wordpress-2.9

がんがんアップグレード。最近はほぼ自動でできるから楽。
古いblogなどもどんどん統合。
もう一生wordpress使って行くんだろうな。
これから他に引っ越すのもめんどくさいし。

アーカイブがものすごいことになってますけど。
2000年くらいに家庭用ゲーム機にはまって、
2001年くらいから徐々にPCゲームに移行して、
2004年くらいからFPSにはまってますなぁ。
いろいろ読み返すと面白い。

ていうか、どんな本を読んだとかどんなビデオ見たとかどんなゲームしたかとか、
そういうことを淡々と書いていくところです、ここは。

1999年頃[ニュースステーション所沢ダイオキシン訴訟](http://www.geocities.co.jp/HeartLand/1068/b/memo_dioxin.html)
なんてことがあって2004年に最高裁まで行って和解してたんだなってことを自分の日記読んで再確認したり。

寂しい歌

> 大方のうつつは夢になし果てつ寝るがうちには何をかも見む(後鳥羽天皇)

現実のほとんどは夢になってしまったので、寝ている間は何を見たらよいのだろうか。

> 木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな(花山天皇)

出家して木の根元をすみかとするようになったので、自然と花をながめるような人になった。

> 難波江やあまのたく菜は燃えわびて煙にしめる五月雨のころ(後鳥羽天皇)

梅雨のじめじめした頃は難波江の漁師が焚く菜も燃えにくくて煙もしめっている。
後醍醐天皇の「都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの頃」はこれにちなむか。

