鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。
未だに参拝客は多い。
車が多く道が狭い。
要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、
まずは宝戒寺に行く。
拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。
ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、
北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、
小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。
これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。
この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、
今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。
庭にリスが居る。
あと、ヤブツバキ。
東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。
今度の機会に訪れよう。
幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

> もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。
ボタンといえば花札では六月だが、
一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。
数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。
源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、
本宮を参拝。

> 鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

> しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

> いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、
静御前の「静」にかけてある。
まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

> 歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。
[葛飾北斎筆「酔余美人図」](http://guide.city.kamakura.kanagawa.jp/Link/kokuhoukan/1ujiie-33.html)
(つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、
司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。
ここにも白旗神社がある。
ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。
墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。
も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。
毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、
島津忠久は島津氏の祖。
この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、
何か意味ありげはある。
[追記](/?p=2270)。

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、
ごく普通の天神さん。
大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社[鎌倉宮](http://www.kamakuraguu.jp/)がある。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、
いわゆる[建武中興十五社](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E4%B8%AD%E8%88%88%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%A4%BE)の一つとして一括りにされているが、
創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、
明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。
そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。
本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。
よくわからないが中はかなり広い。
しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。
いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、
それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。
先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。
普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。
太平記の記述では土蔵となっているから、
実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、
しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

> すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。
また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は[宝物殿](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kamakura-gu_Treasure.jpg)となっていて、
かなり手狭な建物だが、
中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、
東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、
山本五十六「至誠奉公」の額、
乃木希典「忠孝」の額、
それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、
かなり無造作に展示されているのだが、
これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。
私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、
なんというおそるべき宝物群であろうか。
思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、
この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。
そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、
なんちゅうかあまりにももったいない。
こんだけのコンテンツがありながら、
あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、
本殿向かって右手に祭られている。
宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。
つまり、
「身代わり様」と呼ばれ、
「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。
また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、
この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。
吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、
村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

> 身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。
これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、
なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。
南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。
写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。
親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、
また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、
積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。
鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。
ここもまた岩窟。
他の墓同様にきわめてささやかなものだ。
ここは寿福寺という寺の裏の墓地。
寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。
墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。
鳴き声はかわいくない。

> もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山


ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、
あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。
あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。
参道がやはり岩窟。
岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。
元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、
実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。
鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、
頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。
こんな華美ではなかっただろう。
鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、
あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。

武士の家訓

桑田但親著「武士の家訓」を読む。
少し面白い。

北条時重(義時の子):
> 力があり、持ち得る自信があっても、あまり大きな太刀や、ことさら目立つ具足を持ってはならない。他人に恨まれることになるからだ。

朝倉敏景:
> 名作の刀とか脇差などというものは、とくに欲しがるべきではない。その理由は、たとえ万疋の太刀を持っていても、
百疋の槍を百丁求めて、百人の兵士に持たせたならば、攻防にも大いに役立たせることができるのである。

朝倉宗滴:
> 内の者に侮られているなどという気持ちが主人に起こってきたとすればそれはもはや自分の心が狂ってきたと悟って良い。

武田信繁:
> 敵に向かう場合、千人でもって正面から当たるよりも、百人でもって横合いから攻めた方が、よほど効果が上がるものだ。

毛利元就:
> 我らは、思いの外多人数の者を殺しているのである。それ故、この応報は必ずやって来るものと、あなた方に対しても、
内心気の毒に思っている次第であるが、あなた方も十分この点を考慮して、何事に限らず常に慎んでいただきたいのである。
万一、元就が存命中にこの報いが来るとすれば、別に申し上げる必要もない。

北条早雲:
> 何事も、しなくてよいことは他人に任せれば良い。
わずかでもひまがあれば、何かの本でも懐に入れておき、人目を遠慮しながら読めば良い。

北条氏綱:
> 大将だけでなく、およそ侍たるものは、義をもっぱらに守るべきである。
義に違ったならば、たとえ一国二国切り取ったとしても、後の世の恥辱はどれほどかわかったものではない。

