帯状疱疹

私は2014年に帯状疱疹にかかっているので、コロナワクチンとは関係ない。

帯状疱疹の発症が増えているというが、昔は帯状疱疹と診断されることが少なかっただけではないのか。或いは昔は皮膚科が少なかったとか?

また帯状疱疹は50才以上の年寄りがかかるものなので高齢化すれば当然発症者は増えるよな。

樋口一葉

樋口一葉を少し調べ始めたのだが、一葉の和歌が面白いとか、日記が面白いというのならばわからんでもないのだが、みな小説ばかり褒めているのが奇怪だ。

なるほど平安時代や鎌倉時代には紫式部を筆頭として女流作家がたくさんいたが、室町、安土桃山、江戸時代になると、戯作作家は男ばかりになって、女がいなかった。明治に入って一番最初に女流作家となったのが樋口一葉だったので、彼女一人に注目が集まった、ということか。

実際、明治時代に有名な女性作家としてはあとは与謝野晶子くらいしかいないが晶子は歌人であって小説家ではない。となるとどうしても一葉がもてはやされることになる。

しかしながら一葉が書いた小説というのは新聞に載せるために書かれた通俗小説、それも短編読み切りの短いものにすぎない。内容もどぎつくて深みがあるとも思えない。内容もさほど珍しいものではない。こういうものは為永春水あたりがいくらでも書いていたし、もっと長編だったし、さらに言えばもっと読みやすいものだった。一葉の小説はまず読みにくい。また、面白いのかどうかもよくわからんし、オチがあるのかどうかもわからない。一葉の小説は実験小説かと思うくらいわかりにくい。もしかすると新聞の都合で無理やり尺を縮められてわけがわからなくなっているのだろうか。一葉はとりあえず世間的な名声が欲しかったのだろうか。作家として安定した地位が欲しかったのだろうか。そのための手段として通俗小説作家になろうとした?いろいろとわけがわからなすぎる。一葉は器用な人なのでとりあえず小説もざくっと書けたのだろう。日記をもっと丹念に読んでみればわかるだろうか。

一葉の日記は小説とはうってかわって非常に読みやすいし面白い。小説も日記のように書けばよいのにねと思ってしまう。和歌はつまらないと人は言うけど私からみると非常に優れている。私にとって与謝野晶子の奇を衒った歌よりは、一葉の和歌のほうがずっとまともに思える。

一葉の文章が良いのは和歌の素養があるからであって、それ以外の通俗小説的な部分は、少なくとも私には全然面白味がわからない。井原西鶴や山東京伝や滝沢馬琴や上田秋成や為永春水が面白いというのは私にもわかる。尾崎紅葉の金色夜叉が面白いというのもわかる。菊池寛が面白いというのもわかる。が、一葉が面白いとは私にはとても思えないのだ。男と女が無理心中したとか吉原の芸者がどうしたこうしたという話にも私にはあまり興味がもてない。近松門左衛門に曽根崎心中とかあったよな。それとの比較考察とかした人いるの?

一葉はもしかすると歌物語のようなものを書きたかったのかもしれない。しかし新聞の読者はそんなものを読みたがらない。江戸時代の読本みたいなものを少し近代風にアレンジしたような小説が読みたかったのではないか。いったいぜんたい一葉はどうしたわけで半井桃水みたいな俗物を師に選んで新聞小説を書こうと思ったのだろうか。もし一葉が与謝野晶子くらいに長生きして、大作家に成長し、新聞社の顔色を気にすることなく、読者の評判などにとらわれることなく、本格的な歌物語なり小説なりを書いていたらきっと傑作ができただろう。実に惜しい気がする。

酒を飲まなくても平気

最近なんだか酒を飲まなくても平気になってきた。

もともと一日のストレスを解消してさくっと寝るために酒を飲んできたのだが、今はそのストレスがたまってないのか、何かの〆切に追われる強迫観念がないのか、酒を飲むと楽しい以上に体が疲れるようになったか、年をとってもともと酒量が減ってきていたのがある限界を超えてもう飲まなくて良い体になったのか。

或いは酒を飲むことに飽きてきたのかもしれない。

ともかく年を取って体質も変わってきたし、髪質も変わったし、白髪も増えたし、酒を飲む量が減ってもおかしくはない。病気になったり体調が崩れて体が酒を受け付けなくなった可能性もないではないが、今のところ体調は良い。

