ポントスとボスポロス

[へレースポントス](/?p=14070)にポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、
昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。
またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。
イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

> ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

> bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。
英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。
またケルソネソスという言い方もある。
c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

貫之と定家

知り合いに[大塚英志](/?p=13903)についてこないだブログに書いたでしょとか言われて、
最近たくさん書き散らしているのですっかり忘れていたが、
たしかにそんな人の話を書いた。
その知り合いというのは私の話の中にもちょくちょくモデルとして出てくる。
直接そのまんまではなくて、
彼のパーソナリティの一部がある人物のパーソナリティの一部として使われていたりする。
そんで彼といろいろ話をしたのだが、
私はkindleで旧作を含めて割とたくさん数を出している方だと思う。
また、ジャンルも割とあれこれ試しに書いてみて、1年経ってみて、
彼の話など聞きながら客観的に分析してみたのだが、
やはり、小説というのは売れるのはラノベである。
中学卒業高校受験くらいの知識で読めるものがストライクゾーンである。
大学受験だと難しすぎる(源氏物語を原文で読めるやつなんていないし、
今年のセンター試験の問題とかあり得ない(笑))。

蘊蓄本や解説本、歴史小説を書くのはよい、
本を読むことで中学か高校で昔習ったなというような曖昧な知識を掘り返して知識欲を満たしてくれるような本は売れるが、それより難しい本は、要するに売れないと。

そこでまあ聞いてみたのだが、
では、
紀貫之と藤原定家はどちらが有名か、
というと、紀貫之の方がずっと有名らしい。
でも定家は小倉百人一首とか作ったよね、とかいうとそれはそうだが、
紀貫之は古今集と土佐日記でそっちが有名だ、ということになるらしい。
そう言われればそうなんだが、
ずっと和歌のことを調べていると、なんだか紀貫之より藤原定家の方がずっと重要な気がしてくる。
世間一般の感覚がわからなくなる。

西行とか和泉式部はすごい歌人なんだが、たぶん世間一般でいうと、
ものすごくマイナーなんだよね。
そういうところいくら書いても売れない。
本屋とか図書館にいくらそういう本が並んでたしても、たぶん売れてない。

一人で書いて一人で売るということはDTPみたいなもんであって、
一人の人間が作家となり編集となり営業をこなさなくてはならないのだが、
それはけっこう難しい。

で、うちのブログとかみてると吉田松陰で見にくる人が割といる。
じゃ吉田松陰で書けばどうかと言うと、
吉田松陰なんて誰も知らないよと。
そこで、
坂本龍馬ならみんな知ってるけど、龍馬の和歌なんてみんな松陰のまねだよ、というと、
なら松陰と龍馬という本かけば売れるんじゃないかという話になり、まあそうかもしれんねと思う。
「[龍馬を斬る](/?p=6694)」みたいな本書いてみたいが、
ブログに書いたネタかき集めただけですでに本になりそうではある。
もしかしたら売れるかもしれんが、いろんなところから怒られそうで怖い、正直な話。
龍馬が新葉集の影響を受けているというのは、まああり得ない。
新葉集なら私はよく知ってる。
宗良親王の話(「将軍放浪記」)も書いたし。
龍馬の歌とは何の関係もないと思う。
みんな新葉集も宗良親王も知らんでよく言うわと思う。

あるいは貫之と定家とか。
そういう本書けば売れるんじゃないか。
そういう売れ筋の本をいくつか書いておけば私の売れない本もついでに読んでくれるかもしれん。

女子校と男子校が毎年正月に百人一首のカルタ取りの勝負をする、
そこで百人一首の歌を一つずつ紹介する、というラノベ書いたら売れるんじゃないかという話になり、
そういうマンガすでにある、「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくて「ちはやふる」
ってやつらしい。
全然しらんがたぶん私が書こうと言ってるやつとはあまりネタはかぶってないだろう。

> ちはやふる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

業平か。
業平ネタならいくらでも書けそうな気がする(もう書いたけど)。
「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくてなぜ「ちはやふる」というタイトルにしたかということは別に深い意味はないのだろう。
「ちはやふる」が一番タイトルにふさわしかった、ただそれだけだ。

