> 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
楠公銅像
自臣祖先友信開伊
豫別子山銅坑子
孫継業二百年亡
兄友忠深感國恩
欲用其銅鋳造楠公
正成像献之闕下
蒙允未果臣継其志
薫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識
※「臣」は小字。
読み下し
臣の祖先・友信、伊豫・別子山銅坑を開きてより、
子孫、業を継ぎ二百年、
亡兄・友忠、深く国恩を感じ、其の銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、
之を闕下に献ぜんと欲するも、
允(ゆる)しを蒙むりて未だ果たさず。
臣、其の志を継ぎ、工事を薫し、功竣に及び、謹しみて献ず。
明治三十年一月
従五位 臣住友吉左衛門、謹みて識す
現代語訳
私の祖先・友信(住友友信 (1647 – 1706) 住友家3代当主)が伊予国・[別子銅山](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%AD%90%E9%8A%85%E5%B1%B1)を開いて以来、
子孫は代々二百年の間その業を継ぎました。
私の亡くなった兄・友忠(住友友忠 (? – 1890) 住友家13代当主)は、深くその国恩を感じ、
その銅を用いて楠木正成公の像を鋳造し、
朝廷の城下に献上しようと思い、その許可はいただきましたが未だ果たさずにいました。
私はその亡き兄の志を継ぎ、工事を監督し、竣功に及んだので、ここに謹んで献上します。
明治三十年一月
従五位 私、住友吉左衛門([住友吉左衛門](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%90%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80) (1865 – 1926) 住友家15代当主[住友友純](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%8F%8B%E7%B4%94)が、謹んで記します。
参考
[幕末維新懐古談 楠公銅像の事 高村光雲](http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/47006_26577.html)
上野大震災視察碑文
大正十二年九月十五日 攝政殿下大震災ノ惨状御 視察ニ際シ畏クモ此地ヨ リ御展望遊サレ被害ノ情 況ヲ聞召サル越エテ七歳 昭和五年三月二十四日 天皇陛下此二臨御アラセ ラレ親シク街衢ノ復興ヲ 矕ハセ給フ乃チ石ヲ此處 ニ樹テ以テ 聖恩ヲ不朽 ニ傳ヘントス
大正十二年九月十五日摂政殿下(昭和天皇)大震災ノ惨状御視察に際して畏くも
この地よりご展望遊ばされ、被害の情況を聞こし召さる。
越えて七歳、昭和五年三月二十四日、天皇陛下此こに臨御あらせられ、
親しく街衢(がいく。町のちまた)の復興をみそなわせたまう。
乃ち石をここに建てて、聖恩を不朽に伝えむとす。
「攝政殿下」「天皇陛下」に[闕字](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8#.E9.97.95.E5.AD.97)が使われている。
上野西郷隆盛像碑文
西郷隆盛君之偉功在 人耳目不須復賛述前 年 勅特追贈正三位 天恩優渥衆莫不感 激故吉井友實輿同志 謀鑄銅像以表追慕之 情 朝旨賜金佽費捐 資賛此擧者二萬五千 餘人明治二十六年起 工至三十年而竣乃建 之上野山王臺記事由 以傅後
西郷隆盛君の偉功については皆さんご存じでしょうから、
改めて讃え述べることもないでしょう。
前年、勅によって特別に正三位を追贈され、
天恩が手厚いことに皆感激しないことはありませんでした。
故に、[吉井友実](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%8F%8B%E5%AE%9F)は同志とともに銅像を鋳造し、追慕の情を表すことを計画しました。
朝廷から金銭を賜り費用に充てよとのご意向があって、
この挙に賛同し義捐金を拠出した者が二万五千人余りあり、
明治二十六年に起工し、明治三十年に至って竣工し、
これを上野山王台に建てて事由を記し、以て後世に伝えます。
「勅」「天恩」「朝旨」などに[闕字](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87%E6%9B%B8#.E9.97.95.E5.AD.97)が使われている。
新葉和歌集関連皇族一覧
* 尊円親王 (1298 – 1356) 伏見天皇の第六皇子。尊円法親王とも。花園天皇の異母弟。
* 尊良親王 (1310? – 1337) 後醍醐天皇の皇子。中務卿。
* 守永親王 (1328 – 1397) 尊良親王の皇子。後醍醐天皇の孫。上野太守。
* 宗良親王 (1311 – 1385) 後醍醐天皇の皇子。中務卿。征東将軍とも。
* 最恵法親王 (? – 1382) 後醍醐天皇の皇子。
* 懐邦親王 後醍醐天皇の皇子。上野太守。懐那親王とも。懐良親王(征西将軍)と同じか?
