上田合戦

サマーウォーズにちらっと出てくる
[上田合戦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6)
だが、なかなか面白そうな話だな。
三河物語も読んでみたい。
面白そうな話が多すぎて困る。

[あずまきよひこ.com](http://azumakiyohiko.com/archives/2010/05/18_0825.php)
に書いてあったのでつい反応した。

いや、安彦良和の三河物語なら、もう読んだのだが。

享和の上京

宣長の享和の上京の件だが、門人と京都の学者らがみなで資金をまかなったのだろうか、
二ヶ月半もの長い間、松坂を離れている。
72才の最晩年に、歩いて行ったとも思われない。馬か、籠か。
四条烏丸という、今でも一番繁華な辺りに宿泊している。
「天の下に住ままほしき里は京をおきてほかにはなかりけり」などとも言っているし、

> 涼しさに 夏もやどりも ふるさとに 帰らむことも みな忘れけり

などと言っているのはよほど京都が気に入ったからでもあろう。
この年、1月には和歌山に居た。
それから詠歌を見るに、2月24日に仁徳天皇陵、その後法隆寺やなどを旅行している。3月1日に帰宅。
3月28日出発。

> 鈴鹿山 坂の下道 分け暮れて 関はなけれど 泊まりぬるかな

などと言っている。
29日、鈴鹿山越え。30日、勢多。
4月京都で(グレゴリオ歴では5月13日。ちょうど今頃だ罠)

> さみだれと春の雨との中空も晴れやらでのみ日数ふるかな

4月8日、平野神社で

> 神垣や春思ほゆる桜かな並木の青葉かげ暗きまで

すでに葉桜だったようだ。
10日、清水寺に行こうとしたがにわか雨にあって、六波羅蜜寺に雨宿り、

> かきくもり思ひもかけずふる雨に古寺たのむふることのとも

12日、清水寺

> 見渡しにさはる青葉はつらきかな桜が枝も花ならぬころ

> 清水に我も夏来て桜木の青葉に春をしのぶこのもと

などとまたしても葉桜を憎んでいる。

14日、東山双林寺・長喜庵、閑居時鳥、山花盛を題に歌会か。

15日、賀茂の祭り。

> よそとせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ

40数年ぶりに葵祭を見たという、なかなか良くできた歌。

18日、先に伊勢に帰る人たちを送る。

28日、中山殿。

5月2日、富小路貞直が宿に来訪。

5月28日(グレゴリオ歴で7月8日)、香川景樹と東山の吉水弁財天のほとりで納涼。
桂園一枝拾遺に「都のわかれがたきことなどいへるに」などとある。
また、丸山の左阿弥、ともある。
今も円山公園内に「左阿弥」という料亭があるようなので、これのことか。
「安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされた」とか。
料亭になったのは幕末からのようだ。

この頃、鴨川納涼で多くの人と歌を詠み交わしたらしい。

6月9日(グレゴリオ歴で7月20日)、大津の湖畔で京の見送りの人々と別れる。

6月12日、帰宅。

うーむ。宣長と景樹の出会い。
ディテイルが分かればわかるほど、もっと詳しく調べてみたくなる。
景樹は当時まだ33才。
従六位下に除せられ、長門介に任ぜられたのは、その2年後。
29才で香川家の養子となったばかり。
36才で離縁。
すでに老境の加藤千蔭と村田春海から「ふでのさが」という批判を受けたのは、
34才、批判されたということはおそらくすでに鼻持ちならない存在だったということだろう。

なんというか、断片的な情報を少しずつつなぎ合わせていく作業がもどかしい。

養子

江戸時代は、いやつい最近まで日本では、家を絶やさないために養子をとることが多かった。
家が産業であり(学者の家ならば学問でもあり)、家が財産であり、家が共同体であったからだが、宣長も大平を養子にしている。
大平が弟子の中で特に良く出来たからでもあろうが、実子が眼病で、家業を継がせられなかったからだろう。
玉勝間を読んでいると、11の巻に「本生の父母」という話があって、
実父実母というのは、養父母の方を虚構のようにみなす心ばえであって、よろしくないから、
養父母に対して本生の父母と呼んではどうかなどと書いている。