で、「古今和歌集の真相」は私の意に反して割と人気があったんだが、
彼もおもしろかったという。
難しくなかったかというとまあ読めたという。
彼は和歌も日本史も普通レベルだと思う。
どうも知らずに自分の得意分野でかつストライクゾーンなものを書いていたらしい。
「将軍家の仲人」とどっちがおもしろいかというと、
新井白石とかおもしろくないですよとか言われる。
大塩平八郎(「巨鐘を撞く者」のこと)は有名だろというと、
たしかに有名だがあまり興味ないという。
なんかいろいろ売れない方向にこれまで努力を重ねていたらしい。
企画会議は重要だ。

で、「古今和歌集」のどこがおもしろかったかというと、なんとなく全体的にだという。
本読んでしばらくたてばそんなものかもしれんがそれではわからんからと根掘り葉掘り具体的にどこがおもしろかったのかと聞くと、どうも藤原高子のどろどろした話とかがおもしろかったらしい。

そうなんだよね、たぶん。
読んだ後にああおもしろかったと思わせることは重要だと思うよ。

それで「百人一首」は短いからもう腐るほど解説本はあるんだが、
私なりに書いてみる価値はあるかなとすこし思い始めた。
あーそういえば丸谷才一も書いてたなあ。
このブログでは割と丸谷才一の批評とかしてて、
「古今和歌集」にも書いてたりするんだが、
丸谷才一論とか書いても誰も読まないよね。

実は俵万智はすごい歌人だと私は思っていて、
以前にも[プーさんの鼻](/?p=4366)とか書いてるんだが、
「ほんとはすごい俵万智」なんて本書いたら売れるんじゃないかとかどきどきするんだが、
同世代のまだ生きている人の評論なんて書くと怒られるんじゃないかと思って書けない。
俵万智は不倫からシングルマザーに突っ走った彼女の生き様がおもしろい。
それを赤裸々に歌にしてるところが彼女の歌のすごさなんだが、
単に現代語で和歌を詠んだひとくらいにしか思われてない。
そこを敢えて書いてみるのもおもしろいかもしれない。

現代歌人の評論なんて書ける人はいないよ、私以外は(笑)

1185か1192か

1185年は平氏が滅んだ年である。奥州藤原氏はまだ滅んでいない。
義経もまだ討たれてない。
諸国惣追捕使とか守護とか地頭とかいうのは必ずしも1185年に始まって、また、
この年に確立したとも言えない。
どちらかと言えば緊急時の臨時措置とみられていた。
そして鎌倉幕府の軍事力や警察力が確定するのは明らかに承久の乱においてである。

実質的な幕府の成立というのであれば、1221年の承久の乱であるべきであり、
平氏が滅んだ年では結局、説得力としては、源平合戦の域を出ていないのだが、
そもそも源平合戦という言葉が嫌いで、治承・寿永の乱と言い換えたがる学者の方々は、
そんなことで良いんですかと言いたくなる。

[徳川慶喜と勝海舟](/?p=3111)
で書いたのだが、
少なくとも勝海舟は、武家政権というのは、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、
徳川慶喜が大政奉還したときまでだという認識であった。
頼朝三代とその後の宮将軍、室町将軍、徳川将軍というものがつまりは幕府なのである。
武家の棟梁が天皇に征夷大将軍に叙任されることで、オーソライズされている状態、それが幕府。
武士が実質的に政権を掌握している状態を幕府であったとは考えていなかったと思う。

1192という年はただ頼朝が征夷大将軍になったというだけの年ではない。
武士の共通認識、日本人の伝統的な歴史観、
象徴的な意味での鎌倉幕府の始まりはやはり1192でなくてはならない。
1185は根拠としてはかなり脆弱だと思う。
学術的な意味としてなら1221も許せるが。
誰がなんのために1185だなどと言い出したのだろうか。
やはり天皇とか征夷大将軍の権威を認めたがらない人たちではないか。
あるいは江戸時代までの日本人の感覚は古くさいといいたい人たちではなかろうか。

> 鎌倉に もとゐ開きし その末を まろかにむすぶ 今日にもあるかな

> 結ぶうへに いやはりつめし 厚氷 春のめぐみに 融けて跡なき

ついでにいっておけば律令制は天皇を元首として戴く明治政府によって正式に、
正当な手続きを踏んで、新しい制度に置き換えられたのである。
実質的にはすでに嵯峨天皇の時代に破綻していたが、
制度としては完全な形で残っていた。浅野内匠頭とかいう官位官職がそうだ。
徳川幕府の軍事力は別として、その権威は、完全に勅令と律令にオーソライズされる形をとった。
室町幕府をそっくりそのまままねたからだ。

