ふと「エウメネス」の最初の頃のバージョンを読み返してみた。
それはこんな具合に終わっている。

> 兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

> 私は驚嘆した。王はまさしく世界の王である。この世に人類が生まれて何千年、何万年が経っただろうか。これから何万人、何百万人の王が地上に生まれるだろうか。しかし、私は彼以上に偉大な王はかつても、これからもいないと確信する。

> そんな惚けた私の顔を見て、私の心を見透かしたのか、王は照れくさそうに言った。

> 「エウメネスよ。おまえは私がやることなすことを一つ漏らさず後世に伝えたいと言っていたから、今私が兵士らの前でやったことも、一つの美談として書き残すに違いない。

> よろしい。私が死ぬまでは真実を語ってはならない。しかし私が死んだら、ありのままにこう記してほしい。

> おまえは、私があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかし違うのだ。私は用心していたのだ。私は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を横から手を伸ばして食い、兵士らが飲んでいる水を分けてもらって飲む。毒を盛られるのを怖れているのだ。

> また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。

> だが、兵が王に献上してくれた水をただ捨てたのでは、兵は腹を立て、私が兵を信頼しないように、兵も私を信頼しなくなってしまうだろう。だから私は少し演出を加えて、私がたぐいまれな克己心によって、水を飲むことを拒否したように思わせたのである。」

わかりやすい。
エウメネスは明確に王の書記官として、史官として現れていて、
王がときおりエウメネスに自分の真情を語って聞かせるのは、
エウメネスに託して後世に伝えるためだ、と書かれている。
まだアマストリナもラオクスナカもここには現れない。

さらに古いバージョンではタイトルは「メガス・バスィレウス」となっており、

> アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

といきなり沙漠の話から始まり、

> 「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

と言わせている。
これまたわかりやすい。
そして最後にエウメネスに「バスィレウス(王よ)!」と叫ばせてしめくくっている。

だが私はその後エウメネスに絡ませるため、また王が兜の水を捨てるシーンをよりドラマティックに演出するため、アマストリナというヒロインを登場させ、
さらに男女関係を複雑にするためにアパマまで追加して、
ガンダーラから話を始めることにし、スーサ合同結婚式を後書き代わりに付けたした。
またエウメネスの主観視点(一人称)の話にした。
「バスィレウス(王よ)!」というしめの台詞も省略し、

> 「私が今言ったことはアマストリナには秘密だ。他の誰にも秘密だ。なぜだかふいに、おまえにだけは打ち明けてみたくなったのだ、エウメネスよ。」

と、王はただの気まぐれでエウメネスを自分の独り言の聞き役にしたことにしてしまった。
わかりにくい。
なぜこの話はここでいきなり終わっているんだ?と不思議に思うだろう。
読者はこれはエウメネスの物語だと思うだろう。
よく読めばそうではないことがわかるが、
読まない人はエウメネスが主人公でアマストリナがヒロインのはずだが、
なんかおかしな話だなと思うだろう。

今から思えば私はアマストリナのキャラを立てすぎた。
しかもエウメネスは他のマンガの主人公になっていて、やはり余計にキャラが立ちすぎた。
ほとんどの読者はその先入観なしでこの小説を読まない。
本来、王の観察者にして読者の代理人にしかすぎないキャラが立ちすぎて、
ほんとの主人公みたいになってしまった。
書いてるうちに脇役が勝手に暴走し始めるのは私の小説ではよくある。
いつの間にかメインのキャラの一人になってしまうことがあるが、
それはそれで面白いのでほうってある。

もともとこの小説は、
アレクサンドロス大王が主人公の話であった。
アレクサンドロスというよりは、アノニマスな「王」について語る話だった。
歴史上もっとも王らしい王、典型的な王、
誰もが知っている有名でわかりやすい王という意味でアレクサンドロスを選んだが、
しかし、作中ではずっと「王」で通した。
「王とは何か」ということを読者に問う作品だからなのだ。

「王とは何か」とは私の中では「天皇とは何か」という問題であって、
それはより根源的には「武士とは何か」という問題である。
武士と天皇は相対的なものである。
その二つはもとは「王」という一つのものであった。
私はずっとこの問題について考えてきた。
私の歴史小説は要するにその問いに対する解答を記述しているものだ。