酒を飲むことでストレス発散になるのは確かだが、酒を飲むこと自体がストレスになるので、プラスマイナスゼロかといえばどちらかと言えばトータルでマイナスだった気がする。飲まないほうがストレスが少なくて済んでいるように思える。

いずれにしても以前に比べて今は比較的ストレスが少ない状態だ。

雑な議論

世の中にはいろいろと雑な議論が多い。

私は民主主義というものに今のところ疑念を抱いているわけではないが、行政府の首長を直接選挙で選ぶのはおかしいと思っている。なぜおかしいかと言えば売名行為の泡沫候補がわらわらとわいてくるからではない。名指ししていえば小池百合子のような人が当選してしまうのが良くない。小池百合子には別に行政能力もなければ判断力もない。コロナ対策にしろ豊洲移転にしろ、ただ世の中の風評に流されているにすぎない。この人が選ばれるのは単なる知名度、人気投票の結果にすぎない。或いは何かの票田、もしくは後援者の力で選ばれているのであって、人を魅了する能力とか、金を集めたり動かしたりする能力が評価されたのでもない。

高須幹弥氏が内野愛里氏を評価していたのは面白かった。NHK党が供託金を払ってくれてそれに乗っかって内野愛里氏が立候補したのか、或いは自分で払ったのかは知らないが、内野氏は完全に計算づくで立候補しているし、政見放送も完璧に計算して演出されているし、自分がもつキャラクターを100%活用しているし、すべてを自分ひとりで考えてああいう行動をとったとすれば恐ろしく頭の良い人だなと私は思った。そりゃそうで、300万円も元手がかかっているんだから、入念にシナリオを書き、予行練習してあのビデオを撮ったのだろう。

こういうまったく無名の面白い人が世の中に出てくる機会を与えるという意味で東京都知事選もまんざら捨てたものではないと思える。しかし、都知事選は都知事を選ぶという本来の目的には何も機能していない、むしろ逆に、まともな首長が選ばれることを完全に阻害しているといわざるを得ない。

内野愛里の政見放送は今の首長選挙がただの人気投票になっていることを、意図してかどうかはともかく、如実にさらけ出しているという点でも良くできている。いやそもそも、人気投票であればまだ民意を反映しているといえるが、小池百合子が選ばれるということ自体、民意とはかけ離れた、ある種の組織票というか、ある種の集団催眠というか、大衆の無意識を扇動する何かが働いているとしか思えない。

安土桃山時代の日本が黒人奴隷を流行らせたという話は、確かにけしからん話ではある。これはアサクリだけの話ではなくディズニーがポリコレでやたらと黒人を映画に出すことへの反発、恐怖が根っこにある。海外でポリコレと歴史改変で日本が誤解される。確かに恐ろしい。日本人はこの話が好きらしい。好きというか頭に血がのぼるらしい。しかし歴史捏造ということならほかにもっと腹をたてなくてはならないことがたくさんある。

まず、奴隷というものは、かつて世界中にあった。異民族どうし戦争して捕虜になれば奴隷になった。イスラム教徒とキリスト教徒はしょっちゅう戦争していたから、イスラム圏にはキリスト教徒の奴隷が、キリスト教圏にはイスラム教徒の奴隷がいた。アラブ人はアフリカ人も奴隷にした。いわゆる奴隷貿易。イエズス会に限った話ではない。明白な歴史があるのに、黒人奴隷の責任をすべて日本にかぶせるなんてことができようはずがない。日本には日本で、やはり奴隷はいた。少なくとも人身売買は行われていた。夏目漱石の『坑夫』に周旋屋というのが出てきてみなしごの浮浪児を集めて鉱山に連れていくのだが、ああいう境遇の貧民はいくらでもいたに違いないし、周旋屋がいなきゃ乞食になるしかなかっただろう。

イスラムに奴隷王朝というのがあるが要するにイスラムではキリスト教徒の奴隷をイスラム教に改宗させてマムルークという軍団を作り、その軍団が独立して王朝を建てたというものだ。古代ペルシャでも僭主が奴隷を自分の後継者にしたという話がある。イブン・バトゥータも奴隷女を愛人にして世界旅行した。モーツァルトに後宮からの誘拐(Die Entführung aus dem Serail)というオペラがあるがこれもオスマン朝のハーレムを題材にしたもの。ベルモンテの婚約者コンスタンツェは海賊に囚われてスルタンに売られハーレムに閉じ込められたので救出するという話。