空海の歌

風雅和歌集には、弘法大師の歌

> わすれても汲やしつらむ旅人の高野の奥の玉川の水

が収録されているそうだが、はて、あまりにも時代がかけ離れているし、空海が和歌を詠んだとして、
風雅集の時代に初めてあらわれたというのが、ちと信じがたい。
玉勝間11「高野の玉川のうた」で宣長はこれを後世の偽作と見ている。
詞書きには

> この流れを飲むまじきよしを、しめしおきてのち、詠みはべる

とあるそうで、歌の意味は
「高野の奥の玉川の水は飲むなと定めおかれたものだが、旅人はそれを忘れて酌んで飲むものがいるかもしれない」となる。
この歌の解釈を豊臣秀次とその家臣の霊が解釈するという話が雨月物語に出てくる。
で、確かに高野山には玉川という川があるようだが、なぜこの川の水を飲むなと空海は定めたのだろうか。
よくわからんのう。
宣長が指摘しているように「わすれても汲やしつらむ」は「忘れて汲みやせむ」の意味だが、
意味が通りにくい。

> 旅人は定め忘れて汲みやせむ高野の奥の玉川の水

とかならすっきりわかろうが。

ふと

ホットプレートでかすぎワロタ。
しかも鉄板三種類とか。
重いしでかいしかさばるし。
しみじみとお好み焼きでも焼くか。
たこ焼きも焼けるし。

しらべもの

[江戸後期紀行文学全集](http://catalog.library.metro.tokyo.jp/cgi-bin/exec_cgi/ibibdet.cgi?CGILANG=japanese&ID=TW92225392&NOCONT=1)。
比較的新しい本。

菅沼斐雄著「香川平景樹大人東遊記」というのは、香川景樹が江戸進出を企てたときの日記なのだろう。
菅沼斐雄は景樹の門人で文政元年(1818)景樹に従って江戸へ行くが、景樹が帰京した後も江戸に留まり、浅草に住んで門人を指導した、等。
なかなかおもしろそうな日記だわな。

木下幸文「朝三日記」。木下幸文もまた景樹の門人。「朝三」はその号のようだ。
「貧窮百首」こちらは、[近代名家歌選](http://catalog.library.metro.tokyo.jp/cgi-bin/exec_cgi/ibibdet.cgi?CGILANG=japanese&ID=TW00883235&NOCONT=1)という本に採られているようだ。佐佐木信綱編の古い本。

石塚龍麿「鈴屋大人都日記」。石塚龍麿は宣長の門人。鈴屋大人は宣長のこと。1801年宣長が上京した際の記録。おもしろそうだ。
宣長自身が「享和上京日記」というものを残していてこれは全集に収録されている。
[おのが京のやどりの事](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/onogakyono.html)、こちらは玉勝間。
[四条烏丸の宣長](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/sijyo.html)。
[宣長の最終講義の場所](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/nori_saisyukougi.html)。
[宣長の旅一覧](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/tabi_ichiran.html)。

なんかおもしろそうなものがたくさんありすぎる。

[乃木希典の歌](http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7739/773911.htm)。

思うに、

風邪気味。
薄着で寝冷えしたせい。
三日目くらい。
薬飲む。

庭のバラがわさわさ茂る。
バラは草ではなくて樹木だが、枝は自分を支えるほど強くない。
しかもどんどん密生して互いに絡み合う。
垣根にうまく紐などで結んで形を作ってやらないといけない。
これから、六月頃にちょうど花盛りになるだろう。

