神宮式年遷宮

明治聖徳記念学会紀要『式年遷宮を終えて』を読んでいて思ったのだが、
確かに式年遷宮が天武天皇から始まったのかどうかということも、疑おうと思えば疑えるわけで、
天武天皇は確かに古すぎるし、
その起こりから「廿年に一度まさに遷御せしめ奉るべし」などという明確な勅令があったのも不自然で、
持統天皇からじわっと自然に始まったというのが、ありそうな気がする。

さらに疑うと、伊勢神宮というのはもともと、天皇一代限りで移築される御所に付属したものであり、
恒常的な都が作られるようになって初めて伊勢に移され、
移築の伝統が伊勢という一箇所で式年遷宮という形式で繰り返されることになったのかもしれない。
そう考えるのが一番自然ではなかろうか。

タブレット

kindle paperwhite は、まあこれはこれで良い。

10型の sony xperia は、SDカードが直接挿せて、pdfを読むのには適している。
論文とか結構 pdf でネットに置いてあるから、そういうのをがっつり読むにはこういうのが良い。

7型の regza では少し小さい気がする。だが、ネットにつなぎながら持ち歩くにはこんなほうがよい。

いまでもときどき panasonic の let’s note (windows xp) を持ち歩きたくなることがある。
昔はノートPC 一択だったのだが今はいろいろあって何だ。

ああそういえば、windows 8 タブレットというのもあったのだった。
どうしよう。

玄米

玄米の食感は、精白米とぬか床を混ぜたようなものかと思っていたが、
野菜のようにシャキシャキしてて、まさにモヤシを食べている感じだ。
うまいかと言われれば、大してうまくない。
食うのに疲れる。すぐ飽きる。
炊飯に時間がかかるのも面倒だ。
白米は速炊きできるのだが。

麦ご飯がすきだったのだが、玄米を食べていると白米が恋しくなり、
麦ご飯も食べたくなくなってしまった。

コレステロールを摂りすぎると血管が詰まりやすくなり、脳梗塞、心筋梗塞になる。
コレステロールが少なすぎると、血管が弱くなり、脳卒中になりやすくなる。

永平寺の禅僧みたいな粗食ばかりしていればコレステロールが欠乏することもあるかもしれんが、
現代人が普通に飲み食いしていても獣脂は摂取してしまう。
パンにはバターが含まれるし、お好み焼きには卵が含まれる。
外食すればお通しに肉が出てくる。
なので、コレステロールを摂らないくらいな方が、コレステロール値を適正に保てる気がする。

肉を食うと空腹に耐えねばならぬ。
肉を食わないと米やパンを腹一杯食っても太りにくいのが良い。
主食メインで良いんだと思う。

ガラパゴス

オリンピック種目でもセンター試験でもそうだが、
日本人はこれという確かな目標が定まると、ガラパゴス的にそれに最適化しようとする。
外乱が少なすぎるのだろう。
外乱がない方が、特殊な、独特な進化を誘発しやすい。
それはガラパゴスの良い発現の仕方だが、
悪い方へいくと、要するに将来性の全くない、盲腸のようなものをひたすらはぐくみ育てることになる。

民主党政権が崩壊して不況がやや和らいだように見えるのだが、
結果論で言えば、民主党政権の前の自民党政権のとき円安なのに不景気だったのは、
日本の政治がどうしようもなく行き詰まってしまっていたからだろう。
そして自民党がしばらく野党に転落して返り咲くと、
日本の政治の連続性の良い面が息を吹き返して、経済や民心によい作用をするのだと思う。

民主党は、ようは、小選挙区制を導入して日本に二大政党政治を人工的に作り出そうとして、
みずからをアメリカの民主党のようなリベラルと位置づけて、自民党を相対的に共和党に仕立て上げた。
アメリカの政治はエスタブリッシュメントと、移民や黒人などの対立からできているから、
資本家と労働者、
保守と革新、
共和党、民主党というわかりやすい対立の構図ができ、その間をだいたい8年とか16年くらいのかなり長い周期で調整するので、
うまい具合に機能するのだろう。

ところが、民主党というのは、いつまでたっても人工的に作り上げたリベラル与党というだけで、
何の実態も持ち得なかった。
そうすると、戦前の政治家の生き残りである自民党の「血筋」の良さというものが、こういう不景気には効いてくる。
自民党は野党になるたびに刷新して強くなる。
民主党にはその気配すらない。

世襲議員はダメだとその一点張りしか言えない人もいた。
世襲議員はあまりよろしくないが、それを完全に否定しようとするととんでもないことになるってことは今回よくわかった。

