アメリカは本当に利下げをするのか

このままアメリカの失業率がどんどん増えていくとする。アメリカは企業も銀行も個人もみんな借金をして金を作っているから、つまり、株を現物でなく信用取引しているようなものなので、失業者は借金が払えず破産する。破産する人が増えれば銀行が倒産する。企業は信用が縮小してものが売れなくなるから不況になる。

だからアメリカは失業者をこれ以上増やさないために利下げをするのか。

消費者も企業も銀行も、いくら借金をしても国が金利を下げてくれて救ってくれるに違いないとたかをくくってさらに借金をする。その連鎖が今のアメリカなわけで、アメリカ中央銀行はここらでちょっとお灸をすえなきゃならんと思い始めているかもしれない。今まで中央銀行は警告を無視して借金し続けるアメリカ人らに煮え湯を飲まされてきたのだ。

もし失業率が増えても金利を下げなければ、借金体質の個人や銀行や企業は市場から淘汰される。残った人々も、怖くて借金をできなくなるかもしれない。問題は後先考えず、政府や中央銀行に頼り切ってどんどん借金する連中が悪いのかもしれない。そこをちょっと是正するためにしばらく金利を据え置いてやろうかなーと考えているのではなかろうか。

いずれにしても、失業率が上がったから利下げしますではこれまでと同じことを繰り返すだけなので、利下げするふりをして実はしませーん、利下げするけどちょっとしかしませんみたいなことはやってくるかもしれない。アメリカもいつまでもいつまでも貧乏なくせに贅沢ばかりしたがる弱者を救済しないのではないかという話。

画家

日本の画家でエッセイもたくさん書いて残した人は、岡本太郎と岸田劉生の二人くらいしかいないと思う。画家でエッセイを書く人は多いがたいていは画家が自分のアートについて熱く語っているというだけのもので、その文章の内容や質というものは、文芸作品としても、或いは芸術論としても、取るに足りないものが多いと思う。文芸、ではなくてアートしての文章というものはあるのかもしれない。なので、文芸ではないがアート的な何かという意味での文章を書く画家は、少なくはないと思う。

それで、岡本太郎の書いたものを少しまとまった分量読もうと思って読んでみたが、やはりこれもまた、芸術家が自分の作品について、或いは芸術というものについて、熱く語っているというたぐいのものであって、結局、岡本太郎は芸術作品で評価される人であり、たまたまそういう大家が書いた文章だから珍重されているに過ぎない、という程度のものだと思うのだ。

まったく同じことは逆にも言えて、たとえば小説家として、詩人として、或いは評論家として評価の高い人がいて、その人がたまたま絵を描くのも好きで、まあそれなりにうまかったとしても、結局その人は絵で評価されたわけではない。この例としては正岡子規あたりを挙げることができようか。

だが、岸田劉生は違う。彼は絵も描いたし、文章も良い。彼よりも文章のうまい人は、文人にもそうはいないと思う。岸田劉生は詩人になろうか画家になろうか迷って、画家として認められたから画家になったが、文章も書こうと思えば書けた人だし、彼の芸術論は一味違う。だから彼がもう少し長生きして、絵を描くのに飽きて文章も書くようになったら、評論にせよ、詩にせよ、小説にせよ、すごいものを書いたのではないかという気がする。少なくとも岡本太郎とは全然違うし、その他の画家とはなおさら違う。だがそのことを指摘している人は皆無だと思う。

芸術論に関しても、岡倉天心や柳宗悦などより岸田劉生が上だと思う。岸田劉生は油絵も描いたが南画も描いた。日本画と洋画の比較論など極めて貴重だと思う。

追記。なぜか最近この記事がよく読まれているようだが、おなじようなこと(岸田劉生全集)をすでに書いていたのでリンクしておく。

日本画批判についてはとりあえず想像と装飾の美 それを持つ特殊の個性によって生かさるべしを読めばよかろうと思う。

ストゥーパ

ユーチューブで、インドにはなぜ高層建築物が無いのかという話をしていたのだが、金が無いから建てないのだというのだが、金ならそこそこはあるだろう。たしかにインドの都市は低い建物がごちゃごちゃ並んでいる感じがある。