同様に維新政府時代の太政官令、これも正当なものである。

何が実質的(学術的)であり、何が正当な手続きを踏んだものかというのは、
別に考えなくてはならない。
つまり両者を混同するとわけわからなくなる。
或いはわざと混同してわけわからなくしたい連中がいる。

ローマ教皇がなぜいるのかとか神聖ローマ皇帝はなぜローマ教皇に戴冠されなくてはならないのかとか、
東ローマ皇帝はなぜコンスタンティノープル総司教に戴冠されねばならないのかというのと、
同じ問題だ。
オーソライズされない軍事政権は不安定で、どうしても権威付けが必要になってくる。
徳川家が天皇家に依存したのもまさにそこだ。
複数のオーソライズされた政権というのはローマ帝国にはよくあった。
複数の教皇が立てられることもあった。
複数の教皇と複数の皇帝の間で誰が誰をオーソライズするのかというので良く戦争になった。
なんのことはない、日本の歴史と同じだ。

フィクション

でまた小林秀雄ネタなんだが、彼がどこかで、将棋の手を次にどこに打つかというのを、
プロの棋士は時間をかけて考えるのだが、
あれはどこに打とうかと考えているのではない。
どこに打つかというのは最初に直感的にわかっていて、その手が正しいかどうかを、
じっくり時間をかけて考えているのである、
本居宣長の連載が11年半かかったのも、
本居宣長という人がどんなひとかというのは最初から直感的にわかっていたが、
それが正しいかどうかを検証するのに時間を要したからだ、などと言っている。
なんだ結論ありきでつじつまあわせようとしてるだけじゃん、と思われかねない話ではある。

将棋のことはよくわからない。
たぶんそうなんだろう。
フィクションというのは、直感による飛躍があるため、
論文にできない場合に使う手法だと思っている。

たとえばマックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムと資本主義は似てるな、
なんか関係があるのに違いないと着想したが、そのままだと単なる思いつきなんで、
プロテスタンティズムと資本主義の因果関係を立証するために長い長い論文を書いた。
そんなもんかと思う。
でまあ私も小室直樹がマックス・ウェーバーは偉いとか、
社会学上の定説だなどというから、なるほどそうだなと思っていたが、
しかし、所詮は定説、学説であって、真実と言えるほど確かかと言われれば怪しい気がしてきた。
小室直樹もこの年になって読み返すとかなり変なことをいっているし、
マックス・ウェーバーも昔の人なので今から精査するとへんなところがたくさんあるだろう。
大筋では当たっているのかもしれんが、そうではないかもしれんなどと思う。

直感による飛躍を埋める作業が科学だと思っている
(たとえば数学で先に定理があって、それがほんとに定理かどうかを確かめるのが証明。
ええっと。直感とも飛躍とも関係ない研究者がたくさんいるらしいってことはわかっているが、
少なくとも自分にとって)。
完全に埋めないと科学とはいえない。
途中めんどくさくて適当に脚色した結果できるのが小説だと思う。
世の中はすべて理詰めでは片付かない。
世の中、というより自分の頭の中にわいてくる着想のすべてをいちいち証明するには人生は短すぎる。
だからえいやっと小説にしてしまう。
フィクションですよということにする。
しかし、最初からフィクションを書きたいわけではないから、
完全に証明できたら論文として出すだろうし、
99%まで確信が持てたら論説とか論評として出すかもしれない。