> 侍から地下人や百姓に至るまで、それぞれ不愍に思うべきである。

> 侍たるものは、高ぶらず、てらわず、それぞれ分限を守るのを良いとする。

> 万事について倹約を守るべきである。

> 手際の良い合戦をやって大勝利を得て後、おごりの心ができて、敵をあなどり、不行儀をすることは必ずあるものである。
慎んだがよい。こんなにして滅亡した家は昔から多い。勝って兜の緒を締めよ、ということを忘れてはならない。

ふおおっ。これが「勝って兜の緒を締めよ」の出典か。
天文十年(1541)五月二十一日、後北条氏二代目当主氏綱遺訓。

島津忠良:
> 無勢とて敵を侮ることなかれ多勢を見ても恐るべからず

> 敵となる人こそはわが師匠とぞおもひかへして身をも嗜め

>少なきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなく十六夜の空

そのままそっくり。

実朝が歌を詠み始めたのは14才のとき、新古今集が成立した時期に相当するという。
実朝は新古今が大好きで

> 水鳥の鴨のうきねのうきながら玉藻の床に幾夜へぬらむ (金塊集)

> 水鳥の鴨のうきねのうきながら浪の枕に幾夜へぬらむ (新古今集)

だから本歌取りどころかまるでそのままの歌もあるのだな。
いやはや。

だがまあ、金塊集の中でも上のような初期の単なる習作と後期の独自の歌とは見分けがつくものだ。
死ぬ間際ということは習作の段階をとっくに過ぎているわけで、
いくら即興だからといってまずい模倣作など詠むまいと思うが。

定家から「[近代秀歌](http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/kagaku/kindai.html)」という本をもらったそうだ。

斎藤茂吉によれば後鳥羽上皇の歌の影響があるそうだ。
そういわれればそんな気もする。

小島氏による日本文学大系金塊集の解説によれば、
実朝は万葉集から直接影響を受けたというよりは、
奥義抄もしくはそれに類する歌学書から影響を受けていた可能性の方が高いと言う。
また新古今集にも万葉集の影響があるが、実朝は新古今集からではなく、
独自の影響を受けていると言う。

実朝の真作かもしれない。

> ものゝふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

この歌は定家本系統には無いが、貞享本にはある。
なので実朝の真作かもしれない。

> 宮柱ふとしき立てて万世に今ぞさかえむ鎌倉の里

こちらも同様。

だが、未だにかなり疑問もある。

実朝歌拾遺というのはつまり、
定家本には無くて貞享本にある64首、という意味なんだなきっと。
ここには割と良い歌がそろってるんだよね。
どうしたもんかな。

実朝の謎は深まる

図書館から、いくつか本を借りてくる。

太宰治「[右大臣実朝](http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html)」。
1943年。
なんか異様に長い小説。
実際に長いというより長く感じる小説。
戦争中になぜこんなものを鬱々と書いていたのだろうか。

小林秀雄「実朝」。
いきなり吾妻鏡。
小説は真実より深く行くことがあるからとか、なんか予定調和説支持みたいなことを、
ぶつぶつ書いている。
「予定調和ありきでいいじゃん」みたいなオーラを感じるこの人は。
いいじゃん事実は事実で。

で、佐佐木信綱が昭和四年に金塊集の定家所伝本を発見してその奥書に建暦三年という日付がはいっていると言う。
建暦三年は1213年。
実朝が死ぬのは1219年。
小林秀雄はそれまでは、
同じ年の11月23日、定家から相伝の万葉集が届いて、それから万葉調の歌の習作を詠み始めて、
約5年間の間の歌を集めたものが金塊集であると考えられてきたのだが、
佐佐木信綱の発見によって、
それらの歌は1213年以前に詠まれたということがわかった、としている。

