里水之涯。他年席捲欧州志。已在小園沈思時。赫々兵威及米州。平生戦闘捨私讐。自由一語堅於鉄。未必英雄多詭謀。

初七日。雨。午後二時抵佛國馬塞港。偶有停船法。不許上陸。乃揭黃旗退舟。泊于港口一嶋。至四時。纔得入港。自卜崽至此二千零十七里。舟中得詩數首。雜詩曰。森漫風潮泛隻舟。絕無山影入吟眸。可憐碧落一輪月。萬里相隨照客愁。氷肌金髮紺靑瞳。巾幗翻看心更雄。不怕萍飄蓬轉險。月明歌舞在舟中。似同行諸子曰。鵬翼同披海外雲。談兵未已又論文。奇緣何日曾相結。不是人間燕雀群。贈佛人某曰。聞說多年官稅關。殊鄕憐汝改容顏。飄然又作全家客。手拉妻兒向故山。記海光之事曰。夜光何獨說秋螢。水族幺麼却有靈。怪底無星又無月。金波萬頃湧溟。海光者水中微生物之所放也。舟激波。則昏夜見之。舶之入港也。厄涅華客舘主管來迎。廼托以行李。俱至稅關。々吏問曰。紳士乎。曰然。曰有烟茶否。曰無。則不復査矣。七時投於客舘。時細雨霏々。冷如深秋。有詩。囘首故山雲路遥。四旬舟裏歎無聊。今宵馬塞港頭雨。洗盡征人愁緖饒。行人絡繹欲摩肩。照路瓦斯燈萬千。驚見凄風冷雨夜。光華不滅月明天。

初八日。午餐罷。至設哩路速家撮影。午後一時。田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與、諸子先發。以取道於斯都刺士堡也。六時乘汽車。發馬塞。一等車箱。分爲四區。每區容二人。可坐而不可臥。故有別買寢室者。夜過里昂府。星月皎然。寒氣侵膚。有詩。淸輝凛々秋天月。影自塔尖遷樹梢。熱市冷村塵一瞥。無由詩句費推敲。

初九日早。過田野間。綿葉已枯。菜花半凋。植木畫畝。與我無殊。有鳩群飛。黑背白腹。農家皆矮小。唯磚石疊成爲異耳。午前十時至巴里。投咩兒珀爾客舘。邂逅佐藤佐。佐久留學於伯林。今將赴馬塞。送木戶正二郞有病歸鄕也。夜觀「夜電」部劇塲。容五千人。設座四層。俳優有男有女。多伊太利人。所演之戲。名「宮中愛」。凡四齣。曰名姝謁王。曰壯士決鬪。曰英雄凱旋。曰夜宴簪花。女優扮名姝者。媚態橫生。使人銷魂。別有一齣。名「騷擾夜」。戲謔百出。觀者絕倒。塲中器具。極其精緻。或借鏡影。或用彩光。若明月照林。噴水籠烟。殆不可辨其眞假也。此日贈佐藤氏詩。別來倐忽閱三秋。期爾依然在德州。豈憶巴黎城外月。暫時握手話離愁。

初十日。至公使舘。午後八時。滊車發巴里。車箱兩壁。貼鐵道圖。懸槓杆。有急之時動之。可停車行。又窓上設小孔換氣。甚便。

十一日。午前七時。達德國歌倫。余解德國語。來此。得免聾啞之病。可謂快矣。午後八時三十分。至伯林府。投於德帝客舘。問田中、片山等。皆未到也。

厄涅華ホテル。不詳。

設哩路速家。不詳。

斯都刺士堡。ストラスブールか。

咩兒珀爾ホテル。不詳。

外国地名および国名の漢字表記一覧。役に立ちそうで立たんかった。

航西日記7

10月1日。秋のように涼しい。寒暑計の針は67度。午前6時、スエズ港に至る。アデンからここに至ること1314里。スエズ港は紅海が尽きる所、見渡す限り赤い野であり、通年雨が少ない。アレクサンドリアまで鉄道が通じている。10時、船が出発して運河に入る。運河は長さ100海里。深さは72フィート。幅員はそんなに広くはない。巨艦どうしがすれ違うときには一方を待避させて他方を通す。南のスエズから来たのポートサイドに至る。エジプト王アリーが開鑿した。工事を監督したのはフランス国の学士レセップス氏である。竣工は15年前であるという。緑の木を周りに植えた家が河口にある。おそらく収税所であろう。河に入ると両岸の土の色はみな黄色である。薄が芽を出しているものがある。また水柳がある。堤防の上に電線が数本架かっている。所々に板屋を建てて河を守る者がここにつめている。また小汽船で川底をさらっている。夜は月が明るい。河の中に停泊する。詩を作る。

