確定申告

確定申告という名称は、よくわからない。

何が「確定」なのだろうか。

Wikipediaを読んでもわからない。

そのよくわからない感がぐっと来たのでブログのタイトルにしてみた。

まだこんなひねくれた名前のブログは無いようだ。

ま、しかし、税金を多少多めに取っておいて年度末もしくは年末に戻って来る方が、少なめに取られていて追加徴収されるより気持ちは良いわな。取られる額は同じなわけだが。

零戦

なぜか[零戦のDVD](http://www.web-wac.co.jp/video/as_27.html)を買う。
なかなか良いできだ。
中島飛行機製オリジナルの栄エンジンを積んで実機で飛行できる状態のはこれ一台しかないらしい。
エンジンがかかる音がすばらしい。
縁日の発動機や草刈り機に似た軽快な音。
エンジン始動時に一瞬カウルから吹き出す煙もまた良い。
操縦士がコクピットに乗るときの足場の位置とかそれにどのように足をかけて登っていくかなどのディテイル。
実機でなくてはわからない。
エンジン音やら振動やらの臨場感を3DCGで再現しようとすると、
どのくらいの手間ヒマがかかろうか。
気が遠くなる。

なぜかベオウルフ呪われし勇者とか見る。
ファイナルファンタジームービーっぽいフル3DCG。
悪くない。
ときどきムービーの3DCGに嫉妬することがある。
ゲーム用ローポリではこのクオリティは出せないし、
そもそもレンダリングをうちらはやらないから。
3DCGで再現されたアンジェリーナ・ジョリーは笑える。ここが一番の見所だろう。

麗島夢譚

なぜか安彦良和の「麗島夢譚」というマンガを読んだ。
麗島というのは台湾のことらしいが、
処刑された天草四郎は替え玉でオランダ人に台湾のゼーランディア城につれていかれる。
そこにはなぜか宮本武蔵がいる。
当時の台湾だから当然平戸から鄭成功がやってくる。
なんかもうすげえ。
しかし、「三河物語」とか「王道の狗」のような地味なストーリーの原作では良い味出す安彦良和ではあるが、
「ジャンヌ」とか「神武」とか「ナムジ」などの自由度が大きくて歴史上の英雄を主人公にした途端とんちんかんになってしまう。
「虹色のトロツキー」はけっこう危なかったがなんとかまとまった感じ。
彼が「麗島夢譚」のようなマンガを描きたい気持ちは良くわかる。
しかし、鄭成功と宮本武蔵と天草四郎をどうやって一つのストーリーにまとめるのか。
無茶だろ。
救いは、どうやら、主人公は平戸松浦党の名もない一青年だというところか。

オネアミスの翼

久しぶりにオネアミスの翼を見た。
前見たときとは全然違うところに感動した。
絵がマクロス。
マクロスの作画ですよねこれ。
しかも、人物描いてるのはエヴァンゲリオンと同じ人らしいじゃないですか。
全然作風変わってるじゃん。

割と初めの辺りに機体の後ろにプロペラ付けた戦闘機出てくる。
好きだなあと。
まったくマクロスだなあと思う。
ヒロインの顔がまるでマクロス。

液体酸素をタンクに注入したときタンクの表面が徐々に白く凍っていくところなど芸が細かい。
それが打ち上げられるときに氷の破片になって落ちていくところ。
そこは昔感動したシーンだが今回はそうでもなかった。
記憶は常に現実よりもふくらんでいくのだな。

そうだな。
エヴァンゲリオンを見てから見るといろんなシーンがかぶってくるんだよな。

ま、しかし、ロケットは大陸間弾道ミサイルに使えるからあれだけ軍事予算つぎ込んだわけで、
まるで実用性のないやっかいもののように描かれているのはどうかと思う。
ストーリー設定的にあり得なくね。

ブリトニー

ヨドバシのたまったポイント消化でブリトニーのDVDを買ったのだが、
これがまた、
ハワイのワイキキ海岸でやったライブがほんの少しと、
同時にロケで収録したなんとも言えないテンション低い映像と、
そのほか過去の映像のつぎはぎで、
失敗したなと思ったのだが、
amazonのレビューを見るとみんなまあそこそこの高評価で、
ブリトニーファンとしてはこういうぬるーい映像も見ておきたかったのかしもれんなあ。