岩波書店日本文学大系「山家集・金槐和歌集」の中の小島吉雄校注「金槐和歌集」。
1961年初版。
書かれた順番で言えば先に挙げたものよりは後に書かれていて解説も詳しい。

佐佐木信綱氏は昭和四年五月に藤原定家所伝本を発見。
定家が一部自書し、他を側近が書き写し、663首の歌を載せている。
建暦三年十二月十八日の奥書がある。
佐佐木信綱氏によって岩波書店から復刻出版された。

実朝が死んでから編纂されたと考えられる貞享四年板本というのがあり、
こちらにはわずかに64首しか追加されていない。
つまり、実朝が1192年に生まれて1213年の22才までに663首を詠んだのに、
それから5年間ではわずか64首しか詠んでないことになる。
これはおかしい。
疑問点その1。

定家から万葉集をもらったのと、万葉調の習作をたくさん含む金塊集の原稿を定家に渡したのがほぼ同時期。
これがまたおかしい。
疑問点その2。
では定家から万葉集をもらう前から実朝はある程度まとまった数の万葉集の歌に接することができたのだろうか。
当時それほど万葉集というものは入手しやすかったのか。
しかも京都から離れた鎌倉で。
思うに万葉集というものは、当時は京都の一部の歌詠みの公家の家系にしか伝わってなくて、
実朝が所望したのでわざわざ定家が万葉集を送ったと見るべきだろう。
だから、実朝はもちろん万葉集の歌を断片的には知っていたかもしれないが、
膨大な習作を詠むほどにはそのサンプルとしての絶対数が足りなかったに違いない、と思う。
たとえば万のサンプルがあってやっと百の習作が作れる。
やはり定家から万葉集をもらってから詠んだ歌が金塊集の大部分を占めていると考えるのが自然なのだが。

たとえば実朝は「けけれ」のような古代の関東方言をわざと歌に使う人である。
実朝の時代にも「こころ」を「けけれ」と言っていたのではあるまい。
万葉時代の関東方言が万葉集に残っていてそれを見たから自分の作に使ってみただけのことである。
つまり実朝の

> 玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ

は万葉集の

> 甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり臥せる小夜の中山

を元にしたものである。
どちらも東海道を旅している歌なので、どんぴしゃですよね。
ついでに

> 東路の小夜の中山越えていなばいとど都や遠ざかりなむ (新千載)

このように実朝はかなり多数の万葉集の歌を参照しており、その数が多ければ多いほど、
定家から万葉集の完全本をもらったあとに金塊集が成立したことの傍証にはなり得よう。

小島吉雄氏も
> この本に収載せられた歌が全部建暦三年十二月以前の作であるとする従来の通説も、
疑えば疑える余地があるわけであって、

と言っており、この通説とはつまり佐佐木信綱から小林秀雄に至る説という意味だろう。

> 厳密に言えば、この本の成立時期並びに成立事情は今のところ明確ではないということになるのであるが、
現段階では、建暦三年十二月にまとめられたという積極的な証拠もない代わりに、
これを否定すべき材料もなく、
内容的にもそれで矛盾が生じないので、
一応、建暦三年十二月までの歌をまとめたものだろうということにしているわけである。

と、かなり疑念を残した書き方をしているように思える。
他にも補注の中に

> 建保二年三月の晩、帰館してから酒杯を酌み交わして翌日実朝も二日酔いに悩んだ由の記事がある。
ただし、この歌は定家本に載っている歌である。もし定家本を建暦三年十二月以前の成立とみるならば、
この歌を建保二年の作とみることができない。
その点にいささか問題はあるが、
建保二年四月、二所詣より帰館した翌朝の趣を歌にしたのであろうというふうに考えることは、
わたくしは幾分執着するのである。