河をさらって破天荒な功績を成した
地下でまさにナポレオンも驚いたことだろう
人が喜望峰を巡ることもなくなり
十五年が経ってその名はむなしくなった

ナポレオン一世がエジプトを征服したとき運河を作ろうとしたができなかったことを二行目は言っている。

6時に船出する。地中海に入る。寒暑計の針は76度。

3日、船はどんどん走る。しかもいつもよりも安穏である。

4日、カタニア島を望む。これは欧州の地をみる初めである。

5日、波風が起こり、船は揺れて止まらない。イタリア山脈を望む。草木は少ないが谷地が多くやや湿り気を帯びていてアラビアの死の山とは比べようもない。だんだんに山麓に近づくと村落や田園、鉄道、橋梁などが見え、樹木も繁茂している。エトナ山を望むと雲がかかっていてはっきりと見ることができない。

晩にシチリア海峡を過ぎる。船が海峡を行く間、水面はほぼ平らであった。メッシーナの町が目前にある。詩を作る。

帆を二つまたは三つかけた船が浮かぶ
海峡の潮流が紫の嵐を隔てている
楼台がいくつか見えるがまだ灯をともしていない
夕べの霧がメッシーナを深くとざしている

夜、雨が降る。

本文

十月初一日。氣冷如秋。寒暑針六十七度。午前六時。至蘇士港。自亞丁抵此千三百十四里。蘇士港在紅海盡處。四境赤野。累年少雨。有鐵路通歷山府。十時放舟入運河。運河長百海里。深七十二英尺。幅員不甚濶。巨艦相逢。則避一過一。南起於蘇士。北至於卜崽。埃王鵶禮所鑿開。而督工者爲佛國學士列色弗氏。其成功在十五年前云。河口有屋。環植翠樹。盖收稅衙也。入河。則兩岸土色皆黃。有芒抽芽。又有水楊。堤上架電線數條。所所築板屋。守河道者居之。又有小滊船。濬治河道。夜月明。泊河中。有詩。濬河功就破天荒。地下應驚佛朗王。喜望峯前人不到。名虛十有五星霜。〈初拿破崙一世征埃及。欲開河道。不果。第二故及。〉

初二日。行河中。有水禽蹴浪而飛。嘴喙甚大。岸上土人乗駱駝而行。旋風時起。捲砂若柱。堅立数十丈。沙接天処。望之如海。蓋野馬也。至午望綿楂勒湖。見漁父挽網。自蘇士至卜崽。有四湖。緜楂勒湖其一也。午後二時。至卜崽港。則湖北之一沙嘴也。買舟上陸。街上多「尼泪爾弗」樹。土人牽驢勸乗。有楽堂。入而聴焉。堂容二百人。正面爲楽手設座。男五人女十五人。各執楽器。管絃合奏。頗適人耳。每曲終。女子降座乞銭。有詩。水狹沙寬百里程。月明兩岸艸蟲鳴。客身忽落繁華境。手擧巨觥聞艷聲。六時開行。入地中海。寒暑針七十六度。

初三日。舟行甚駛。而安穩異常。

初四日。望干第呀嶋。是爲視歐洲土壤之始。

初五日。風波起。舟蕩搖不止。望伊太利山脈。雖少草木。而皺紋緻密。稍帶生氣。非亞刺伯死山之比也。漸近山麓。則見村落、田園、鐵路、橋梁。樹木亦繁茂。望葉多䏧山。烟雲晦冥。不可明視。晚過細々里海峽。舟行峽中。水面稍平。墨西南府在目睫間。有詩。蒲帆兩々又三々。一帶潮流隔紫嵐。多少樓臺燈未點。暮烟深鎖墨西南。夜雨。

埃王鵶禮。直訳すればエジプト王アリーか。おそらくオスマン朝皇帝ムハンマド・アリーのことを言っているのだと思われる。

航西日記6

18日未明、コロンボ港に入る。シンガポールからここに至るまで1570里。港の沖に堤防を築いて大洋を隔てている。おそらく鉄道にも利用するために作られている。激しい波が堤防に打ち寄せている。10丈の高さで建てられている。白い波しぶきが乱れ飛ぶ。まことに心を動かし、魂を驚かせる光景だ。人家が赤い瓦で葺かれているのはサイゴンと同じである。はしけ舟は木をくりぬいて作っている。形は狭く小さい。ふなべりに弓なりの木を二本しばりつけて、その端にいかだをつけて、舟が傾かないようにしている。二人でこの舟を操縦している。水を運ぶ舟も来た。現地の服務者らは常に無駄口をたたいている。

午前ににわか雨。食事を終えた後に、小さな汽船に乗って上陸する。人を雇って道案内させ、街の中を巡覧する。現地人は目が大きく鼻が高い。服装はシンガポールと同じである。婦人が挿す櫛は半月の形をしている。湖があって蓮が多い。牧場には牛が数十頭いて緑の草の上で起きたり寝そべったりしている。路傍には椰子の木、ねむの木、黃麻竹が多い。ガジュマルがくねくねとまがりねじれた奇怪な形をして空を覆い日を遮っている。呉子が「谷を覆いつくす牛や羊」と言ったのはまさにこれであろう。路上で車を引く牛はみな皮膚に文様を焼きこんでいる。その惨状を見るといやな気分になる。博物館に入る。禽獣魚虫などがたくさん陳列されている。家のように大きな象の骨がある。また、古い道具に、剣、槍、琴、鼓、金石仏像などがある。どれも古色蒼然としている。