結局日本というのは、自民党という一党独裁が20年とか30年周期くらいにときどき野党に転落して、
そこで政治的調整と混乱を経て、
ふたたび一党独裁に戻る。
そういう政権交代の形を取るのが一番安定していて効率的なのではなかろうか。

確かに自民党政権は未だに何もやってない。
為替操作とかインフレターゲット政策すらまだやってない。
やるかもしれませんとは言ったかも知れないが。
景気が回復しつつあるのは、
自民党政権が復帰したとき、多数議席を占めたとき日本は強いという歴史的前例があるからだろう。

飲食欲

20代の頃は酒がうまかったという記憶がない。
ビールは別にうまくもなかったがまずくもなく、ただ濃い味付けの食事をするときには確かに便利なのと、
そのうち夏の喉の渇いているときにはうまいと思えるようになった。
ビールはどちらかというと酔うためというより腹を早く膨らませるために飲んだ。
食い物で同じだけ満腹になるには食べ過ぎてしまうし、金もかかるからだ。
もちろん酔うことは酔うがそれが心地よいと思ったのではなかったように思う。
日本酒がうまいと思ったことはなかった。
ウィスキーの水割りとかもスナックへいくと他に飲むものがないからしょうがなく飲んだ。
長崎の学生は、ビールと日本酒を丼でまぜて長崎ちゃんぽんと言って飲んだが、
もちろん全然うまくはなかった。
20代の私にとって酒とはそういうものだった。
今から思うと何が楽しかったのかさっぱりわからない。

30代から40代にかけては確かに酒がうまいと思えるようになった。
40過ぎてからある種の日本酒はうまいと思えるようになり、
つまり日本酒のうまいまずいがだいたい分かってきた。

大病を患ってからは、肉を食うのを辞めた。
すると酒も別にうまくなくなってきた。
ビールも酎ハイもただ飲み屋に入ったから義務で飲んでいる感じだ。
前より痩せたから急に酔いが回って自分を制御できないし、
二日酔いになりやすくなった。
いや、二日酔いというのは違う。アルコールのせいで頭痛がしやすくなった。
全然酔う前に頭が痛くなる。これも20代の時と同じ。
昔に戻った感じだ。
あの頃はたぶんこんな風に酒を飲んでも楽しくなかったんだろうなと思い出す。

その上今は、酔ってる間は楽しいかもしれんが、翌日酔いが醒めるとその分なんか鬱になる。
楽しいのとつまらないのがプラスマイナスゼロな感じで、何のため酒飲んでるのかわからなくなる。

となると私が酒をうまいと思って飲めたのは
30代前半から40代前半のわずか10年間だったということになる。
なんというかもう余生を送っている気分だ。
体重が85kgくらいあったが、それだけ体の体積が大きいと肝臓も強い。
どれだけでも飲める気がした。

肉でもなんでもどんどん食べた。
食欲と酒欲(?)というものは連動しているのだろうし、してて全然不思議ではない。

コレステロール値を下げるために、
肉、卵、牛乳などを避けて炭水化物と魚を中心に食べるようになったら、
満腹するまで食べてもそんな太らなくなった。
思うに、体内のコレステロールの八割は体内で合成される。
ステロール、ステロイドは油脂から合成される。
つまり、体内の余剰な脂質からコレステロールが作られるのだから、
コレステロール値の低い食物を食べるのではなく、魚以外の動物由来の肉を食べなければ、
体内でコレステロールは生成されにくい。
コレステロールの原料が足りないとおそらく脂肪が使われる。
よって、肉、卵、牛乳、それから派生するバターや生クリームやチョコレートやアイスクリームなども含めて、
一切食べなければ、
糖質を多少過剰に摂取しても、脂質やコレステロールが不足している状態には変わりなく、
糖質は脂肪として蓄積するよりまずエネルギーとして消費されるから、
従って痩せるのではなかろうか。

米と肉の両方、
或いは、少量でも肉を食べてしまうと、
どんなに米を減らしても太ってしまうのではなかろうか。
すくなくとも自分の体を使った人体実験ではそうなった。

世代の断絶

宣長の歌

> 書読めば昔の人はなかりけりみな今もある我が友にして

僕らの世代が、昭和を、超克すべき過去だと思っているのは、つまり、自分も昭和世代であり、
自分より上の昭和世代から、搾取され、強制され、抑圧されたと感じているからだ。
相対的に、明治や江戸時代にあこがれを感じるのかもしれない。