また、フィクションで出すときには物語となるような脚色をすることにしている。
あと、直接特定の人物を書くのがはばかられるときにも脚色する。
つまり私の場合、脚色というのは物語を読者に読んでもらうためのテクニックという要素が強い。
私以外の作家の場合には、そこがまさに文芸なのかもしれんが、
私も興が乗ってその部分に凝ることもあるが、
由来から言えばあくまでも表面をコーティングする作業である。
たとえば歴史小説の場合、時系列をわざとばらばらに組み替えたり、特定の人物の描写のディテイルにこだわったりする。
歴史はあんまり淡々と書くとウィキペディアみたいになってしまう。
ウィキペディアでも教科書でもいいといえばいいんだが、
それを物語として読ませるのがたぶん作家の仕事であり、
そこが一種の娯楽の要素であって、
単なる調べ物とは違う。
そこはやはり違わせないといけない。
そうしないと読者は読んでくれない(最近読者というのは表紙と第一章と最後くらいしか実は見てないんじゃないかという疑念がすごくわいてきた。普通の人はざっとしか本に目を通さない。精読するのは二度目に読むときとかほんとに気に入ったときくらい。逆の言い方をすると、序章とか表紙は他の部分より何十倍も気をつかって丁寧に書くべきなのだ)。
ウィキペディアみたいな便利なものが出てくると逆にそれを思う。
不特定多数の人がまとめた記事と、個人の思想と文体で書くものは最後の一線で違うべきだ。
あとまあウィキペディアは、嘘が書かれているというよりも、
相互に矛盾してたり、抜け落ちたりしていることが多いわな。
最後は虚構で補完しなきゃ物語にはならん。

話を戻すと小林秀雄にしろマックス・ウェーバーにしろ小室直樹にしろ、
直感と飛躍は完全に埋まってないと思うし、
自分も飛躍をいちいち完全に埋めるのに貴重な時間を使いたくない気がする。
ていうのもやはり大病を患っていつ死ぬかわからんという気持ちがあるからかもしれん。
単に論文書くのに飽きたからかもしれん。
というのはもともと私は論文を書く人だったからでもある。

塩野七生が書いているのは歴史小説というよりも事実の羅列のような感じ。
部分的に文芸的な箇所もあるようだが、大半はウィキペディアみたいな記述じゃん。
ハンニバル戦記にしても(たとえば、ハンニバルの心理描写とかわざわざ書いてない。書いても良いはずだが。わざと書いてないのかも知れないが。それがスピード感になっていると言えなくもないが、勝手に想像で書いてよいのは作家の特権のはずだ)。
十字軍物語には失望した。
特に第一次十字軍の辺りは全然大したことが書かれてない。
ローマ人の物語の、カエサルが出てくるあたりまではそれなりに楽しめたが、
あとは惰性って感じがするじゃないですか。
まあ、人気の出た作家の連載なんてそんなものかもしれんが。

何が言いたいかというと飛躍や虚構によって真実にぎりぎりまで肉迫するってことはあるなと、
最近自分で書いていて思う。
何本も何本も補助線を引いていき、いくつもいくつも仮定を積み重ねて、
さらに調べていくとそのうちのいくつかは紛れもなく補助線ではなくて本当の線でアリ、
仮定ではなくて事実だとわかる。
だが、逆に仮定が間違っていることにも気づく。
フィクションというのは要するにそういう果てしない検証過程の途中経過、
ベータ版みたいなものな気がしている。

だから好き勝手でたらめをかいてフィクションと言っている(坂本龍馬物とかw)のも、
大して検証もしてないのに論文とかドキュメンタリーとか言ってる(マスコミのニュースとか)のも腹立つわな。

smart tv boxその後

1TBの外付けHDDだとやっぱりあっという間に録画一杯になっちゃいますよ、お客さん。
そんで3TBのHDDを買って来たが、なぜか認識しない。
あれっと思ってもとの1TBのに付け替えてたが、認識しない。
答えは、挿す場所を間違えた。
USBポートは何箇所かあるんだが、その一つしかつながらない。
なんでこんな仕様になってるのかと問い詰めたい。

説明書には1TBから2TBまでのセルフパワーのHDDしか使えませんよと書いてあり、
じゃあ3TB買ってきた私の立場はと思ったがなぜかちゃんと2.7TB認識している。
じゃあ3TBでもふつうに動くんじゃね。
しばらく使ってみる。