ブリトニーのDVDで、
グレイテスト・ヒッツ:マイ・プリロガティヴDVDというのがあるが、
これは私が音楽DVDを買い漁るきっかけとなったものすごく良くできたDVDなんだけど、
すべてがこれと同じクオリティで作られているわけじゃあないと痛感した。

ライブのDVDではラスベガス版があってこちらはもう少しライブ主体で構成されているようだ。
今度はこちらを買ってみるかな。
ていうかamazonのレビューみてから買えよと。
思いつきで買うなよと。

啓蒙挿画日本外史

儒林外史を借りてきた。
がまんして読むとなかなかおもしろい。
主人公は次々と入れ替わるのだが、
その一人で范進という人が書いた論文が、
一度読んでも二度読んでもつまらないが三度読むとたいへんな名文に思えたというくだりがあるのだが、
まさにそんな感じ。
辛抱して何度か読むと少しおもしろくなってくる。

それはそうと儒林外史を借りるとき検索して見つけた大槻東陽著「啓蒙挿画日本外史」
というもの。
明治35年発行(初版は明治20年)。
ネットで検索するとなかなかこれは珍本らしい。
大槻東陽という人は日本外史をいくつか出しているようだ。
「啓蒙日本外史」、「訓蒙日本外史」など。
啓蒙、訓蒙ともに啓蒙という意味で、
中等教育に用いられたらしい。
推測するに、「啓蒙日本外史」なるものがあり、それに挿絵を追加した版なのではないか。
平将門や源為朝らの挿絵がなかなか興味深い。
いわゆる漢文読み下し文、ふりがなと簡単な脚注付き。

外史とは天皇家ではなく武家の歴史だから外史というのかと漠然と理解していたのだが、
それでは儒林外史の外史の意味がわからなくなる。
外史というのは外伝というのと同じで、
正史に対する外史、正伝に対する外伝ということなのだろうけど、
意味合いとしては、本来歴史を編纂する立場にない人が勝手に書いた歴史、
とでもいうことか。
単に「別伝」とか本編から派生したエピソード集とか本編に入りきれない拡張版とか、
そんな使い方もあるようだが。
清朝初期に成立したというから、頼山陽も当然読んでいただろう。

プレスリー

エルビスプレスリーのDVDなど見ると、プレスリーは言われているほどデブではない。
1977年に42才で死んだのだが、1974年くらいまでのビデオでは普通に腹は出ていない。
コルセットで締め上げているのかもしれないが。

で、プレスリーは毎日ドーナツを百個食べて死んだとか、いやハンバーガーだとか、いやスイカを毎日二個食ったから死んだとか、いろいろ言われているが、せいぜい40代前半で、多少食い過ぎたくらいで健康ならば死ぬはずはない。
多少不健康になるかしれんが、40代前半で死ぬというのは相当大変なことだと思う。
50才60才なら糖尿病か何かの合併症で死ぬかもしれんがね。

FMレコパルという雑誌(FMファンとあと週刊FMだっけか、FMをエアチェックするためだけの週刊誌があったというのは今では考えられんなあ)があり、たしか黒鉄ヒロシの漫画でプレスリーが西瓜を毎日二個食ってデブで死んだとかいうのを私は読んでそれを今でも覚えている。
私よりも五歳か十歳上の人もだいたいそれと同じような記憶。
西瓜がドーナツだったりする位の違い。

しかし死ぬ直前に多少デブだったかもしれんが、もう少し長生きすればダイエットしてやせたかもしれんのに、たまたま死ぬ直前の数年に太ったからといってあそこまで、デブで死んだとかなんとか言われるのはかわいそうな気がしてならん。

かなりどうでも良いことだがFMレコパルのマンガにはかなり影響を受けた気がする。
メシアンの世の終わりのための四重奏曲などというみょうちくりんな現代音楽をわざわざ聞いたのも、その影響だった気がする。
他にも覚えてないがそうとう影響受けた。
そうそうたしか石森章太郎だった。
Wikipediaにも書いてあるから間違いないわな。
第二次大戦中に牢屋に入れられたときに作曲したんだった。

