年寄りは年寄りになるまでにいろんな試行錯誤や失敗をしてきているから、慎重に、臆病になるのがほんとうだと思う。今はもう死ぬまでの間、痛い思いをせず、何か失敗をしでかさないように、びくびく怖がりながら生きている。外で酒を飲むのが一番危険だ。しかしこれをやめてしまうとほとんど何も外界との接点が無くなってしまうので、すべてやめてしまうわけにはいかないのが問題。

酒を飲むと気が大きくなる。酒がまだ血の中に残っている早朝が一番気が小さくなる。酒に酔って気が大きくなると細かいことはどうでもよくなってしまう。金遣いも荒くなる。記憶も残らなくなる。

無意識でやっていることと意識的にやっていることの境目が酒を飲むことによって動く。無意識だと記憶に残らないから後でなんであんなことやったんだろうと思う。

動画を撮ってみてみるとわかるがいろんなノイズや周りの人の話声なんかが入っていて、自分が撮りたかったものが埋もれてしまっている。人は意識していることとそれ以外のことを無意識に選別して知覚しているわけだが、聴覚過敏になったり自閉症になったりするとその選別ができなくなってしまう。年を取るとそれまでどうでも良かったことがいちいち気に障るようになる。鈍感であることは精神を疲弊させないためにどうしても必要なことだが、年を取るとその調整ができにくくなるように思える。

コロナ以前は、私にまだうかつにも、人間社会に対する信頼というものがあったが、もはや完全にそんなものは失われた。人間は救いようのない、手の施しようのない、なんの取り柄もない馬鹿なので、ただ右往左往慌てふためくだけ。なぜかは知らないが最初からそういうふうに作られているらしい。人間社会に何か貢献しようという気も薄れてきた。人間以外の何かとか、ずっと遠い未来の何かのためになら、いろいろ頑張っても良いかもしれないが、今の人間には何をしても無駄なので、ただできるだけ社会と関わらず、不快な思いをできるだけしないように生きようと思うようになった。私にとってあのコロナ騒ぎで得たほとんど唯一のものは人間のために何かすることはすべて無駄だということを学習したことだった。

イレーザー

イレーサーを見たのだが、ミッションインポッシブルの主役をトム・クルーズからアーノルド・シュワルツェネッガーにして、より馬鹿っぽくした感じのもの。いろいろと変なところはあるが、それゆえにというべきか、単なるエンタメとして最後まで楽しめた。

シックスセンス

シックスセンスも見たんで感想を書いておくが、なるほど着想、特にオチは面白く、見終わるまでは良い映画だなあと思いながら見ていられるんだが、終わったあと思い返すとシナリオ的にはかなり不味くて不自然なことが多い。なんとなく煽られて踊らされてだまされた感がある。

幽霊が、自分が死んだということに気付いていない、まだ自分が生きていると信じ込んでいる、という前提がそもそも怪しい。で、幽霊なんだからどんな設定でもありだろ、で話は終わってしまう。

そこいくとたとえばシャッターアイランドの場合には怪奇現象でもホラーでもなんでもないので、患者本人が狂っているのか、狂っていると思われされているのか、解釈しようによってはどっちとも考えられるってあたりが面白い。これがホラーならどっちでも良いじゃんで終わってしまう話だ。どこまでもサスペンス、ミステリーとして作られているから良い。

でも世の中にはミステリーでもホラーでもどっちでも良い、面白けりゃそれで良いという人も多いのかもしれんね。

Red Sun

久しぶりに Red Sun を見たのだが、見ている間はなんとなくごまかされるのだが、やはり見終わって、ストーリー展開の強引さが気になる。いくら武士とはいえ、坂口備前守にしろ黒田にしろあそこまで頑迷な設定はおかしい。コマンチ族も銃は持っていたはずだし、自分が焼け死ぬかもしれないのに草原に火を付けるのはちと考えにくい。いろいろと不自然だし、雑だ。

坂口備前守の命令は無茶過ぎるし、修好条約締結のためにはなんら必要無い。黒田は仇討ちはしたということにして刀を持ち帰ればそれでよかったはずだ。

映画は人をだますのに便利なメディアだが見た後で、やっぱりあの話のもって行き方は変だなと感じさせてしまうのは、やはり駄作ということだろう。

岸田劉生全集

岸田劉生全集を間違って買ってしまった。カーリルで検索すると「検索できません」と言われて、蔵書が無いのかと思ってしまった。近所の図書館に全巻揃っていることがわかったので、買うまでもなかった。そんなにしょっちゅう読むはずがない。