などと書いていて、小島氏も、この二所詣というのが吾妻鏡の中で日付がわかるので、
二所詣を詠んだ歌が金塊集成立年の証拠になるのではないかと、
いろいろ調べてみた形跡があるわけですよ。
なんか悔しさにじませてるよなあ。
ちなみにその補注の元の歌とは

> 旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

のこと。

金塊とは「金」が「鎌倉」を意味し、「塊」が大臣を意味する。
金塊で鎌倉の大臣を意味する漢語表現だという。
なるほど、「まづ塊より始めよ」の「塊」ね。
これも佐佐木信綱説。

歌よみに与ふる書

歌よみに与ふる書

> おほせの如く、近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば万葉以来、実朝以来、一向に振ひ申さず候。

わろす。

> 実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。
あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ申さず候。
とにかくに第一流の歌人と存じ候。

実朝はすごいとは思うが、そこまですごいかな。

> 古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤りなるべく、
北条氏を憚りて韜晦せし人か、
さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。

北条氏を憚るというのもあるか知らんが、実朝は奇抜すぎるよな。
あと、万葉調を露骨に模倣したりとか。

> 実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、
例のものずき連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、

わろす。
ものずき連中とは古今、死に歌よみとは新古今以後、ということだろう。

> 真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。
真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に之有るべく候。

ふーん。

再び歌よみに与ふる書

> 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれ有り候。

わろす。

> 三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしくあいなり候。

わろす。

> それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入り候。
何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりにござ候。

正岡子規面白いな。

>『古今集』以後にては新古今ややすぐれたりと相見え候。
古今よりも善き歌を見かけ申し候。
しかしその善き歌と申すも指折りて数へるほどの事に之あり候。

ふーん。

> 定家といふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、

わろす。

> 新古今の撰定を見れば少しは訳の分つてゐるのかと思へば、自分の歌にはろくな者これ無く

わろす。
確かにそうだ。
定家の歌で面白いものはほとんど全くない。

> 門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致し候。
いつの代如何なる技芸にても歌の格、画の格などといふやうな格がきまつたら最早進歩致すまじく候。

そうだそうだ。

三たび歌よみに与ふる書

> 歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またとこれ無く候。

わろす。

> 歌よみのいふ事を聞き候へば和歌ほど善き者は他になき由いつでも誇り申し候へども、
歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に、

わろす。

> 歌が一番善きやうにうぬぼれ候次第にこれ有り候。
彼らは歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれば川柳も俳句も同じと思ふほどの、
のんきさ加減なれば、まして支那の詩を研究するでもなく、
西洋には詩といふものがあるやらないやらそれも分らぬ文盲浅学
まして小説や院本も、和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば、定めて目を剥いて驚き申すべく候。

ふーん。
まあ、子規の立場からしたらそうだよな。
だが子規のおかげで和歌も俳句も何もかも混同する輩が出てきて収集つかなくなったのも事実だ罠。

四~七たび歌よみに与ふる書

略。

八たび歌よみに与ふる書

> 悪き歌といひ善き歌といふも、四つや五つばかりを挙げたりとて、愚意を尽すべくも候はねど、なきにはまさりてんといささかつらね申し候。
先づ『金槐和歌集』などより始め申さんか。

>> もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

> この歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、またかくの如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なる事も分りをり候へども、この種の句法がほとんどこの歌に限るほどの特色をなしをるとは知らぬ人ぞ多く候べき。
普通に歌は「なり」「けり」「らん」「かな」「けれ」などの如き助辞を以て斡旋せらるるにて名詞の少きが常なるに、
この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最(もっとも)短き形)をり候。
かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

> 実朝一方にはこの万葉を擬し、一方にはかくの如く破天荒の歌をなす、その力量実に測るべからざる者これ有り候。

ふーむ。
これは困ったな・・・。
実朝の真作じゃないよね、これは。
せめて例えは金塊集から出そうよ。
金塊集から始めようかなんて言ってるわけだから。
[追記](/?p=2082)参照。