もしエウメネスが「王よ!」と叫ぶ台詞であの小説をしめくくっていれば、
或いは「メガス・バスィレウス」というタイトルであれば、
私の意図はもっとわかりやすかっただろう。
しかし私は読者をもっと作中に没入させ、自分の問題として考えさせたかった。
FPS (first person shooter) の手法を借りて。
つまり作者はどうしても神の視点から物語を作ってしまう。
神がいろいろ親切にヒントを与えてしまう。
それは避けたい。
プレイヤーはノーヒントでいきなり現実の中に投げ込まれる。
そして自分で答えを見つける。
そういう小説にしたかったのだ。
そう、ハーフライフ2のように。

もし王がそういうふうに自分だけに真情を吐露したときに、
自分ならそれに対してどう思うか。
怒るかもしれない。
あきれるかもしれない。
がっかりするかもしれない。
余計に王を好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。
だが、エウメネスに「王よ!」と叫ばせてしまうと、
その答えを作者が提示してしまうことなる。
それは避けた。
読者に私とは違う解釈をする余地を残したつもりだった。

だが、そこまでたどり着けた読者がいただろうか。
そう、私自身、当初の意図がわからなくなりかけている。
まして私以外の人が正確に読み解くことができようか。

エウドキアや江の島合戦はもっと読者に親切に書いてある。
私が読者というものを以前より信頼しなくなったからでもある。

> もしおまえが苦痛に快楽を覚え、快楽に苦痛を感じるようになれば、おまえもまた王の仲間入りをしたのである。

> 王は、戦場にいて、勝ち続けているうちだけが安全なのである。

> 王は、自ら偶像を演じねばならぬ。

だが一方ではこんな具合に「王とは何か」という答えを王に言わせてしまったりしているから、
難易度はいくぶんか下がっているはずだ。
たぶんこれも読者にはわかりにくいと思う。
私はバブルの絶頂期に隠者のような仕事を選んだ。
世の中が安定を求めるようになると転職した。
他人と逆のことをやるのが正しいと信じているところがある。
それが「王」に対するシンパシーになっているのだが、
多くの読者には共感できないだろう。
こんなふうに種明かししない限りは。

なぜこの話はこんな中途半端な終わりをしているんだろう。
作者の意図は何か。
作者はたぶん読者を突き放して、ラストは自分で考えよと言っているらしいな。
読者はそこまではたして気づくものだろうか。
私自身久しぶりに読むとそこがとても心許ない。

ジグソーパズルは途中まで組み立てれば何の絵が描かれているかはわかる。
残りは読者の想像に任せよう、自分と同じように補ってくれるかな。
それとも全然違う絵で補間してしまうだろうか。
そんな楽しみはある。
「川越素描」も長編なのに「素描」と言っているのは、
書かれていないことの方がずっと多いからだ。
ある意味私の作品はすべて素描だ。
細密画のようにすべてを緻密に描きこんでいるわけでない。

情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

> 情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。
風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。

割註があり、

> 求人之未詠之心詠之

人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む

> 詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。
ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

> 不論古今遠近、見宣歌可效其体。

古い新しい、遠い近いに関わらず、良い歌を見て、その体に倣うべし。

情と詞の関係はつまり古今集仮名序
「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と同じである。
真名所の
「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」
とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に
「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。
油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、
今では古典的な画材である。
だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。
アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。
新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、
古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。
まあそれはそれでいい。
新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。
しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。
今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、
和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

> 誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、
広学多聞を事とすべきにもあらず。
ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。
また、

> いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、
よまぬ上はただ知らず。
よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、
これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。
でまあ為世は割とまともな人だなと思った。
むしろ為兼の歌論はひどい。
歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、
歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、
「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。
「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、
ただ「体」とも言うのだが、
これがよくわからない。
古今集真名書にも出てくる。

> 華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

> 僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

> 文琳巧詠物。然其近俗。如賈人之着鮮衣。

> 文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。
いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

> 大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而甚鄙。如田夫之息花前也。

> 大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。
あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

宇都宮氏、飛鳥井雅経

宇都宮氏、小山氏、結城氏、などというが、
いずれも頼朝の頃に現れた下野の御家人である。
或いは義家の頃からすでに源氏の御家人であったかもしれぬ。

結城は小山の分家だが、
宇都宮頼綱が小山政光の養子(単に養われただけ?)になっていることからみても、
この三氏は同族とみてよく、
要するに、下野氏とでもいうべき、下野国の豪族である。
清和源氏とか言っているがただの嘘だ。
鎌倉幕府が出来たから庶民に姓が出来、武家が出来、本家や分家が出来たわけだが、
下野の勢力は幕府の中でもかなり重い位置を占めていたはずだ。
結城朝光は小山政光の実子なので、頼綱と朝光は一応兄弟ということになる。