外へ出て桂の林を見る。木はみな小さい。一つの仏寺に入る。釈迦涅槃像がある。陶器のお盆に花を供えている。香気が堂に満ちている。僧侶の容貌は阿羅漢の像のようである。黄色い袈裟をかけて、革の靴を履いている。寺には貝多経が収められている。字はマレーの書体を用いている。

ここは仏教が隆盛した土地であり、方言の中に、旦那、伽藍、などの言葉がある。詩を作る。

鳩は林の外で鳴いて雨音が聞こえる 
禅寺の扉を叩こうとして車を暫く停める
錫杖を持った僧侶が案内してくれる
いくつもの箱に入れた、畳まれた葉に記されたお経をみせてもらった

羅約兒ホテルでしばらく休憩し、午後1時に船に帰る。3時、港を離れる。夜、月が明るかった。詩を作る。

どこでここのような幽かな風物を見ることがあろうか
赤い花に緑の葉が四季を通じて生い茂っている
船はもやい綱を解いてこの地を去るが名残惜しい
清らかな月光に照らされた国の秋を去るのが心苦しい

『西遊記』によれば、おそらく月国とはインドの意味。この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針は75度。

19日、アラビア海に入る。

20日、航海はすこぶる穏やかである。

21日、日曜日にあたる。ヨーロッパ人客の踊りを見る。

22日、午後に風が起こるが、航海には支障ない。

23日、風はまだやまない。

24日、昼過ぎに風がやむ。晩にソコトラ島を望む。山は深く険しく、のこぎりのような形をしている。

25日、水面は蓆を敷いたように平たい。巨大な魚が波の上に浮かんでいるのを見る。

26日、アデン港に入る。セイロンからここに至るまで2135里。この港はイギリス人が開いた。紅海の入り口に位置し、海は西南に面している。この地を赤い山がとりまいている。4時、雨が少し降る。見渡す限り赤い野が広がりまったく緑はない。現地人は褐色で頭髪は黄色く枯れている。鼻に金の輪を通し、衣は半身を覆っている。アラビア語と英語交じりの言葉を話す。宗教はみなイスラム教である。現地人が来て物品を売る。ダチョウの羽が最も美しい。

この地には雨水を貯めておくための貯水池があって、ソロモン王が始めたものであるという。行ってみてみたいと思ったが、体調が思わしくなくはたせなかった。光明寺三郎と偶然出会う。三郎は外務書記官で、パリから帰る途中であるという。

午後6時、船出する。暑さがはなはだしい。寒暑計の針は90度。詩を作る。

万里、船は大波の間を過ぎる
旅衣には涙の跡がまだらになっている
禿山に赤い野 青草はない
故郷の山にはまったく似ていない

また、

誰かと相見て、笑って口を開くこともない 
海の上に立ち込める黄色い砂埃には驚いた
体質が弱い者でなくとも耐えることはできまい
赤い日が山を焦がし海を煮ている

この日、故郷に手紙を送る。

27日から30日まで、ずっと朝から夕べまで紅海の中を行く。海底にサンゴを生じるので、紅海と呼ぶのであると世には伝えられている。あるいは両岸の土が赤いので、このような名になったともいう。この間航海はずっと安穏で、気候はいくらか涼しかった。大きな炉を出たような心地よさがあった。

本文

十八日。未明入歌倫暴港。自星嘉坡抵此千五百七十里。港澳築堤。以限大洋。葢兼作鐵道之用也。激浪觸堤。堅立十丈。白沫亂飛。洵動心驚魄之觀也。人家葺赤瓦。不殊塞棍。三版刳木造之。形狹而小。扁舷縛兩木。彎曲如弓。其端挂以浮槎。令無傾欹。二人行之。有舟來輸水。土人服事者。絮語不絕口。午前驟雨。食罷。乘小滊船上陸。雇人爲導。驅車巡覽街衢。土人睅目隆準。服裝與新港同。婦人插梳。形如半月。有湖多蓮。有牧牛塲。見牛數十頭。起臥于綠艸之上。路傍多椰樹、合歡木、黃麻竹。有榕樹。離奇古怪。參天遮日。吳子所謂可蔽滿谷之牛羊者卽此。路上挽車之牛。皆烙皮成文。慘狀可厭。入博物局。所列禽獸魚蟲甚多。有象骨大如屋。又古器中有劔、槍、琴、鼓及金石佛像。皆古色蒼然。既出。見桂林。樹皆矮小。入一佛寺。有釋迦涅槃像。陶盤供華。香氣溢堂。僧貌如阿羅漢像。挂黃袈裟。穿革鞋。寺藏貝多經。字用巫來由體。此地釋迦隆興之所。方言中猶有檀那伽藍等之語云。有詩。鳩啼林外雨淋鈴。爲扣禪扉車暫停。挂錫有僧引吾去。幾函疊葉認遺經。小憩於羅約兒客舘。午後一時歸舟。三時離港。夜月明。有詩。風物何邊似箇幽。紅花綠葉四時稠。扁舟解去多遺恨。蓽負淸光月國秋。盖印度者月國之義。說出西域記。此日發鄕書。寒暑針七十五度。