あとUSB3.0のセルフパワーのハブは必須。
4台まで同時につなげるので5ポートのハブ買ってくれば良いわね。

そんでまあ、これまではインターネットはbflets使ってたわけだが、
これはインターネット専用線で固定IPだっただけあって安定してた。
smart tv box はテレビと電話とインターネット兼用である。
全部パケット通信なわけだから、インターネット専用線と違わないように思うのだが、
たまにおかしくなる。
テレビの回線もごくたまにおかしくなることがあるがあれの巻き添えなのか。
今年も去年も正月にいきなりCATVが見えなくなることがあった
(正月くらいしかテレビ漬けにならないからでもあるが。ふだんはほとんどテレビ見ないし)。
去年はある特定のチャンネルだけが受信できなくなって電話して一応直してもらった。
今年の正月は朝の11時からいきなり受信できなくなった。
たぶんこれは回線がパンクしてるんだろうな、そうとしか思えん。
昔ADSLとか使ってたときにはときどきつながらなくなってまたつながったりしてた。
固定IPにしてからはほとんどそういうことなくなった。
今はダイナミックアドレスなはずだから、
ときどき切れてるんじゃないかと思うんだ。
そのときIPアドレスの付け替えが発生するから、余計につながってない感があるのじゃなかろうか。
固定IPだと一時的に切れてもそのまんまのアドレスでつながるわけだから、
たまたまパケットがどこかで混雑して届かなかっただけの場合と違いないわな。
専門家でもないのに文句を言うのは怖いから、少しだけこそっと書いてみる。
でもまあルータとか光回線の終端なんてめったにいじらないわけじゃないですか。
でも smart tv box はときどき電源切ったりするわけで、
そのとき一時的にネットもつながらなくなるのは仕方ないよな、ある意味。
我慢して使うしかないんですよ。セットにしたことで出費が減る分は、
文句言えないですよ。

リモコンが使いやすいとは言いがたい。
GUIはまあまあ。
リモコンをタブレットで代用することもできるが大差ない。
アプリの操作性とレスポンスがいまいちなんだなあ。
期待外れだった。
つかゲームコントローラとかで操作できないんですかと言いたい。
リモコンじゃFPSはできないでしょ。
そうねマウスとキーボードでも良いけどさ。
そういう選択肢は欲しいよね。

コレステロール

二ヶ月に一回くらい血液検査を受けているのだが、
ずっとコレステロール値が高いままで、
結構歩いてみたのだが、全然効き目がない。
運動して筋肉つけても、食事でも、体重でもないとすると、
体内で勝手にコレステロールが合成されている状態なわけで、
コレステロールの合成を阻害する薬を飲むしかないんじゃないかと思うのだが、
腹にまだ取れない肉ポーチがついているのは事実なんで、
まずはあと5kg体重を落としてみて、それでダメならもう薬飲ませてもらう。

一日三食規則正しく食事を摂るというのもやってみようかと思う。
とりあえずやれることは全部試してみないとな。

民葉和歌集

またまたタイトルを変えてしまった。
[民葉和歌集](/?page_id=4504)。
なんか民謡みたいで変な感じではあるが、
逆に変に作った感じはなく、誰もまだ使ってないみたいなので、
これでしばらくいくことにする。
[民葉和歌集仮名序](/?page_id=4505)を改めて読んでみても、
タイトルとそんな違和感ない。
「くにたみのよろづのことのは」みたいな。
そもそも「くにたみ」なんてのは古語にはなかったと思う。
幕末になって「国民」という概念が輸入されて、
それを大和言葉に翻訳したものだ。
だから時代精神的には適合している。

これ書いたのはおよそ四年前なんだが、
このころのブログを読み返してみると、
丸谷才一の何かを読んだ後孝明天皇御製集を借りてきて読んだようだ。

そんで孝明天皇が勅撰した御製集があったらどうかということを思いついたようだ。
[架空勅撰和歌集](/?p=4494)。
この頃はすでに小説も書き始めていた(将軍放浪記とか)がまだ主に歌を詠んでいたころ。

ていうか幕末から明治初めに活躍した歌人、
というのは、探せばけっこういる。
八田知則とか井上文雄とか橘曙覧とか。
探すのはそれなりに大変だが。

勅撰集を作るわけだから、
それまでの21代の勅撰集に漏れた古い歌をいれるのはいっこうかまわないわけであり、
それこそ柿本人麻呂とか藤原定家の歌を混ぜてみるのもおもしろい。
いろいろ考えるとそれなりに手間がかかる。
まあゆっくりやることにする。

ときどき自分の歌が混ざっててびっくりする。
もうそんな歌を詠んだことなど忘れてしまっていた。

> 花を見て 浮かるる民を 諫むるか みそぎせよとや 春雨の降る

> 夏衣 着て訪ぬれば 九重に 咲き遅れたる 八重桜かな

なんかへんてこな歌だが、
当時の気分としては孝明天皇に捧げた歌というつもりなのだろう。
ちなみに「夏着して」の歌はゴールデンウィーク頃に皇居東御苑、
つまりかつての江戸城本丸に行ったときに、
[御衣黄](/?p=5747)の花を見て詠んだものなのだが、
実はこの花は、
「将軍家の仲人」の中にも出てきて、
徳川家宣がこの花を見て漢詩を作っているのである。