この三氏のうち宇都宮氏だけが歌人(と関係のある人)を出している。
頼朝、実朝ともに歌が好きだった。
宇都宮成綱の子で頼綱の弟・塩谷朝業(宇都宮家から塩谷家に養子に行った。下野国塩谷荘)は実朝の歌仲間だったという。
吾妻鏡に朝業の歌として、

> 嬉しさも 匂ひも袖に 余りける 我がため折れる 梅の初花

があるという。

宇都宮頼綱は藤原為家の義父であり、従って定家の義弟である。
例の小倉百人一首も頼綱の求めによって選んだことになっている。

ウィキペディアには、

> 宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。

などと書かれているが、こんなにひどい「日本三大」にはなかなかお目にかかれない。
ワースト日本三大のかなり上位にくると思う。

頼綱は出家して蓮生という名の歌人として知られて、
実際勅撰集にもやや採られているようである。
綺麗なだけで心のこもってない歌に思えるのだが、一応さまになっていて、
まあ、武家でこのくらい詠むのは当時としては珍しいかもしれん。

飛鳥井雅経はもと父とともに鎌倉に護送されたが、
頼朝に好かれて、その猶子となる(つまり鎌倉の生活費をまかなわれる)。
定家と実朝の間の交流も雅経によるらしい。
雅経は定家の八才年少であり、雅経は歌がうまかったというよりは定家の門弟というので、
ありがたがられたのだろうと思う。

飛鳥井雅経の父・難波頼経は藤原氏らしいのだが、よくわからん人だ。
義経の同盟者であったというから、後白河法皇と近かったと思うが、
ごく平凡な公家だったのだろう。
義経の関係で親子共々鎌倉送りになったのだが、
それが息子には幸いしたということか。

雅経の孫娘が二条為氏の妻になっているから晩年はそれなりに二条家と親しかったのだろう。

問題は、宇都宮頼綱と藤原定家の間でどうして縁組みがあったか、なのだが、
よくわからん。
定家から見れば宇都宮氏なんてのは下野国の野人に過ぎない。
ただ歌が好きで意気投合したというのではあるまい。まあ、100%あり得ない。
承久の乱で京都は没落し鎌倉が力をつけた。
宇都宮氏は有力な鎌倉の御家人である。
かつ頼綱は富豪でもあったらしい。
定家は食うに困ったかもしれない。
そこで頼綱と縁組みする代わりに小倉山に所領をもらった。
定家が自分の甲斐性で別荘なんて持てるだろうか。
そう考えると、明月記の

> 予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之(私に書くようにと蓮生入道がしつこく頼むので、はなはだ見苦しいことではあったが、無理矢理書いて送った)

というのはただの謙遜ではなくて、ほんとにいやがっていたかもしれんわな。
ていうか今でもアーティストが自分のパトロンにこんな愚痴を言ったりするだろ。
嫌だけど金と力のために仕方なく書いた、みたいなニュアンスかもしれん。
飛鳥井雅経と宇都宮頼綱が鎌倉ですでに懇意であったとすればよりすんなりいく。
難波頼経と宇都宮氏にもなんらかのつながりがあったか。

百人一首と定家

[百人一首](/?p=14380)、
[百人一首2](/?p=14400)、
[百人一首3](/?p=14456)、
[百人一首への招待](/?p=14511)、
[定家私撰集](/?p=14518)などの続きです。
定家の私撰集と百人一首を比較してみた結果を[表](http://tanaka0903.net/libroj/teika_private_selections.pdf)にしてみた。
間違いもあるかと思うがだいたいの傾向はつかめると思う。