十九日。入阿刺伯海。

二十日。舟行頗穩。

二十一日。當日曜日。觀歐客歌舞。

二十二日午後。風起。而不至苦船。

二十三日。風未歇。

二十四日。至午風歇。晚望速哥多喇嶋。山骨㟏岈。作鋸齒狀。

二十五日。水平若席。觀巨魚浮波上。

二十六日。至亞丁港。自錫蘭抵此二千百三十五里。港英人所開。紅海之咽喉也。西南面海。赭山繞焉。四時少雨。滿目赤野。不見寸綠。土人褐色。頭髮黃枯。鼻穿金環。衣掩半身。操亞刺伯音。雜以英語。所奉皆囘敎也。土人來賣貨物。駝鳥羽最美。聞此地有貯水池。以貯天水。速爾門王所創。欲徃觀而不果。以有微恙也。邂逅光明寺三郞。三郞爲外務書記官。自巴里歸者。午後六時開行。熱甚。寒暑針九十度。有詩。萬里船過駭浪間。征衫來此淚成斑。童山赤野無靑草。豈有風光似故山。誰得相看笑口開。堪驚波上泛黃埃。雖非蒲柳何能耐。赤日焦山煑海來。此日發鄕書。

二十七日至三十日。皆早暮行紅海中。世傳水底生珊瑚。故名。或云。兩岸赭土。所似有此名也。此間舟行安穩。氣候漸北漸冷。有出洪爐中之快。

歌倫暴。コロンボ。

吳子所謂「可蔽滿谷之牛羊」者卽此。「呉子」の兵法書のことを言っているのだろうが、不明。

貝多経。貝多は貝多羅葉の略。貝葉とも。椰子の葉に書かれた仏教の経典。

羅約兒ホテル、不明。Mount Lavinia Hotel か?

速爾門王。ソロモン王。

開行。港を出ることだろうか。以下そのように訳す。

1984

なぜか若者らに 1984 (1Q84じゃないほう) の読書感想文を書かせるということをやったのだがなかなか興味深い。ビッグブラザーやニュースピークは悪いという、確かにビッグブラザーはプライバシーを無視したあからさまな監視社会、管理社会であって、よろしくない。ただ納税とその対価としての公共サービスというものがある以上、市民はある程度まで管理されなくてはならず、もし管理が緩いと税や社会保障費負担の不公平とかさまざまな問題が生じる。マイナンバーカードはやめろというのと同じだ。

漢字の種類を制限しようということは秦の始皇帝のころからすでにあったわけで、中国共産党の専売特許というわけではない。言語は人工的なものだ。義務教育は富国強兵殖産興業のため、近代国家は言語を、教育を管理する。学習効率をよくしようとすることは必ずしも悪いことではない。ドイツ語が簡略化して英語が生まれ、さらにピジンやクレオールが生まれる。サンスクリットからパーリ語がうまれる。古典語から現代口語がうまれる。あるいは簡単に学習できることを目的としたエスペラントなどの世界共通語が考案されたりもした。ニュースピークというものはそうしたものの一種だ。Basic English、Simplified Technical English、ウィキペディアにもシンプル英語版などというものがある。

政府ばかりではない。マスメディアも報道しない権利を行使することによって、SNSもシステムの匙加減である言葉ははやらせたり、他の言葉は人の目に触れないようにすることができる。

問題は良いか悪いかということが明確ではなく、周りが間違っているように見えるが間違っているのはしばしば自分のほうだ、ということだ。正岡子規が「再び歌よみに与ふる書」で「見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで、隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。」と言っているが、子規が乗っている汽車が動いているのか止まっているのか、子規自身にすらわかるまい。過去を断罪することはたやすいが、これから全く新しいメディアが発明されれば人はまだそのメディアに対して免疫がないから、経験に頼ることもできず、昔の人と同じように扇動されたり同調圧力に屈したり、付和雷同したり、思考停止したり、陰謀論が流行ったりするわけで、ホモサピエンスという種は何十万年もまったく進化していないから、ナチスドイツやコロナ騒ぎのようなことは再び起こるし、それをできるだけ早く察知して回避するにはやはり、すべてのことをとりあえず疑ってみる、比較してみるというのは大事だろう。