おそらく日本史上最悪の時代というのは日中戦争が始まってから、高度経済成長が始まる前までであり、
この時代に体罰とか、或いは年功序列とか、或いは終身雇用のような、悪しき昭和の残滓とでも言えるものが、
一般化したのである。
紙巻き煙草のようなものもそうで、私の祖父の時代にはまだキセルやパイプなどで刻み煙草を吸う方が一般的だったのが、
紙巻き煙草になってからは路上でも飲食店でも勝手に煙草を吸うようになったのである。

戦前にはまだ平家物語や今昔物語やら太平記が普通に読まれていて、
だから芥川龍之介が古典を題材にしたりした。
つゆのあとさきを読むと、江戸時代の戯作を現代風にアレンジして大当たりした作家などが出てくる。
要するに、近世の日本の文芸と、西洋から輸入された近代文学とを適当にまぜあわせると、
割と簡単に小説というものができあがった時代なのではないか。

今の日本で近世文学を復刻するのはとてつもなく難しい。
せめて雨月物語とか春暦あたり、できれば日本外史あたりまでを、高校で教えられないのか。
明治大正の小説を今更いくらいじくり回してもしょうがないのではなかろうか。

もっとひどいのは歌学、歌論というもので、
これは今日絶えて久しい。
最近比較的まともにこれを取り上げたのは丸谷才一くらいではなかろうか。
戦前だと佐佐木信綱。
その後和歌というものはどうなってしまったのだろうか。
今の新聞歌壇などは見るに堪えない。
俵万智はすばらしい歌人だが、彼女の歌をまともに論評してあるのを見たことがない。
万葉集から俵万智までをきちんと解説したものがない。

世代は断絶している、といえばそれで良いと思っている。
そんな結論は誰でも簡単に出せる。
歴史的必然性や連続性を見いだすことのほうがずっと難しい。
知識も必要だ。

死屍を食う男

葉山嘉樹は好きで良く読むが、
どちらかといえばざくっとしたものを書く人で、
面白いのとつまらないのの差が激しい。

「死屍を食う男」は子供向けの怪奇小説を書きたかったのだろうが、全然面白くもないし怖くもなかった。
なんじゃこりゃと思った。

つゆのあとさき

永井荷風『つゆのあとさき』だが、文字数を調べてみると150枚程度で、さほど長くもない小説だが、
とにかく内容の割に登場人物が無駄に多いというか、だらだらしてて読みにくい。
当時のカフェの風俗をそのまま記した体験記もしくは資料としては面白いのかもしれん。
そして、ちょっとした落ちも付けてあるようなのだが、受刑者が出獄して遺書を残して自殺するという、
まあ、あまり必然性があるとも思えない落ちだ。
つまり主人公の君江という女についてだらだらと書いたことと落ちとがほとんど何の脈絡もない。
伏線にすらなってない。

清岡の辺りに永井荷風本人が投映されているのだろう。

『墨東綺譚』の作者贅言部分を除いた箇所の約二倍ほどの分量だろうか。
『墨東綺譚』が昭和12年、
『つゆのあとさき』が昭和6年だからそれほど離れてない。
どちらも50歳から60歳頃に書いたものだな。
『墨東綺譚』の方が登場人物が少ないのと長さが短いのと、
同じことだがストーリーが単純明快なのと、
落ちがわりとあっさりして比較的無理が無いので読みやすいし面白いと思う。

ただ、どちらの作品も、落ちに必然性がないというか無理がある感じ、
というか他の部分と違って明らかに嘘をついているというか作り話を付け足した感じで、
無理矢理小説という体裁をとろうとしている感じがどうしてもしてしまう。
たぶん実録でもなんでも良いのではなかろうか。
そうすると私小説になってしまってそれが嫌だったのかもしれんが。

菊池寛

菊池寛の作品を読むと面白いものもあればつまらないものもある。
面白いのは、まず「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」「俊寛」「藤十郎の恋」「仇討三態」「仇討禁止令」。
「父帰る」も面白くなくはない。

「日本合戦譚」。これはつまらない。
昭和七(1932)年から九(1934)年にかけて書かれたらしい。
田原坂合戦にしろ姉川合戦にしろ、ただ長いだけで面白くない。
歴史小説というよりは歴史随筆、というのに近い。
つまり、頼山陽の「日本外史」に近いものか。だが、「日本外史」の方がはるかに面白い。
「日本合戦譚」は菊池寛ではなくゴーストライターが書いたものだという説があるらしいが、
確かに、本人の作かどうかはともかくとして、他の作品と印象がずいぶん違う。
松本清張は「日本合戦譚」の愛読者で「私説・日本合戦譚」というものを書いたようだ。