少し考えればそんなことにいちいち腹を立ててもしょうがない、もっとひどい話はほかにいくらでもあるのだけど、ほかにいろいろあるってことを知らず、たまたまネットで話題になったから腹を立てている。時間の無駄、人生の無駄としかいいようがない。

ChatGPTは嘘つきだ。役には立たない。

コロナのバカ騒ぎもそうで、いまだに「新型コロナ」などと言っているが、コロナウィルスは半年くらいの期間でどんどん変異していくのだから、コロナが新型なのはいつものことだし、もし2019年のCOVID-19をいまだに新型コロナと呼んでいるのだとするとおそろしい馬鹿ということになる。天然痘のように一度ワクチンを接種すれば一生かからないとか、風疹のように一生に一度もしくは二度くらい接種すれば有効なワクチンならばうてばよかろう。インフルエンザのように1度打てばだいたい数年は効果が期待できるというなら、打ちたいやつはうてばよかろう。しかしコロナは半年に一回ワクチンをうたねばならず、ワクチンの開発には半年以上かかるのだから、ワクチンはウィルスの変異にまったく間に合わない。だからコロナのワクチンを打つこと自体無意味だ。なのに今までインフルエンザのワクチンですらうってなかった人が頻繁にPCR検査を受けたり年に何度もワクチンをうったりするのはほんとみてて異様だ。本人もなぜ自分がそこまでコロナを恐れているのか自分で理解してないのではないか。

またマスクをしたとしてもコロナにかかるってことはもうほぼ確実なので、マスクをすることも無意味だ。というようなことは最初からわかっていたし2021年くらいにはあれこれやりつくして結論は出ていたにもかかわらず2023年までひきずった。そして2024年の今も大騒ぎしている。まったく人間は度し難い。

以前に選挙の効用というものを書いたのだが、あの石丸という人に働いていた重力場というものはどういうものだったのだろう。たぶんあれは、「二位ではダメなんですか」の蓮舫を二位にしたくない人たちが仕組んだ組織票だったのだろう。一位はほぼ小池て決まってたから、本気で小池を落とそうとした人がいるわけないと思う。蓮舫も二位を取りにいこうとしただけだと思う。あわよくばほんとうに都知事になれるかもしれないという欲はあったかもしれないが、とにかく二位を取ろうとした。石丸を担いだ連中の中身は自民党系であったり維新系であったりしたのだろう。若者の民意が石丸に集まったように見えるのは錯覚にすぎないのではないか。年寄りは蓮舫か小池に入れたがり、若者はそういう傾向が少なく分散した結果、若者が石丸を選んだように見えただけではないか。石丸という人は単に、小池に票を集めたくない、蓮舫に票を集めたくないと思った人たちが使った捨て石にすぎない。彼が何かのはずみで選ばれていたら大変なことになっていた。彼が有能な人だとはとても思えない。いずれにしても、内野愛里が売名行為のために立候補したなどということはどうでも良いことで、小池、石丸、蓮舫が上位三位を占めたということのほうがよほど大問題だ。そもそも売名行為でない選挙などあるはずがない。民意というものは結局選挙以外で知ることはできないのだが、その民意というものがそもそも虚無であって、もともと実体の無いものに選挙によってありもしないものがあるように錯覚させられているだけかもしれない。

銭形平次捕物控

ユーチューブのイグサ朗読というチャンネルでよく銭形平次を聞くのだけど、「女護の島異変」「江戸阿呆宮」も途中からだいたい真犯人がわかってオチもわかってしまうようになった。野村胡堂はいつも一番それらしくないやつを真犯人して、それらしいやつを冤罪にしたてるから、どれも結局はだいたい同じ筋書きになる。数は多いけども、パターンは案外少ない。

年寄りの未練

7月に入るとやはり銭湯なしで生きていくのは難しい。

銭湯で爺さんたちが80才過ぎると毎日もう何もやることがない、などと話していて、それもそうなんだろうが、60才も間近になるとすでにもうやることがない。体力や気力が続かないのと、だいたい何をやればどうなるか先に見えてしまいやる気が起きないってことと、なにより自分の内部から湧いてくる欲望が枯渇しつつあるのを感じる。