大阪の中之島図書館を図書館として残すか残さないかという話が twitter で盛り上がっていたが、私は維新の会に同情を禁じえなかった。建築物の価値と、その建物が図書館として使われるかどうかは別問題だろうと思う。あれは明治のころには意味があったかもしれないが、現代において図書館としての機能を充実させたければ、郊外か地下かもしくはビルの中に倉庫のようなフロアを作ってそこを図書館にすれば十分だろ。もしくはオンラインの、青空文庫や国会図書館デジタルコレクションのようなものを充実させたほうが良いに決まっている。また中之島の建物は、民間に払い下げて商業施設にするかどうかはともかく、図書館として使い続ける意味はほぼないと思う。本好きにはしばしば本を実際に読まない人、図書館を利用しない人、図書館の利用方法や価値がわからぬ人、本を読むという目的以外に図書館を使いたがる人が多く(実際多くの読書家は本を読んでいる自分、というか、本を読んでリラックスしている時間とか雰囲気、が好きなだけで本の中身なんかどうでも良いんじゃないかと思えることが多い)、そうした人たちの声ばかりがバズるのが問題だ。

神宮外苑の銀杏並木にしてもあれは関東大震災以後に植えたもので、せいぜい100年の歴史しかないのだから、伐りたきゃ切れば良い。こればかりは小池都知事に同情する。あれを切ってならんというのであればさっさとお濠や墨田川沿いに建てた高速道路を撤去して江戸時代の景観を戻してほしい。

航西日記を現代語訳していて wordpress に「更新に失敗しました。データベース内の投稿を更新できませんでした。」と怒られるので調べてみると、phpMyAdmin で文字コードを utf8mb4 にしろなどと書いてある。使われている漢字が特殊すぎてデータベースに格納できないのかと思って、調べてみるとデータベースは最初から utf8mb4 になっているじゃないか。わけがわからない。しかし特定の漢字とデータベースの相性が悪いことが原因なのは確からしいんで、できるだけ普通の漢字に置き換えてやり過ごした。wikisource に原文はあるのだし、森鴎外が使った漢字にこだわる理由もない。

1984については以前も書いていた。

これも。

georg-orwell.org 1984

似たようなことを以前にも書いていた。

温泉旅行

某温泉に来たのだが、surface go のキーボードを忘れて来てしまい、日本語入力が不便でしかたない。まだスマホのフリップ入力の方が慣れている分ましだと思い、このブログをおそらく初めてスマホで書いている。twitterなんぞに短文を書き散らかすくらいなら、こうしてブログにメモした方がましだろう。

大浴場に行くと後から入っていきたお年を召した方が5秒か3秒かに一度「あーっ」という、感に極まった声を発するのがうざくて気分最悪になった。また某梅園に行くとずっと犬を吠えさせている人がいて思わずにらんでしまった。いつ終わるともしれない人の声や人が飼ってる犬の声など聞かされ続けるのが苦痛なのだ。こんな思いをするくらいなら温泉旅行なんてしなきゃよかったと思った。できるだけ一人で生きていくしかあるまい。

インバウンドは皆無で年寄りばかりの珍しいところだったが田舎の観光地なんてどこも同じなのかもしれん。日本中に観光客が散ってくれたほうが私には都合が良い。一箇所に集中するのが良くない。

源泉近くの山の中まで連れて行かれ旅館の周りにはコンビニの一軒もない。途中でしまった、駅前のコンビニでビールとつまみを買っておけば良かったと思ったが、手遅れだった。

例の森鴎外の日記の現代語訳何だが、特殊な漢字がまじっているせいか、データベース更新があるうまくいかんと怒られる。とりあえずだましだましやってみる。

航西日記5

7日早朝、サイゴン川を遡る。両岸はどちらも平坦で草木が生い茂っている。村の家並みが点在して風景画のようだ。ところどころに非常に大きな椰子の木や蘇鉄の木が立っている。午後1時にわか雨。詩を作る。

寂寞とした漁村が途切れ途切れに続く
船を挟む深緑には薄いもやが立ちこめている
椰子林に降る一陣の雨が
たちまち涼しい風を客船に送るのを喜ぶ

2時、港に達する。香港からここへ至ること815里。船が港に入るとただちに埔頭に接して停泊する。しかしながら市街へ行くには、はしけ舟が来るのを待つほうが、速やかに行くことができる。市街を眺めると屋根瓦はすべて赤い。初めて椰子の実を食べてみる。形はスイカのようである。殻を開けてジュースを取り出すと味は極めて甘美である。その殻をそのまま椀としたり杯にすることができる。この日、香港にて病院を視察したことを軍医本部に報告し、また故郷に手紙を送った。