買ってしまったのは仕方ないとして、なぜ買いたかったかというと、彼の文章にところどころ光るところがあったからだ。彼の書いたものは岩波文庫から抄録が出ているからそれを読めばだいたいのことはわかる。一部は青空文庫にもある。しかし私としては日記や書簡も含めて残されたすべての文章を読んでみたくなったのである。

彼は若い頃キリスト教徒になった。しかも詩人になろうとしていた。だが結局画家になった。日本の画家であそこまで文芸に理解のある人はいないと思う。岡本太郎もけっこう文章を書くのだけど、ときどき書きすぎる。つまり画家が書いた文章になってしまっている。アーティストだから書いても許される文章になってしまっている。日比野克彦や落合陽一みたいな文章になってしまっている。ジョンレノンや坂本龍一が言いそうな文章になってしまっている。私としてはそういう文章を「文芸」と見なすわけにはいかない。 

しかし岸田劉生の場合は、れっきとした、日本を代表する画家であるのに、同時に彼の書くものは「文芸」になっているのである。岡本太郎はギリ文筆家と言ってよかろう。それと岸田劉生、他には誰が挙げられるだろうか。柳宗悦か岡倉天心くらいか。まあしかしこの二人は芸術家というよりは美術評論家だよな。

世間ではしかし岸田劉生は画家としてしか認められていない。画家が酔狂で書いた文章があるから物珍しさで出版されたのだろう。実際、岸田劉生全集が古本で出回っている値段は極めて安い(状態をさほど気にしなければ全巻揃で5000円くらいで買えるはず)。また、図書館で収蔵しているところも決して多くはない。たぶんほとんど誰も彼の「文芸」が優れているとは認識していないのだ。珍本の類いなのだ。日比野克彦や岡本太郎の書いた本なら図書館にはザラにあるが、岸田劉生はそうではない。

岡本太郎や日比野克彦の文章を語れるアーティストならいくらでもいるだろう。しかし岸田劉生の文芸を語れるアーティストはおそらくいるまい(岸田劉生の絵について語る人なら日曜美術館あたりにいくらでもいそうだが)。いきおいででたらめなをことを言えばすぐばれてしまう。そもそも「アート」とは何かという根本的な前提が岸田劉生と他の画家とは違っている。

文芸の世界の人もたぶんアートがよくわからないので岸田劉生を語れる人はいるまい。小林秀雄的な人がしゃしゃり出てきて語りそうもない。まして文学者は岸田劉生のことなんかわかるはずがない。

たとえばためしにこのばけものばなしなどを読んでみるとよい。

追記: 日比野克彦は芸大学長メッセージというものを書いていた。彼の文章、面白すぎるので引用しておく。小泉純一郎の息子にも通ずるところがある。

屹度(きっと)

人のこころは動き、うつろう。
その動き・うつろいがアートの表現になる。
微弱なうつろいもあれば、一人では抱えきれない動きもある。
その動き・うつろいの表現を感じる場として様々な媒体がある。
長い地球の時間の中で表現・媒体は変容し続けている。
けれども、
ひとのこころは、どうなのだろうか?
長い地球の時間の中で変わってきているのだろうか?いないのだろうか?
そもそもこころとは何なのか?
ひとつ確かに言えるのは・・・
アートによってこころは動く。
だから、
不思議なこころが集まっている社会の中で起こっている現代の課題に対して、
アートが作用することによって、社会の中の心が動きだすのではないだろうか。
アートが社会を動かすことができるのではないだろうか。
アートが人を生き生きとさせることができるのではないだろうか。