酒を飲みたい気持ちも薄れてきたような気がする。仕事のストレスで飲みたくなることは今もあるのだが、仕事をしない日、特に対人のストレスが無い日は酒を飲まなくても別に平気でいられるようになってきた。

80才という年もあとわずか20年で来てしまう。しかし年寄りが年寄りらしい気分になるのは良いことなんだろう。年寄りのくせに何か人生に未練があってもよくない。

天譴

天災は多くの場合人災でもあり、今中国が百年に一度の洪水などと言っているのは、地方政府の財政が破綻していて、治水工事に金をかけている場合じゃないからではないか。大雨というものは毎年年中降っているのであって、地方政府に潤沢に予算があれば堤防決壊などの被害はある程度未然に防げるのではなかろうか。

中国の王朝交代にはおおく天災、特に洪水や蝗害が起きたという。イナゴの被害が人的努力である程度防げるのかどうかしらんけど、中央政府はまだ息していても地方政府が疲弊してゾンビ状態になり、社会保障もできないから、そこから社会混乱が拡大して革命にいたるのではなかろうか。単なる自然災害のせいではないし、まして天譴などというようなたぐいのものではあるまい。

洪水だけではない。中国はおそらく道や橋、鉄道のメンテナンスをしていないのだろう。公共事業はやらないよりはやったほうが良いが、やりっぱなしではすまされない。技術者にはもちろん、作ったあとのメンテナンスが大事だという発想がある。財政に余裕があれば政府だって雇用創出のため支出するだろう。しかし今の中国の状況ではたぶんまず一番地味でわかりにくいところ、つまり社会的インフラのメンテナンス予算を削るに違いない。そうなると電車は脱線するし橋は落ちる。電気もガスも水道も止まる。すべては人災だ。

消費大国借金大国アメリカ

アメリカの消費者物価指数 (CPI; consumer price index) 、つまりインフレが落ち着いてきたらしい。これは見方によればかなり恐ろしいことである。コロナ騒ぎの時、マネーサプライ、つまり通貨発行を政府がめちゃめちゃ増やしたせいで、みんな働かずしてお金持ちになった。金を持っていれば消費したり投資したりする。これがインフレ要因だった。金利を上げてもなかなかインフレが収まらない。コロナバカ騒ぎが終わってマネーサプライも減らしたのにまだインフレが収まらない。

なんでかといえば貧乏人にも頭金無しで住宅ローンを貸したり、クレジットカードの借金を住宅ローンにまとめてリファイナンスしたりとか、どうかんがえてもサブプライムローンだろそれみたいなやり方で、消費を煽ったからだ。

そうやって貧乏人にむりやり金を貸してむりやり金を使わせてきたから、インフレも高金利もいっこう収まらない状態が続いてきた。

金が余ってるとアメリカ人は何のためらいもなく消費して好景気になる。好景気だと企業は人を雇って事業を拡大しようとするから人手不足となり、賃金は上昇する。賃金があまりにあがると企業は雇い止めで赤字を食い止めようとする。無職になると貧乏人はさすがに銀行に金を返せなくなる。銀行は金を貸さなくなる。むしろ貸しはがしにかかる。それでも金は帰ってこない。銀行は連鎖破綻する。それでも経済が好調ならむりやり力技でなんとかしてしまうが、アメリカ経済なんてものは張子の虎だから、結局耐え切れずにリセッションがくる、ということになる。

個人の借金は政府のマネーサプライと同じで市場の通貨を増やす。通貨が増えればインフレになる。インフレを抑えるために金利を上げるしかない。しかし借金を返せなくなると市場の通貨は減りインフレは終わる。おそろしいことだ。

あほみたいな消費大国借金大国アメリカのインフレが止まるということがどういうことか。金持ちは逃げ切ろうとするだろう。金持ちならその資金力でなんとか耐えられるかもしれないが、ちまたには借金を返せなくなった貧乏人があふれかえることになる。さらに移民をどんどん受け入れている。貧富の差はますます大きくなる。怠け者は結局トラップにはまって貧困に落ちていく。なんて恐ろしい国なんだろうアメリカって。すばらしい国だな、自由の国アメリカ。消費と借金で国を回している。よくまあそんなことができるものだ。アメリカが今やりたいこと、それは戦争だ。戦争特需ですべてをチャラにしたいと思っているに違いない。アメリカの財政破綻を救ってきたのはいつも戦争だった。ドルは基軸通貨だから多少通貨発行を増やしてもどうってことはない。その前提が崩れさえしなければ。