8日早朝。馬車を雇って花の庭園を見る。馬は痩せているが力は強い。街を覆う土は赤い。道路の両脇に樹を植えている。槐(えんじゅ)に似ている。いわゆる尼泪爾弗樹である。朝顔、芭蕉もある。民家は非常に狭く、屋根を覆ったり扉を編んだりするのにみな椰子の葉を用いている。網を二つの柱の間に張って腰掛け代わりにしているものもある。また竹のすだれを垂らしているものがある。室内は土間が多い。豚や鴨と共に住んでいる。シナ人で店を開いている者が多い。売っている木の実は、あるものはワンピ、またはフトモモ、みな食用である。現地人はみな山子を嗜む。一枚を切って四つに分けて、貯蔵することなくじかに、ハコベや石灰といっしょにこれを噛むので、男女ともみな歯が黒い。山子とはビンロウの実である。婦女は髪に櫛を挿しているが、日本の古代のものに似ている。馬を御する者はみな黒人である。首や肩に赤い布をまとっている。一つの川を渡る。鉄橋が架かっていて庭園に入ると草木はみな大きくうるわしい。香港の庭園にはこのような天然の色はなかった。庭園の中は蝉の声がやかましい。庭園を出てフランス兵の屯舎の前を過ぎる。兵卒がいて抜剣して門を守っている。途中一人の兵卒に会った。左の下肢に義足を付けていた。また別の庭園に入った。たくさんの動物を飼っている。鶴、孔雀、猩々、あるいはまた虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈(すっぽん)、蟒(うわばみ)などなどがいた。最も変わったものは巨大な鰐(わに)であった。そのうろこは老松の幹のようである。池には蛙がたくさんいて、その声はホラ貝を吹くようであった。午後船に帰った。夜寝床で詩を作った。

夕暮れ空は晴れ 人は暑さを忘れる 
初めて船の中で安らかに眠る
夜半にボーイがロウソクを吹いて火を消す
虫の声が窓に迫り寒い

この地は蚊や虻が多いと聞いていたが、今はそれほどでもない。寒暑計の針を見るとカ氏85度。

9日午前3時、サイゴン港を出発する。目が覚めたときにはすでに数十里、川を下っていた。風が強く吹いて夜になってもやまなかった。

10日、風がいまだに激しい。木々が倒れ伏している。三度食事をするほか何もやることがない。

11日早朝、マラッカ岬とスマトラの間を過ぎる。山脈は断続して南北にうねり長く連なっている。むしろを敷いたように海は平らに凪いでいる。詩を作る。

昨夜は風が生じてとても苦しんだが 
今朝は風がやんでみな笑っている
人間の悲喜こもごももこれと同じだ
ある日は眉をひそめ またある日は眉を開く

午前8時、シンガポールに達する。いわゆる「新港」である。サイゴン港のときのように船が埔頭に接する。沿岸にはすすけた倉庫が多い。子供が舟に乗って近づいてきて、銀貨を水中に投げよと請うて、水に潜ってこれを拾うのだが、百に一つも取り損なうことがない。その舟は狭くて爪でえぐったようだ。『嶺南雜記』に海人が水に入っても潜らず、客のために浮かんだ残り物を取るというのはこのようなことをいうのだろう。

午前11時、馬車を雇ってさまざまな寺院や庭園を見物する。街を覆う土の色が赤いのはサイゴンと同じだ。多くのシナ人が店を開いて食べ物を売っている。また人力車を引いて生業としている。現地人は全身黒く、肩や腰に紅白の布をまとっている。女は鼻に金の輪を通している。皆はだしである。イスラム教徒らは桶のような形の帽子をかぶっている。車を引く牛は肩が突出していてラクダのようだ。庭園には椰子やサトウキビをたくさん植えている。シナ寺院に掲げられた扁額には「環州會舘」と書かれている。そのほかイギリスやフランスの礼拝堂があるが、特記すべきほどのものはない。庭園に入る。盆栽を束ねて人の形を作っている。我が国の菊人形のようなものだ。ヨーロッパ式のホテルで休憩したが、香港のホテルよりも数等劣っている。

午後3時、船に帰る。たまたまフランス船、屋幾斯号が入港する。日本客がいると聞くので見に行く。その姓名を記録すると次の通り。今村淸之助、福原允。並びに陸奧宗光を送って帰る者、圓中孤平、巖見鑑造。そのほか商人ら。晩餐の後、近くの岸辺を散歩する。港の入り口に島嶼が星のように連なり、幾万という船の灯りがその間に灯っている。おそらくこの地はマレーの島々の一つにすぎなかったが、イギリス人が開港して以来、シナとインド、二つの海の喉を扼しているから、その盛んなことは論じるまでもないことである。詩を作る。

聞くところによれば ここシンガポールは蛮族が焚く煙が漂う水郷であったという 
今その埔頭を見ると千隻の船が連なっている
イギリス人はまさに錬金術を持っている
錆びた鉄の塊もたちまちに光を放つ