Wikipediaなど読むとエドサリバンショーではわざと下半身を映さず放送したとか、たしかにプレスリーは下半身が命なんだ。
若い頃の全身が映った映像は確かに衝撃的。

でもそれを言うとベリーダンスはどうなんだという話になる。ベリーダンスは太鼓の伴奏とシンクロして胸と腹と腰を別々に揺らすからすごい。ただ腰だけ揺らすのはフラダンスだってやってる。

ピノキオ

ディズニーのピノキオとかファンタジアなんてのは著作権切れてるのかな。
ピノキオ見ると、
どう見ても現代の3DCG映画に見える。
当時の状況を考えれば、すべてのキャラクターにいちいち実物模型を使ってそれを人が目で見て平面に描いているとしか思えない。
ものすごい立体感というか3D感があるな。
おそらくディズニーのことだから圧倒的物量と大勢の優秀な人材でもってちからわざで作り上げたのに違いない。
おそろしいことだ。
こういうのがあったからアメリカ映画はすんなりとトイストーリーのような3DCGアニメに移行していけたのだろう。
というかアメリカにしかこういう伝統はないのかもしれない。
コンピュータというものがない時代から、人海戦術である程度のクオリティのものを作れることを証明するというやり方はアメリカしかやらない。
ヨーロッパはそんなアポロ計画みたいなことはしない。
ヨーロッパアニメのルーツは影絵か切り絵か砂絵かまあそのたぐいでしょう。
日本の場合は漫画か浮世絵だしな。

以前にも書いたかもしれんが、
プロダクトデザインだと2Dと3Dは別の人が担当して、
2D担当と3D担当の共同制作のような形で作品ができあがるらしい。
2Dだけでできあがるグラフィックデザインとの根本的な違いはそこらしい。
2Dというのは直感的感覚的に、まあ好きな絵を描ければそれでおしまいだけど、
3Dは2Dから与えられた設定資料というかラフスケッチから実物をこしらえなくてはならない。
いきおい、2D屋さんがプロデューサとか企画を担当し、
3D屋さんが技術職を担当することになる。
そういう緊張関係が生まれる。
映像産業のプロデューサとディレクタの関係に似ている。

最初から3DCGしかやってこなかった人は、
そういう2Dの世界も知らんし、
2Dと3Dの間の共同と対立の関係も知らん。
ただ、2Dの人たちが3Dのことを知ってるとも思えない。
多くの有意義ではあるが不幸な問題がそこから生まれてくる。
3Dの人がプロデュースや企画をやるということは、めったにない。
それでいいのかという気もする。

山といへば川

丸谷才一の「山といへば川」という文庫本の最初に「後朝」という文章が載っていて、
「源氏物語は古今、後撰、拾遺の和歌をふまえて書かれた」と言い、
「驚嘆に値するのは当時の上流階級がみなこれらの古歌をただちに連想できた」のであり、
「呆れるばかりの教養だった」と言っている。

確かに古歌と言えば古歌ではあろうが、
時間の流れがゆっくりだった当時としては、
比較的最近の流行歌くらいのものだったのではないか。
というか、出版もなければ放送もない当時としては、
すぐれた歌をまとまった分量集めてくるだけであっという間に百年は経つだろう。
今でも、ガンダムのセリフを全部そらんずるくらいのオタクはいくらでもいる。
歌謡曲やJ-POPなるものの歌詞を暗唱しカラオケで歌えるくらいのものはたくさんいる。
娯楽にしろ学問にしろ何もかも限られていた当時、「古今」「後撰」「拾遺」の歌を全部覚えていたって全然不思議じゃないじゃないか。

しかも「含蓄、余韻、ほのめかし、余白、などといふ抑制と沈黙の技法はわれわれの文明の基本の型、生活の特徴的な様式になっている」
などと結論づけているのだが、
源氏物語は当時としてはもっと世俗的な、風俗小説かパロディー小説のたぐいだったのではないか。
今の漫画やアニメと同じく。
古くてよくわからんから、含蓄だとか隠喩のように思えるだけなのではないか。
たとえば同人漫画などは読んでもよくわからんが、これをほのめかしなどとは言わないだろう。
わかる人にはわかる身内ネタというだけのことだろう。