発展途上国でもインドネシアやマレーシアには高層建築がある。北朝鮮にも分不相応な高層建築がある。中国も高層建築めちゃめちゃ好きで上海タワーなどいくらでも建てている。ドバイも必然性があってああいう高い建物を建てているとは思えない。やはりインド人は、高い建物を建てることに執着心が無い、ということではなかろうか。

インドの高層建築といえばストゥーパだが、これは明らかに墓である。そしてそんなにめちゃくちゃ高いものはない。インドでは高い建物は墓を連想するから建てないのではなかろうか。

ストゥーパから卒塔婆となり、そこから塔だけが残って、日本ではああいうものを塔というようになった。

生きているのがめんどくさい

最近

むそとせを あがきあらがひ 生き尽くし あとは死ぬほか なしと思へど

生き急ぎ いそとせあまり ここのとせ むそぢをまへに 生き飽きにけり

うまき酒 飲めど飲まねど うまき飯 食へど食はねど 人は皆死ぬ

などという歌を詠んだりしたのだが、一つは一年かけて書いた本が脱稿して、60才を前にして、この世に書き残しておくべきものは書いたという達成感と虚脱感がある。明治天皇も59才で死んだのだが、彼は彼なりに59年間で良い歌をたくさん残した。樋口一葉、正岡子規、中島敦はもっと短命だったし、頼山陽や夏目漱石も決して長寿だったとは言えない。この先長生きしても酒を飲んで飯を食って死ぬのを待つだけで、生きている理由がほとんど見いだせない。

あともう一つ、またアブレーションの手術を来年2月頃に受けなくてはならなそうで、それでいい加減気分がよろしくない。46才の頃から何度も入院や手術を繰り返し、ICD交換とかアブレーションというのは緊急性があるわけではなく、数年おきのメンテナンスみたいなものではあるのだが、それでもこんなに病院通いが続くともう生きているのがめんどくさくていやになる。

あとさらにもう一つ付け加えるなら、年を取ると何をやっても面白くない。昔は酒を飲んで飯を食うだけで楽しかった。30代半ばは何をやっても楽しかった。二日酔いなんてしょっちゅうだったが、全然平気だった。今は酔いが残るのがめんどくさい。酒を飲んでいる途中はよいとして飲み終わってから翌朝まで、血の中にアルコールが残っている状態が不快だ。その不快さを逃れるためには酒をごく少量飲むか、あるいはいっそのこと飲まないほうがましという気になる。

ただ30才の頃の私には私なりにいろんな不満があっただろうし、今の私にはあの頃にはなかった平穏な日常があるのも事実。私の周りの人たちにきいても、別に60過ぎたから人生がめんどくさいとかつまらないなんて言う人はいない。たぶん気の持ち方次第なんだろうけど。ユーチューブで牛の牧場の動画などみると、こいつらみんな肉になるために水飲んで草食って生きてるんだなあという気持ちでしかみれない。

金と時間が有り余るほどあって仕事もしなくて良い身分なら日本中のアパホテルを泊まり歩こうかなんて考えてたこともあったが、そんなことしてもたぶん大して面白くはないんだろうなと思う。高級旅館とか高級料亭なんかに行きたいとも思わない。温泉も別にどうでも良い。しばらく浅草あたりとか、大阪とか京都なんかに住みたいなと今でも思わんこともないが、しかしそんなことしなくて死んだとしてもたぶん何も悔いはないと思う。

実際、1年かけて20万字くらいの本を書くとどっと疲れてしまう。20万字というが実際には50万字くらい書いて削って足して削って足して、20万字程度に抑えているのだ。そんなこんなを2度も3度もやってはたまらないという気になる。もうゆっくり余生を送りたい、そんな気になってもしょうがあるまい。

エウメネスに至っては現時点で全部で50万字は軽くあって、あれを死ぬ前に完結させて(完結はしてるんだが自分の納得できる形に完成させて)紙の本でだしておこうとおもったらどれほどたいへんだろうか。どこも出版社がのってこなくても KDPのペーパーバックで出すことはできる。それに特に費用はかからないから、やろうという計画はあるのだけど。なんだかんだいってあれが結局私の代表作なのだよな(少なくとも小説は)。

youtube

私がyoutubeを使い始めたのはもう11年ほど前のことで、家にあった8mmのフィルムをVHSにダビングしてあったものを、miniDVにさらにダビングして、それをデジタル化したものをmp4かなんかにして、それはもうだいぶ前のことで、たぶん 1998年とかそれくらいにその作業をしたんだけど、それを 11年ばかり前に youtubeに公開したのが始まりなんだが、それよりか前にその動画は自分のウェブサイトかなんかで公開してたんだよね。