感御衣黄偶成(御衣黄に感じて偶(たまたま)成る)
足下飇風起(足下(そつか)、飇(ひよう)風(ふう)起こり)
渦流吹石砂(渦(か)流(りゆう)、石砂を吹く)
春天猶静謐(春(しゆん)天(てん)、猶(なほ)静(せい)謐(ひつ)にして)
暫得楽残花(暫(しば)し残花を楽しむを得(え)ん)

もちろん家宣が作ったわけではなく私が勝手に作った詩である。
これはも少し後に心臓をやられて入院中にヒマなので漢詩の勉強を始めてから作ったもの。
小さなつむじかぜが起きて地面に散り敷いた桜の花びらを巻き上げながら、足下を過ぎ去っていったのを見て思いついたものである。
足下の花びらをみたあとに、まだ咲き残っている木の上の花を見上げて対句としたのだが、わかってもらえていただろうか。

一手間かけた

eudokiax

ルネサンス期にイタリアで描かれたヴィーナス像
(ボッティチェッリ作「ヴィーナスの誕生」)では、
アフロディーテーの髪は腰まである長い金髪、瞳は褐色、
ということになっているが、
古代、ギリシャやシリア、フェニキア人の髪の色は褐色か黒、
目の色も黒かったと思う。
大理石の彫像しか残ってないから色はわからんわけだが、
着色されていたらそうなっていたはずだ。

私はエウドキアは黒髪、黒い瞳が似合うと思うんだがどうよ。
なんかインドかペルシャの女王(アラビアンナイトに出てきそうな)みたいだよな。
まそれで合ってるんだが。
或いはこの図像には後光がさしてるから観音様にもみえなくもない。
ふつうの日本人がただこれを見ただけだと何に見えるのか知りたい。

ゴッドファーザーに出てくるアポロニアという女性もほとんど黒髪黒瞳だわな。
[Apollonia Vitelli](http://godfather.wikia.com/wiki/Apollonia_Vitelli)。
シチリアか。名前はギリシャ人っぽいよね。
シチリアだからギリシャ系でも全然おかしくない。

単なるフォトレタッチではなくてほんとは3DCGで挿絵描きたいんだが、
手間がかかりすぎて実現不可能だと思う。

もとのモザイク画は実はゾーエーという別の女帝なんだけどね。

れ+ぬべし

小林秀雄の『西行』を読み返しながらふと気になった。

西行はそこまで一気に清盛に語った。
「おまえはつまり、たった一人の女のために家を捨て、世を捨てた、そういうのか。」
「悪いか。」
「いや、悪くはない。だが、未練はなかったのか。」
「未練か。

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
(未練だと。この世に未練のないはずもない。だから、出家して、未練を断ち切ろうとしたのだ。)

だが、俺ほど未練な男もあるまいよ、たった一人の女にな。おまえは、病を得て気弱になったから出家したといった。俺もまた不治の病に罹ったのだ。十分出家する理由になろう。」

『西行秘伝』の中でわざわざ和歌を現代語訳したのはこの箇所だけなのだが、
つまりはほかの歌はある程度素養があれば現代語訳しなくても意味はわかるがこの歌は難しい。

一番難しいのは「惜しまれぬべき」の解釈である。

この歌は「山家集」には見えず、したがって西行の真作ではない可能性が高い。
「鳥羽院御時、出家のいとま申すとてよみ侍りける」または「鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める」
などの詞書がついているので、鳥羽院のもとへ西行がいとまごいに来て、院から「惜しくないのか」
と尋ねられ、「そのように惜しまれるような私の人生でしょうか」と返事をした、
と解釈するのが正しいらしい。
西行と鳥羽院ならこんなやりとりがあったであろうと後世の人がでっち上げた話であろう。
この解釈ならば「惜しまれぬべき」は「人に惜しいと思われるような」と受け身に解釈すればよろしい。
「ぬべし」には推量の意味があるからだ。
しかしこの解釈はいくつかの点で非常に苦しい。
まず、院に対してあまりにも不遜な物言いである。
恋人どうしならあり得ても、院と従者の会話ではない(あるいは、私の話のように、西行と清盛が非常に親しい仲だと仮定すれば、「惜しいか」「惜しいな」という呼びかけに対する返事とみることもできよう)。
あと「この世」を一般に「俗世」ではなく「私の人生」と取るのもかなり苦しい。