* 貞子内親王 後醍醐天皇の皇女。
* 幸子内親王 後醍醐天皇の皇女。
* 祥子内親王 後醍醐天皇の皇女。
* 後村上天皇 後醍醐天皇の皇子。南朝第二代。
* 長慶天皇(1343-1394)後村上天皇の第一皇子。南朝第三代。
* 後亀山天皇(1347?-1424)後村上天皇の第二皇子。南朝第四代。
* 惟成親王(?-1423)後村上天皇の第三皇子。式部卿。
* 泰成親王(1360?-?)後村上天皇の第四皇子。太宰帥。
* 師成親王(1361-?)後村上天皇の第五皇子。兵部卿。
* 覚誉法親王 花園天皇の第一皇子。
* 仁誉法親王 恒明親王の皇子。亀山天皇の皇孫。二品。
* 果尊法親王 ???
* 深勝法親王 ??? 後村上天皇の皇子 (恒明親王の皇子、亀山天皇の皇孫とも)。二品。
* 儀子内親王 花園天皇 皇女。
* 覚誉法親王 花園天皇 皇子。
* 聖尊法親王(1303-1370)後二条天皇の第四皇子。二品。
あまりにも謎。あまりにも闇。
尊良親王は後醍醐天皇の皇子であるが、越前国(福井)で戦死した。
しかし、明治になってから、
後醍醐天皇から譲位され東山天皇と称したと主張する人が居て、
北陸朝廷と言い、
吉野朝廷は偽装であるとする。
また尊良親王の皇子である守永親王は[興国天皇](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%9B%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87)と称したと言う。
まあ、明治になって南朝が正統とされたことによって、
南朝の皇子たちは日本中あちこちに転戦してたので、
その子孫が残ってる可能性があって、
しかも南朝の歴史はあまり正確には残ってないから、
自称天皇というのがぼろぼろ出てきたということだろうな。
なるほど、[後南朝](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D)というのもあるんだな。
北畠親房は新葉和歌集には「中院入道一品」という名前で出てくる。
ぱっと見、そんなすごい歌ではない。
宗良親王の私家集「李花集」にも北畠親房の歌が多く採られているという。
さて、どうすれば読めるのだろうか。後亀山天皇御製は「宗良親王千首」奥書にもあるらしい。
後醍醐天皇の妃で後村上天皇の母、新待賢門院・阿野廉子の歌もちょっと面白い。
北条氏の末裔・北条時行は南朝の一武将として戦うことを許されて、
宗良親王とともに遠江の井伊高顕が治める井伊城に入り、
音信不通になったそうだが、
要するに南朝の武将は北条時行にしろ宗良親王にしろ、ろくな記録が残ってないということだろう。
必ずしもどこかで野垂れ死にしたというわけではなさそうだ。
上野太守とは上野国の国司ということだが、[親王なので太守](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E4%BB%BB%E5%9B%BD)と言うらしい。
中務卿、太宰帥なども同様に親王のための名目的な役職らしい。
懐邦親王は後醍醐天皇の皇子だとあるが、
後醍醐天皇の皇子はの名はみな漢字二字で二字目は「良」であり、
懐邦親王は唯一の例外。
また新葉和歌集には懐那親王とも書かれている。
一方で鎮西方面で菊池市とともに戦った懐良・征西将軍という親王も居る。
極めて紛らわしいのだが、
実は懐邦は懐良なのではないか。
また後村上天皇でさえ、義良、憲良の二つの名前がある。
法親王もいて、皇子の人数もいかにも多く、重複している可能性もあるよな。
wordpress-2.9
がんがんアップグレード。最近はほぼ自動でできるから楽。
古いblogなどもどんどん統合。
もう一生wordpress使って行くんだろうな。
これから他に引っ越すのもめんどくさいし。
アーカイブがものすごいことになってますけど。
2000年くらいに家庭用ゲーム機にはまって、
2001年くらいから徐々にPCゲームに移行して、
2004年くらいからFPSにはまってますなぁ。
いろいろ読み返すと面白い。
ていうか、どんな本を読んだとかどんなビデオ見たとかどんなゲームしたかとか、
そういうことを淡々と書いていくところです、ここは。
1999年頃[ニュースステーション所沢ダイオキシン訴訟](http://www.geocities.co.jp/HeartLand/1068/b/memo_dioxin.html)
なんてことがあって2004年に最高裁まで行って和解してたんだなってことを自分の日記読んで再確認したり。
寂しい歌
> 大方のうつつは夢になし果てつ寝るがうちには何をかも見む(後鳥羽天皇)
現実のほとんどは夢になってしまったので、寝ている間は何を見たらよいのだろうか。
> 木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな(花山天皇)