> 返歌: 大君のあまたのみうたよそぢまでかたじけなくも知らであるかな

新葉和歌集に吉野宮を偲ぶ

> 都だに寂しかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの頃 後醍醐天皇

梅雨時ですね。なんかじめじめしてて暑苦しそうです。
後醍醐天皇はやはり怒っています。

> 茂るとも夏の庭草よしさらばかくてや秋の花を待たまし 後醍醐天皇

庭の雑草を手入れしてくれないので、かなり自暴自棄になってます。

> 幾秋を送り迎へていたづらに老いとなるまで月を見つらむ 後醍醐天皇

いらいらしているようです。

> 音に立てて虫も鳴くなり身ひとつのうき世を月にかこつと思へば 後醍醐天皇

ぼやいています。

> 風にたぐふ花の匂ひは山かくす春の霞もへだてざりけり 聖尊法親王

> 吉野川たぎつみなはの色そへて音せぬ浪と散る桜かな 聖尊法親王

> 卯の花の咲きての後にみゆるかなこころありける賤が垣ほは 貞子内親王

> 待ち侘ぶる心は花になりぬれど梢に遅き山桜かな 貞子内親王

> 鳴く虫の声を尋ねて分け行けば草むらごとに露ぞ乱るる 深勝法親王

> 吉野山嶺の岩かど踏みならし花のためにも身をば惜しまず 仁譽法親王

> 山深きかぎりと思ふみ吉野を猶奥ありと月は入りけり 仁譽法親王

> 埋もれし苔の下水音たてて岩根を越ゆる五月雨の頃 守永親王

> 木のもとに散りしく花を吹きたててふたたび匂ふ春の山風 師成親王

> 夜もすがら吹きつる風やたゆむらむ群雲かかる有明の月 惟成親王

ものすごく山が深そうです。

> 立ちかへりわたるもつらし七夕の今朝はうきせの天の川浪 幸子内親王

吉野に居ると天の川も激流に見えるのでしょうか。

> 山あらしにうき行く雲の一とほり日かげさながら時雨ふるなり 儀子内親王

> 山松はみるみる雲にきえはててさびしさのみの夕暮の雨 儀子内親王

> 吹きしをる千草の花は庭にふして風にみだるる初雁の声 儀子内親王

> うすぐもりをりをり寒く散る雪に出づるともなき月もすさまじ 儀子内親王

京都の雅な感じがまるでない。

> 咲く花のちる別れにはあはじとてまだしきほどを尋ねてぞみる 祥子内親王

> はるかなる麓をこめて立つ霧の上より出づる山の端の月 祥子内親王

祥子内親王は歌がうまい。

> 風はやみしぐるる雲もたえだえに乱れて渡る雁のひとつら 長慶天皇

> 秋風に迷ふ群雲もりかねてつらき所やおほ空の月 宗良親王

> 夏草の茂みが下の埋もれ水ありと知らせて行く蛍かな 後村上天皇

この自然観察はすごいと思う。
特に最後の蛍が飛ぶので夏草の下に埋もれ水があることがわかったという歌。
夏休みにいきいきと田舎暮らししてる少年のようだ。
山の中を実際に歩き回らないとこんな歌は詠めない。
つまり、都の公家には絶対詠めない歌。

> この里は山沢ゑぐを摘みそめて野辺の雪まも待たぬなりけり 後村上天皇

後村上天皇はけっこう吉野の生活に適応していたんじゃないかと思う。

> 一木まづ霧の絶え間に見えそめて風に数そふ浦の松原 後村上天皇

この歌はすばらしい。霧の中にまず一本の松の木立が見えて、
風が吹くうちに、だんだんと霧がはらわれて、浦の松原の全景が見えていく。
いわば水墨画のアニメーション。

新葉和歌集・冬

ものすごく寒そうです。
後醍醐天皇はいつも怒っていて、機嫌が悪そうです。

> 臥し侘びぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山おろしの風 (後醍醐天皇)

> 花に見し野辺の千草は霜おきておなじ枯葉となりにけらしも (後村上天皇)

こういう歌はやはり京都では出てこないと思うのよね。

> みむろ山ふかき谷さへ埋もれて浅くなるまで散る木の葉かな (最恵法親王)

こういう歌はやはり吉野山の実際の景色を見ないと出てこないと思うんだな。

> 聞くたびにおどろかされて寝ぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな (後村上天皇)

> 木の葉降りしぐるる雲の立ち迷ふ山の端みれば冬は来にけり (後村上天皇)

> 夜やさむき時雨やしげきあかつきの寝覚めぞ冬のはじめなりける (後村上天皇)

> 返歌: いにしへの吉野の宮の宮人の歌を偲べば寒さまされり

新葉和歌集・ほととぎす

南朝の親王たち(宗良親王以外はたぶん若い)が、ほととぎすの鳴く声を聞きたくて大騒ぎしている。
誰かが聞いたとか、今日は初音かとか、聞いたけど一声だけだったとか、
鶏みたいにもっとたくさん鳴けばいいのにとか、
けっこうおもしろい。

> ひと声も小塩の山のほととぎす神代もかくやつれなかりけむ (懐邦親王)

> ほのかなる一声なれどほととぎすまた聞く人のあらばたのまむ (守永親王)

> ほととぎす鳴きつと語る人しあれば今日を初音といかが頼まむ (尊良親王)

> よそにはや鳴くとは聞きつ今はよも待つ夜かさねじ山ほととぎす (泰成親王)

> ほのかなる寝覚めの空のほととぎすそれとも聞かじ待つ身ならずば (長慶天皇)

> 今更に我に惜しむなほととぎす六十あまりの古声ぞかし (宗良親王)

> 八声鳴け寝覚めの空のほととぎすゆふつけ鳥のおなじたぐひに (宗良親王)

新古今 摂政太政大臣

新古今に摂政太政大臣と出るのは誰か、よくわからんので、
いろいろ調べてみたのだが、
たぶん九条良経だと思うのだが、実に面倒くさい。
こういうことこそきちんと校訂してほしい。

追記。よく見たら新古今冒頭の歌にだけ、摂政太政大臣良経と書いてあった。やれやれ。これは本文なのか注釈なのかどっちかね。
やはり最初に出てくる式子内親王の歌にだけ、わざわざ「後白河院皇女」と注記してあるのを見ると、もともとそうなっているのかもしれん。