今はもうテレビに出てるタレントなんかもみんなyoutubeで収益化とかやってて、私がやってるチャンネルは2つあるんだが、どちらも登録者は700人くらい。

真面目にやればもう少し増えるかもしれない。要するに、再生時間を稼げるような動画をせっせと毎日作ればいいんだろ。できなくはないと思うが、やるとしても定年退職後のことかな。動画編集は自分で普通にできるしできる範囲でやれば良いと思っている。儲けたいというよりは、定年後何もすることがなくて退屈しないように。ユーチューブも今と昔ではずいぶんと変わったよなあ。そこいくと wordpress は基本的にはなんも変わってないかもしれんな。

最終〆切

今書いている本は去年の今頃に話が出て、1か月くらいで書いたものをさらに1年くらい推敲してきたもので、ほんとに出版してくれるのかどうか半信半疑ながらも、紙の本で出せなきゃ KDP で出せばいいやというくらいの気楽な気持ちで、ともかく自分がどこまでモノを書けるのかという限界を見極めようというようなつもりで、文章の密度と完成度を高めてきた。

これは要するに、虚構の歌人藤原定家や、読めば読むほどわからなくなる本居宣長の延長線上にあるものなのだが、今回は単著実名で出す初めての本となる。もちろんそんなに出したきゃ自費出版でもなんでもよかったわけだが、今後また本を書く機会があるかどうかはともかくとして59年の人生を締めくくる内容になっている、私という人間がこの世に残していく記念碑となる本になると思っている。

おそらくどんなに遅れても年内には出るだろう。そろそろ脱稿しないとメンタルがもたない。というか今日がその最終〆切のつもりなのだが。31字の和歌を詠むのと同じ気合で20万字の文章を書くのは物理的に、分量的に不可能だ。しかし推敲に1年かければそれに近いことはできる。できるけれども精神的負担はものすごくでかい。今はもうしばらく休みたい。しかし生きるということ自体メンタルがもたなくなってきている。仕事もそうだし持病もそうだし、年を取ると飯を食うにも酒を飲むにしても、何もかも面白くなくなる。書くと言うことも今回やりつくした感があって、しばらくやりたくない気分だ。

いまさら何か新しいことに手を出してあれこれ試行錯誤しても、人生あと20年で終わるんかと思えば、腰を据えてやる気にもならんし、今までやってきたことを整理するだけであと20年くらいはあっという間に過ぎるのではないかと思っている。

読めば読むほどわからなくなる本居宣長で書きたかったことはほぼ書いたと思う。宣長の本ではないので、宣長についてまだ全然まとめておきたいことはあるんだけど、宣長単独の本なんて誰も読まない(というか理解できない)ってことはわかりきっているんで、書きたいことは書いたからいいやと思っている。今回樋口一葉についてもかなり書いたんだが、これまた、じゃあ樋口一葉で一冊書くかといわれると、とにかく今は疲れていて、当分考えたくもないというか、本を書くためにあれこれ読んだり、これ以上勉強するのがおっくうになってる。とにかく本を書くのに疲れた。

バブル

まだまだ上がるアメリカ株という記事を以前に書いたのだが、雇用統計も悪く失業者は増え、貧乏人はどんどん借金漬けになって行き、物価も高止まりして上がることはあっても下がることはないのだが、株価は相変わらず上がっている。

つまり株を買うような連中は別に何にも困ってなくて逆にますます収入があって、余った金を投資しなきゃならないからさらに株を買う、という循環になっているのではないか。ここで慌ててブレーキをかけて金融引き締めしたり利下げしたりすると景気が冷え込む。そうした政府の政策のせいでリセッションが起こる。逆に、貧乏人を犠牲にしてますます借金漬けにして景気を過熱させれば、最悪でもソフトランディングで済む、とアメリカ政府は考えているのではなかろうか。経験則で言えばそういう結論にならざるを得ないだろう。