ここで言えることは、小倉百人一首もしくは百人秀歌で定家による選と考えて問題ないものは、

天智天皇
> 秋の田の かりほのいほの とまをあらみ 我がころもでは 露にぬれつつ

柿本人麻呂
> あしひきの 山鳥のをの しだり尾の ながながし夜を 独りかもねむ

文屋朝康
> 白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

在原行平
> たち別れ いなばの山の 嶺におふる 松としきかば 今帰りこむ

小野小町
> 花の色は うつりにけりな 徒らに 我が身世にふる ながめせしまに

壬生忠岑
> 有明の つれなく見えし 別れより あか月ばかり うきものはなし

紀友則
> ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ

恵慶
> 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそみえね 秋はきにけり

坂上是則
> 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野のさとに 降れる白雪

清原元輔
> 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

この程度である。

これに対して定家が選ぶ可能性がほとんどないのは、

藤原興風
> 誰をかも 知るひとにせむ たかさごの 松も昔の 友ならなくに

陽成院
> 筑波ねの 峰より落つる みなのがは 恋ぞ積もりて ふちとなりぬる

源融
> みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに

紫式部
> めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな

源宗于
> 山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

藤原敦忠
> あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

平兼盛
> しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものゃ思ふと 人のとふまで

藤原朝忠
> あふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

藤原定子
> よもすがら 契りしことを 忘れずば 恋ひん涙の 色ぞゆかしき

三条院
> 心にも あらで憂き世に 長らえば 恋しかるべき 夜半の月かな

高階貴子
> 忘れじの ゆく末までは かたければ けふを限りの 命ともがな

藤原道綱母
> なげきつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る

能因
> あらし吹く みむろの山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり

壬生忠見
> 恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知らずこそ 思ひそめしか

藤原定方
> 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな

藤原兼輔
> みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋ひしかるらむ

藤原定頼
> あさぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

藤原実方
> かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

清少納言
> 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は 許さじ

赤染衛門
> やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

大江匡房
> たかさごの をのへの桜 咲きにけり とやまのかすみ 立たずもあらなむ

藤原義孝
> 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

待賢門院堀川
> 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

大弐三位
> 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

周防内侍
> 春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなくたたむ 名こそ惜しけれ

藤原顕輔
> 秋風に たなびく雲の 絶え間より もり出づる月の かげのさやけさ

道因
> 思ひわび さても命は あるものを うきにたえぬは 涙なりけり

源国信
> 春日野の したもえわたる 草の上に つれなく見ゆる 春のあは行き

藤原公任
> 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

俊恵
> よもすがら もの思ふころは あけやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり

徳大寺実定
> ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる

皇嘉門院別当
> なにはえの あしのかりねの ひとよゆえ 身をつくしてや 恋わたるべき

藤原長方
> 紀の国の ゆらのみさきに 拾ふてふ たまさかにだに あひみてしがな

殷富門院大輔
> 見せばやな をじまのあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず

後鳥羽院
> 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

順徳院
> ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

藤原家隆
> 風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

藤原定家
> 来ぬ人を まつほのうらの 夕凪ぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ

九条良経
> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

式子内親王
> たまの緒よ たえなばたえね 長らへば しのぶることの 弱りもぞする

慈円
> おほけなく うきよの民に おほふかな 我が立つそまに 墨染めの袖

寂蓮
> むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ち昇る 秋の夕暮れ

二条院讃岐
> 我が袖は しほひに見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

飛鳥井雅経
> みよしのの 山の秋風 小夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり

源実朝
> 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまのをぶねの 綱手かなしも

西園寺公経
> 花誘ふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり

こんなにたくさんあるのである。
明月記によれば天智天皇と家隆と雅経の歌は採ったことが確実なのだが、
家隆の歌は定家の趣味で言えば

> あけば又 こゆべき山の 峯なれや 空行く月の すゑのしら雲

であった可能性が高い。
雅経の歌に至っては私撰集には一つも採っていないので、どれが好みかはわからない。
定家が小倉山の麓、嵯峨野の山荘で選んだ、
いわゆる小倉百人一首の原型ともいうべきものが、
定家の私撰集と全然違う傾向で選ばれた可能性は低いと思う。
私は、今小倉百人一首と呼ばれているものは、
定家の趣味からはかなり離れて、自由に選ばれたものじゃないかと思っている。
誰が選んだかは特定できないが、
でも誰かが選んだ可能性があるとすれば、
定家の子の為家ではなくて、
西園寺公経か、九条良経の子女のだれか、或いはその周辺の人で、
特に順徳天皇に近かった誰かではなかろうか。
公経、良経はどちらも太政大臣である。
為家の趣味ともかなり違っていると思う。
たとえば良経の娘立子は順徳皇后で仲哀天皇の生母である。
立子の関係者が順徳院や後鳥羽院の歌を小倉百人一首に入れた可能性はあるだろう。
或いは続後撰集に採るように為家に運動したかもしれない。
などと考え出すと話はとたんに歴史小説めいてくるわな(笑)。
慈円も怪しいなあ。
その辺を小説仕立てにして一本書けそうな気もするが、
かなり地味な話になりそうだわな。