世の中には
「惜しむとて惜しまれぬ」を「惜しんでも惜しみ切れない」と不可能に解釈する人が多いようだ。
だが、「れ」を可能、「ぬ」を否定に解釈するのはおそらく現代人にありがちな誤りであろう。
うしろの反語を伴うと「惜しみ得ないこの世であろうか。いや、惜しみ得る」となって意味が通らなくなる。

問題は上の私のような解釈が可能かどうかなんだが、
「惜しまれぬべきこの世かは」が反語であるから、なおさら解釈が難しい。
「惜しみ得るようなこの世であろうか」
と解釈することは、可能だ。
つまり
「とっても惜しい」
と解釈することは、苦しいが可能だ。
不本意だが小説の中の解釈としては上のようでもぎりぎり可能だろう。

もとはどこかの坊さんの詠み人知らずの歌であり、
「あなたは人生が惜しいというが、人生は惜しむほど価値のあるもんじゃありません。思い切って出家したほうが後生のためです。」とかそんな極めて説教臭い意味であろう。
シチュエーションとしては、どこかのお坊さんが世俗の人を諭して出家させようとしているような感じ。
それをむりやり鳥羽院と西行の間で詠まれた歌ということにした。

日神論争

[日の神論争](/?p=14161)、[日の神論争2](/?p=14179)の続き。

「日の神論争」と書くのがうざいので、
比較的ましな「日神論争」と書くことにする。
宣長、秋成双方が「日神」という語を用いていることを確認した。

[上田秋成の神霊感](https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&ved=0CCkQFjAA&url=http%3A%2F%2Frepository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2261%2F25975%2F1%2Frel02405.pdf&ei=19UKU7yBFYnZkAWD-4D4Aw&usg=AFQjCNGwyxSZHlud86bjE6-FVagYzcuGEg&sig2=TtiUTnhRRyH5ujXDAYClFw&bvm=bv.61725948,d.dGI)を読んで思ったのだが、
宣長と秋成の本質的な違いは、
宣長が一神教的な信仰のことを言っているのに対して、
秋成は一神教は間違いであって多神教的態度が正しい、と言っているところだと思う。
世界的には宣長みたいな人のほうが、秋成的な人より多いが、
日本人には秋成みたいに考える人がマジョリティであって、
多くの日本人には宣長の思想は、キリスト教などの一神教に対して感じるような拒絶を覚えるだろう。

たとえば、西洋ではカトリックとプロテスタントが中世に分かれて戦争に発展した。
互いに同じキリスト教徒だという認識はあっても、
一方は他方を異端として容認しない。

宣長も最初のころは秋成のような考え方をしていた。
中国人が中国を世界の中心と考え、儒教を信仰するように、
インド人がインドを世界の中心と考え、仏教(ヒンドゥー教あるいはイスラム教etc)を信仰するように、
日本人は日本が世界の中心であると考え、神道を信じればよいのだ、そう考えていた。
しかしその考え方自体が日本的な多神教の思想であって、
古代ギリシャ・ローマ的多神教と同じ考えであり、
自分には自分の神様がいるが、他の民族には他の神様がいるというので、納得してそれで終わる。
多神教は結局一神教に一方的に譲歩していることになる。
そういう多神教の相対主義は合理的で理知的態度ではあるが、不公平であり不利であって、
そのために日本の宗教は少しずつ仏教や儒教などに浸食され変質していったのであるから、
我々も他の存在を許容しなくて良い、ひたすら自己の神を信仰すればよい。
そうして自らを純粋に保つべきだ。

この考え方は一神教によく似ている。
他の宗教が存在するのは客観的事実である。
自分の宗教以外の規範が存在することをこちらからわざわざ認めてやる必要はない。
一神教はまず、自分以外の神を信仰することを否定する。
知らんぷりして、無視するだけではなく、
しばしば攻撃したり、転向者を罰したり、戦争を仕掛けたりする。
自己以外に宗教が存在しないことが明白なのであれば、そんなことをする必要はない。
そのこと自体が宗教とは相対的であること、つまり多神教を認めていることにならないか。
だが一神教が多神教を認めてしまってはもともこもないから、
自分の宗教だけがほんとうであって、
他の宗教は見せかけの嘘の宗教である、
そういう主張にならざるを得ない。
絶対的な状態から外れているから現状は相対的にみえるだけだ、ということになる。