国民全体の福祉とか考えちゃいない。日々の生活にも困る路上生活者があふれてもかまわない。格差社会になっても構わない。それよりか、ともかく景気を冷やすのが一番悪手である。すがすがしいまでにそう開き直っているようにみえる。アメリカって結局、一部の軍事産業か国際企業ががーっと儲けて、貧民はそのおこぼれで生きていく、という社会なんだろう。

景気を冷やさないためには治安が悪化しようとかまわずどんどん移民を受け入れ、貧乏人に借金させなきゃならない。なに、アメリカの一部がスラム化しても全体として健全ならそれでいい。もちろん金持ちも借金しまくって、キャリートレードで利ザヤを稼げばそれで良い。経済を回すには借金しかない。アメリカ人はみんなそう思ってるフシがある。明らかにバブルなんだが、これまでいろんなバブルを経験して、日本のバブルも観察して、中国のバブルも観察して、それで自分たちだけはうまく立ち回れると思っているのではなかろうか。

つまりアメリカはついにバブルをつぶさないコツをつかんだのかもしれない。それは、いくら失業者が増えようと、景気が落ち込まない限りにおいては、貧乏人にはどんどん借金をさせ、破産させ、会社は倒産させる。そうすれば金持ちは安心してどんどん借金して株や不動産を買って、運用するから社会は回っていく。日本みたいに総量規制なんかして急ブレーキを踏むからいけない。ブレーキは絶対踏んではいけない。それが国家経営の極意なのだ。

自民党

自民党が派閥解消して総裁選をやり、パーティー券を売るのもやめるという。これはもはや自民党とは言えないのではないか。自民党はもともと連立政権が一つの政党になったもので、政党内政党、つまり派閥を持つことを前提として成り立っている政党だったはずだ。麻生が派閥を肯定したのは当然だ。しかし岸田は派閥をぶっ壊して逃げた。

派閥無しでガチンコで総裁を選んで総理大臣を出したとして、その総裁のもとに自民党がまとまるという保証はあるのか。

政党政治というものはもともと派閥政治である。派閥を否定するのであれば、自民党は普通の政党の集合体になるしかないのではないか。

私は今みたいな寄り合い所帯が長期独裁政権を続けるよりは、派閥ごとに政党を組み、場合によってそれらのいくつかが連立政権を立てる、というやり方のほうが良いと思う。岸田はそこまでの考えがあって今回の挙に出たのだろうか。

自民党は長く続きすぎてあまりにもつまらなくなった。ネトウヨ政党はちょっと面白いだけでまるでまとまりがなく、政党をどうやって運営していくかということがまったく手についてない。そろそろまともな政党が出てきてほしいものだが、どうなることか。

たけくらべ

樋口一葉のたけくらべとか幸田露伴と森鴎外がたけくらべを批評した「三人冗語」などを読んでいるのだが、確かにたけくらべは面白いといえば面白いのだが、最近はこういう、いわゆるジュヴナイルな小説というものはいくらでもあるので、当時どのくらい珍しくて新鮮な衝撃だったかというのがわからない。

話はおそらくは逆で、樋口一葉のたけくらべから、筒井康隆のジュヴナイル小説やら少女漫画などが生まれてきて、感覚がマヒしてしまっていて、それで今たけくらべを見ても何も目新しさを感じないのだと思う。あとやはり文体が古すぎるのも現代人にピンとこない要因だ。

樋口一葉研究の第一人者と言われる塩田良平の解説なども読んだのだが、なんだか異様に決めつけが多いように思う。半井桃水と一葉の関係とか、なんとかかんとか。

ピッチアクセント

ゆうだい先生の「ピッチアクセント」の動画を見たのだが、日本語にはもともとアクセントとかイントネーションというものがなかったのだが、なぜか平安時代の京都にいきなりピッチアクセントというものが生まれて、それが日本各地に広まっていったのだという。

思うに、平安時代かあるいは奈良時代の後期に、中国語の四声というものが、漢字の音読みとともに日本に渡ってきたのではなかろうか。最初の頃は漢字の四声も含めて律儀に発音していて、それがじんわり大和言葉の発音にも影響を与えて、つまり、漢語と大和言葉を混ぜて話しているうちに全体にアクセントというものができてしまったのではないか。

アクセントのあるしゃべり方をしていたのはおそらく日本人ではなく、百済人などの渡来人だったのではないか。そのうちに漢字の四声は忘れられ、日本語のピッチアクセントだけが残った、というのはどうだろうか。