新勅撰の西園寺公経の歌があまりにも唐突に採られているし、
順徳院や後鳥羽院の歌に雰囲気が似てるのだよね。
慈円の歌も意味深だし。
九条良経はよほどの歌好きだったわな。
たぶん定家のパトロンみたいな人。
悪くもないが、そんな優れた歌ではないが定家はたくさん私撰集に載せている。
パトロンへの表敬か。
慈円もそんな歌うまくない。九条家のつながりだと思う。

そうね。九条立子あたりをヒロインにして、その遺言で、定家の名で、
百人一首に仕立て、続後撰集に順徳院の歌を採るよう為家に運動したとかいう話にできなくもない。
でもたいへんだよ。調べなきゃいけないことたくさんあるからなあ。
百人一首だけじゃない。承久の乱の話書かなきゃ。
となると北条泰時も絶対書きたくなるし、ねえ。
でも誰も読みそうにないなあ。
続後撰集成立の頃の執権は北条時頼かあ。
泰時はいかにして時頼を育て教育したか。
しぶいねえ。
話がしぶすぎて泣ける。
書こうと思えば書けるが、たぶんものすごい長編になるし、
おそらくその十倍ぐらいの解説を書かないと読めない。
つまり読むことが不可能な小説になる。

定家は、父俊成の歌は別として、身内の歌は私撰集に採らない傾向がある。
雅経は門弟だし、
実朝はその友人、
式子内親王とも親しかったはずで、
自分の別荘か義理の弟の別荘かはしらんがそういう私的な家の障子に書く歌であるから、
身内の歌も採った可能性はある。
だが、どの歌を採ったかはまるでわからん。
雅経も実朝も式子内親王も定家はそれらの歌を選んだことがないからだ。

定家が天智天皇のあの凡庸な歌を貴ぶのは藤原氏であるからだ。
たぶん藤原一族の祭祀に用いられた歌なのではなかろうか、アレは。
藤原氏の権力はもとをたどれば大化の改新。
天智天皇と中臣鎌足で蘇我氏を滅ぼしたクーデターだ。
だから天智天皇は藤原氏にとっては特別な意味がある天皇。
古歌を適当に見繕ってわざと牧歌的な、いかにも帝王調な歌を作った。

> 高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり

みたいな歌が欲しかったんだと思うよ。
天智天皇の真作である可能性はほとんどまったくない。

まあだから藤原氏でなくて例えば紀貫之だったら百人一首はあんな構成には絶対ならなかっただろう。
宇多天皇や村上天皇もどちらかと言えば藤原氏に冷淡だった。
醍醐天皇はまだ比較的許せたので定家は私撰集に採っているのかもしれんよ。

天智天皇に始まり順徳院に終わるこの小倉百人一首というものは、
順徳院縁故の藤原氏の誰かが作ったものであろうと考えて、
およそ当たっていると思う。
定家、為家、為氏、為世と続いたいわゆる歌道の家である二条派、
というよりも、より順徳院に近かった摂関家、つまり九条家か西園寺家であったろうと、
今は推定しておく。