一神教とは、人間社会を観察すると多神教のようにみえるが、
実は自分の宗教以外は偽物であって、自分だけが正しい、という主張である。
最初はみんな多神教であったが、
どれか一つが自分は一神教であると主張し始めると、
他の宗教も自分こそ一神教であると言わないと、
不利な立場に立たされる。
だから、一神教は次々に伝播していくが、
その発展過程自体が相対的で多様性があって多神教的なのである。
他の宗教との相互作用によって一神教は次第に洗練されていくのだから。

ギリシャ・ローマの多神教が滅んでしまったのは、
一神教の方が優れて好ましい宗教だからではない。
多神教が一神教に一方的に譲歩したせいだ。
一神教のほうが多神教よりも排他的だからだ。
不寛容な宗教が寛容な宗教を長い年月の間に駆逐してしまう。
おそらく宣長が出てかの不寛容な宗教を唱えなければ、
今も日本は仏教や儒教が神道と混淆したままだろう。

日本人でも親鸞や日蓮などは一神教的であるが、
宣長より前の人たちはいずれも仏教や儒教、あるいはキリスト教などの外来の思想を輸入することによって、
その境地に達したのである。
宣長は、仏教や儒教の影響を徹底的に排除し、
それ以前の原始神道を発掘補完することによって、
つまり考古学的古文辞学的手法を用いて、
一切外来の思想によらずに、
一神教的境地に初めて達した日本人である、
国産の一神教を創始した人である、ということがいえよう。
借り物ではない、純国産の宗教が必要だと最初に気づいた人なのだ(実際その需要はあったわけである)。
そうしたときに、秋成のような横やりが出てくると宣長は困る。
宗教とは、世界の宗教を観察して帰結するところでは、不寛容なものである。
神道独りが寛容で物わかりが良くてはならない。
神道は物わかりが悪くならなくてはならない。物わかりが悪いくらいでちょうどいいんだ、
みんなでどんどん理論武装してどんどん物わかりが悪くなろう、
それが宣長の秋成に対する反論なのだ。

日本独自の一神教が創始されるには、
日本において自由な学問が可能になり、
古文辞学などの高度な調査研究手法が確立されるのを待つしかなかった。
それを最初に神道に対して手がけたのが宣長だった。
それは原始神道への回帰をテーマにしてはいるがきわめて近代的・人工的・作為的なアプローチであり
(明治維新が神武天皇への回帰を謳った近代化であったように)、
古代の素朴な宗教とは実はまったく異なるものである。
宣長も、もちろんそのことには気づいていただろう。

そのような一神教的態度そのものが日本古来のものというよりは、
仏教や儒教やキリスト教の影響によるものであり、
その根底には相対主義があり、科学的実証主義があるのである。
宣長もその矛盾には気づいていただろう。
しかし神道をそういうナイーブな状態に放置すれば、
外来宗教や民間信仰によって見る影もなく変質してしまう。
その危機感から彼は一神教的立場をとらざるを得なくなった。

実際世界各地に残っていた原始宗教は、
高度に理論武装されたキリスト教、仏教、イスラム教などによって駆逐されてしまった。
ギリシャ人もローマ人もノルマン人も、キリスト教に飲み込まれて固有の宗教を失ってしまった。
日本にキリスト教やイスラム教が浸透しなかったのは、
すでに仏教によって浸食された後だったからだ。
もし仏教が来る前にキリスト教が伝わっていたら今頃日本はフィリピンのようなキリスト教国になっていただろう。
もし仏教が来る前にイスラム教が来ていたら、マレーシアやインドネシアのようなイスラム教国になっていただろう。
そういう意味では、比較的多神教に寛容な仏教や儒教や道教などが先に日本に伝わり高度に発達していたことは良いことだった(と思うのはすでに相当仏教に脳をやられている証拠かも知れない)。

西洋でも宗教と近代科学は同時並行して発達した。
つまり、宗教を科学的に証明しようとした結果、その副産物として自然科学が発達したのである。
宣長も日本の古き良きものを守ろうとして高度な学問を必要とした。