また、

日暮れに船を離れて木陰に立つ 
林を隔てて寺から鐘の音が聞こえてくる
子供らが数人 はだしで色は黒い
土地の言葉を話しながら色鮮やかな鳥を売っている

この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針はカ氏85度。

12日、日の出を見る。赤く大きな輪が海を離れるのはまるで盆のようで、偉観だ。午前8時雨が降る。9時シンガポールを出発する。航海ははなはだ穏やかである。

13日、スマトラの海浜に沿って進んで行く。この地はオランダ人が領有しているが、原住民との戦いはいまだにやんでいないと聞く。数年前、オランダ軍はアチェ王国を攻めたが、我が林君紀が軍中にあって『閼珍紀行』を著した。私はかつてこの著書を読んで知っていた。今、この地に訪れて、その人をずいぶん久しぶりに思い出した。アチェはスマトラの首都であり、その北西端にある。詩を作る、曰く、

万里船を浮かべてスマトラ島を過ぎる 
アチェの府城がかなたのもやの中に見える
昔、林君は詔書を奉じて 身を奮ってオランダ軍に従軍した
元来、医者の道は簡単ではない
思い通りにいったりいかなかったり とてもややこしい
いわんや戦争の最中ならばなおさらだが
従容として傷病兵を措置し殊勲を建てた
林君は名高い家柄に生まれ
気象は英邁、人よりも抜きんでいた
西洋人の手段をすでに見抜いて
そのやり方を胸の内におさめた
日本に帰ってからその計画を天子に奏上した
その弁論は認められて高い官禄を得た
それ以来しばしば変事を調査した
君が残した策略は世に知られぬものもない
私はこの地にきて慷慨して彼方をみつめる
水煙がたちこめて夕日をおおっている
今誰が立ち上がって君の雄志を継ぐだろうか
当時の医学界にはすでに君がいたのだ

ああ、林君は志を得た立派な人であったがパリで客死したのはまことに惜しむべきことだった。

14日、ベンガル海に入る。

15日、風が強い。魚群が海面を飛んでいる。青い背中、白い腹。長さは1尺ばかり。

16日、風がますます強い。

17日、セイロン島に近づく。島はイギリス人が領有している。椰子の林が数十里続いているようだ。詩を作る。

インド洋の波は山のように大きい
トビウオが鳥のように何匹となく飛ぶ
今宵からセイロン島に近づく
青い霞が十里の椰子の林にかかっている

午後5時、ポアン・ド・ゴール港を望む。

本文

初七日早。遡塞棍河。兩岸皆平澤。艸木蓊然。點綴村舍。風景如畫。間見椰樹蘇鐵樹甚大。午後一時驟雨。有詩。寂寞漁村斷復連。夾舟深綠鎖輕烟。喜他一陣椰林雨。乍送微凉到客船。二時達港。自香港抵此八百十五里。舟之入港也。直接埔頭而駐焉。然赴市街者。猶有待於三版。取其捷也。瞻望市街。屋瓦皆赤。始試椰子。形如西瓜。解穀得漿。味極甘美。其穀可以爲椀爲盃。此日報軍醫本部。以香港觀病院之事。又發鄕書。

初八日早。倩馬車見花苑。馬瘦軀而多力。街上土色殷赤。兩邊種樹似槐。所謂尼泪爾弗樹也。有牽牛花及芭蕉。民家甚矮小。覆屋編扉。皆用椰葉。有繫網於二柱間。代榻用之者。又有垂竹簾者。室內多土床。與豕鴨同居。多支那人開廛。所鬻之果。曰黃彈。曰蒲桃。皆可食。土人皆嗜山子。一枚切爲四片。以蔞葉石灰幷嚼之。不復須劉穆之之金柈。故男女齒牙皆黑。山子者檳榔實也。婦女插梳。似我古代物。馭馬者皆黑人。首肩纏紅布。渡一川。有鐵橋架焉。入苑。草木皆偉麗。香港花苑。無此天然之色也。苑中蟬聲聒耳。出過佛兵屯舍前。有卒拔劒衞門。途逢一卒。左下肢挂假脚。又人一苑。多養動物。有鶴、孔雀、猩々、果然、虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈、蟒等。尤奇者爲巨鱷。鱗甲如老松幹。有池多蛙。聲若吹螺。午時歸舟。夜枕上有詩。暮天雨霽人忘熱。始覺舟中一枕安。夜半房奴吹燭滅。蟲聲喞喞迫窓寒。原聞地多蚊蚋。今殊不然。撿寒暑鍼八十五度。