百人一首には採られてないが、定家が好きな歌というのも興味ぶかいですよね。

柿本人麻呂
> さを鹿の 妻どふ山の 岡べなる わさ田はからじ 霜はおくとも

在原行平
> さがの山 みゆきたえにし せり河の ちよのふるみち あとはありけり

在原行平
> わくらばに とふ人あらば すまの浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ

伊勢
> 思ひ川 絶えず流るる 水のあわの うたかた人に あはで消えめや

元良親王
> 逢ふことは とほ山鳥の かり衣 きてはかひなき 音をのみぞなく

源経信
> きみが世は つきじとぞ思ふ 神風や みもすそ川の 澄まむかぎりは

源等
> 東路の さのの船橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人のなき

藤原道信
> 限りあれば けふぬぎ捨てつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり

和泉式部
> もろともに 苔の下には 朽ちずして うづもれぬ名を 見るぞかなしき

源俊頼
> 思ひ草 葉ずゑにむすぶ しら露の たまたま来ては 手にもたまらず

源俊頼
> なにはえの もにうづもるる たまがしは あらはれてだに 人をこひばや

西行
> 秋篠や 外山の里や 時雨るらむ 生駒の岳に 雲のかかれる

藤原俊成
> 如何にせむ むろの八島に 宿もがな 恋の烟は 空にまがへむ

> 立ち帰り 又も来てみむ 松島や 小島のとま屋 浪にあらすな

> 袖の露も あらぬ色こそ 消え帰る うつればかはる 歎きせしまに

> 桜さく 遠山鳥の しだりをの ながながし日も あかぬ色かな

読人不知
> 名取川 瀬々の埋もれ木 あらはれば 如何にせむとか あひみそめけむ

> 秋風に さそはれわたる 雁がねは ものおもふ人の やどをよかなむ

なんか、意外なんだよね。
定家の知らない側面を見たっていうか。
「ものおもふ人のやどをよかなむ」とか「たまたま来ては手にもたまらず」とか
「生駒の岳に雲のかかれる」とか。
えっ、定家って実はそういう素朴な剽軽な感じなのが好きなのかっていう。
小倉百人一首と全然違う。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、
景樹がそれに反論を試みたものである。
四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。
古今集をまねてはいけない。
実朝のような歌を詠め、などと言っている。
正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。
子規がまねたわけだが。
景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。
その理由がつらつら書いてあり面白い。
適当に意訳すると、

> 人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。
その古人の偽りなきにならうのである。
ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、
古人のように真心を歌ったのではない。
後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、
ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。
卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。
漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、
ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、
万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、
それを言うのだろう。
実際実朝の歌をまねしてはならない。
ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。
景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。
歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、
まず正岡子規に叩かれ、
それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、
俳句ならなんとかひねりだせるがまともな和歌など詠めない連中が子規にならって攻撃したせいで、すっかり悪者になってしまった。
それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、
彼の言うことはまったくもって正しい。
実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、
実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、
そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、
そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、
まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。
それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、
そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。
これまた面白いので引用しておく。

> 香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。
知らんな。
昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

> 苔よりも雪の花咲け塚の上

> 五月雨やある夜ひそかに松の月

> つちくれにうごく物みな蛙かな

> 世の中は三日見ぬ間に桜かな

> かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。
都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。
江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

> 歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

> 未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、
違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。

> 彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、
大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、
ただ古き世にのみかへらんとす。

> そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、
事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、
ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。
「短歌」という呼び名は間違っていないが、
「和歌」を短歌というようになって、
「やまとうた」というニュアンスが失われた。
大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、
五七五で季語を入れれば俳句、
季語が入ってなければ川柳、
五七五七七と少し長くすれば短歌、
そんなふうな位置づけになってしまっている。
単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。
「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、
形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。
「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、
私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

> いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、
千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、
大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

> 唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。
ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、
今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。
和歌には和歌のけじめがあると言っている。
「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。
同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、
蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。
真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。
古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。
私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。
和歌にはすでに定型詩という制約がある。
そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。
定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。
時代考証ができなくて歴史物など書けない。
それと同じではないか。

> 思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。
それが普通の人にはなかなかできぬ。
景樹の言いたいことを代弁してみると、
中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。
ラテン語が共通語であった。
日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、
古今集や源氏物語がその規範であった。
景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、
大和歌だったのだと思う。
景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。
平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。
完全な和語である。
きちんと使い分けている。
古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、
歌を詠むことができる。
そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。
しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。
俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。
ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。
それが良くない、と私は言いたい。
それはルール違反だ。
短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。
和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、
伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。
ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。
新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。
ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。
なじみ深いから新語は造りにくい。
だがそこはなんとかしなくてはならない。
香川景樹や上田秋成をみよ。
宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。
みんな感覚で批判しているだけだ。

営業

酒を飲む習慣はなかなかやめられないが、だいぶ量と回数は減らしたと思う。

主に近所の飲食街を放浪するのだが、
行列が出来てたり満席だったりする店がある一方で、
がらがらに空いてる店もある。
空いている店は広告を出してないのだ。
混んでる店は何か広告を出している。
広告を出して客がくれば動く金は大きい。
広告を出さなきゃ金はかからないが客はあまりこない。
どっちもどっちな気がする。

この町に遊びにくる連中は、この町を知らないから、
本を買ってどの店にいくか決めてからくる。
だから特定の店に客が集中するのだ。
わざわざ並んで混んだ店で飲み食いして何が楽しいのか。
それだけの価値があるとでも思っているのか。
そういう遊び方しかできないのだろう。
空いててすぐに料理がでてきてそこそこおいしい店なら、
ちゃんと探せばある。
まあ、自分でちゃんと探す、ってのが素人(笑)には難しいんだろう。
飲み屋で楽しむにもそれなりに時間と投資が必要だからな。
いきなりはできないことだ。

極端な話、出版業界と個人出版の関係も似たようなものだ。
資本を投入してがんがん売ってなんとしても資本を回収するのが出版業界。
いろんな関係者がそれで飯を食っている。
給料をもらい、原稿料をもらい、印税をもらっている。