中野新橋

中野新橋にかつて遊郭があったということについてちょっと調べていたのだが、銭湯で中野区のハザードマップが貼ってあって、それを見ると、かつての神田川は相当屈曲していたように思えるし、また、今の中野新橋駅当たりはけっこう広い沼だったのではないかと思えてくる。つまり、江戸時代か明治の頃には神田川はもっと風光明媚な土地で、それで川沿いに遊郭が並んだのではないか、とまずは想像してみたのだった。

ところが今、中野区がネットで公開しているハザードマップでは、そうした神田川の原風景というものはよくわからない。東京の標高地図を見てもやはりよくわからない。江戸時代、中野区辺りは郊外の田舎に過ぎず、古地図などというものもなく、当時どんなふうだったか調べようもない。

それで今昔マップというものをみるに、明治時代の神田川はそんなに屈曲していたわけでもなく、淀や渓谷らしきものもない。神田川はかなり早い時期(江戸時代?)に河川をまっすぐにする工事が施されていたらしい。

明治の地図では、中野新橋駅あたりは全部田んぼだ。根河原というあたりに多少家が建っていたらしいが、花街という雰囲気ではない。しかも昭和に入ると神田川の川筋は今と同じようにまっすぐに改修されている。いつから花街があったかしらないが、風光明媚な地だったから花街ができたというわけではなさそうなのである。

新橋にあやかったのか、橋の名前が由来か—中野の花街という記事があってこれでだいたいのことはわかった。中野区立図書館に行くと、『開花中新半世紀』という本があってこれに中野新橋の花街の由来が書かれて、関東大震災で都心の花街が田んぼしかなかった中野新橋に移転した、ということらしい。なんだ、中野新橋の花街といってもせいぜい昭和より後の歴史しかなかったわけだ。調べて損した。

国会図書館デジタルコレクションにある『中野区民生活史 第2巻』『大東京年誌』にも若干の記事がある。関東大震災後に、中野区では新井薬師と、やや遅れて中野町新橋に花街ができた。昭和6年6月時点で中野本郷(中野新橋)には芸妓屋が17軒、芸妓が39人いたとある。ちなみに同じ時、八王子には芸妓屋が38軒、芸妓が122人、町田には芸妓屋が6軒、芸妓が13人いたそうである。八王子というところはもともと甲州街道の宿場町で相当大きな花街があったようで、つい最近まで(今も?)ソープランドが街中に点在していた。しかしながら今は八王子よりもむしろ町田のほうが、JR横浜線と小田急線の乗換駅であるせいか、人の往来が多く町も栄えているようにみえる。

ヒストリエ難民

ヒストリエ新刊というものをこないだ書いたのだが、驚くべきことに『エウメネス』もまだ少しずつ売れ続けている。思うに、ヒストリエの新刊を待っていればいつかはイッソスの戦いやガウガメラの戦いまで著者が描いてくれるだろうと、漠然と思っていたが、どうやらそんなことはありそうもない、ということに多くの読者が気づいてしまった。そこでどうしても続きが知りたい(というより、ウィキペディアかなにかで調べるのではなく、なにか小説仕立てにされた作品の形で読みたい)という人が『エウメネス』を読んでいるのだろう。

『エウメネス』はもともと『エウメネス1』で完結する話だった。たぶんどこかの新人賞に応募したと思う。それきりのはずだったが、私が書いた小説の中ではなぜか『エウメネス』だけがよく売れ、また続編が読みたいというレビューもあったので、では書いてみようかという気になった。もちろん『ヒストリエ』の読者の一部が『エウメネス』を見つけて読んでいたのだった。