菊池寛の何を面白いと思い何をつまらぬと思うかは人の勝手だが、
戦記物が私には特につまらなく感じる。
つまり、織田が徳川が小笠原が浅井が朝倉がとかそんな話がただ延々並列に列挙されてしまうと、私にはどうでもよい、としか思えないのだろうなと思う。
頼山陽はそんな書き方はしない。

戦国時代の合戦の話が好きになれないのかと思ったが、
しかし、田原坂を読んでもつまらないのだから、つまらないものはつまらない、としか言いようがない。
ただちょっと面白かったのは、明治天皇が船で神戸に着き、それから京都に居て、橿原に行く途中だった、とか、
乃木希典が軍旗を奪われた話とかかな。
だが、全体にだらだらしててつまらない、としか言いようがない。
だけど、今はwikipediaでも読めるけど、戦前の昭和には、「戦国オタク」向けの、
こういう具合にまとまった形の合戦物は無かっただろうから、
少年の頃の松本清張が夢中になって読みふけってもおかしくないのかもしれない。

私にはやはり「恩讐の彼方に」のような、巧みに脚色された時代劇、特に仇討ち物が面白いと思う。
「[俊寛](/?p=212)」(初出大正11(1922)年34歳)のおもしろさはまた別だ。
ストーリー的にはたわいもない話。
これは同じ題材でいろんな人がいろんな視点で書いているのが面白いと思う。

「忠直卿行状記」が大正7(1918)年30歳。
やはり、作品に若さがあるわな。
忠直が隠居を命ぜられたのが満28歳の時だから、菊池寛にして見れば、すごく面白い素材だったのだろう。

「恩讐の彼方に」が大正8(1919)年31歳。
やはり、これが最高傑作だと思う。

「仇討三態」は大正11年。すごく良い。

直木三十五が「仇討十種」というものを大正13年に出しているが、
これは明らかに菊池寛の「仇討三態」の影響によるものだろう。

「仇討禁止令」は昭和11年48歳とずいぶん離れている。
「仇討禁止令」は菊池寛の郷里、高松の話だから、ある意味もっと早く書いていてもおかしくなかった。
遅くに書いたものの中では面白いが、やはり、菊池寛得意の仇討物だったからだろう。
「恩讐の彼方に」みたいのをまた書いて下さいよと言われてその気になったのではなかろうか。

調べればちゃんとした年譜があるんだろうが、ネットにはなかなかそういうものが落ちてない。

菊池寛が何故あのように仇討物が好きだったのか、うまかったのか。
何かあったのだろうと思うが、よくわからん。

青空文庫では
「日本合戦譚」
がばらばらの短編として公開してあって、それは良いのだが、
kindleで読もうとするとごちゃごちゃして読みにくい。
また元通り
「日本合戦譚」のように一冊にまとめて欲しいなと思う。

彷彿

「彷彿」漢和辞典を見ても、「髣」も「髴」も特に意味はないように思われる。
「方」と「弗」という音だけに意味があるのだろう。
中国語辞典で引くと、
「あたかも・・のようだ」、という意味と、
主に「相彷彿」の形で「似ている」という意味があるそうだ。

頼山陽の詩に「水天髣髴」とあるが、海と空の境がはっきりとしない(似ている)、という意味だろう。

[呉融「端居」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B1%85)

> 殘蟬彷彿鳴

残った蝉がかすかに鳴いている、という意味だろう。
呉融は晩唐の詩人。

[薛濤「江月樓」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9C%88%E6%A8%93)

> 秋風彷彿吳江冷

これも秋風がかすかに吹いているという意味であろう。
薛濤は唐代の女流詩人。

[丁澤「上元日夢王母獻白玉環」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%85%83%E6%97%A5%E5%A4%A2%E7%8E%8B%E6%AF%8D%E7%8D%BB%E7%99%BD%E7%8E%89%E7%92%B0)

> 夢中朝上日,闕下拜天顏。彷彿瞻王母,分明獻玉環。

丁澤は誰かよくわからんがこれも唐詩。
夢の中で朝日が昇り、宮門の下で天顔を拝する。
おぼろげに王母を見、明らかに玉環を献じる。

[魯迅「秋夜」](http://zh.wikisource.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%A4%9C_(%E9%AD%AF%E8%BF%85))

> 他彷彿要離開人間而去

それ(夜空)はあたかもこの世から離れ去っていこうとするかに見える。
現代中国語的用例。

おそらく昔はかすかにとかおぼろげという意味だっただろう。
それが似ているという意味になり、まるで何とかのようだ、という意味になった。

> もし主人のような人間が教師として存在しなくなった暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人を髣髴すると同程度の労力を費やさねばならぬ。

〈漱石・吾輩は猫である〉

このように何かを想起させる、類推する、という用法はどこから来たか。謎だ。