それはいいが、疲れないか。
したくもない仕事をし、書きたくもない本を書いて、
とにかくお金を回して、後に残るものはなんなのか。
10年後にはほとんど忘れ去られるようなものを書いてなんになるのか。
確かに一つか二つ、後の世に残るような作品が書けるかもしれないが、
別に無理に出版業界に属しなくてもいいんじゃないか。
後世に残る確率は大して違いないんじゃないのか。
KDPとか、或いはもっと他にも出てくるかもしれんが、
個人商店みたいにやってればいいんじゃないか。
イオンとかイトーヨーカドーみたいなのはスケールメリットあるかもしれんが、
本を書くというのは、結局は個人の仕事であり、
あんまりスケールメリットは効かない。
むろん営業とか編集の人がいた方がいい。
それを言ったら税理士とか法務部とかもあったほうがいい。
どんどん人手がかかってきりがない。
なんもなしでいいじゃないか、と思う。
本居宣長や滝沢馬琴だってそうだったんだから。
今の方が異常なだけではないか。

もともと私は営業には向いてない。
いまさら営業やる必要なんてないと思う。

天皇とは何かという問題

いろんな本を読んでいるのだが、なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、なぜ足利幕府は京都にあったかとか、肝心なところがわかってないと思うし、それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。直義、直冬である。二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」?馬鹿をいっちゃいけない。なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから?神話?「永遠の過去が持つ権威」?それも違う。そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。その皇帝を皇帝Aとしよう。このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。
こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、みんな皇帝Aの側につくだろう。しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。このようにしてあたかも二大政党制のように、複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。イスラムなんてそのものずばり。一神教と政治は親和性が高い。信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。北条氏の時代。南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、尊氏は負けかけた。しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。義満が皇統を統一した。だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。足利といえば鎌倉公方もいる。それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。室町将軍とはそのくらい脆弱だ。応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、誰を担ごうかと日和見するのだ。室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。馬鹿を簡単に見分けられてよい。便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、あっさり諦めた。旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。だれが武家の棟梁となるか。とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。特に後醍醐天皇はダメ。しかし、足利の誰を担ぐか。尊氏、直義、直冬。特に決め手はない。強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。強い棟梁だからみんなが味方するのではない。みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。国家レベルの軍事的独裁権を持てる。人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。人と物と金を集める才能のことだわな。足利時代には武家は離合集散。徳川時代にはも少し統制とれてきた。というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。だがおかげで二百年以上平和が維持された。南北朝がわからなければ天皇はわからない。徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい?まあある意味ではそうだ。徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。すごく仲良しだった(表向きは)。権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。このとき院宣の正統性が確立した。神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。彼らに大事なものは律令制。きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、まだ正統性があった。
もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。
明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、南朝が正統ってことにしたのではなかったか。だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。そういう場合は正統性がなかったことにされた。どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、天皇や神話の権威に他ならない。つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。天皇から遠い武家ほど革新的。藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。
次から次におかしなアイディアが出てきて、ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。そんなわけない。明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。今の女系天皇是非論。やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。そうでないと何でもありになってしまう。でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。手抜かり無い。よく研究しているよね。ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。
世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。ところが、太平天国の乱のときもそうだが、中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。なぜだかよくわからない。あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。これでは王朝が交代せざるを得ない。これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

「つる」と「りし」

荷田在満が「国歌八論」の中で、額田王の歌

> 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ

の「宿れりし」より「宿りつる」にしたほうがよい、等と言っていて、
田安宗武が「国歌八論余言」でいや「宿れりし」のほうがやはり良い、
などと反論している。
私も最近まったく同じことを疑問に思っていた([助動詞「り」の謎](/?p=15183))ので、面白かった。

古今や新古今ならば「宿りつる」とするのが普通だが、
額田王の時代ならば「宿れりし」のほうが自然だったと思う。
連用形接続の「あり」が音便によって生まれた助動詞が「り」であったが、
万葉時代母音がいくつか欠落したせいで「り」は活用がいびつになってしまった。
「り」は遅かれ早かれ淘汰される運命だった。
「つ」や「ぬ」や「たり」や「き」、「けり」のほうが便利なので、
源氏物語ではほとんど使われない。
ときどき古語として、或いは慣用句のなかで「り」が使われた。