新葉和歌集に出てくる「京極贈左大臣」に至っては岩波文庫版の作者索引を見ても、誰のことだかさっぱりわからない。
「京極」と呼ばれた人で、南朝から「左大臣」を追贈されたことはわかる。
でもそれに該当する人が誰なのかさっぱりわからない。誰なんだよ。
もしかするともしかして京極中納言・藤原定家のことかもしれんと思ったが、歌の傾向があまりにも違いすぎる。たぶん南朝の人。

新葉和歌集・砧の音

都人らには、田舎の砧を打つ音が珍しかったらしい。

> 都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く (宗良親王)

> 里人の袖に重ねておく霜の寒きにつけて打つ衣かな (前内大臣隆)

> 聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声 (後醍醐天皇)

> おしなべて夜寒に秋やなりぬらむ里をもわかず打つ衣かな (泰成親王)

> 聞きなるる契りもつらし衣うつ民のふせ屋に軒をならべて (尊良親王)

> 寝覚めして夜寒を侘ぶる人もあらば聞けとやしづが衣打つらむ (京極贈左大臣) 

参考:

> から衣うつ声きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな (紀貫之)

> 里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ (九条良経)

> み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり (飛鳥井雅経)

新勅撰和歌集・岩波文庫版

戦後の版だけあって校訂・解題ともに至れりつくせり。

歌は、なんとも退屈で眠くなる。

藤原定家一人で選定していて、勅撰を指示した後堀河上皇も完成前に死去しており、
いったいぜんたいどういう目的でどういう基準で選んだのか。
ていうか、「新勅撰」という名前がまるでやる気を感じない。
定家の晩年の趣味を反映しているというが、単にやる気がなかっただけなんじゃないのか。

新古今と新勅撰の間には承久の乱があったわけで、
新古今は狭いながらも活発なコミュニティに属するさまざまなタイプの歌人らが、
好き勝手に歌いたいうたを歌っている。
しかし、新勅撰はまるでお通夜のようだ。

解題に言う、「必ずしも無気力蕪雑な集として、一概に軽視すべきでないように思われる」と。
つまり、一般にはやはり新勅撰は「無気力蕪雑な集」だと思われていたわけだ。

> あきこそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへもとぢよつたのもみぢば 式子内親王

やはりかなり屈折した歌。
どこかスナックのママが言ってもおかしくないセリフ。
飽き(秋とかける)てしまったのだろう。人は尋ねてこない。松(待つとかける)の戸を何重にも閉じてくれ、蔦のもみじ葉よ。
という歌。
引きこもりの歌。
やはりこの人はあまり人付き合いはうまくなかったのではないか。
定家の趣味とはやはりかなり離れているように思うが。

> 夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたた寝 式子内親王(続古今)

やはりこの人は寝ている。
一人で寝ているイメージしかわいてこない。

追記: 読んでるとじわじわ面白くなってくる。

治天2

いろいろ検索してみたが、平家物語には出てこない。
吾妻鏡にも出てこない。
玉葉はデジタルデータが(一部しか)ないので検索できない。

源平盛衰記には何ヶ所か出てくる。

> (後白河)法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。

これはつまり後白河天皇の治世(在位)がわずか三年だったという意味であり、上皇とか法皇の意味はない。
また以仁王から頼朝への令旨に

> 未至即位、而清盛入道、以一旦冥怪、令治天下、誇非分権威、

などとあるがこれはつまり以仁王が未だ即位してないうちに清盛が勝手に政治を行った、と読める、たぶん当たってると思うがよくわからん。

> 我与皇恩、以東北武勢、何不治天下哉、

これは以仁王の皇恩と関東・北陸の武力を合わせればどうして天下を治めないことがあろうか、と読める。
治承四年の冬、坂東に何者かの落書ありとて、

> 此叛逆絶古今、前代未聞之処、若称院宣、若号令旨、恣下行之、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、

院宣と称し、または令旨と号し、誰の治世と言い、どの院の宣旨なのか、これみな自由勝手に宣旨を出している、と読める。
他にも枚挙にいとまないが、どれもただ単に「治世」「天下を治める」という意味に使ってあるだけで、
院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。