初九日午前三時。發塞棍港。眠覺則既下河數十里矣。大風。至夜不歇。

初十日。風猶厲。多僵臥。不缺三餐耳。

十一日早。過麻陸岬蘇門答臘之間。山脈斷續。蜿蜒南北。波平如席。有詩。昨夜風生太苦辛。今朝風止笑顏新。人間悲喜何殊此。一日攢眉一日伸。午前八時。達星嘉坡。所謂新港。舟接埔頭。如塞棍港。沿岸多煤庫。有兒童乘舟來。請投銀錢於水中。沒而拾之。百不失一。舟狹而小。如刳瓜。嶺南雜記云。蛋戶入水不沒。每爲客泅取遺物。亦此類。午前十一時。倩馬車觀諸寺院及花苑。街上土色之赤。與塞棍同。多支那人。開廛鬻食。又挽腕車爲活。土人渾身黧黑。肩腰纏紅白布。女鼻穿金環。皆跣足。奉囘敎者。戴帽若桶。有牛挽車。肩峯突起。似駱駝。園多植椰子甘蔗。支那寺院。扁曰環州會舘。其他英佛禮拜堂。無足記者。入花苑。束盆樹作偶人。猶我菊偶也。憩於歐羅巴客舘。劣于香港客舘數等矣。午後三時歸舟。偶佛舶屋幾斯號入港。聞有日本客。徃見。錄其姓名如下。曰今村淸之助。曰福原允。並送陸奧宗光而歸者。曰圓中孤平。曰巖見鑑造。並商賈。晚餐後逍遥近岸。港口島嶼星羅。船燈萬點。々綴其間。盖此地麻陸一島。英人開港以扼支那印度兩海之咽喉。其盛固不待言也。有詩。聞說蠻烟埋水鄕。埔頭今見列千檣。英人應有點金術。塊鐵之頑乍放光。又日暮離舟立樹陰。隔林有寺送鯨音。兒童幾個膚如漆。蠻語啾々賣彩禽。是日發鄕書。寒暑針八十五度。

十二日。觀日出。紅輪離海。其大如盆。亦偉觀也。午前八時雨。九時發星嘉坡。舟行甚穩。

十三日。沿蘇門答蠟海濱進行。此地蘭人所領。聞其與土人戰。猶未止也。往年蘭軍攻閼珍。我林君紀在軍中。有閼珍紀行著。余會讀之熟。今對此境而想其人。憮然久之。閼珍者蘇門答蠟之都府。在其西北端。有詩云。萬里泛舟過蘇門。閼珍府城渺烟氛。憶曾林君奉明詔。奮身來從和蘭軍。由來爲醫道非易。知期愆期事紛々。况在兵馬倥傯際。措置從容建殊勳。林君生爲名閥子。氣象英邁自超群。西人手段看既透。條理井然胸裏存。歸來披圖奏天子。辯論稱旨官祿尊。自此屢閱邊陲變。君無遺策世所聞。我來慷慨遥決眦。水煙茫々罩夕曛。如今誰起紹雄志。當事醫林猶有君。嗚呼林君亦大丈夫得志者。其客死巴里洵可惜也。

十四日。入榜葛刺海。

十五日。風勁。見有魚群飛海面。碧背白腹。長尺許。

十六日。風益勁。

十七日。近錫蘭島。々英人所領。已而望椰林不知其幾十里也。有詩。印度洋波山樣大。飛魚幾隻似飛禽。今宵來近錫蘭島。十里靑烟椰樹林。午後五時望波殷徒噶兒港。

尼泪爾弗樹。不明。ニルジフ?

屋幾斯号。不明。オキシ号?

黃彈。黄皮。ワンピ。

蒲桃。プータオ。フトモモ。

山子、檳榔。ビンロウ。たばこのニコチンと同じ作用を持つアルカロイドを含むとされる。これを噛むと歯が黒く染まる。

劉穆之之金柈。劉穆之は中国の南北朝時代の人。「宋書」檳榔:

劉穆之少時,家貧,誕節嗜酒食,不修拘檢。好往妻兄家乞食,多見辱,不以為恥。其妻江嗣女,甚明識,每禁不令往。江氏后有慶會,屬勿來,穆之猶往。食畢,求檳榔,江氏兄弟戲之曰:「檳榔消食,君乃常饑,何忽須此?」妻復截發市肴饌,為其兄弟以餉穆之,自此不對穆之梳沐。及穆之為丹陽尹,將召妻兄,妻泣而稽顙以致謝。穆之曰:「本不匿怨,無所致憂!」及至醉,穆之乃令廚人以金盤貯檳榔一斛以進之。

昔貧しかった劉穆之が妻の兄の家に行って檳榔を頼んだ。檳榔は消化に良いのにいつもひもじい思いをしているおまえがなぜ檳榔を食べるのかとからかわれた。のちに劉穆之が偉くなったときお返しに檳榔を金の器に盛って出した、というような話。

星嘉坡。シンガポール。

嶺南雜記。吳震方という清朝の政治家が書いたものらしい。清朝の嶺南は広東、広西、ベトナム北部一帯を指す。

林君紀は林研海(林紀(はやしつな))。

閼珍はアチェのことと思われる。アチェ戦争はオランダがアチェ王国に侵攻した戦争。明治6 (1873)年–明治37 (1904)年。「閼珍紀行」については雑誌「鴎外」58を参照。

榜葛刺海。ベンガル海。

波殷徒噶兒。ポアン・ド・ゴール(Point de Galle)であろうと思われる。現在の地名はガル、もしくはゴール。