アートは人間にとっての生きる力なのだから、
屹度出来る。

好き嫌い

年を取ると好き嫌いが激しくなる。好き嫌いが曖昧になる人もいるかもしれないが、私の場合はもともとどっちでもよかったことでも好きか嫌いかどっちかに偏るようになる。

若い頃は何を読んでも面白かったから乱読していた。筒井康隆とか星新一とか吉行淳之介とか安岡翔太論なんかの、当時たまたま本屋に並んでいた本を手当たり次第に読んでいた。今筒井康隆初期のショートショートを読んでも、それほど面白くない。そりゃまあそうだろう。『大いなる助走』『唯野教授』『ハイデッガー』なんかは力作だと思うし面白くもあるが、すごい傑作だとまでは思わなくなってきた。小室直樹は、カッパブックスは編集者がいろいろ直してくれて名著となっていたのだろうが、『三島由紀夫が復活する』なんかは小室直樹が好き勝手書いたものがそのまま書籍になってしまったようなもので、事故物件と言っても良いのではないか、と思っている。

丸谷才一も私は崇拝していたほうだったが、今読み返すとけっこうおかしなことを言っている。和歌とか宣長について言っていることはかなりおかしい。論拠が希薄なのを語調や勢いでごまかして決めつけようとしているところもある。後鳥羽院とか京極為兼とか書いている辺りもそうとうあやしい。大野晋と丸谷才一が共著で書いている本もあるが、大野晋も丸谷才一のあやしげなところをやや警戒しながら発言しているのを感じる。大野晋は偉大な人ではあるが、彼も古代タミル語紀元説などあやしいことを言っているのでまあどっちもどっちか。

柳田国男は和歌は全然うまくない人だったと思う。うまい人ではあったが面白くない人だった。

小林秀雄はやはりおかしな人だった。

そうやって昔はすごい人だなと思っていてもだんだん物の見分けがつくようになってくると、それほどすごくもない、むしろ変だなと思うことが出てくる。それは自分が書いたものも同じで、そりゃそうで、若い頃に書いたものは若い頃に良いと思ったものを参考にして書いているから、そういうものを良くないと思うようになれば、自分の書いたものも良くないと感じるようになる。

それでやはり本居宣長と頼山陽はやはりすごいし、この二人のすごさを見抜いていた松平定信もまたやはりすごい。

そんな具合で、今は、1割くらいがいまなおすごいなと思えて、残り9割は大したことないなと思っている。これまで自分が書いてきたものがあまりにも多くて困っている。1割くらいは良いが9割が駄目だから書き直さなきゃならないのだが、その作業量に絶望する。

SEO

今年の4月頃から、夏目書房新社のサイトを negishi.fun から natsumeshinsha.com に移す作業を手伝っていたのだが、google 検索は negishi.fun が完全に死んでるにもかかわらずいまだにこっちのサイトを検索上位に出してくる。見れば普通に、negishi.fun から natsumeshinsha.com にサイトが移転したのはわかると思うのだが、ずいぶんと意固地だ。bing 検索だとすぐに natsumeshinsha.com を検索上位に切り替えてくれたのに。

夏目書房新社を検索しても、natsumeshinsha.com そのものではなく、夏目書房新社にリンクしている、または間接的に引用しているサイトばかりが出てくる。

この理由についていろいろ考えてみたがどうにもわからない。

世の中にはSEO (search engine optimization)を専門にやってる会社もあるし、wordpress の plugin にも有料で SEO対策してくれるものがあるし、ウェブサイト構築やSEO対策をやってくれるコンサルタントもゴマンとあるわけだ。ただこの件に関してはそういうものに金を出せば解決する、というわけでもなさそうに思える。

私も何度か google には negishi.fun から natsumeshinsha.com に移ったということは伝えた。私だけでなく他の方法でも連絡は試みた。私の知る限り、サイトオーナーが直接連絡を取れば google はすぐ動いてくれるはずだ。

たぶん google はすでに状況をすべて把握ているのだろう。だが、サイト乗っ取りなどの場合を考慮して、一定期間、検索結果を変更しないようにしているのではなかろうか。実際ドメインを変更したのは、一種の事故で negishi.fun というドメインが失効し所有権を失ったからなので、こういうトラブルに対して google が慎重な、中立的態度を取るのはわからんでもない。

それでまあ、1年ぐらいようすをみて、それでも natsumeshinsha.com が出てこないようであればこれはもうシャドウバンのようなものをくらっていると考えざるを得ないのではなかろうか。いずれにしても私はサイトオーナーではないからこれ以上どうすることもできないし、すべきでもないと思う。

natsumeshinsha.com はもともとサイゾーが所有していたドメインだったはずだが、売られていたので買ったわけだが、所有者が変わったからまだ警戒されているのかもしれない。

natsumeshinsha.com と同時に tanaka0903.net も復活させたのだけど、こちらも似たような扱いを受けている。tanaka0903.net は 2009年3月からずっと私が持っていて、途中休止させてはいたが、移転などしたわけではない。