「りし」は「てありし」と解釈すべきで、「つる」とは若干違うが、
「宿りつる」でまったく問題ない。
その程度の言葉の置き換えは詠歌には普通にある。
「宿れりし」の方が良いというのはある種万葉かぶれなのであり、
荷田在満の方が普通の感覚なのだと思う。

「つ」「ぬ」「けり」「き」などを適宜使うとどうしても「国文学的」になる。
流麗な源氏物語的な匂いがつく。
それを嫌って文語訳聖書は「り」で押し通したのかもしれない。
「り」を多用するのはかなり違和感がある。
わざと古めかしい、ぎこちない言い方にしている感じである。
或いは漢文訓読調にも聞こえる。
漢文訓読作法は嵯峨天皇くらいまでで確立したからわりと万葉調である。
「すべからく」「おもへらく」「ほっす」など。
だから女の腐ったような(笑)湿った感じにはなりにくい。
おそらくそれを意図的に(無意識に?)狙ったのだと思う。

荷田在満は荷田春満の甥でかつ養子である。
春満は契沖に心酔し、宣長もその系統にある。

春満は徳川吉宗に国学の必要性を説き、
在満は吉宗の子宗武の家庭教師となったが、そりがあわず、
代わりに賀茂真淵を推挙した。
ずっと昔からこういう対立の構図があったのは面白い。

鉢木

[鉢木](http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-yokyoku-hachinoki.htm)という謡曲がある。

> のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

> これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

> げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。
世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。
このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた
> ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。
夫を見送る女の歌であるという。
夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。
という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

> ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。
おほいまうちぎみとは、時平のことか。
明らかにひるめの歌から派生している。
というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成
> こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範
> 道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、
自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家
> 駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。
俺がいない間に浮気するなよ、と。
俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、
為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

> 駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。
「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、
そのかげさえ無い、という意味かもしれん。
いや、それが案外正解かもしれん。
「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。
新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。
おそらくは俊成の歌を踏まえて、
佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、
そんな景色すらない、
ということを言いたかったのではなかろうか。

かげ

> 駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

なのだが、久保田淳「藤原定家全歌集」によれば、
「かげ」を「ものかげ」と解釈したのは世阿弥であるという。
つまり、室町時代にはすでに、
馬を駐めて袖の雪を払って宿る物陰もない、
というように解釈されていた、ということなのである。

「かげ」を万葉集で検索してみると、一番多いのはどうも、おもかげ。
他には、あさかげ、ゆふかげ、つきかげ、くさかげ、みづかげ、いはかげ、やまかげ、まつかげ、しまかげ、
などなど。

> たちばなの 影ふむ道の

明らかに橘の木に日が差してその日の当たらない「像」、つまり影が道の上に映っていて、
その道の上を踏んでいる。
であるから、「かげ」というのは光が差してできる明るい「像」や暗い「影」を言うのである。
おもかげというのも、現実に目の前に見る人の顔や姿ではなく、
記憶の中に浮かぶ像を言う。
或いは鏡に映った像を言う。

雨や雪や風が当たらない、それらを避けることができる物陰、という意味である可能性は低いと思う。
「かげもなし」が「宿るべき家並みのすがたも見えない」の意味ならばなんとか通じるかもしれないのだが、
それだとかなり表現が遠回しな感じがする。

「かげもなし」の用例は定家が初めてであり、後に宗尊親王の

> つゆおかぬ 袖には月の かげもなし 涙や秋の 色を知るらむ

のように、定家の影響を受けたかなと思われる歌もあるのだが、明らかに「ものかげ」の意味には使ってない。
その後の用例も「おもかげもなし」「みるかげもなし」などであり、ものかげの意味には使われてない。
この時代例えば、「木陰」などという言葉も使われ始めるが、
これとても「木立の姿」と解釈できなくもない。

> 苦しくも 降り来る雨か みわの崎 狭野の渡りに 家もあらなくに

世阿弥は定家の「かげもなし」が、この万葉集の歌を本歌とした本歌取りの手本となる歌であるというのだ。
確かに、これは本歌取りの手本として詠まれた歌であって、
「雨」を「雪」に、
「家」を「かげ」に詠み替えたのだ、と解釈するのが一番しっくりくる。
気持ちが落ち着く。
だが、それで良いのだろうか。
おそらく世阿弥の時代には「かげ」を「ものかげ」と解釈するのが定着していただろう。
だから定説になっただけじゃないのか。

なるほど。「鉢木」という能があるのか。
そのストーリーにしっくりくるように古歌を解釈したという意味ではないのか。