浦島太郎のドキュメンタリー番組とか某掲示板のリレー短歌など見てふと思ったのだが、
平安鎌倉ならともかく江戸明治のことくらいなら、
現代人にもわかるはずだと思うのはやはり間違いであり、
現代人は基本的に江戸明治のことはわからない。
わからんのが当たり前、というところから出発しないとどもこもならんのだなと思った。
文語で和歌を詠むということ自体がある種わけのわからんことをしているという自覚が必要だ。

現代における和歌

景樹の言うように、和歌は口語に帰るべきであり、調べは言語によらず世界共通というのであれば、
今や世の中にはフォークもロックも歌謡曲もJPOPもある時代であるから、
和歌がそれらとがちんこで口語と調べで勝負すれば負けるに決まっている。

和歌は歌謡曲ではない。演歌でもない。
そんなものと張り合うのは間違いだ。そういうものに適したメディアではない。
景樹の頃はそういう観点がまだ曖昧だったかもしれんが、現代でもし和歌が口語と調べという、
他の楽曲と同じ土俵で戦えば負けるに決まっている。

そうではないのだ。
和歌は、日本文芸の連続性を保持していることに価値があるのだ。
1500年前から今まで連綿と続いてきた継続性。
これまでの膨大な蓄積。
和歌のほんとうの価値はそこにある。
景樹の歌論では、とても不十分な気がする。
たとえば私が今詠んでいる歌だが、これなど、わざわざ古語を用いて詠んでいるわけだから、
景樹に言わせれば、真淵や実朝のようにわざと古体を模倣して、技巧に走って真情から乖離し、
世の中を欺いている、ということになろう。
真淵が万葉をまねたのと私が文語文法で歌を詠むのは同罪ではないか。
だが、おそらく、私の詠歌で一番近いのは景樹か秋成だと思う。

後水尾天皇

宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」では後水尾に「ごみのお」とルビがふってある。
なるほど、ATOKでは「ごみずのお」でも「ごみのお」でも変換できる。
wikipediaは「ごみずのお」と仮名が振ってある。
どちらも許容されているということかな。
敢えて言わせてもらえば「ごみのお」は音が美しくない。
「ごみずのお(ごみづのを)」の方が無難ではないか。

上述著書だが、基本的には京都の歌人しか紹介してない。
「江戸時代の和歌と歌人」というタイトルにははなはだ疑問を感じる。
橘千蔭もたまたま京都に来て詠んだ歌しか説明してない。
京都の歌人にしても、小沢蘆庵の歌はたったひとつだけ

> うづまさの 深き林を 響き来る 風の音すごき 秋の夕暮れ

これを延々と語っているだけで、要するに蘆庵の歌がどうなのかよくわからん。
秋成との関係でもう少し歌は紹介されてはいるが。
京都のことはとてもくわしい。
しかし、それ以外のことにはほとんど何も触れてない。
京都の歌人にしても、変わった人をたくさん紹介しているが、
非常に偏っていて、網羅しているとは言い難い。
へんてこりんな本だなとしか言いようがない。
京都在住ではない歌人や国学者、
たとえば真淵とか宣長とかその他もろもろの人についての記述や配慮があまりにもなさすぎる。
いや、そもそも「江戸時代の和歌と歌人」というような大風呂敷を広げた割に、
そうはなってない。
もひとつ言わせてもらえば、宣長の歌の解釈が間違っている。
せめて、小林秀雄くらい嫁と。
また、京都の歌人である蘆庵の解釈にもかなりおかしなところがある。
蘆庵が住んだ太秦の寺は狭いどころではなく、薪を集めてもあまりすぎるくらい広大な寺だった。
そんなことはちょっと詞書きを読めばわかる程度のことなのだ。

> 太秦にすみつきたるはじめ、従者も二三人侍りけるが、いと広く荒れたる寺の秋になりてものさびしく・・・

> 思ひやれ嵐を待たぬ落ち葉さへけふのたきぎにあまるすみかを