「はかもなきこと」で検索しても tanaka0903.net が直接出てくるわけではないが、「”はかもなきこと”」で検索すれば最初に出てくる。「はかもなきこと」は和泉式部日記の「はかもなき夢をだに見であかしては何をかのちの世語りにせむ」に由来しているので、これはこれで正しい検索結果であるともいえる。bingで検索しても結果は似たり寄ったりで、こちらはこれでしょうがないのだろう。

推敲

推敲すればするほど文章は良くなっていく。切りが無い。推敲することによってさらに文章に対する感覚が研ぎ澄まされていき、さらに推敲してしまう。

以前から漠然と考えていたことなんだが、31文字しかない和歌でさえもほとんど無限の表現が可能なのだ。人間が一生かかってもすべての表現を試すことはできない。限られた語彙、限られた文法、限られた文字数でも。いわんや、10万字の小説、20万字の評論ならばなおさら無限の無限倍くらいの可能性がある。

どれほど完璧に書いたと思った文章でも後からみれば必ず直したくなる箇所はある。だから結局中途半端で投げ出して死ぬしかない。どこまでやらなきゃならないのか。というより、どこまでやれば自分で納得できるのか。納得などできないのか。ある程度まで書いて、死んだ後に大目に見てもらうしかないのか。

ある程度以上いじるといじればいじるほど悪くなる限界というものはあるかもしれない。それは私自身の限界に達したということになるのだろう。

10万字くらいまでの小説を書いたとして、そのあとその小説を推敲したり加筆したりすると、文章としてはまともになるかもしれないが、だんだん長くなってきて、切れが悪くなるというか、読みにくくなるというか、さっと読み切れなくなる。なんか気に入らないなと思っていても20万字もあるといじれどいじれど全然直ってくれない。だんだん自分でもわからなくなってくる。50万字くらいの長編だともう何をどうしていいのかわからなくなるし、わかったとしても直している時間がない。とても困る。

近頃は何もしないのが一番良い、何かすれば失敗する可能性が増えるとも思う。いろんなことを考えると結局なすにまかせて定年まで同じところで働き、そのまま無職になって、死ぬまでぼーっとしているのが一番良いように思えてくる。近頃は千葉まで遊びにいったり、浅草や赤羽にでかけたりしているが、知らないところへ行って知らない酒場を巡っていても結局そのうち飽きるわけで切りが無い。阿佐ヶ谷や高円寺あたりを開拓しようともしたがすぐに飽きた。結局近場の新中野あたりをたまに飲み歩くので十分ではないかとも思う。

昔は10万字の小説書ける俺すげーとか思ってたが書いてみると大したことはなく、昔書いたものをみても、ああ幼稚だなと思うだけだ。手直ししてなんとかしようと思うが、どうにもならず絶望してしまう。

松平上総介

海舟座談については前にも書いたのだが、松平上総介とは松平忠敏のことで、石高はよくわからないが、およそ二千石くらいの旗本であったらしい。明治になると御歌所の歌道御用掛となって、ウィキペディアには高崎正風を投げ飛ばしたなどと書かれているが出典が良くわからない。

松平忠敏はまた勝海舟に歌を詠むよう盛んに勧めたというがこれも明治になってからのことだろう。いろいろ調べてみるとなかなか面白い歌を詠んでいるようだ。たとえば、

(こと)しあらば (くさ)むす(かばね) (こと)しあらば 水漬(みづ)(かばね)(おも)ふばかりぞ

何事(なにごと)()しと(おも)へば ()かりけり (たの)しとのみや (おも)(わた)らむ

などなど。

PCファンの騒音

PCファン(ケースファン)が異音を発するようになったので交換したのだが、今度は風の音がうるさくなってしまった。安くてピカピカ光るやつを買ったのが良くなかったのかもしれない。光らなくてもよいから静音でもっと高価なやつを買えばよかったと後悔している。

仕事場なんかでは気にならないが寝室ではさすがにうるさいだろうと思う。今度から気をつける。