愚管抄に出てくるのは二ヶ所のみ。

> 黄帝求仏道避位如脱云々。
國王ノ治天下ノ年ヲ取コトハ。受禅ノ年ヲ弃テ次年ヨリ取ナリ。踰年法ナリ。

中国古代の話。

> 雄略ナド王孫モツヅカズ。又子孫ヲモトメナドシテ。ソノノチ仏法ワタリナドシテ。
國王バカリハ治天下相応シガタクテ。
聖徳太子東宮ニハ立ナガラ。推古天皇女帝ニテ卅六年ヲサメヲハシマシテ。

推古天皇の時代には天皇だけでは天下を治められないので聖徳太子が摂政したという話。

やはり院政とかいわゆる「治天の君」という意味に使われているのではない。
まだ確実ではないが、
承久の乱以前の、後白河法皇の時代までは、
「治天」は単に「治世」「在位」という一般的な意味に、また、
「治天下」は単に天下を治める、特に天皇に即位する、在位している、
という一般的な意味に使われている。
幼帝に代わって天下を治める(つまり事実上の家督相続者、院政)というある特定の用例はない。
「治天下」を武士政権の「傀儡」という意味に使った例は太平記にはある(承久の乱以後の、後鳥羽上皇の時代)。
しかし、必ずしも「院政」を意味しない。
単に武家にとって天皇よりは上皇が傀儡になりやすかった、或いは他に適当な人がいなかったということだろう。
なので、「治天の君」を「武家がその都合によって天皇に擁立しようとする幼少の皇族の父または母」と言った方がわかりやすいのではないか。
上皇でないケースすらあるわけだし、またその方がずっと緊急避難的かつ実際的である。
子供が天皇になってしまえば、その父親は太上天皇を追号されて、
律令的には天皇と同等な法的効力を持つ
。つまり、院宣を出すことができる。
子供が幼すぎて統治能力がなくともその父親を通して正当な「律令政治」を行うことができる、というわけだ。
ともかく天皇の子でも孫でもまだ幼児でも良いから連れてきて、即位させて、
その親を「治天」と称して、院宣を出させる
ことで権力を正当化できる。
実にえげつない。

もっとも典型的な用法としては、
後堀河天皇に対する後高倉院・守貞親王(承久の乱の戦後処理として、北条義時が)と、
後光厳天皇に対する広義門院・西園寺寧子(北朝再建のため、足利義詮が)
の二例であろう。
この頃には天皇でも皇后でもないのに、天皇の父母であるがゆえに「~院」とか「~門院」という人たちが居る。
紛らわしい。
皇后や門院は皇族とは限らないが、院は親王か元天皇である。

広義門院の場合は単なる皇太后なので律令的にはどうなんだろうか。
しかし、以仁王など親王が令旨を出しただけで天下が乱れることもあったわけだし、
どうでもよいのかもしれない。
ま、ともかく、太上天皇が天皇とほぼ同格の権限を持つことを利用して、
後白河法皇までは天皇家(皇族)がそのシステムを外戚(具体的には藤原氏)の干渉を排除するために利用しようとしたのだが、
後には武家にとって都合の良い政治システムに変容してしまった、ということだろう。
そもそも天皇と上皇と最高権力が二つあって、
それぞれ軍事力を動員する正統性(律令政治的には宣旨を出す権限)を持っていれば当然保元の乱のような軍事衝突が起こる。
当然の帰結。世界史的必然。

信長が自ら治天の君になろうとした、などという言い方に至っては、もう何がなんだかわけわからん。

北条氏も足利氏もそうとうな権威と権力を持っていたが、天皇家に取って代わることはしなかった。
ものすごく姑息な手段を使っても王朝を存続させた。
もし完全に天皇家と独立した政権を立てようとしたら、皇族と称する人たちが全国で令旨を乱発して、
「皇軍」が全国に群がり起こって収拾つかなくなる。
敵側に大義名分を与えることを避けたのだろう。
また、律令制に相当する法律体系を自前で用意しないといけない。
それもまた当時としては非現実的だったのかもしれない。