『エウメネス1』はマケドニアから最も遠ざかったインド遠征の話。『エウメネス2』は時間を遠征開始まで巻き戻してグラニコスの戦いまで。『エウメネス3』はイッソスの戦い。アレクサンドロスはなぜペルシャ王を追ってペルシャ奥地に行かず、エジプトに向かったのか、その謎解きを自分なりにやった。グラニコス、イッソスをつなげて書くという作業の過程でいろんな疑問が湧いてくる。できるだけ史実に沿うように書いたが、史実がない箇所はフィクションで補うしかない。フィクションを「つなぎ」代わりにしてボリュームを出し、小説として面白おかしく書かなきゃいけないんだってことに気づいた。

『エウメネス4』はカッサンドロスによるメガロポリスの戦いがメインで、たぶんこの話を小説にした人はこれまでに私くらいしかいないと思う。メガロポリスの戦いを指揮したのは当然アンティパトロスだが、実は彼の息子のカッサンドロスが大活躍したのだ、という筋書きだ。かつ、エウメネスがハルパロスの仕事を引き継いでオリュンピアスに会いに行く、という話も盛った。オリュンピアスは魔女とか極悪人として描かれることが多いのだが、そうはしたくなかった。

だんだんとフィクションを盛り込むようにした。『エウメネス5』では当然ガウガメラの戦いを描かなくてはならないのだが、私なりに極力、ペルシャ帝国の都にして、当時世界最大の街バビュロンを描写してみようと思った。これには当然めちゃめちゃ手間がかかった。そしてエウメネスはガウガメラの時はメガロポリスにいたので、直接ガウガメラは体験しておらず、ガウガメラが初陣のセレウコスに語らせる、という形をとった。

で、ガウガメラの後からインド遠征を書いた『エウメネス1』まではたぶん誰も面白がらないからざくっと省略し、当初の予定どおり、スーサ合同結婚式まででこの話を終わらせた。

普通なら、アレクサンドロスが暗殺されるところまで書くのではないかと思うが、そこはわざわざ私が書くまでもないと思い、余韻をもたせるために手前で終わらせた。アレクサンドロスがなぜ暗殺された、なぜディアドコイ戦争の勝者がセレウコスとプトレマイオスだったのかということを、スーサまでの出来事で示唆したつもりだ。

『エウメネス6』は時系列的に『エウメネス1』に続いている。時系列に並べると 2 → 3 → 4 → 5 → 1 → 6 となる。わかりにくいかとは思ったが、並べ替えずにいる。まず 1 を読んでみて、おもしろければ改めて 2 から順に読んでいくのが自然だろうとも思っている。6 は無理やりすべての伏線を回収し、フィクションで膨らませてあるのだが、とりあえず完結させてみたもののまだまだ説明的でディテイルの書き込みが足りてないと思う。スターウォーズも 4 → 5 → 6 → 1 → 2 → 3 → 7 → 8 → 9 の順だし、パルプフィクションだって時系列はバラバラだが特に何か説明されているわけではなくそのまんまつないであるだけだ。

エウメネスが主人公なのだから、ディアドコイ戦争でエウメネスが戦死するところまで書く、ということもできるはずだが、たぶんそんな面白くないし、アレクサンドロスだけでもたいへんなのにディアドコイ戦争まで書くのは個人の力では無理だろうと思う。ただ、セレウコスとチャンドラグプタの戦いは書いてみたかった(絶対ムリだが。それにたぶん誰も興味ない)。

アマストリーという王女は面白い人で、この人をサブキャラにしたててディアドコイ戦争を描こうという誘惑もあったが、やめておいた。ラオクシュナやバルシネも面白い人ではあるがアマストリーほどではないと思うが、アマストリーにはほとんど知名度が無い。クラテロスと結婚させられてすぐ離縁された人、みたいな扱いだ。

アルトニスもほとんど知られていないが、アルタバゾスの娘でエウメネスの妻となった人なのでかなり細かく設定して書いた。ある意味エウメネスはアルトニスによってああいう人になったともいえる。さらにこんなにアルトニスを深堀りして書いた人も私以外にはいるまいと思う。

2の冒頭はわざと異世界転生っぽく書いてある。5の冒頭はまだ見たことのないバビュロンの夢をバビュロンに行く前にあらかじめ見たという設定。2も5も予知夢というか、ストーリーをあらかじめうっすら暗示させ提示しておくために夢を使っている(一種の伏線ともいえる)。夢落ちは好きではないが、夢から覚めるところから始まるのは嫌いではない。

読まれると手直ししたくなるのだが、その時間も今はほとんどとれない。