> また晴を祈る歌に

>> 時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ

> といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生(わたし)の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。

えぇぇぇ。
これは別にどうでも良いと思うのだが。
いやマジでどうでも良い歌。

> また

>> 物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

> の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処かへつて真心を現して余りあり候。

まあ、これは賛成する。

九たび歌よみに与ふる書

> 一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に移り候べく候。

>> 山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

>> 箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

>> 世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも

>> 大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

> 箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。

ああ、そうですか。

以下略。

ううーん。

ふと思ったのだが、

和歌は雄略天皇の頃から今上天皇まで、百代以上にわたって続いている。
人麻呂や貫之や定家などのそのときどきの代表的な歌人は居るが、
千数百年もの時間軸の上での変遷を考えたときには、歴代天皇の御製というものが良い指標になる。
そこには明らかにある一つの連続性があると思う。
もちろん、
歴代天皇のすべての御製をひとつひとつ調べ上げるというのは、
たとえば万葉集だけとか、
あるいは三代集だけとか、
そういうふうにやっていくよりも難しいんではないかなと思う。
とっかかりとしては私の場合は明治天皇御製を学生の頃に学んだということがあって、
それを時間軸上で延長していけば、
時代が下れば昭和天皇の御製となるし、時代をさかのぼれば南北朝や鎌倉、平安時代の御製へと連なる。

そうするとどうしても古語文法の知識も必要になるし単語も知らなくてはならず、
万人向けとは言い難い。
それに比べれば明治の正岡子規らのいわゆる短歌というものは、
せいぜい江戸期の俳句や川柳や都々逸、あるいは小倉百人一首程度の大衆にすでになじんだ素材を活かして、
あるいは西洋詩の作風も導入するなどして、
だれでも真似できるかと錯覚させた。
そうして短歌を愛好する人口を爆発的に増やしたのだろう。
いわば難行に対する易行であって、
仏陀も親鸞もあるいは俵万智もそうやって大衆に受け入れられた。
その時代精神のアイコンが正岡子規だったということだろう。

正岡子規の歌は平均して言えば格別面白くもないが、

> 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 (明治28年)

に対して

> 柿食ふも今年かぎりと思ひけり (明治35年)

という句があって、前の句だけであれば単なるのんびりした情景を詠んだものだが、
後の句と合わせると、たちまちに結核で死を覚悟した句となる。
正岡子規にあるのは常にそういう死の運命を担った悲壮感であり、
それが彼の作品に命を与えているのではないか。
もし彼が早死にしなかったらここまで後世に影響を与える歌人たりえたか。
そのへんが中島敦とはかなり事情が違うと思う。

私はひねくれもので暇人なので敢えて難行苦行を選ぶ。
歴代天皇の歌は応仁の乱以後急に入手困難になる。
江戸期の御製というのはどうなっているのか。
まあ、ゆっくり調べてみよう。

ポセイドン

海のトリトン(TV版)に出てくるボスキャラ、ポセイドンはポセイドンというよりは不動明王にしか見えない。
ポセイドンはギリシャ神話では三つ叉の銛を持っているものだが、これがまた不動明王が持ってる剣にしか見えない。
ていうか、銅像みたいにびくとも動かないし。
極めてセルアニメ的。

たしか手塚治虫の原作では、ポセイドン族というのは先祖代々たくさん居て、形態もさまざま。
少なくとも、不動明王っぽいのはいなかった。

ていうか、ホラ貝を吹くってあたりがいかにも山伏的だよな。

そうか、監督は富野喜幸なんだ。
初監督作品。
プロデューサーは西崎義展。宇宙戦艦ヤマトコンビ。
そういやぁそうだったっけ。

つか、エンディングがかぐや姫。
後ろで南こうせつがギター弾いてる。
前半アニメ+実写合成、最後は実写。かなり異様。
もともと最初はこちらがオープニングだったそうで。
へぇ。