出家して木の根元をすみかとするようになったので、自然と花をながめるような人になった。
> 難波江やあまのたく菜は燃えわびて煙にしめる五月雨のころ(後鳥羽天皇)
梅雨のじめじめした頃は難波江の漁師が焚く菜も燃えにくくて煙もしめっている。
後醍醐天皇の「都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの頃」はこれにちなむか。
> 返歌: 大君のあまたのみうたよそぢまでかたじけなくも知らであるかな
新葉和歌集に吉野宮を偲ぶ
> 都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの頃 後醍醐天皇
梅雨時ですね。なんかじめじめしてて暑苦しそうです。
後醍醐天皇はやはり怒っています。
> 茂るとも夏の庭草よしさらばかくてや秋の花を待たまし 後醍醐天皇
庭の雑草を手入れしてくれないので、かなり自暴自棄になってます。
> 幾秋を送り迎へていたづらに老いとなるまで月を見つらむ 後醍醐天皇
いらいらしているようです。
> 音に立てて虫も鳴くなり身ひとつのうき世を月にかこつと思へば 後醍醐天皇
ぼやいています。
> 風にたぐふ花の匂ひは山かくす春の霞もへだてざりけり 聖尊法親王
> 吉野川たぎつみなはの色そへて音せぬ浪と散る桜かな 聖尊法親王
> 卯の花の咲きての後にみゆるかなこころありける賤が垣ほは 貞子内親王
> 待ち侘ぶる心は花になりぬれど梢に遅き山桜かな 貞子内親王
> 鳴く虫の声を尋ねて分け行けば草むらごとに露ぞ乱るる 深勝法親王
> 吉野山嶺の岩かど踏みならし花のためにも身をば惜しまず 仁譽法親王
> 山深きかぎりと思ふみ吉野を猶奥ありと月は入りけり 仁譽法親王
> 埋もれし苔の下水音たてて岩根を越ゆる五月雨の頃 守永親王
> 木のもとに散りしく花を吹きたててふたたび匂ふ春の山風 師成親王
> 夜もすがら吹きつる風やたゆむらむ群雲かかる有明の月 惟成親王
ものすごく山が深そうです。
> 立ちかへりわたるもつらし七夕の今朝はうきせの天の川浪 幸子内親王
吉野に居ると天の川も激流に見えるのでしょうか。
> 山あらしにうき行く雲の一とほり日かげさながら時雨ふるなり 儀子内親王
> 山松はみるみる雲にきえはててさびしさのみの夕暮の雨 儀子内親王
> 吹きしをる千草の花は庭にふして風にみだるる初雁の声 儀子内親王
> うすぐもりをりをり寒く散る雪に出づるともなき月もすさまじ 儀子内親王
京都の雅な感じがまるでない。
> 咲く花のちる別れにはあはじとてまだしきほどを尋ねてぞみる 祥子内親王
> はるかなる麓をこめて立つ霧の上より出づる山の端の月 祥子内親王
祥子内親王は歌がうまい。
> 風はやみしぐるる雲もたえだえに乱れて渡る雁のひとつら 長慶天皇
> 秋風に迷ふ群雲もりかねてつらき所やおほ空の月 宗良親王
> 夏草の茂みが下の埋もれ水ありと知らせて行く蛍かな 後村上天皇
この自然観察はすごいと思う。
特に最後の蛍が飛ぶので夏草の下に埋もれ水があることがわかったという歌。
夏休みにいきいきと田舎暮らししてる少年のようだ。
山の中を実際に歩き回らないとこんな歌は詠めない。
つまり、都の公家には絶対詠めない歌。
> この里は山沢ゑぐを摘みそめて野辺の雪まも待たぬなりけり 後村上天皇
後村上天皇はけっこう吉野の生活に適応していたんじゃないかと思う。
> 一木まづ霧の絶え間に見えそめて風に数そふ浦の松原 後村上天皇
この歌はすばらしい。霧の中にまず一本の松の木立が見えて、
風が吹くうちに、だんだんと霧がはらわれて、浦の松原の全景が見えていく。
いわば水墨画のアニメーション。
新葉和歌集・冬
ものすごく寒そうです。
後醍醐天皇はいつも怒っていて、機嫌が悪そうです。
> 臥し侘びぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山おろしの風 (後醍醐天皇)
> 花に見し野辺の千草は霜おきておなじ枯葉となりにけらしも (後村上天皇)
こういう歌はやはり京都では出てこないと思うのよね。
> みむろ山ふかき谷さへ埋もれて浅くなるまで散る木の葉かな (最恵法親王)
こういう歌はやはり吉野山の実際の景色を見ないと出てこないと思うんだな。
> 聞くたびにおどろかされて寝ぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな (後村上天皇)
> 木の葉降りしぐるる雲の立ち迷ふ山の端みれば冬は来にけり (後村上天皇)
> 夜やさむき時雨やしげきあかつきの寝覚めぞ冬のはじめなりける (後村上天皇)
> 返歌: いにしへの吉野の宮の宮人の歌を偲べば寒さまされり
新勅撰・恋五・月
> 目には見て手には取られぬ月のうちのかつらのごとき妹をいかにせむ 湯原王
> 来ぬ人を月になさばやぬばたまの夜ごとに我はかげをだに見む 紀貫之
湯原王は志貴皇子の子。